児童英語・図書出版社 創業者のこだわりブログ

30歳で独立、31歳で出版社(いずみ書房)を創業。 取次店⇒書店という既成の流通に頼ることなく独自の販売手法を確立。 ユニークな編集ノウハウと教育理念を、そして今を綴る。

中原中也詩画曲集



この詩は、中也が生前に残した唯一の詩集『山羊の歌』の冒頭を飾るもので、「ダダイズム」の影響の残る詩といわれています。

ダダイズムとは第1次世界大戦後の反戦気運の中、スイスのチューリッヒで生まれた芸術運動のことで、ダダともいわれます。1923年(大正12年・
中也16歳)3月、中也は山口中学の3年から4年の進級に落第しました。その結果、京都の立命館中学へ転校し、初めて両親と離れて一人暮らしをはじめました。同年秋の夜、春に発売されたばかりの日本でダダイズムを実践する詩人高橋新吉の詩集『ダダイスト新吉の詩』に出会い、反理知・反権力・反権威・反道徳……の姿勢に共鳴したことで、この詩が生まれたようです。

「トタンがセンベイ食べて」「アンダースローされた灰が蒼ざめて」はダダ的な表現とされています。でも、幼児期の中原家では、外れかかったトタンが風に当たるとバリバリとセンベイを食べるようだと言いあったそうで、アンダースローで投げられた球が浮き上がるように、もやのようなもの(灰)が青白くただようのも、格別に奇異なものではなさそうです。

詩の形式はかなり整った中也生来のものですが、ダダの反抗的精神、技法(とくに破格・破調詩法)、詩句に遊びのセンスを採り入れるところなどは、生涯影響を受けたと思われます。



この詩は、1933年(昭和8年・
中也26歳)1月に作られ、当時親しくしていた安原喜弘に送られた作品です。安原によれば、当時の中也は「魂の最大の惑乱の時期」で、毎晩のように京橋にある酒場に行き、中也の毒舌は散乱し、最後にはいつも乱酔と乱闘に終わる日々が続いた」とあります。こうして、親しくしていた小林秀雄、大岡昇平を含む多くの友人たちはほとんど中也と距離をおくようになっていったようです。この詩は、そんな中也の魂の惑乱期の終わるころの作品で、ようやく魂は平静をとりもどし、「骨」(④に収録) など新たな詩境に入っていきます。

ここでも中也は、「女を夢見ている」あるいは「年増女」として泰子を空想していますが、もはや苦悶する姿はありません。おだやかに「冬の夜の室内の空気」のような静かな愛がつぶやかれています。



この詩は、① 汚れっちまった悲しみに…  ⑯ 生い立ちの歌 1 ⑰ 生い立ちの歌 2 
と同時期に作られ、それぞれ、中也が生前に残した唯一の詩集『山羊の歌』44篇の後半に配置されています。名品と讃えられていた北原白秋の詩集「思い出」(1911年発表)の中の作品を掲げ、中也は「青いソフト」を「ホテルの屋根」と置き換えて、この詩の導入に使用しました。

中也のいいたいことは、「ほんに別れたあのおんないまごろどうしているのやら」と泰子への思いを追憶しながら、独自の歌謡の世界に挑戦した作品と思われます。詩の専門家はあまり評価しないものの、一般読者には人気の高い詩のひとつです。

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