児童英語・図書出版社 創業者のこだわりブログ

30歳で独立、31歳で出版社(いずみ書房)を創業。 取次店⇒書店という既成の流通に頼ることなく独自の販売手法を確立。 ユニークな編集ノウハウと教育理念を、そして今を綴る。

中原中也詩画曲集



ポッカリ月が浮かぶ静かな宵、小舟を浮かべる若い男女。ヒタヒタ打つ波音や櫂からしたたる水の音、頭上の月に照らされて、熱い口づけをする二人……。ここちよいリズムと言葉まわしの見事さ、甘美なやるせなさがが伝わる名品として人気があります。


この詩は、当時中也が愛読していた「ハイネの詩」や、西条八十の童詩「金糸雀(カナリヤ)」などをヒントに、中也独自の幻想的な世界を創りあげたと想像されます。「……でしょう」という願望めいた語調から、中也が夢見ていた甘美な愛の世界だったのかもしれません。

制作されたのは、 昭和5年6月で、中也が中心になっていた同人詩『白痴群』が廃刊になった時期です。この詩には、長谷川泰子との間に希望がふたたび芽生えたなら、こんな情景を中也は空想しただろうと思う人が多いようで、それがこの詩に普遍性をもたらすのかもしれません。『桐の花』1930年(昭和5年・中也23歳) 8月号に掲載されたのが初出です。

長調から短調へ、また長調へといったメロディづくりに工夫をしてみました。



国文学雑誌『むらさき』昭和11年 (1936年・中也29歳) 10月号に寄せた作品で、中也は女性読者を意識し、わかりやすい言葉づかいで、平易に表現しました。


秋空に赤トンボが飛びかう野原を、淡い夕日が照らしている。遠くに工場の煙突がかすんで見える。僕は大きなため息をつき、しゃがんで石を拾う。石が手中であたたまると、今度は草を抜く。草は土の上でほのかにしおれていく……。

ただそれだけの情景で、僕はなぜため息をつくのか、なぜ石を拾って手で暖めるのか、ぬいた草はしおれていくのかといったことは詩の裏側に隠されています。

中也の死の翌年に刊行された詩集『在りし日の歌』は、「在りし日の歌」42篇と「永訣の秋」16篇に分かれていますが、この詩は「在りし日の歌」の最後のしめくくりとして置かれていることから、中也の「人生の夕暮をうたった詩」と解釈するのが適切のような気がします。



中也が生存中に著した唯一の詩集『山羊の歌』(44篇収録)
の内訳は、「初期詩篇」(22篇)「少年時」(9篇)「みちこ」(5篇)「秋」(5篇)「羊の歌」(3篇)で、この詩は、「少年時」の中に登場します。

中也に妹はいません。古代歌謡にでてくる妹(いも)は、恋人・妻・姉妹に使われた言葉なので、中也のこの詩は「妹(いも)よ」と読むのかもしれません。この女性は、17歳の時に出会い同棲した3歳上の女優長谷川泰子のはずです。

湿った野原の黒い土や短い草の上を風が吹く夜、「もう、死んだっていいよう」となく恋人よ、君の魂はほんとうにうつくしい。今夜は君のいうことがすべて正当に思えている。私にとって、もう祈るより他に方法がないんだ……。

「純粋な魂が傷ついてなく」というこの歌も、私が20歳前後にこしらえた曲のひとつです。



この詩には、2連に「窓近く婦(おみな)の逝きぬ」、3連に「窓際に髪を洗えば」と女性が登場しますが、その女性は遠い過去の死のようでもあり、ごく近い過去の死のようにも思えます。


この作品も、中也が生存中に著した唯一の詩集『山羊の歌』の中の「初期詩集」に収められています。昭和2年(1927年・中也20歳)11月に、中也は河上徹太郎の紹介で作曲家の諸井三郎と知り合い、翌年5月に日本青年会館で諸井の作曲した「臨終」他が発表されました。中也は当時、この詩に出てくる女性は、彼がなじんでいた横浜の娼婦の死と語っていましたが、後に大岡昇平は「小林秀雄の許へ去った長谷川泰子以外の誰でもないのは明白」と記しています。いずれにせよ、その女性の臨終を歌いながら、(女性の)魂はどのようになるのか?
(やがては)空になるのか? と、疑問符をつけているところに、自身の死を見つめているかのような寂しい響きがあります。



この詩は、『文学界』昭和12年(1937年 中也30歳) 11月号に掲載されたので、亡くなる数か月前の制作ということになります。


中也の頭の中には、いつの頃からかピエロがひとりすんでいて、そのピエロが薄命そうであるということから、中也は死を予感していたのでしょう。この詩はベルレーヌの「月光」「パントマイム」「あやつり人形」という3つの詩からヒント得たといわれています。

こんな変則な詩に曲をつけようなんて、おそらく誰も考えたことはないでしょう。にもかかわらず、私があまり苦労することなく完成させ得たのは、中也が後押ししてくれたのかもしれません。完成度はともかく、私としては好きな曲のひとつです。

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