児童英語・図書出版社 創業者のこだわりブログ

30歳で独立、31歳で出版社(いずみ書房)を創業。 取次店⇒書店という既成の流通に頼ることなく独自の販売手法を確立。 ユニークな編集ノウハウと教育理念を、そして今を綴る。

中原中也詩画曲集



先に記述したように、中也は1929年(昭和4年・中也22歳)4月に、河上徹太郎や大岡昇平らと同人誌『白痴群』を創刊しました。この詩は、この同人誌の第5号に、「暗い天候3つ」と題した中也の作品3編のうちの1篇として発表されました。


大岡昇平は後に「昭和3年5月、小林秀雄は泰子と別れて奈良へ去っていった。中原は泰子が自分のところにもどってくると信じていたものの再び帰ることはなく、中原の新しい感情生活が始まった」と、記しています。この作品にはそんな不安定で孤独な気持ちが表現されているようです。

冬の夜中じゅう、どしゃぶりの雨が降っていて、そこに、しなびた乾し大根がほの暗い灯の下に、投げ捨てられるように落ちている。そんな光景は、中也が幼い日に故郷で目撃したものだが、あの陰惨さならまだよかった。

いまは冬の夜にどしゃぶりの雨が降っていて、そこに、死んだ女たちの声が聞こえてくる。「aé  ao,  aé  ao,  éo,  aéo  éo……」と。この声は、フランスの象徴詩人ランボーの影響が指摘されています。中也は昭和4年から8年の間に「ランボー詩集」を翻訳していて、その一つの詩に「烏の群れだ、オイア イオ、イア イオ!」とあるのにヒントを得て、ここに取り入れたと思われます。

どしゃぶりの雨は、さらに増し、母の帯締めや人の情けまでも雨に流して潰してしまう。過去と現在が雨の中で混濁し、ついにミカンの色だけが残る? 人情はミカンの色のように、美しくも信じるに値しないものなのだろうか……。

私は、若いころにこの詩に挑戦しましたが今一つ納得がいかず未完のままになり、最近再挑戦して仕上げたものなので、完成までに60年近くかかったといえそうです。



この作品は、私がこの「中原中也詩画曲集(24曲)」を制作するキッカケになった詩といってよいかもしれません。東日本大震災のあった2011年の「朝日新聞」9月27日付夕刊に、[中原中也の詩 
3.11後の心を救う] という記事に釘づけになりました。

「3.11以後の不安と恐怖のなかで詩を書き、自分 (詩人佐々木幹郎氏)  の詩に絶望する。ふいに中也の長詩 [盲目の秋] の冒頭が心に浮かび、新しい顔を見せる。「そうか、今は無限の前に腕を振るしかないと、中也の言葉に救われる思いがした。中也は東日本大震災を体験して書いたのではと、錯覚するほどだった」。

『新編中原中也全集』(角川書店版 全5巻別巻1 2000~04年刊)の編集委員を務めた佐々木が、改めて中也の詩の普遍性に驚いた。「盲目の秋」はこの後、<その間、小さな紅の花が見えはするが、それもやがては潰れてしまう>とつづく。もちろん大津波を表現した詩ではない。22歳の中也は、愛する長谷川泰子に去られ、喪失の哀しみを切々とうたいあげた。発表の8か月後、泰子はほかの男の子供を産み、中也が名づけ親になる。そんな生々しい人生の物語は昇華され、静けさをたたえた永遠の喪失感が、3.11を経た人の心をやさしくつつむのだろう。詩の力は不思議だ……とありました。

私は、すぐにこの詩「盲目の朝1」の曲づくりに取り組み、まもなく満足のいく作品に仕上げることができたことで、若いころにつくりあげた7~8曲以外に計24曲を選定し、糸久昇氏にイラストの制作を依頼したのでした。

なお、佐々木幹郎氏は昨年8月、岩波書店の「岩波新書」に『中原中也 沈黙の音楽』(全6章・290頁)を著し、そのあとがきに、「盲目の秋」(全4節のうち第1節第1~5連)を掲げたのち、次のように記しています。

「自然という無限の力の前で、腕を振ることしかできないのは、まことに滑稽なことなのだが、その滑稽を生きるということ。中原中也の詩の言葉は3.11以後、強烈なバネのように私を掬い取った。大震災後の被災地に置くことができる唯一の言葉として、この詩句はわたしのなかで新しい生命を生んだようだ。(中略) 本書には、全章にわたって、[盲目の秋] の詩の世界が背景に波打っていると考えてもらっていい……」と。中也に関心のある方は、是非一読してみてください。



この詩は、1935年(昭和10年・中也28歳)12月の作品で、『文芸汎論』に掲載されました。「頑是ない」とは、聞き分けのないとか、子どもじみたといった意味ですが、中也は「(人生は)どうにもならない」といった感覚でタイトルを決めたようです。


12歳の冬に見聞きしたどこかの港の空で鳴った船の汽笛やその蒸気、それから何年か経つたあの頃のこと、そして当時28歳の中也が思い出として記す印象深い作品です。とくに、「今では女房子供持ち  思えば遠く来たもんだ」  「さりとて生きてゆく限り 結局我ン張る僕の性質(さが)」「考えてみれば簡単だ 畢竟(ひっきょう)意志の問題だ」といった表現の数々は、中也の強烈な独創性・個性以外の何ものでもありません。

1978年(昭和53年)にリリースされ、映画やドラマにもなってヒットした海援隊武田鉄矢作詞の『思えば遠くへ来たもんだ』では、「思えば遠くへ来たもんだ 故郷離れて六年目」「思えば遠くへ来たもんだ この先どこまでゆくのやら」「思えば遠くへ来たもんだ 今では女房子供持ち」など、明らかに中也の「頑是ない歌」を参考に作られています。発表時に、「中也の詩をヒントに」とでも記していれば、盗作よばわりされることはなかったのにと、今も残念に思っています。



この詩は、中也の死後に刊行された詩集『在りし日の歌』に収められています。中也が生存中に著した詩集は、『山羊の歌』(44篇収録)しかありませんでした。死を覚悟した中也は1937年(昭和12)
9月頃、鎌倉の家をたたんで郷里の山口に帰ることになりました。その際中也は、同じ鎌倉に住んでいた小林秀雄に『在りし日の歌』(『山羊の歌』の選から外した詩篇とその後の作品を集めた58篇)の清書原稿を託し、小林らの努力で亡くなった翌年1938年4月に創元社から刊行されています。

この詩の前半は、静まり返った鉱物質の世界です。そこにただひとつの蝶があらわれただけで、水の流れが生まれ、新しい「生」が誕生します。小林は、「最晩年の中原作品の中では、最も美しい遺品」と記しています。

大岡昇平は、「これはひとつのドラマであり、むしろ一つの異教的な天地創造神話ではないかと思われる」と述べています。また、この大岡説に対し、1970年(昭和45年)に『中也のうた』(社会思想社・教養文庫版 
当時私はこの会社に勤務) を著した詩人で弁護士の中村稔氏は、「大岡の [天地創造神話] めいた幻想は、死と隣り合わせのような静寂にみちている。死者がこの世を見かえって、生の回復を祈るかのような趣がある。蝶はその祈りの象徴ではなかろうか。(中略) 蝶はやがて姿を消す。そして、さらさらと水が流れ出す。永劫の時が流れ、誰も蝶がかつてその影を落としたことを忘れている。それをかいまみたのは、詩人の眸だけである」と。この本にはこんな分析のほか、あちこちにハッとするものがあります。



中也が亡くなる1年前の1936年(昭和11年・中也29歳)
11月に、長男文也は小児結核で死去しました。中也はその死にショックを受けて神経衰弱に陥り、入退院をくりかえしました。この2篇もそんな中で作られた作品です。

この詩にある世界は、この世ではなく、あの世なのでしょう。死んだ児は亡くなった長男文也のはずですが、この表現もランボーの詩「少年時」に出てくる「薔薇の木蔭に死んだ児がいる」の表現と重なったとみるのが妥当でしょう。なお、チルシスとアマントは、共にギリシャ・ローマ神話に登場する牧人で、ベルレーヌの詩「マンドリン」には気楽な人物として登場しています。

先に紹介した中村稔『中也のうた』には、「実在するのは月光だけであることを知っていながらも、月光と同様、死児もチルシスもアマントも彼の眸には映っている。詩人は狂気に向かうより他ない」と記述しています。

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