児童英語・図書出版社 創業者のこだわりブログ

30歳で独立、31歳で出版社(いずみ書房)を創業。 取次店⇒書店という既成の流通に頼ることなく独自の販売手法を確立。 ユニークな編集ノウハウと教育理念を、そして今を綴る。

中原中也詩画曲集

これから、「中原中也詩画曲集」というコーナーを22回にわたって掲載いたします。
その内訳は、

① 汚れっちまった悲しみに…
② サーカス
③ 春と赤ン坊
④ 骨 
⑤ 冬の雨の夜 
⑥ 盲目の秋 1
⑦ 頑是ない歌
⑧ 一つのメルヘン
⑨ 月の光 その1 ⑩ 月の光 その2
⑪ 湖上
⑫ 蜻蛉に寄す
⑬ 妹よ
⑭ 臨終
⑮ 幻影 
⑯ 生い立ちの歌 1 ⑰ 生い立ちの歌 2
⑱ 六月の雨
⑲ 早春の風
⑳ 月夜の浜辺
㉑ 春宵感懐
㉒ 春の日の夕暮
㉓ 冬の夜
㉔ 雪の宵

中原中也(以下、中也)という詩人は、私が生まれた1942年(昭和17年)より5年も前に30歳で亡くなっていますから、今年で没後81年、生誕111年ということになります。生きていたころは、文壇の一部では知られていたものの、一般の人にはほとんど知られていない存在でした。

それが、今では近代日本を代表する詩人・近代詩の古典として高く評価され続けています。その理由は、一言でいえば、「傷ついた魂の調べを奏でた」感性の詩人、ということなのかもしれません。その詩の魅力や特長を、私なりに少しずつ紹介していきたいと思います。

なお「詩画」の画 (イラスト) は、すべて糸久昇氏に依頼したものです。糸久氏はいずみ書房の初めての刊行物『せかい童話図書館』(全40巻・1976年刊)のうち「ドナウ川のようせい」「エメリアンとたいこ」「こうのとりになったおうさま」の3点のイラストを担当後、サンリオの雑誌『詩とメルヘン』『いちごえほん』などを監修していた やなせたかし氏に才能を認められ、両誌の常連画家になるなど、今も活躍中です。主な刊行物として、『こども科学図書館』(全40巻・いずみ書房 1978年刊のうち「とり1」「とり2」「ふしぎなけものたち」のイラストと文を担当)、『らくらく英検英語くらぶ』(日本英語検定協会制作・1993年刊の「英検5級リピートカード」および「英検4級リピートカード」計950枚、すべてのイラストを担当) などがあります。

「詩画曲」の曲は、私・酒井義夫が、高校時代から今日まで約60年間 (とくに20歳前後と68歳以降) に少しずつ作ってきたもので、ごく最近ギターを弾きながら自宅で気楽に歌い、ICレコーダーに吹きこんだものです。



初めて「中原中也」を知ったのは、私が高校2年のときの国語の教科書に「一つのメルヘン」(⑧に収録) が載っていて、この詩のすばらしさを語る熱血国語教師の授業を受けたときのことでした。とても印象深い詩で、これまで味わったことのないときめきを覚え、その日の放課後、歩いて行ける神田神保町の古本屋をめぐって、今も手元に残る河出書房版の『山羊の歌・在りし日の歌』(中原中也著)を購入しました。いくつかの詩に感銘を受けましたが、特にこの「汚れっちまった悲しみに…」には運命的な出会いを感じ、すぐに当時覚えたばかりのギターを弾きながら、初めて作曲に挑戦して仕上げたものです。

人間には誰も、他人に知られたくないというものがあります。ウソをつく、なまける、盗む、身近な人を欺く、愛や性の悩み…等など。中也はそんな「知られたくない世界」を早くから知ってしまった人でした。15歳のとき名門山口中学に12番の成績で入学しながらも、文学にのめりこみ、両親をはじめ親類縁者の期待に反して翌年に中学を落第、京都の立命館中学に編入して一人暮らしを始めるものの学校へは行かず、親にも内緒で3歳上の女優長谷川泰子と同棲を始めます……。それから数年後のある時、かつての自分をふりかえり、どうしようもない嫌悪感を「汚れっちまった悲しみ」とし、その悲しみから逃れられない感覚をこの詩に表現したのでしょう。

中也は、1929年(昭和4年・中也22歳) に、友人の河上徹太郎や大岡昇平らと同人誌『白痴群』を創刊するものの翌1930年4月に6号で終了しました。この詩は、『白痴群』の最終巻に連作「落ち穂集」(全8篇)の一つとして掲載された中也の代表作です。
昨年は中也の没後80年、生誕110年の記念すべき年だったことから、角川文庫版『汚れっちまった悲しみに…中原中也詩集』(佐々木幹郎編) が刊行されましたが、書名だけでなく、序詩「汚れっちまった悲しみに…」、第1章「生きる」、第2章「恋する」、第3章「悲しむ」という構成で、編者が厳選した89編のアンソロジーのトップに登場しています。これをを見ても、中也を代表する詩であることがわかります。



「サーカス」は1929年『生活者』10月号に、「無題」として発表されました。これも「汚れっちまった悲しみ…」と同じく、中也22歳のときの作品で、中也の初期作品の中ではもっとも愛唱されている詩のひとつです。


戦争(日清・日露)や疾風の吹く多くの時代が過ぎ、たまたま田舎町で興行されているサーカスがありました。屋外は真っ暗で、サーカス小屋だけに束の間のスポットライトがあたります。それは、永遠に続く時間の流れの中の人間のいとなみの言いようのないむなしさ、はかなさであり、それを空中ブランコの揺れる音を「ゆあーん ゆよーん ゆやゆよん」として、詩全体を象徴的に表現しているかのようです。また、「サーカス小屋は高い梁/そこに一つのブランコだ」と始めは観客の視点で見上げる空中ブランコを、次には「観客様はみな鰯(いわし)」とブランコ乗りの視線で表現します。こうした視線の移動という技法が、中也の詩に不思議な魅力を生み出しているといえそうです。

なお、中也は幼年時代に軍医だった父謙助の勤務の都合で広島や金沢で過ごしたことがあり、後年書いた「金沢の思い出」に、映画館の横の空き地にあるとき軽業がかかって、父に連れられてそれを見に行ったと記しているので、そういう幼年時の思い出が基になっているのでしょう。この歌も、私が20歳前後にこしらえたものです。



この詩は、1935年(昭和10年・中也28歳)『文学界』4月号に発表されたもので、この当時中也は精力的に多くの雑誌に寄稿しています。前年10月には長男文也が誕生したことで、生きる張り合いが出てきたのでしょう。


この詩のユニークなところは、まず、菜の花畑のなかに文也と思われる赤ン坊が登場します。その眠っている赤ン坊のまわりを、電線が鳴り、自転車が走り、薄桃色の風を切って菜の花畑が走り出す……。想像してみると何とも不思議な光景です。

わが子へのあたたかな愛情と、中也の明るい喜びを表現するために、長調の曲に仕上げてみました。この曲も、私が20歳前後にこしらえたものです。



人は、死んだ後の自分を見ることはできません。なのに中也は、死んだ後に自分の骨を見たと詩にします。ふるさと(山口市湯田温泉)に近い小川のほとりの枯れ草の上に立って、自分の骨を見たのです。この骨が、食堂のにぎわいの中に座って、好物のみつばのおひたしを食べていたんだ、なんて思ってる。死んだあとに、霊魂だけが後に残って、自分の骨を見ている……と。これは、中也流の一種のお道化なのかもしれません。


制作したのは1934年(昭和9年・中也27歳)4月28日、雑誌『紀元』同年6月号に発表されました。前年12月3日に結婚してから5カ月半後のことで、当時、東京四谷のアパートに住んでいました。中也に関わりの深い文芸評論家の小林秀雄は同年の『文学界』8月号にこの詩を「近頃感服した詩」として全篇引用した上で、次のように記しています。

「こういう詩は古いという人があるかもしれないが、僕は中原君のいままでの仕事、そこではいわゆる新しい技法というものが非常な才能をもって氾濫していた、そのことを知っているので古いとは思わない。心理映像の複雑な組み合わせ、色の強い形容詞、感覚的な言葉の巧みな使用、捕えがたいものに狙いをつけようとする努力等々、そんなものを捨ててしまってやっぱり骨があったように歌が残ったというような詩である」……と。

中也の周りには、この小林秀雄をはじめ、大岡昇平ら才能のある人物がたくさんいました。中也は、小林に恋人長谷川泰子を奪われて絶交したり、大岡とは主義主張の食い違いから大喧嘩したりするものの、根本的なところではお互いの能力を高く評価しているのは、ほほえましいと同時に、強い絆の友情はうらやましくもあります。

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