児童英語・図書出版社 創業者のこだわりブログ

30歳で独立、31歳で出版社(いずみ書房)を創業。 取次店⇒書店という既成の流通に頼ることなく独自の販売手法を確立。 ユニークな編集ノウハウと教育理念を、そして今を綴る。

おもしろ落語

「おもしろ古典落語」の8回目は、『一眼国(いちがんこく)』という、奇想天外なお笑いの一席をお楽しみください。

昔はあちこちに、見世物小屋というのがありました。珍しいものを見せてお金をとろうという商売ですが、中にはインチキくさいものもありました。「さぁ、ごらんよ…世にもめずらしい怪物だぁ、目が3つで歯が2本だよ」入って見たら、鼻緒のぬけた下駄の片っぽが転がしてあります。たしかに、目が3つで、歯が2本ですから、文句がいえません。そうかというと、「八間(およそ15m)の大とうろうだよ…、どうだい」どんなに立派な灯籠かと思って木戸銭(料金)を払うと、「へい、いらっしゃい、こちらへ、こちらへ…」手をひっぱって裏口へとーんと突き出して、「表の方から裏のほうへ、通ろう、とうろう…」入口から出口まで、ちょうど八間というのですから、ひどい奴らがいたもんです。

(こんなインチキ商売はいつまでも続かない。両国に小屋を持っている香具師(やし)の親方は、六部(ろくぶ─巡礼)を一晩泊めてあげたあと、話をもちかけました。「おまえさんは諸国をずいぶんと歩いているから、珍しい話を聞いたり見たりしてるだろう、それを聞かせてくれれば、そいつをおれが探し出して、見世物小屋に出したいんだ。男と女が背中あわせになって生まれたとか、頭が2つとか3つの蛇を見かけたとかないかね、作りものならどんなもんでもできるが、生きてなくちゃだめなんだがね…」でも、六部は「そんな話はとんとない」といいます。一宿の恩をたてにさらにしつこく聞きますと、「一つ目の女の子」に会ったことがあるといいます。六部が思い出した話というのは、江戸から北へ、およそ百里(400km)も行ったところに大きな原っぱがあって、その真ん中にある大きな榎のあたりだといいます。これを聞くと香具師は喜んで、六部に金をあげ、早速その日のうちに旅支度をして家を出ました。北へ北へと夜を昼についでやってきたのが、大きな原っぱ…)

「ここんとこかな…、こりゃ、一つ目が出るような原っぱじゃねぇぞ、あの六部の奴、一杯食わしやがったんじゃねぇかね。あいつとちがってこちとら、路銀を使ってここまで来てんだからね。これで一つ目に会わなけりゃ、元も子もすっちまうってとこだ…。だが、待てよ、原の真ん中に榎がたった1本立ってるっていってやがったなぁ…そこに木が立ってるよ、ちょうど誂え通り…よーし、ものはためしだ、あの前までいってみよう」足を速めてさっささっさと行きすぎると、鐘がゴーン、なまあたたかい風がサーっと吹いてきました。

「『おじさん』『おじさん』って、どこかで声がしたよ。あっ、出たぁ…へへへへ、いつの間にか…一つ目が現われやがったねぇ…ありがてぇ、ありがてぇ、おじょうちゃん、おじょうちゃん、おじさんが、いいものあげるからね…おいで、おいで…」子どもは無邪気です。そばへやってきたのを、小脇にかかえこみました。子どもはびっくりして、キャーッと声をあげたので、口をおさえましたがもう遅い…法螺(ほら)がプゥゥゥゥ、早鐘がゴーンゴーンゴンゴンゴン…、プゥゥゥゥ…振り返ってみると、見通しのよいまっ平らな原っぱ、どこから出てきたのか、まるで地面から湧くようにピョコピョコ、だんだん人数が増えてせまってきます。どれもこれも一つ目ばかり。

「えれぇことになったな、こりゃ、子どももほしいが命も惜しい」あきらめて子どもをおっぽり出して逃げにかかると、なれない道、何かにつまずいて、どだっとのめったところを、「この野郎、とんでもねぇ野郎だ、おらんとこの娘かどわかそうとしやがった…、それっ、おっちばっちまえ、代官所へしょっぴいて行くんだ」

「これこれ、大勢してちょうちゃくをいたして、打ち殺してしまっては調べがつかん、それへひかえろ。そのほうの生国はいずこだ? 生まれはどこだ? なに、江戸? 江戸の者か。かどわかしの罪は重いぞ、面をあげい…面を上げい」「この野郎…面を上げろっ」「あっ、ご同役、ご同役…ご覧なさい、こいつは不思議だねぇ…目が二つある」

「調べはあとまわしだ、さっそく見世物に出せ」


「2月9日にあった主なできごと」

1152年 源頼朝が捕われる…保元の乱から3年、政治権力をめぐる争いは、平清盛方と源義朝方に分れて戦う平治の乱となりました。この日初陣の13歳の 源頼朝 は、父義朝とともに東国へのがれる途中捕われの身となり、伊豆の小島で流人の生活がはじまりました。

1856年 原敬誕生…日本で初めて政党内閣を組織し、爵位の辞退を表明したため平民宰相といわれた明治の政治家 原敬(はら たかし) が、生まれました。なお、原敬は1921年、首相在任中に暗殺されました。

1881年 ドストエフスキー死去…「罪と罰」「カラマーゾフの兄弟」などを著し、トルストイやチェーホフとともに19世紀後半のロシア文学を代表する文豪・思想家 ドストエフスキー が亡くなりました。

1932年 井上準之助暗殺…大正から昭和初期の政治家だった 井上準之助 が、「血盟団」という右翼組織の青年によって暗殺されました。

1956年 原水爆実験中止決議…第2次世界大戦で広島・長崎に原爆被害を受けたわが国は、1954年南太平洋にあるビキニ環礁で行なわれたアメリカ水爆実験で、第5福竜丸が死の灰をあび、久保山愛吉さんの死亡したビキニ事件がおこりました。これがきっかけとなって、原水爆禁止運動がさかんとなり、国会はこの日原水爆実験中止を決議、アメリカ、ソ連、イギリス政府に実験中止の申し入れをしました。

「おもしろ古典落語」の7回目は、『猫の皿』という、お笑いの一席をお楽しみください。
 
(田舎を歩き回って、骨とうの掘り出し物を見つけては安く買いたたき、江戸の好事家へ高く売る、[果師(はたし)] という商売人がありました。ある果師が、とある川岸の茶店で休んでいて、何気なく土間を見ると、猫が飯を食べています。猫自体はどこにもいるようなものですが、皿を見て果師は、内心驚きました。「絵高麗の梅鉢の皿」といって、安く見積っても三百両は下らないという代物。とても猫に飯をあてがうような皿ではありません。皿の価値を知らないと見て取った果師は、何とかおやじをだまして皿を手に入れようと、話しかけます)

「おやじさん、いい猫だねえ。チョチョチョ…ああ、やってきた。あははは…かわいいもんだね」「あ、お客さま、その猫はかまわないほうがようございます。これこれ、お客さまのお召し物に毛をつけちゃだめだよ」「いや、おれは猫が好きだから…人の膝の上で、のどをゴロゴロ鳴らしてるよ。人なつっこいね」

「お客さまは、猫がお好きでいらっしゃるとみえて、猫でもわかるんでしょうね」「うん、おれんとこにも猫がいたんだけどね、どっかへ行っちまやがった。うちのかかぁが『おまえさん、どこか行ったときに、猫一匹もらってきとくれ』っていうけど、あんまり小さいうちにもらってくると、いなくなったり、死んじゃったりしちゃうし…まあ、このくらいの猫だったら、きっと大丈夫だと思うんだが、どうだい、おやじさんこの猫を、おれにくれないかい?」

「へぇ?」「おいおい、そんな変な顔をしないでおくれよ。そのかわり、ただでもらおうってんじゃない。小判3枚、これをこれまでの鰹ぶし代としてあげようじゃないか。見れば、奥のほうに、まだ2~3びきいるみたいだな」「そりゃそうですが、いえねぇ、婆さんに先に逝かれちまって、さみしくてしょうがねぇもんですから、やはり、あっしになじんでいますから…」「一匹ぐらいいいじゃねぇか。うちには子どももいねぇし、可愛がるよ…これ鰹ぶし代だ、取ってくんねぇ」「3両だなんて大金、そんな、あなた…、ありがとう存じます」

「あははは、ごらんよ、おやじさん。懐ん中へ入れたら、ゴロゴロいって眠っちまった、可愛いもんだね。じゃ、まぁ宿へついたら、うまいもんを食わしてやるからな…あぁ、この皿もってって、これで食べさせてやろう、ね、この皿…」「あっ、それだけは…こっちにお椀がありますから、これをもっていってください」「いいじゃねぇか、こんな汚い皿なんか」

「いえ、こんな皿といわれますが、お客さまはご存じかどうか知りませんが、これは [絵高麗の梅鉢の皿] といって、なかなか手に入らない品なんでございますよ。こんな茶店のおやじに落ちぶれてはおりますが、どうしてもこの皿だけは手放す気になりませんで…どうか勘弁してください。それはもう、だまってたって、2百両3百両の値打ちのある品なんです」

「ふーん、そうかい。しかし、なんだってそんな値打ちもんで、猫に飯を食わせるんだい?」

「へぇ、それがお客さま、おもしろいんでございますよ。この皿で猫に飯を食わせると、ときどき猫が3両で売れるんでございます」


「2月4日にあった主なできごと」

1181年 平清盛死去…平安時代末期の武将で「平氏にあらざれば人にあらず」といわれる時代を築いた 平清盛 が亡くなりました。

1703年 赤穂浪士の切腹…前年末、「忠臣蔵」として有名な赤穂浪士46名が、吉良義央(よしなか)邸に討ち入り、主君浅野長矩(ながのり)のあだ討ちをしたことに対し、江戸幕府は 大石良雄(内蔵助) ら赤穂浪士46名に切腹を命じました。

1945年 ヤルタ会談…第2次世界大戦でドイツの敗戦が決定的になったことで、ソビエトのクリミヤ半島にあるヤルタに、アメリカ合衆国大統領ルーズベルト、イギリス首相チャーチル、ソビエト連邦(ソ連)首相スターリンの3国首脳が集まって、「ヤルタ会談」がはじまりました。

「おもしろ古典落語」の6回目は、『松山鏡(まつやまかがみ』という、心暖まるお笑いの一席をお楽しみください。

(鏡を誰も見たことのない越後の国の松山村に、庄助という正直者で評判の農民がいました。両親が死んでから18年間、墓参りを欠かしたことがないほど孝心のあついことが領主に知れ、ほうびがもらえることになりました。村役人の名主につき添われて役所に出頭した庄助は、領主に、田畑、屋敷、金…はどうかとたずねられました。でも庄助は、自分の親だから当たり前のことをしているだけ、田や畑はとっつぁまからもらったのだけでも手に余る、屋敷だって雨露しのげる今の家で満足、金があれば働く気がなくなると、どれも断ります。困った領主が強いてたずねると、庄助は「それならば、夢でもいいから、死んだとっつぁまに一目会わせてほしい」といいました。これには弱りましたが、今さらだめというわけにはいかず、領主は名主に「庄助の父親は何歳で世を去った」とたずねると、たしか45歳で、しかも顔はせがれにそっくりだといいます。そこで、さっと家来に目くばせして、そのころ京から諸国の領主に贈られた、三種の神器の一つといわれる八咫御鏡(やたのみかがみ)の写しを持ってこさせました)

「こりゃ、庄助、その唐びつの蓋(ふた)をとってみよ」「あっ、あんれまぁ、とっつぁまでねぇか。おめぇさま、こんなところにござらしゃったか。おらでがす、庄助でがす。まぁ、とっつぁま、そんなに泣かねぇでもええだ。とっつぁまが泣くだから、おらも涙が止まんねぇで困るでねぇか…まぁ、達者で何よりだ。それにちょっと若くなっただな…おらぁ、殿様にお願い申して、おめえさまをもらって帰るだから、安心しやっせ…ええ、殿様にお願ぇがあります。このとっつぁまをおらにくだせぇまし」

領主はしばらく考えていましたが、「いや、苦しゅうない。仏の教えにも、善をもって宝となすとある。孝行に越す宝はないはず…これ、庄助、その品は、当家の宝であるが、そのほうの孝心に愛でて遣わす。必ず余人に見せてはならぬぞ。たとえ名主村役人、妻子兄弟たりとも見せてはならぬ。よいか」「お約束もうしあげます。なんせはぁ、ありがたいことで…さぁ、とっつぁま、おまえさまを殿様からもらっただから、家へいっしょに帰るだ…あれっ、とっつぁま喜んで笑ってござっしゃる、うれしかんべ、おらだってうれしいだぁ。殿様、ありがとうごぜぇます。おらのとっつぁまでがす、どんなことがあっても、人には決して見せねぇで大切にしますだ。じゃ、いただいて帰ります」

(こうして庄助は、納屋の古いつづらの中に鏡を入れ、女房にも秘密にして、朝夕、あいさつをしていました。亭主の不審な行動に気づいた女房は、亭主のでかけたあと、つづらをそっとのぞくと…)

「あれっ、たまげたなぁ。やぁ、これだっ、何をおらに隠してると思ったら、こげな女子(おなご)を隠しとくだな…おまえはどこのもんだ。よくもまぁ、うちのとっつぁまをだまくらかして、こんなところへ隠れていやがったな。たぬきみてぇな面しやがって…きまりが悪いもんだから泣いてやがる…おらの方が泣きてぇくらいだ、ずうずうしい女子だ。とっつぁまが帰ってきたら、てめぇを引きずりだしてぶったたくだから、かくごしろ」

(そのうち庄助が帰って夫婦げんかが始まります。「つづらの女子はなんだーっ!」「女子? おらのとっつぁまだーっ!」くんずほぐれつの大げんかになりました。ちょうど表を通りかかった隣村の尼さんが、ふだんは仲がよいのにと、びっくりして仲裁に入りました。両方の事情を聞いた尼さんは、「ようし、おらがその女子に会うべぇ」とつづらをのぞくと……)

「ふふふ、二人ともけんかはするな。中の女は決まり悪がって、頭を丸めてわびている」


「2月3日にあった主なできごと」

1468年 グーテンベルク死去…ドイツの金属加工職人で、活版印刷技術を実用化し、初めて聖書を印刷したことで知られるグーテンベルクが亡くなりました。

1637年 本阿弥光悦死去…豊臣秀吉の時代から江戸初期にかけ、書、陶芸、蒔絵、茶道、作庭、能面彫などさまざまな芸術に秀で、出版までも手がけた本阿弥光悦が亡くなりました。

1717年 江戸名町奉行…8代将軍徳川吉宗に認められ、大岡忠相が江戸町奉行に任命されました。ただし、越前守の名裁判官ぶりはほとんど作り話で、江戸市民に愛され尊敬されていた忠相の人柄が、人情味あふれる庶民の味方として認識され、講談や落語などで広く知られるようになったといわれています。

1809年 メンデルスゾーン誕生…世界3大バイオリン協奏曲(コンチェルト)の一つと賞賛される「バイオリン協奏曲」をはじめ、「真夏の夜の夢」「フィンガルの洞窟」などを作曲したことで知られるメンデルスゾーンが生まれました。

1901年 福沢諭吉死去…「学問のすすめ」「西洋事情」などを著し、慶応義塾を設立するなど、明治期の民間教育を広めることに力をそそぎ、啓蒙思想家の第一人者と評される福沢諭吉が亡くなりました。

「おもしろ古典落語」の5回目は、『三方一両損(さんぽういちりょうぞん)』(または『大岡裁き』) をお楽しみください。

(神田白壁町の長屋に住む左官の金太郎は、ある日柳原の土手で、神田堅大工町の大工・熊五郎名義の印形と書付、三両入った財布を拾いました。金太郎は、さっそく家を訪ねて届けたところ、へんくつで宵越しの金を持たない主義の熊五郎は、印形と書付はもらっておくが、おれを嫌って勝手におさらばした金なんぞ受けとるわけにはいかねぇ、といい張って聞きません。

親切心で届けてやったのを逆にすごむ熊五郎に、金太郎も頭にきて、大げんかになります。騒ぎを聞きつけた熊五郎の大家が止めに入りますが、かえってけんかが飛び火して、熊が「この逆蛍(はげ頭)、店賃はちゃんと入れてるんだから、てめえなんぞにとやかくいわれる筋合いはねぇ」と毒づいたから、大家もカンカン。こんな野郎はあたしが召し連れて訴えをするから、今日のところはひとまず帰ってくれといわれました。

腹の虫が納まらないまま金太郎は自分の長屋に引き上げ、大家に報告すると、こちらの大家も、向こうから先に訴えられたんじゃあ、てめぇの顔は立ってもおれの顔が立たないと、急いで願書を書いて南町奉行所に訴えます。後日、奉行所から呼び出しがかかり、それぞれの大家は、熊五郎と金太郎を連れて、奉行所のお白洲へ。こうして名奉行、大岡越前守のお裁きがはじまります)

「大工熊五郎とは、そちのほうか。そのほうが去(い)んぬる日、柳原において金子(きんす)三両、印形、書付を取り落とし、これなる左官金太郎なるものが拾いとり、そのほう宅へ届けつかわしたるところ、金子を受け取らず、乱暴にも金太郎を打ちちょうちゃくに及んだという願書の趣であるが、それに相違ないか」

「へぇ、どうもあいすいません。わざと落としたわけでもなんでもねぇ、つい粗相で落としてしまったんで、勘弁しておくんなせぇ。なーに、落っこったぐれぇはわかってますがね、そこは江戸っ子ですから、うしろをふりかえったり、拾ったりすりゃ、傍で見ていてみっともねぇことをしやぁがると、こう思われやしねぇかと、こんなめでたいことはない、久しぶりにさっぱりしていい心地だと、家へ帰って鰯の塩焼きで一杯やってると、いきなりこの野郎がやってきやがって、お節介にも『これは、てめえの財布だろ? おれが拾ったんだ。さぁ、中をあらためて受け取れ』ってぬかしやがるんで、『印形と書付はもらっとくが、銭はいったんおれの懐から出たもんだから、おれのもんじゃねぇ、だから持ってけ』てぇいったんですが、こいつがどうしても持っていかねぇで…だから『持ってかないとためにならねぇぞ』と、こいつのためを思って親切にいってやりますとね、こいつは人の親切を無にしやがって、どうしても持ってかねぇと強情をはるもんですから、『このやろう、まごまごしてやがると、ひっぱだくぞ』というと『殴れるもんなら殴ってみろ』ってんで、当人がそういうものを、殴らねぇのも角が立つだろうと思って、ポカリっ…と」

「さようか、おもしろいことを申すやつじゃ…、さて左官金太郎、そのほう、なにゆえそのみぎり、金子、熊五郎より申し受けぬのじゃ」「おいおいお奉行さん、みそこなっちゃいけねぇぜ。金はたった三両だよ。そんな金を猫ババするようなそんなさもしい了見をこっちとら持っちゃいねぇよ。そういう了見なら、あっしはいま時分、棟梁になってるよ。どうかして棟梁になりたくねぇ、人間は金を残すようなめにあいたくねぇ、どうか出世するような災難にあいたくねぇと思わばこそ、毎朝、金比羅さまへお灯明をあげて…それを、お奉行さまでも、その金をなぜ受け取らぬとは、あんまりじゃねぇか」

「よい、しからば両人とも金子は受け取らぬと申すのじゃな。…ならば、この三両は、越前が預かりおくが、よいか? ついては、そのほうどもの正直にめで、両人に改めて二両ずつ、ほうびをつかわすが、この儀は受け取れるか」「恐れながら家主より、当人に成り代わって御礼を申し上げます。町内よりかような者が出ましたことは、誉れでございます。ありがたく頂戴いたします」

「両人にほうびをつかわせ。…双方とも受けてくれたか、このたびの調べ、三方一両損と申す。わからんければ越前守申し聞かせる。これ、熊五郎、そのほう金太郎の届けしおり、受け取りおかば三両そのままになる。金太郎もそのおりもらいおかば三両ある。越前守も預かりおかば三両、しかるに越前一両を足し、双方にニ両ずつつかわす。いずれも一両ずつの損と相成る。これすなわち三方一両損と申すのじゃ、あいわかったか。あいわからば、一同立て…待て待て、だいぶ調べに時を経たようじゃ、定めし両人空腹に相成ったであろう。ただいま両人に食事をとらす…」(二人はめでたく仲直りし、豪華で美味な食事をごちそうになります)

「うーん、こいつはうめぇや、おめぇも食ってるか? これから腹がへったら、二人でちょいちょいけんかして、ここへ来ようじゃねぇか」「こりゃこりゃ、両人、いかに空腹だとて、腹も身のうちじゃ、あまり食すなよ」

「えへへっ、多かぁ(大岡)食わねえ、たった一膳(越前)」


「1月28日にあった主なできごと」

712年 古事記完成…太安万侶 が元明天皇に「古事記」を献上しました。「古事記」は「日本書紀」と並ぶ古代の2大歴史書の一つで、稗田阿礼が記憶していた歴史を、安万侶がまとめあげたものです。

1547年 ヘンリー8世死去…イングランド王で、カトリック教会から離れ、イングランド国教会の首長となったことで知られる ヘンリー8世 が亡くなりました。

1582年 天正少年使節…九州のキリシタン3大名大友宗麟、有馬晴信、大村純忠は、伊東マンショら少年4名を「天正少年使節」として、ローマ法王に謁見させるため、長崎の港から送り出しました。

1687年 生類憐れみの令…江戸幕府第5代将軍 徳川綱吉 は、この日悪名高き「生類憐れみの令」を出し、亡くなるまでの23年間にわたり人々を苦しめました。犬や猫、野生の鳥獣保護ばかりでなく、食用の魚貝類やにわとりまでも飼育したり売買を禁止しました。

1912年 南極に日章旗…白瀬矗(のぶ)率いる南極探検隊が、南緯80度付近に日章旗をかかげ「大和雪原」と命名しました。のちに、この地は氷上であって、南極大陸ではないことが判明しました。

「おもしろ古典落語」の4回目は、人気の高い一席『大山詣り(おおやまいり)』です。大山は丹沢山塊の東にあり、1253メートルの山の中腹にある神社は、商売繁盛にご利益があるということで人気のスポットでした。

(長屋の連中が大家の吉兵衛を先達に、大山詣りに出かけることになりました。去年もでかけましたが、熊さんが酒に酔って、けんかざたをおこしたために、今年は、怒ったら二分の罰金、けんかをすると丸坊主にするという罰則を決めます。行きはまず何事もなく、無事に山から下り、帰りの東海道は神奈川宿に泊まりました。ところが、江戸に近づくと、みんな気がゆるんで大酒を食らい、大家が心配しているところへ、熊が風呂場で大立ち回りをやらかしたという知らせがきました。ぶんなぐられた留が、今度ばかりはどうしても野郎を坊主にすると息巻くのを、江戸も近いことだからと大家はなだめますが、みんなの怒りは収まらず、暴れ疲れてぐっすり寝こんでいる熊の頭を、クリクリ坊主にしました。翌朝、目を覚ました熊は、「ゆんべのことは何一つ覚えていないが、それにしてもひでえことをしやがる」と頭に来て、そそくさと支度をするや駕籠を仕立て、途中でのんびり道中の長屋の連中を追いこして、江戸の長屋へ帰りました)

「おう、今帰ったぜ」「あら、お帰んなさい。ばかに早かったね。いま、みんな集まって、これから品川まで迎えに行くところだったんだよ」「迎えに? そいつはちょっと待ってくんねぇ。それより、こんど行った連中のかみさんたちを家へ集めてもらいたいてぇんだ。いやいや事情はあとで話すから、急いでみなさんのお耳にいれたいことがありますから顔を出してくれってな」「そうかい、じゃ、呼んでくるよ」

「おや、熊さんお帰んなさい」「おやおや、皆さん、ごいっしょで…、何しろ家が狭ぇから両方に分かれてすわってくんねぇ」「熊さん、どうしたの、頭に手ぬぐいなんか巻いて」「ええ、この手ぬぐいについちゃ、事情(わけ)ありなんで…、実は、みんなの顔を見るのも面目なくて口も聞けねぇ始末なんだ。どうかまぁ、話をしまいまで、何にもいわずに聞いていただきてぇんで…。

いや今年のお山は、いいお山でした。天気も都合いいし、無事済んで、さぁこれから江戸へ帰ろうってんで藤沢へきたとき、だれがいい出したともなく、金沢八景を見よう、とこういうんだ。八景を見たあと、せっかくここまで来たんだから、舟に乗って米が浜のお祖師さんへお詣りしようってことになった。ところが、虫が知らせたのか、舟に乗ろうというときになって、おれはどうも腹ぐあいが悪くってしょうがねぇから、舟宿で寝てることにした。みんなゆっくり遊んできてくれ、と待っていたところが、まもなく、土地の漁師の話だ。…舟が烏帽子島のちょっと先へ出た時分、急に黒い雲が出たと思うと、疾風(はやて)がものすごい勢いで吹き、波は高くなって、舟は大きな横波をまともに受けて横っ倒し…まぁ騒いじゃいけねぇ、静かにしてくんねぇな…。

漁師の話によると、江戸の人たちの舟がひっくりかえったと、浜辺の者が手分けしてあっちこっちを捜しまわったが、死骸もわからねぇ…、さっきまで一つの鍋のものを食い合った友だちが死んじまって、おれ一人、のめのめと江戸へ帰ぇれるもんじゃねぇ…みんなの後を追って、海へ飛びこんで死のうとは思ったけれど、江戸で首を長くして亭主を待っているおめえさんたちのことを思うと、このことを知らせなくちゃぁと、恥をしのんで帰ってきたんだ」

「あらまぁ…だから、あたしゃ、今年はやりたくなかったんだよ。けどねぇ、やらなければみんなに嫉妬(やきもち)のように思われるからやったんじゃないか…わぁー」「まぁ、まぁ、泣くのはおよしよ。泣くのはちょいとお待ちったら、なんだねぇ、そんな大声を上げて…この人のあだ名を知ってるかい? この人はホラ熊、チャラ熊、千三つの熊なんていわれているじゃないか…ちょいと熊さん、そんないい加減なこといって泣かせておいて、日がくれてからみんな揃って帰ってくると、おまえさん舌でも出そうってんだろ」

「ね・ね、姉さん、そりゃ、おまえさんをかついだこともあるがね、人間、生き死にのウソはつきませんぜ…そんなに疑うんなら、みんなが死んだって証拠をお目にかけましょう」「証拠? あるんなら見せてごらんよ」「ええ、見せますとも、あっしゃ、おまえさんたちにこの話をしたあと、かかぁを離縁して、明日ともいわず、これから高野山へ登って、みんなの菩提(ぼだい)を弔うつもりなんだ。見てくれぇ…この通り坊主になってきたんだ、これでも疑ぐるのかい」

(これを見たかみさん連中は、ワッと泣きだします。熊は、それほど亭主が恋しければ、尼になってお祈りするのが一番とみんなを丸めこみ、自分のかみさん以外の女たちを一人残らず丸坊主にします。そして、寺から借りてきた衣を着て、にわかごしらえの尼さんたちの真ん中に入って、かねをたたきながら、なむあみだぶつ…とお経をあげます。いっぽう亭主連中は、長屋に帰ってみると、なにやら念仏の声が聞こえます)

「念仏たぁ、気持ちのいいもんじゃねぇな。やっ、念仏は熊公の家だぜ、障子の穴からのぞいてやれ…あの真ん中に座ってるなぁ、いやに熊公に似てやしないかい? また、まわりにずいぶん坊主を集めやがったなぁ…ありゃ、坊主は坊主でも尼さんばっかりじゃねぇか」「えっ、そんなに尼さんが集まってるのか、ちょっとおれにものぞかせろいっ、あれっ、この正面で泣いているのは民さんとこの姉さんにそっくりだぜ」「なに? おれのかかぁ? その隣は大家さんとこの姉さん、やや留んとこのかみさんもいるぜ、あれっ、大変だ、かみさんをみんな坊主にしやがった、おーい、みんなたいへんだぞっ」

(熊の仕返しと知ってみんな怒り心頭。連中が息巻くのを、大家の吉兵衛さんが止めに入りますと…)

「冗談いいなさんな、大家さん。おまえさんの姉御さんはもう婆ぁだから、そうやってすましていられるだろうが、おれなんざ、かかぁの水の垂れるような銀杏返しを見るのが楽しみで帰ぇってきたんだ。それをこの野郎に…どうしたって、熊を張り倒さなければ腹の虫がおさまらねぇ」「いやいや、そんなに怒ることはない。これはほんとうにおめでたいことなんだから」「かかぁを坊主にされて、どういうわけでめでてぇんだ」

「お山は晴天、家へ帰りゃぁ、みんなお毛が(怪我)なくっておめでたい」


「1月26日にあった主なできごと」

1788年 囚人の移民…イギリスから、初めてオーストラリアに移民団がポートジャクソン湾(現シドニー)から上陸しました。このうち約半数は、犯罪を犯した囚人たちでした。これにちなんで「オーストラリアの建国記念日」となりました。

1823年 ジェンナー死去…牛痘にかかった人の膿を少年に接種 (種痘) し、天然痘という伝染病を根絶させるキッカケを作ったイギリスの外科医ジェンナーが亡くなりました。

1948年 帝銀事件…帝国銀行(現在の三井住友銀行)の東京豊島区にあった椎名町支店で、「近くの家で赤痢が発生したので予防薬を飲んでもらう」と偽って銀行員12名を毒殺、現金16万円などが強奪される事件がおこりました。8月になって画家平沢貞通が逮捕され、死刑が確定しましたが執行されないまま1987年に獄死。支援者はいまだに冤罪を叫び、再審請求を続けています。

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