児童英語・図書出版社 創業者のこだわりブログ

30歳で独立、31歳で出版社(いずみ書房)を創業。 取次店⇒書店という既成の流通に頼ることなく独自の販売手法を確立。 ユニークな編集ノウハウと教育理念を、そして今を綴る。

おもしろ落語

「おもしろ古典落語」の13回目は、『ぞろぞろ』 という、ミステリアスなお笑いの一席をお楽しみください。

昔、江戸・浅草の「うら田んぼ」のまん中に、「太郎稲荷」という小さな神社がありました。今ではすっかり荒れはてていて、その神社の前に、めったに客がこない茶店があります。老夫婦二人だけで細々とやっていますが、茶店だけでは食べていけないので、荒物や飴、駄菓子などを少しばかり置いて、かろうじて生計をたてています。貧しくはあっても、じいさんもばあさんも信心深く、神社の掃除や供えものは毎日欠かすことがありません。

ある日のこと、土砂降りの夕立がありました。いなかの中の一軒家ですから、外を歩いてる人が残らずこの茶屋に雨宿りにかけこんできました。雨がやむまで手持ちぶさたなので、ほとんどの人が茶をすすり駄菓子を食べていきます。こんな時でないと、こう大勢の客が来てくれることなど、まずありません。

雨がやんだので、飛び出していった客がまた戻ってきました。「だめだだめだ。今の雨で、つるつるつるっと、滑って歩けない。おじいさん、お宅でわらじを売ってませんか。売ってる? ありがてぇ、助かった、一足ください」「へぇ、ありがとう存じます。八文でございます」一人が買うと、おれも、じゃ私もというので、客が残らず買っていき、何年も売り切れたことのないワラジが、一度に売り切れになりました。

「ありがたいね、ばあさん、夕立さまさまだね。太郎稲荷さまのご利益(りやく)だ。明日、お稲荷さまへ、赤いご飯を炊いておくれよ。それからお神酒に、お榊も忘れなさんな、いいかい?」「はい、おじいさん、あっ、お店にお客さんですよ」「おや、源さん、今の土砂降りはどうでした?」「大変だったよ、大門寺の軒下であの雨はしのいだがねぇ、ここまでくるのに何度つんのめりそうになったか…あぁ、ようやくここにたどりついたってとこよ。これから鳥越まで用足しに行くんだけど、ワラジを一足売ってくれねぇか」「すまねえ、お前さんが来なさることがわかってりゃ、一足くらいとっておくんだったが、雨宿りのお客さんが残らず買っていっちゃって、一足もなくなっちまった」「だって、そこにあるじゃねぇか。天井を見ねえな、おじいさん」

そういわれて見上げると、たしかに一足あります。源さんが引っ張って取ろうとすると、何と、ぞろぞろっとワラジがつながって出てきたではありませんか。それ以来、一つ抜いて渡すと、新しいのがぞろりぞろり、いくらでも出てきます。これが世間の評判になって、茶店の老夫婦は正直者、太郎稲荷のご利益だと、この茶屋はたちまち名所になりました……。

そこからあまり遠くない田町に、はやらない髪結床がありました。客もなく手持ちぶさたで、自分のヒゲばかり抜いています。そこへ知人がやってきて太郎稲荷のことを教えられました。ばかばかしいけど退屈しのぎと思って稲荷見物に出かけたところ、押すな押すなの大盛況。茶店のおかげで稲荷も大繁盛で、のぼりや供え物は並べるところがないほどです。もちろん、老夫婦の茶店には黒山の人だかりで、お札(ふだ)がわりにワラジを買う客で、朝から晩まで押すな押すなの大行列。

これを見た親方、「そうだ、神仏のご利益。おれも授かろう。これから裸足参りをするぞ…南無太郎稲荷大明神さま、なにとぞあたくしにも、この茶店の年寄り同様のご利益をお授けくださいますように…南無太郎稲荷大明神さま…南無太郎稲荷大明神さま…」

いっしんに祈って、満願の七日目。願いが神に聞き届けられたか、急に客が群れをなして押し寄せます。親方、うれしい悲鳴をあげ、一人の客のヒゲに剃刀(かみそり)をあてがってすっと剃ると、……後から新しいヒゲがぞろぞろぞろっ……。


「3月10日にあった主なできごと」

710年 奈良時代始まる…天智天皇(中大兄皇子) の4女である元明天皇が、藤原京から奈良の平城京に都を移し、奈良時代がはじまりました。

1945年 東京大空襲…第2次世界大戦の末期、東京はアメリカ軍により100回以上もの空襲を受けましたが、前夜から深夜にかけての空襲はもっとも大規模なものでした。B-29爆撃機およそ300機が飛来して、超低空から大量の手榴弾、機銃掃射、木造家屋へ焼夷弾を浴びせました。爆撃は2時間40分にもわたり、その夜の東京は、強い北西の季節風が吹いていたため、下町地区は火の海と化し、死亡・行方不明者は10万人以上、焼失家屋18万戸、罹災37万世帯、東京市街地の3分の1以上が焼失しました。

「おもしろ古典落語」の12回目は、『蜀山人(しょくさんじん)』という、江戸時代に狂歌の名人といわれた方のお笑いの一席をお楽しみください。五・七・五の「俳句」を、面白おかしく表現した文芸を「川柳」というのに対し、五・七・五・七・七の「和歌」を面白おかしく表現したのが「狂歌」です。1749年の今日3月3日に生まれた蜀山人の本名は、大田直次郎、号を南畝(なんぽ)といい、直参という徳川家のお役人でした。狂歌のほうでは四方赤良(よものあから)、寝惚(ねぼけ)先生などの別号もありました。

たいへんなお酒好きで、酒にまつわる逸話を、たくさん残しております。ある日、狂歌の弟子3、4人がやってきて、「どうも先生はお酒をあがると、乱暴をなさっていけません。どうかこれからは、お酒はつつしんでいただきます」「やぼなことをいうな。わしは酒をやめては生きている甲斐がない。そんな意見はやめだ」「先生がどうしてもお酒をやめないとおっしゃれば、しかたがありません。わたしたちがかわるがわるこちらへまいってきて、酒屋がきたら、どんどん追いかえします」「乱暴な話だな。よしよし、それじゃやめるとしよう」「それでは、たしかにやめるという証書を一札いただきとうぞんじます」「うるさいやつだな、書いてやるよ」

手もとにあった紙に書きながしたのが、「鉄(くろがね)の門よりかたきわが禁酒 ならば手柄にやぶれ朝比奈(あさいな)」という狂歌。朝比奈というのは鎌倉時代の豪傑、朝比奈三郎義秀のことで、その朝比奈さえもやぶれぬほどに、じぶんの禁酒のちかいはかたいと、うたったものでした。

弟子たちが帰ったところへ、入れかわりにやってきましたのが魚屋。「先生、初がつおの生きのいいのが入りました」「せっかくだが、今日はよしだ」「そんなことをいわねえで、買っておくんなせえ。先生だって、先祖代々の江戸っ子でしょう。どてらを質へたたっこんでも、初がつおを食わなけりゃ江戸っ子のはじだというくれえだ。一分二朱にまけておきやすから」「おいおい、値が高いから買わんというのじゃない。酒が飲めないから、かつおを買ったところでつまらぬからだ」「へえ、酒が飲めねえ? また、なんだって酒をやめたんですか」「いましがた弟子たちがきてな、酒を飲んではいかんというから、しかたなくやめたんだ」

「先生、ふざけちゃいけねえ。忘れもしねえ3年前、先生のところへはじめてきたときに、何ていいなすった。きさま、酒は飲めるかというから、あっしゃ下戸で奈良漬を食っても酔いますといったら、そんなやつに屋敷へ出入りされちゃ、先祖にすまねえ。それがいやなら酒を飲め、といったじゃありませんか。くすりを飲むような苦い顔をしいしい飲みおぼえて、やっと一人前の酒飲みになったんで、いわば、先生が本家だ。その本家が出店へことわりもなしにのれんをおろすたぁ合点がいかねえ。こうなりゃあっしも江戸っ子だ。先生が飲まねえうちは帰らねぇ」「まあ待て、そういえばおまえを酒飲みにしたのは、なるほどわたしだ。その師匠が禁酒をしては弟子にすまぬというのはもっともの話、じつはな、わしも飲みたくてうずうずしてたところなんだ。よし、改心して、もとの酒飲みになってやろう」「やあ、さすがは先生だ。よくわかってくれやした」「そうなったらまず酒だ。酒屋へいって、二升ばかりいい酒をとってこい。おまえと二人で、仲なおりに一ぱいやろう」

のんきなもので、魚屋を相手に、初がつおで飲みまして、いい心持ちで寝てしまいました。そんなこととはつゆ知らぬ門人たち、先生のところへきてみると、プンプン酒のにおいをさせて、高いびきで寝ています。「先生、禁酒の歌までお作りになりながら、このありさまは何ごとですか。神宮さまへの誓いをやぶっては、ばちがあたりましょう」「そう怒るな。大神宮さまへの誓いのほうは、そのままではおそれおおいから、短冊だけはとりかえておいた」

門人が神だなの短冊をみると、「わが禁酒 やぶれ衣となりにけり それついでくれ やれさしてやれ」 破れ衣をついだり、さしたりするのと、酒をさしたりついだりするのを、うまくかけた、みごとな狂歌です。「先生はどうしても、お酒はやめられませんか」「うん、狂歌と酒は、やめられんな」「それではどうでしょう、即吟で、もし狂歌ができなかったときは、お酒をやめる、ということではいかがでしょう」「そうだな。よし、そのときにはやめよう」「では、お約束いたしましたよ。これから内田へ、みんなで出かけることになっておりますから、これでごめんこうむります」「まてまて、内田というのは、昌平橋にある居酒屋の内田か」「さようです」「それなら、おれもいく」

これじゃぁ何にもなりません。師弟そろって内田という店で飲みましたが、なにしろ先生は大酒豪のこと、徳利が林のように並びました。ところが、いざ勘定をすることになると、持ち金を全部あわせても足りません。困った弟子が、「先生、勘定が意外にかさんで、金が足りません」「こんど、いっしょに払うといっとけ」「かしこまりました。けれど、さっきのお約束もありますので、この勘定が足らんところで、即吟を一つお願いいたします」「きわどいところへ切りこんできたな」「もしおできにならなかったら、お約束の禁酒ということになりますから」「わかっておる」と、とりよせた紙へ、さらさらと、

「これはしたり うちだと思い酒飲みて 代といわれてなんとしょう平」大酒を飲んだ上での即吟ですから、門弟たちもおどろきました。それでも門弟たちは、なんとかして酒をやめさせたいと思いまして、蜀山人につきあいのある人たちに、難題をお出しください、もし先生が即吟ができませんときは、酒をやめさせていただきたい、と、頼んでまわりました。これはおもしろいと、頼まれた人たちが、いろいろの題をだしますが、どれもすらすらと詠んで、さらに苦にするということもありません。

暮れのある日のこと、蜀山人先生、赤坂から青山へ用たしにいきましたところ、途中でチラチラと雪が降り出してしまいました。困ったことになったと思いながら、赤坂の溜池の知りあいの家の前まできましたとき、そこの内儀(おかみ)が声をかけまして、「まあ先生、この雪の中をどちらへいらっしゃいますので」「青山までまいるのだが」「雨具がなくては、お羽織がだいなしになります。さあ、これをどうぞおめしくださいまし」と、黒羅紗の合羽をだしてくれました。「これはかたじけない」「ついては先生、この合羽で即吟を一首、お願いしとうございますが」 ふところから紙をだして、さらさらと書きましたのは、

「声黄色 合羽は黒し 雪白し ここは赤坂 青山へいく」 みごとに5つの色が、詠みこまれております。これでは、いつまでたっても禁酒はむりなようで…。こうして、さまざまな逸話をのこしました蜀山人、この世に、いとまをつげたのは1823年、ときに75歳といいますから、そのころとしては、たいへん長生きをしたわけであります。

辞世の狂歌として、「ほととぎす 鳴きつるかた身 初がつお 春と夏との入相の鐘」「この世をば どれおいとまとせん(線)香の 煙とともに はい(灰)さようなら」「いままでは 人のことかと思ったに おれが死ぬとは こいつたまらん」この3首が伝えられていますが、このなかの「この世をば…」という1首は、じつは『東海道中膝栗毛』の作者、十返舎一九の辞世ですので、おことわりいたしておきます。

「まちがえも 狂歌(今日か)あすかの辞世では 南畝(なんぼ)なんでも 一九(いく)らなんでも」


「3月3日の行事」

ひな祭り…旧暦ではこの頃に桃がかわいい花を咲かせるために、「桃の節句」ともいわれ、女の子のすこやかな成長を願って「ひな人形」を飾ります。その起源は、むかし中国で重三(3が並ぶ)の節句と呼ばれていたものが、平安時代に日本に伝わってきたものです。貴族のあいだだけで行なわれていましたが、江戸時代になって一般の家庭にも広がるようになりました。


「3月3日にあった主なできごと」

1847年 ベル誕生…電話を発明し、事業家として成功した ベル が生まれました。

1854年 日米和親条約…アメリカの ペリー 提督が、前年6月につづき7隻の軍艦を率いて再び日本へやってきて、横浜で「日米和親条約」(神奈川条約)を幕府と締結しました。これにより、下田と函館の2港へ入ることを認めたため、200年以上続いた鎖国が終わりました。

1860年 桜田門外の変…大雪が降るこの日の朝9時ごろ、江戸城外桜田門近くで、江戸城に向かう大老 井伊直弼 と約60人の行列に、一発の銃声が響きました。これを合図に水戸浪士ら18名が行列に切り込み、かごの中の井伊の首をはねました。浪士たちは井伊大老による安政の大獄で、水戸藩主をはじめ多数の処罰を恨んだ行動でした。

「おもしろ古典落語」の11回目は、『初天神(はつてんじん)』というお笑いの一席をお楽しみください。天神様というのは、学問の神様といわれる菅原道真公のことで、その天神様を祀ってあるお宮が天満宮です。新年になってから、天満宮にはじめてお詣りにいくことを「初天神」といい、とくに25日が天満宮の縁日のため、1月・2月の25日には、おおぜいの人たちがお詣りでかけました。

「おい、おっかぁ、ちょっと羽織を出してくれよ」「うるさいね、この人は。羽織をこしらえたら、どこへ行くにも着たがるんだからね、どこへ行くんだい?」「これから、天神様へお詣りに行こうとおもってね、初天神だ」「あら、そうかい。じゃ金坊を連れてっておくれよ。家にあの子がいると、悪さばかりして困るんだよ」「いやだよ、あんな生意気な奴はいないよ、親の顔がみてぇくらいだ」「それがあんたじゃないか」「おれの子にゃちげぇねぇが、あれが他所(よそ)のもんだったら、おらぁいっしょの家にいないね、連れて行くのはいやだよ」「そんなこといわないで、連れてっておくれよ」

「ヘへへ…、おとっつぁんとおっかさん、いい争いをしてますね。あの、一家に波風が立つというのはよくないよ、ご両人」「聞いたか? 親をつかまえてご両人だとよ、あっちへ行って遊んでな」「おとっつぁん、どっかへ行くんだろ?」「行かないよ」「行きますよ、羽織をきてるもん。連れてっておくれよ」「だめだったらだめ、おとっつぁんはこれから大事な仕事に行くんだから」「うそだぁ、今日は仕事にあぶれてるの知ってるもん。初天神へ行くんだろ、連れてっておくれよ」「おまえがぐずぐずいうから、見つかったじゃないか」「いいじゃないの、連れてったら」「簡単にいうなよ、こいつはどこ行っても、あれ買ってくれ、これ買ってくれって、うるさくてしょうがないんだよ」「そんなこといわないから、おとっつぁん連れてっておくれよ」

とうとう、何も買わない約束で、金坊を初天神に連れて行くはめになりました。天満宮の境内には、人がたくさん出ていて、屋台もたくさん出ています。そのうち、あんのじょう「大福買って、みかん買って」と、はじまりました。両方とも毒だと突っぱねると「じゃ、飴買って」飴はここにはないというと「おとっつぁんの後ろ」飴屋がニタニタしています。「こんちくしょう。今日ぐらい休め」「冗談いっちゃいけません。今日はかき入れです。どうぞ坊ちゃん、買ってもらいなさい」一個一銭の飴を、おとっつぁんが大きいのを取ってやるといって「これか? こっちか?」といじりまくるので、飴屋は渋い顔。金坊が飴をなめながらぬかるみを歩き、着物を汚したのでしかって引っぱたくと「痛え、痛えやい……何か買って」泣きながらねだっています。飴はどうしたと聞くと「おとっつぁんがぶったから落とした」「どこにも落ちてねえじゃねえか」「腹ん中へ落とした」

今度は凧(たこ)をねだります。往来でだだをこねるから閉口して、一番小さいのを選ぼうとすると、金坊と凧屋にうまく結託されて一番大きい凧を買わされるはめになり、帰りに一杯やろうと思っていた金を、全部はたかされてしまいます。

金坊が大喜びで凧を抱いて走ると、酔っぱらいにぶつかりました。「このがき、凧なんか破っちまう」と脅かされ、金坊が泣きだしたので「泣くんじゃねえ。おとっつぁんがついてら。ええ、どうも相すみません」そこは父親、平謝りに謝ります。そのうち、今度はおやじがぶつかって、金坊「それ、あたいのおやじなんです。勘弁してやってください。おとっつぁん、泣くんじゃねえ。あたいがついてら」

そのうち、おやじの方が凧に夢中になり「あがった、あがったい。やっぱり値段が高えのはちがうな」「あたいの」「うるせえな、こんちきしょうは。あっちへ行ってろ」

金坊、泣き声になって「こんなことなら、おとっつぁん連れて来るんじゃなかった」


「2月25日にあった主なできごと」

903年 菅原道真死去…幼少の頃から学問の誉れが高く、学者から右大臣にまでのぼりつめたものの、政敵に陥れられて九州の大宰府へ左遷された平安時代の学者 菅原道真 が亡くなりました。

1000年 一条天皇2人の正妻…平安時代中期、政治を支配していた関白の 藤原道長 は、長女の彰子(しょうし)を一条天皇に嫁がせ、孫を天皇にしようと画策していましたが、この日藤原定子(ていし)を一条天皇の皇后に、彰子を中宮として、ともに天皇の正妻としました。

1670年 箱根用水完成…5年にもわたるノミやツルハシでトンネルを掘る難工事の末、芦ノ湖と現在の裾野市を結ぶ1280mの用水路箱根用水が完成しました。幕府や藩の力を借りずに、延べ人数83万人余という農民や町民の手で作り上げ、現在に至るまで裾野市とその周辺地域に灌漑用水を供給している技術は、高く評価されています。

1841年 ルノアール誕生…フランスの印象派の画家で、風景画や花などの静物画から人物画まで、世界中でもっとも人気の高い画家の一人  ルノアール が生まれました。

1953年 斉藤茂吉死去…写実的、生活密着的な歌風を特徴とするアララギ派の歌人の中心だった 斎藤茂吉 が亡くなりました。

「おもしろ古典落語」の10回目は、『ねずみ』という、名工・左甚五郎にまつわるお笑いの一席をお楽しみください。

江戸・日本橋橘町の大工・政五郎の家に十年もの間居候をしていた左甚五郎。その政五郎が亡くなり、今は2代目のせがれの後見をしていますが、もともと旅が好きなため、まだ見ていない奥州・松島を見物しようと、伊達六十二万石のご城下・仙台までやってきました。

「おじさん、旅の人でしょ」と声をかけてきたのは、12、3歳の子どもです。「ああ、見ての通りだ」「どっかへ泊まるんでしょ、どうせ泊まるんなら、わたしのうちぃ泊まってくださいな」「おう、坊やは宿の客引きさんかい、どこへ泊まってもおんなじだ、じゃ今晩は、坊やんとこへ泊めてもらおうかな」「泊まってくれますか、でも、家はあんまり大きくありません。それに座敷もきれいじゃありません」「ああいいとも。一晩くらいなら、狭くっても、きたなくってもかまやしないよ」

「おじさん、寝るときに、ふとんを敷いたり掛けたりしますか?」「変なことを聞くなよ、宿屋へ泊まりゃ、ふとんを敷いたり掛けたりするの、あたりまえだろ」「じゃ、すいません、二十文ください」「前金かい?」「そういうわけじゃなくて、布団屋に借りがありますから、おあしを持ってかないと、布団貸してくれないんです。で、おじさん今晩寒い思いをしたくないと思ったら、二十文だしたほうがおためでしょ」「そうか、よしよし、わかった。正直でいいや、あいよ」「へい、すいません。ほんとうなら、家までおじさんを案内しなくちゃいけないんですけど、おじさんを案内したり、布団屋へいったりしてると、遅くなりますから、一人でいってください」

何かわけがありそうだと、子どもに教えられた道を行ってみると、「ねずみ屋」という宿屋はなるほどみすぼらしくて、掘っ建て小屋同然。いっぽう前にある「虎屋」という大きな旅籠(はたご)は、大繁盛しています。案内をこうと、顔を出した主人がいうには、自分は腰をぬかしてあまり動けないし、使用人もいないから、申し訳ないが、そばの川原で足をすすいでほしいというので、ますますびっくり。その上、子どもが帰ってきて、ご飯を炊いたり魚を焼いたりすると時間がかかるから、自分たち親子の分まで入れて寿司を頼まないかといい出します。甚五郎は苦笑して、寿司5人前と酒を用意するようにと、二分の金を渡しました。

年はもいかない子どもが客引きをしているのが気になって、それとなく事情を聞くと、この主人は、卯兵衛(うへえ)といって、もとは前の虎屋のあるじだったといいいます。5年前に女房に先立たれ、女中頭を後添いにしたのが間違いのもと。悪い女で、番頭と密通し、たまたま七夕の晩に卯兵衛が、二階の客のけんかを止めようとして階段から落ちて足腰が立たなくなり、寝たきりになったのを幸い、親子を前の物置小屋に押しこめ、店を乗っ取ったのだといいます。

「ふーん、世の中にはひどい奴がいるもんだね。で、『ねずみ屋』ってのはどういうわけで」「へぇ、虎屋は番頭に乗っとられましたが、こちらは物置でございまして、ねずみがたくさんおりまして、そこをせがれと私がのっとったようなもんですから、ねずみに義理をたてまして、『ねずみ屋』といたしました」「なるほど、おもしろい名前だね。ときに、おとっつぁん、端切れがあるかい」「鼻紙ならございますが」「鼻紙じゃない、端切れ、板っ切れのようなもんだよ」「へえへ、物置でございましたので、そういったものは、あそこの隅にたくさん…」「そうかい、一人でも二人でも、お客さまの気を引くように、あたしがねずみを彫ってみよう」「お客さまは、彫りものをなさるんですか。そういえば、まだ宿帳をおつけしていませんでしたが、ご生国はどちらで?」「飛騨の高山です」「お名前は?」「江戸日本橋橘町、大工政五郎内甚五郎、とつけてください」「えっ、あの…日本一の左甚五郎さまで」

金銀を山と積まれても、自分で仕事をしようという気にならなければ、のみを持とうとしない人ですが、一文の金にならなくても、自分がその気になったからには、魂を打ちこんで仕事にかかる人です。こうして、甚五郎は、一晩部屋にこもって見事な木彫りのねずみをこしらえ、たらいに入れて上から竹あみをかけさせ、ふらりと立ち去りました。

さあ、このねずみが、たらいの中で歩きまわるというので、『左甚五郎の福ねずみ』と評判になって、後から後から客が来て、たちまち「ねずみ屋」は大繁盛。新しく使用人も雇い、裏の空き地に建て増しするほどの勢い。逆に「虎屋」はすっかりさびれてしまいます。「虎屋」の主人は、なんとかねずみを動かなくしようと、仙台一の名工に大金を出して頼み、大きな木の虎を彫ってもらいました。それを二階に置いて「ねずみ屋」のねずみをにらみつけさせると、どうしたことか、ねずみはまったく動かなくなったのです。

この野郎と、怒った拍子に腰がピンと立った卯兵衛は、江戸の甚五郎に「あたしの腰が立ちました。ねずみの腰が抜けました」と手紙にしたためたところ、不思議に思った甚五郎、2代目政五郎を伴ってはるばる仙台にかけつけ、虎屋の虎を見ました。ところが、目に恨みをふくんでいて、それほどいい出来だとは思えません。そこでねずみに、「あたしはおまえに魂を打ちこんで彫ったつもりだが、あんな虎が恐いのかい?」というと、

「えっ、あれ、虎ですか? てっきり、あっしは猫だと思いました」


「2月23日にあった主なできごと」

1685年 ヘンデル誕生…バッハと並びバロック音楽の完成者といわれ、ドイツに生まれイギリスに帰化した作曲家 ヘンデル が生まれました。

1784年 漢委奴国王の金印…福岡県の小島・志賀島の農民が、田んぼの用水路で金印を発見し、黒田藩の殿様に差し出しました。そこには「漢委奴国王」と彫ってありました。金印は、1954年から「国宝」に指定されています。

1836年 アラモの戦い…アラモの砦に立てこもるデイビィ・クロケットら182人のアメリカ・フロンティア義勇軍に対し、3000人ものメキシコ正規軍が攻撃を開始し、義勇軍は13日後に全滅。ただし、メキシコ軍も大打撃を蒙り、この地にテキサス共和国ができることになりました。そして1845年、テキサスはアメリカ合衆国と合併、テキサス州となりました。

「おもしろ古典落語」の9回目は、『平林(たいらばやし)』という、ばかばかしいお笑いの一席をお楽しみください。

昔は、学校なんていうものがありませんでしたから、おとなになっても、まともに字を読んだり書いたりできない人がたくさんありました。

ある店のご主人が、小僧の定吉を呼んで、使いをたのみます。「定吉や、本町の『平林(ひらばやし)』さんのところへ行ってきておくれ」「へーい、行ってきます」「これこれ、待ちなさい。用も聞かずに、出かけるやつがあるか?」「どうも、手軽すぎると思いました。で、どういうご用ですか」「この手紙を届けておくれ」「へーい、わかりました。で、どこへとどけるんでしたっけ」「本町の平林(ひらばやし)さんだよ」「そうでした。へへへ…、で、何をしに行くんでしたっけ?」「あきれたやつだ、手紙を届けるんだよ。いいか、おまえは忘れっぽいから、この手紙にあて名が書いてあるから、もし忘れたら、だれかに読んでもらいなさい。いいね、じゃ、早く行っておいで」

「うちの旦那はうるさくていけないよ。でも、使いはいいよ、気が晴れるからな。こうして歩いてると、いやなことも何も忘れられるし…歩いていることも忘れたりして。いや、忘れちゃいけないんだ。あれっ、どこへ行くんだっけかな。そうそう、この手紙を持っていくんだ。誰のとこかな、あっ、そうだ、ここに書いてあるんだったな。しかたない、誰かに聞いてみよう。むこうから人がくるよ。あのう、この手紙のあて名を読んでもらえませんか」

「上の字が『平(たいら)』で、下に『林(はやし)』だから『たいらばやし』だよ」「ありがとうございました。『たいらばやし』ね、でも…、そんな名前だったけかなぁ。そうだ、そこを通るお年寄りに聞いてみよう。お年寄りは、物事をよく知ってるっていうからね、ちょっとおたずねします。この名前は『たいらばやし』でいいんですかね」「ほほう、ちょっと貸してごらん。この上の字は『平(ひら)』、下は『林(りん)』、だから『ひらりん』じゃな」

「どうも、ありがとうございます。ひらりん、ひらりん、ひらひらりんりん、ちょうちょが飛んでるみたいな名前だな、さっきが『たいらばやし』で、こんどは『ひらりん』か、こりゃ、どっちだったかな。『たいらばやしか、ひらりんか』、そうだ、両方いいながら歩こう。『たいらばやしか、ひらりんか』……、どうも、旦那に聞いたのとちょっと違うみたいだな。あそこの大工さんに聞いてみよう。すみません、この字は何て読むんでしょうか」

「いいか、こいつは2つの字だと思うから、いけねぇんだ。ひとつずつ読めばいい。一番上が『一』、次が『八』、それから『十』、その下に材木の『木(もく)』の字がふたつ並んでるだろ、だから『一八十の木木(いちはちじゅうのもくもく)』って読まなくちゃいけねぇ」

「ああ、さようで…『いちはちじゅうのもくもく』。なんか妖怪の子どもみたいな名前だなぁ。しかたない、みんな並べていってみよう。『たいらばやしか ひらりんか いちはちじゅうのもくもく』…こんな名前だったっけかなぁ? あっ、あそこに品のいいおかみさんがいるから聞いてみよう。これは『いちはちじゅうのもくもく』って読んでいいんでしょうか」

「えーっ、そんな読み方なんてあるもんですか。一八十(いちはちじゅう)って、堅く読んではいけないの、『一』はひとつ、『八』はやっつ、『十』はとう、それから木が二つあるから、き、き。『ひとつとやっつでとっきき』と読んでちょうだい」

「わかりました、ありがとうございます。どうも、聞くたびに違うなぁ…、いいや、まとめていってやれ。そのうちに、本人が聞きつけて出てきてくれるだろう。『たいらばやしか ひらりんか いちはちじゅうのもくもく ひとつとやっつでとっきき』……」

そこへ通りかかった男が、きみょうな言葉をぶつぶついってる小僧がいるな、とよく見ると…。「なんだ、定吉じゃないか?」「あぁ、本町の平林(ひらばやし)さん、あっ、ちょっと待ってください。『たいらばやしか ひらりんか いちはちじゅうのもくもく ひとつとやっつでとっきき』……『ひらばやし』っていうのはないね。

ああ、ちょっとおしいですが、今日はお宅に用事はありません」


「2月17日にあった主なできごと」

1856年 ハイネ死去…『歌の本』などの抒情詩をはじめ、多くの旅行体験をもとにした紀行、批評精神に裏づけされた風刺詩や時事詩を発表したドイツの文学者 ハイネ が亡くなりました。

1872年 島崎藤村誕生…処女詩集『若菜集』や『落梅集』で近代詩に新しい道を開き、のちに「破戒」や「夜明け前」などを著した作家 島崎藤村 が生まれました。

1925年 ツタンカーメン発掘…イギリスの考古学者カーターはこの日、3000年も昔の古代エジプトのファラオ・ツタンカーメンの、235kgもの黄金の棺に眠るミイラを発見しました。

1946年 金融緊急措置令…第2次世界大戦後の急激なインフレを抑えるため、金融緊急措置令を施行。これにより、銀行預金は封鎖され、従来の紙幣(旧円)は強制的に銀行へ預金させる一方、旧円の市場流通を停止、新紙幣(新円)との交換を月に世帯主300円、家族一人月100円以内に制限させるなどの金融制限策を実施しました。しかし、この効果は一時的で、1950年ころの物価は戦前の200倍にも達したといわれています。当時国民は、公定価格の30~40倍ものヤミ価格で生活必需品を買っていました。ヤミでは買わないとの信念を貫いた東京地裁の判事が、栄養失調で死亡したニュースも伝えられています。

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