児童英語・図書出版社 創業者のこだわりブログ

30歳で独立、31歳で出版社(いずみ書房)を創業。 取次店⇒書店という既成の流通に頼ることなく独自の販売手法を確立。 ユニークな編集ノウハウと教育理念を、そして今を綴る。

おもしろ落語

「おもしろ古典落語」の23回目は、『首屋(くびや』というお笑いの一席をお楽しみください。

江戸時代に、自分の首を売って歩くという不思議な男がおりました。風呂敷包みをひとつしょって、町にやってきました。「くびーっ、首屋でござーい。首・くび、首はいりませんか」

こんな調子で、番町あたりまでやってきます。むかしは、このあたりは旗本屋敷が多かったところで、この売り声を、ある殿様が聞きつけました。「これ、三太夫、あれへまいる者が、首…くびやと申しておる。おかしな稼業があらわれたものじゃ」「いえ、それはお聞きちがいでございましょう。首屋ではなく、栗屋でございましょう」「いや、そうではない。たしかに首と申しておる。もし首ならば、もとめてつかわすから、よく調べてまいれ」

「ははぁ、承知つかまりました。……冗談でしょう、ばかばかしい。誰が、世の中に二つとない自分の首を売る人間なんかいるものですか…、これこれ、それへまいる商人」「お呼びでございますか?」「そのほう、いったい何を商う?」「首でございます」「栗であろう?」「いえ、あたしの首を商います」「これは驚いた。さようなれば、殿がおもとめになるかもしらん。とにかく、わしといっしょにこの門の中へ入って、庭先にひかえておれ」「どうかよろしくおとりなし願います」

首屋はいわれた通り、庭にしゃがんでおりますと、殿様が縁側に出てまいりました。「これこれ三太夫、首を商うというのはこの者か?」「御意の通りでございます」「さようか、これ、町人、即答をゆるすぞ。そのほう、いかなる理由で首を売ろうというのか」「へぇ、たいしたわけでもねぇんでございますが、何をやってもうまくいかないんで、いっそのこと、自分の首を売ったほうがよかろうかと……」「ふーん、さようか。しからば、いったいいくらで、その首を商うのじゃ」「七両二分でございます」「して、その金子(きんす)は、身よりの者へでもとどけてつかわすのか」「いいえ、あっしが頂戴いたします」「その方、首を斬られて死ぬのであろう。金子など必要ではあるまい」「いえ、死ねば私が行くのは地獄でございましょう。『地獄の沙汰も金次第』と申しまして、金があれば、鬼も少しはやさしくしてくれるかと思いますので」

「おもしろいことを申すやつじゃ、三太夫、しからば金子をつかわせ」「…どうもありがとうございます。では、こういう具合に、金をすっかり胴巻にしまって腹にぴったりおしつけておきます」「しからば、用意はよいか」「へぇ、まことにおそれいりますが、切り戸を開けたままにして、もういっぺん娑婆のほうを見せていただきたいのでございます」「よし、そうしてつかわすぞ、では、過日もとめた新刀をためしてみるによって、…念仏か題目でもとなえたらよかろう」「いいえ、それにはおよびません。すっぱりおやりになってくんなさいまし」殿様は、白鞘(しろざや)の刀の柄を払って、庭に下りくると、ひしゃくの水を鍔(つば)ぎわから切っ先までかけさせます。

「首屋、覚悟はよいな」…殿様が「えいっ」と斬り下ろしてくる刃を、首屋はひらりとかわし、後ろへ飛びのいて風呂敷包みから張り子の首をほうりだすと、一目散に逃げ出しました。「ややっ、これは張り子の首ではないか、買ったのはそっちの首だ」

「いえ、こちらは看板でございます」


「5月26日にあった主なできごと」

1180年 以仁王・源頼政の死…保元の乱、平治の乱を経て 平清盛 が台頭、平氏政権が形成されたことに対し、後白河天皇の皇子以仁王(もちひとおう)と源頼政が打倒平氏のための挙兵を計画。これが露見して追討を受け、宇治平等院の戦いで敗死しました。しかしこれを契機に諸国の反平氏勢力が兵を挙げ、治承・寿永の乱(じしょう・じゅえいのらん)が6年間にわたって続き、鎌倉幕府誕生の前哨戦となりました。

1467年 応仁の乱…10年以上も続いた日本最大の内乱といわれる 応仁の乱 が、本格的な戦闘に入りました。

1877年 木戸孝允死去…西郷隆盛、大久保利通と並ぶ「維新の三傑」の一人で、明治新政府でも活躍した 木戸孝允 が亡くなりました。

1933年  滝川事件…京都帝国大学の滝川(たきがわ)教授の休職を、国が一方的に下す思想弾圧事件滝川事件がおきました。京大事件とも呼ばれます。

「おもしろ古典落語」の22回目は、『あたま山』 というばかばかしいお笑いの一席をお楽しみください。

しみったれのけちべえさん。サクランボを食べていて、種をすてるのがもったいないので、いっしょに飲みこみました。この種が腹の中の暖かみで芽を出し、これがだんだん育っていきました。そして、ついに頭を突き抜けて、りっぱな木の幹になって枝を広げ、春になると、みごとな桜の花が咲きはじめました。

「どうだい、あたま山へ花見に行かないか」「あたま山?」「ほら、けちべえさんの頭よ。花が見ごろだってよ」てなことで、大勢の人が、あたま山をめざして集まってきます。茶店も出て、飲めや歌えのドンチャンさわぎ。踊りはおどる、けんかははじまるで、けちべえさんはすっかりまいってしまいました。「桜の花なんか頭の上で咲いてるからいけないんだ、いっそのこと、散らしちまえ」と頭をひとふりしたからたまりません。「うわーっ! 地震だ」と、ゴロゴロゴロゴロ、あたま山からころがり落ちます。

「ああ、これで頭がさっぱりした。…しかし何だな、桜は来年も咲くよ。花が咲くたんびに、こんな目にあうんじゃかなわない。そうだ、いっそのこと、桜の木を抜いてしまおう」ってんで、大勢の人に頼みまして、エンヤコラ、エンヤコラかけ声をかけて引っこ抜いてしまいました。ところが、桜の木があんまり根を張っていたので、引っこ抜いたあとに、大きな穴があきました。

ほうっておいたところ、夕立にあって、これにすっかり水がたまりました。ところが、ケチのけちべえさんですから、水を捨てたくありません。そのままにしておいたら、やがて魚がすみつき、フナだのコイだのダボハゼだのドジョウだのエビだの、いろんなのが泳いで、朝から晩まで、子どもが釣りにきて、わめいたり喜んだり泣いたり、もう、うるさいったらありません。暗くなって、子どもが帰ってやれやれと思ったら、夜になって舟をこいでくるのがあります。「兄ぃ、どうだい、ここらでひとつ、入れてみねぇか」「そうだな、やるとするか」と投網を打ちました。「あっ、痛てぇ! だれだ、おれの鼻の穴へ針をひっかけやがったのは…」 一難去ったらまた一難です。

夏ともなれば、この「あたま池」に夕涼みの舟が出ます。芸者を連れて飲めや歌えの大騒ぎ。威勢よく花火まであがって、ヒューっ、ドドーン、バババン・バーン……。いゃー、もう気が狂いそうになったけちべえさん、こんな苦しみをするくらいなら、いっそのこと死んでしまおうと「なむあみだぶつ」エィーっと…、

自分の「あたま池」に、ドボーンと身を投げました。


「5月20日にあった主なできごと」

1498年 バスコ・ダ・ガマ新航路発見…ポルトガル国王にインド航路を開拓するよう求められていたバスコ・ダ・ガマは、アフリカ南端の喜望峰を経て、この日インドのカリカットに到達しました。リスボンを出発からおよそ10か月でした。この航路発見により、ヨーロッパとアジアは船で行き来できるようになり、ポルトガルはアジアへ植民地を広げていきました。

1506年 コロンブス死去…スペインのイザベラ女王の援助を得て、ヨーロッパ人として最初にアメリカ海域へ到達したイタリア出身の探検家・航海者のコロンブスが亡くなりました。

1799年 バルザック誕生…『ゴリオ爺さん』『谷間の百合』『従妹ベット』など、90数編に及ぶぼう大な小説を書き上げ、その小説群を「人間喜劇」と総称したフランスの文豪バルザックが生まれました。

「おもしろ古典落語」の21回目は、『火焔太鼓(かえんだいこ)』というお笑いの一席をお楽しみください。

道具屋の甚兵衛は、おかみさんと甥の定吉の3人暮らし。「ちょいと、おまえさん」「何だよ」「何だよじゃないよ。おまえさんほど、商売のへたな人はないね。よくも道具屋になんてなったね」「どうしてだ」「だってそうじゃないか、うちは売るのが商売だよ。今だってそうだよ、お客さんが『道具屋さん、このたんすはいい箪笥だな』っていったら、おまえさん何ていった?『いい箪笥ですとも、うちの店に6年もあるんですから』って。これじゃ、6年たってもまだ売れ残ってるのを白状するようなもんじゃないか。『この箪笥の引き出し、開けてみてくれないか』っていわれたら、『それがすぐ開くくらいなら、とっくに売れてる』…何ていういいぐさだい。お客さんびっくりしてたよ。『じゃ、開かないのかい?』『開かないことはありませんが、こないだ無理に開けようとして腕をくじいた人があります』これじゃ、買う人なんてないよ」

「正直にいってるんだ」「正直にもほどがあるっていうんだよ。おまえさん、きょうは市にいってきたんだろ?」「ああ、いったよ」「何か買ってきたのかい?」「うん、ちょいともうかりそうなものを買ってきた、この太鼓だ」「およしよ太鼓なんか。そんなきたない太鼓、売れるはずないじゃないか」「おまえは、ものを見る目がないんだよ。きたないんじゃなくて、古いんだ。古いものは、もうかることがあるんだ」「ないね、おまえさんは、古いんでもうけたためしはないよ。このあいだだってそうだろ、清盛のしびんに、岩見重太郎のわらじってのを買ってきた」「よく覚えてるな、あれじゃ損したな」「あきれたよ。で、この太鼓、いくらで買ったんだい」「一分だよ」「おやおや、それじゃ一分まる損だ」「そりゃ、わからねぇよ。……おい、定吉、表でこの太鼓のほこりを払ってこい」

定吉がはたきをかけると、ほこりが出るわ出るわ、出つくしたら太鼓がなくなってしまいそうなほどです。調子に乗った定吉がドンドコドンドコやると、やたらと大きな音がします。そこへ身なりのりっぱな侍が、店へ入ってきました。「今、太鼓を打ったのは、そのほうの店か」「へぇ、さようで。いえ、打ったわけじゃありません。ほこりをはたいたんでございます。あそこにいるばかがやりましたんで。親類から預かっている子でございますが、身体だけは大きくても、まだ11でございまして、どうぞごかんべんを」「いやいや、とがめているのではない。じつは、殿が、おかごでお通りになったところ、太鼓の音が耳に入った。どういう太鼓か見たいとおおせられる。屋敷へもってまいれ、お買い上げになるかもしれんから」

最初はどんなおとがめがあるかと思っていた甚兵衛、買ってもらえるかもしれないとわかって、にわかに得意満面です。ところがおかみさんに「殿様はかごの中で音を聞いただけだよ。こんなすすのかたまりのような汚い太鼓を持ってってごらん。お大名は気が短いから、『かようなむさいものを持って参った道具屋、当分帰すな』てんで、庭の松の木へでもしばられられちゃうよ」とおどかされ、どうせそんな太鼓はほかに売れっこないんだから、元値の一分で押しつけてこいと家を追い出されました。

「今帰ったぞ、ハァハァー」「まぁ、あんな顔して帰ってきやがった。追っかけられてきたんだろ、早く、天井裏へでも隠れておしまい」「ばかやろ、天井裏なんか入れるか」「どうしたの?」「おれぁ、向こうへ行ったんだ」「行ったから、帰って来たんだろ」「…あの太鼓を見せたら、向こうで、いくらだって聞くんだ」「一分でございますっていったんだろ?」「うん、そういおうと思ったんだだけど、舌がつっちゃってしゃべれねぇんだ」「肝心なところで舌がつるんだね、だらしがない」「何いってやんでぇ、それからおれは、向こうが、手いっぱいにいえっていうから、手をいっぱい広げて…十万両」「ばかがこんがらがっちゃったね、この人は」「そうしたら、向こうは高いってんだ」「あたりまえだ」「三百両でどうだっていうんで、三百両……三百両で売ってきた。あの太鼓、おめえ『火焔太鼓』とかいって、たいへんな太鼓だとよ」「ふぅーん」「それでもって、小判で三百両、もらってきたんだ、どうでぇ」「えっ、じゃ、三百両もってんの? あらぁ、ちょいと、あたしゃ、そんな大金見たことないよ」「おれだってねぇやな」「早くお見せよ」「見せるから待てよ、これを見て、ぼんやりして座り小便なんかするな。いいか、ほら五十両…見とけ、小判が50枚重なって五十両、こん畜生…これで百両だ」「あ・ら・まぁ…ちょいと」「どうだ百五十両だ」「ほう・ほほ…とほほ」「おい、柱へつかまんな、ひっくりかえるからつかまれってんだよ」「そうよ、ほれ二百両」「み、水を一杯おくれ」「ほうれみやがれ、おれもそこで水を飲んだ」「まぁ、ほんとにおまえさん、商売上手だね」「何をいってやがんでぇ、どうだ、三百両」「まぁ儲かるね、もうこれからは音の出るのに限るねぇ」「こんどは半鐘にして、ジャンジャンたたくか」

「半鐘? いけないよ。おジャンになるから」


「5月13日にあった主なできごと」

1401年 日明貿易…室町幕府の第3代将軍 足利義満 は、民(中国)に使節を派遣し、民との貿易要請をしました。民は、遣唐使以来長い間国交がとだえていた日本との貿易を認めるかわりに、民の沿岸を荒らしまわっていた倭寇(わこう)と呼ばれる海賊をとりしまることを要求してきました。こうして、日明貿易は1404年から1549年まで十数回行なわれました。貿易の際に、許可証である勘合符を使用するために「勘合貿易」とも呼ばれています。

1717年 マリア・テレジア誕生…ハプスブルク家の女帝として40年間君臨し、現在のオーストリアの基盤を築いた マリア・テレジア が、生まれました。

1894年 松平定信死去…江戸時代中期、田沼意次一族の放漫財政を批判して「寛政の改革」とよばれる幕政改革おこなった 松平定信 が亡くなりました。

1930年 ナンセン死去…ノルウェーの科学者でありながら北極探検で多くの業績を残し、政治家として国際連盟の結成にも力をつくした ナンセン が亡くなりました。

「おもしろ古典落語」の20回目は、『子ほめ』というお笑いの一席をお楽しみください。

日頃は、おせじのひとつもいったことのない職人の熊さん。仕事が早じまいしたので、ご隠居さんのところへやってきました。「こんちは、さっき聞いたんですが、お宅に酒樽が届いたんですってね、一杯飲ませてくれませんか」「ああ、飲ませてあげるよ。ただ、なんだよ、うちじゃいいけど、よそじゃ、おせじの一つもいえなくちゃ、おごってなんかくれないよ」「おせじなんてのは、いったい、どんなことをいえばいいんです?」

「まあ、ちょっと人さまに会ったら、ていねいに言葉をかけるんだな。『こんにちは、いい天気でございます。しばらくお目にかかりませんでしたが、どちらかにお出かけでいらっしゃいましたか?』…で、その方が『商用で海岸の方へ…』とおっしゃったら、『道理で、潮風におふかれになったとみえて、たいそうお顔の色が黒くなりました。まぁ、そういうふうに一生懸命になっておいでになれば、お店のほうも大繁盛、まことにおめでとうございます』…なんてことをいうんだ」「そういえば、きっと飲ませてくれますか?」「それでだめだったら、奥の手を使う。むこうの年齢(とし)を聞くんだ。『失礼ではございますが、あなたのお年はおいくつで?』…その方が45だとおっしゃったら、『45にしちゃ、たいそうお若い、どうみても厄そこそこでございます』という。男の厄年は42だ。一つでも年を若くいわれれば嬉しくなって、一杯おごりたくなるもんだ」

さらに、50歳なら45・6、60歳なら55・6と、4~5歳若くいえばいいといわれれました。それから、たまたま職人仲間の八公に赤ん坊が生まれて祝い金をふんだくられたので、しゃくだから八公のところに飲みにいきたいので、赤ん坊のほめ方をと聞くと、ご隠居さんはそのセリフも教えてくれました。「『これはあなたのお子さまでございますか? 亡くなったおじいさんに似て、ご長命の相でいらっしゃる。栴檀(せんだん)は双葉よりかんばしく、蛇は寸にしてその気をのむ、どうか私もこんなお子さまにあやかりとうございます』とでもいえば、自分の子どもをほめられて悪い気のする親はいない、きっと一杯飲ませてくれるよ」とアドバイスされました。

「そいつはありがてぇ、じゃあ、さようなら」「まぁ、お待ち、うちで一杯つけるから飲んでいきな」「いや、今教えられたこと忘れないうちにやっつけてきます」と、喜んで町に出ると、顔見知りの伊勢屋の番頭に会いました。早速試してやろうと年を聞くと40歳。45より下は聞いていないので、無理やり45といってもらって、「えー、あなたは大変お若く見える」「いくつに見える?」「どう見ても厄そこそこ」「当たり前だ、ほんとうは40だもの、いいかげんにしろっ!」と頭をポカリとやられてしまいました。

「おう、いるか八公」「おや、だれかと思ったら熊さんかい。このあいだはお祝いをありがとう」「うん、今日は赤ん坊をほめにきたんだ」「そりゃ、ありがてぇ、奥に寝てるから、見てやってくれ。たいそう大きな赤ん坊だって、家じゅうで喜んでるところだ」「そうけぇ…うーん、なるほどでけぇや。しかし、ちょっとでかすぎねぇか、ひたいがしわしわで、もう入れ歯まではめてるのか」「そりゃ、家のじいさんだ、頭がいてぇって寝てるんだ」「ああ、そうか道理ででけぇと思った…これが赤ん坊か、おやおや、人形のような赤ん坊だな」「ありがとうよ、来る奴くるやつ、猿のようだとか、ほし柿みたいだなんて、ろくなこといわねぇ、人形みたいだなんていうのはお前だけだ、そんなにかわいいか?」「いえね、おなかを押すときゅっ、きゅって泣くからよ」「おいおい、乱暴するな、おなかを痛めちゃうじゃないか」

「かわいい手をしてるね、もみじみたいな手だ」「いいこといってくれるぜ」「「こんなかわいい手で、よくも祝い金をふんだくりゃがった」「いやなこというな、おれがもらったんだ」「いや、これから、ほめられるだけほめてやるよ」と、ご隠居さんに教わったセリフを思い出しながらいいました。「これはあなたのお子さまでございますか?」「さっきからそういってるじゃねぇか」「亡くなったおじいさんに似て、ご長命の相でいらっしゃる」「じいさんは、そこに寝てるっていっただろ」「せんだんの踏み台は、かんかん…棺桶よりもまだ高けぇ」「なんだいそりゃ」「なんだかわからねぇ…蛇は寸にしてみみずを呑む。どうかこういうお子さんに蚊帳(かや)つりてぇ」「夏じゃねゃから蚊帳なんかつらねぇよ、わけのわかんないことばかりいうねぇ」

「よし、いよいよ奥の手だ。ときに、しばらくおみえになりませんでしたが、どちらの方へお出かけになっていましたかと…えっ、商用で海岸のほうへ…道理で潮風に吹かれたとみえて、お顔の色がてぇそう……赤いね」「赤いから赤ん坊ってぇんだよ」「失礼なことを伺いますが、この赤ちゃんのお年はおいくつで?」「おいしっかりしろよ、きょうはお七夜だよ」「ああ、初七日か」「縁起でもねぇ、初七日ってぇのは死んだ人のことだ、今日はお七夜だから、一つだよ」「一つかい、うーん、一つにしちゃ、てぇそうお若けぇ」「ばかをいうな、一つで若いなら、いったいいくつにみえるんだ?」

「どう見てもタダだ」


「4月15日にあった主なできごと」

905年 古今和歌集完成…古今和歌集(古今集)は、日本で最初の勅撰(天皇の命令で和歌などを編集)和歌集で、醍醐天皇の命によって 紀貫之 ら4名によって編まれ、この日、約1100首、20巻が醍醐天皇に奏上されました。「枕草子」を著した清少納言は、古今集を暗唱することが平安中期の貴族にとって教養とみなされたと記しています。

1452年 レオナルド・ダビンチ誕生…ルネッサンス期に絵画・建築・彫刻そして自然科学にも通じていた万能の天才と讃えられる レオナルド・ダビンチ が生まれました。

1865年 リンカーン死去…「奴隷解放の父」といわれるアメリカ合衆国16代大統領 リンカーン が、南北戦争の終わった5日後の夜、ワシントンの劇場で南部出身の俳優にピストルで撃たれ、翌朝、56歳の生涯を閉じました。

「おもしろ古典落語」の19回目は、『そば清(せい)』というお笑いの一席をお楽しみください。

世間にはよく「そば好き」という人がいます。ちょっとそばを食べても、5、6枚は食べないと食べたような気がしないなんていう、大変なそば好きもいます。

江戸に、清兵衛さんという旅商人(あきんど)がいました。小間物なんぞを持って旅に出て売るのが仕事ですが、この人は「そば清」といわれるほどそばが好き。10枚でも、20枚でも食べられるものですから、食べ比べのかけに誘われても負けたことがありません。ところが、だんだん名前が知られてくると、ちょっとやそっとの枚数では、かけに乗ってくれる人がいなくなりました。

ある時、清兵衛さんは、越後(今の新潟)から信州(今の長野)の方へ商売にでかけました。その途中どう間違えたのか、道に迷ってしまいました。「こりゃ、弱ったな、どっちを向いても山ばかり、里に出るにはどっちへ行ったらいいのだろう。誰か聞ける人がいないかな」と、向こうを見ますと、ひとりの狩人が、鉄砲で何かをねらっています。いったい何を撃つんだろうと、鉄砲の先を見ると、木の上に大きなウワバミ(巨大なへび)がトグロを巻いていて、こちらも狩人をねらっているようです。ドーンと鉄砲の音がしたと思ったら、姿が消えたのは狩人のほうで、ウワバミが狩人を飲みこんだのでした。

人間一人を飲みこんだのですから、さすがのウワバミも大きくお腹がふくれあがって、苦しそうです。しばらくのたうちまわっていましたが、そのうち、かたわらに生えていた黄色い草を、長い真っ赤な舌でペロペロなめだしました。すると驚いたことに、はちきれそうだったお腹がたちまち小さくなって、元のようになりました。ウワバミもいい気持ちになったとみえて、隠れて震えていた清兵衛さんに気づかずに、熊笹をガサガサやりながら、岩かげに消えてしまいました。

「何だろう、ウワバミがペロペロなめていた草は? ははーん、あれは食べものがこなれる草だ…こいつはいいものを見つけたぞ。あいつをむしって持って行って、江戸でそば食いのかけをして、うんと儲けてやろう」こう思った清兵衛さんは、草をむしり取ると、何とか道を見つけて江戸へ戻ると、そば屋へかけこみました。

「どうです? 私がそば70枚食べられるかどうか、かけをする人はいませんか?」これを聞いて、お客さんがたくさん集まってきました。いくら清兵衛さんでも、70枚は食べられないだろうと、どんどんかけに応じる人が出てきて、ついにかけ金は10両にもなりました。

「それじゃやってみますが、まず半分くらい食べたところで、たばこを2、3服吸うあいだ、ちょっと待ってもらいたいんですが、よろしいかな」「もちろん構いませんよ。お中入りがなくちゃ、疲れちゃいますもんね。それじゃ、70枚のそばを注文してきますよ」ということで、そば70枚が積み上げられました。

「へぇ、ごちそうさま…それじゃ、いただきます」と食べ始めた清兵衛さん、その早いことといったらありません。食べるというより、そばが口の中に吸いこまれていくようです。「どうだい、もう10枚食ったよ、あざやかだね、15枚…20枚、えらいもんだね。ほら、25枚、早ぇーなぁ、やぁ、30枚だぜ。えっ、もう半分の35枚食った? ちょっと、食いっぷりが落ちてきたようだな。肩で息して、苦しそうだ。ねぇ、清兵衛さん、もうお止しよ、とてもだめでしょ、身体に毒だからさぁ」「とんでもありません。これでよしたら、大損だ、10両の金をもらえない上に、そば代も払わなくちゃいけないんだ、わたしはやりますよ。おそれいりますが、さっきおことわりした通り、ここで一服させてください」「ああ、中入りですな、どうぞ、どうぞ」「すいません、そっちの部屋へ連れてって、障子を閉めてくれませんか。ビッタリと、中をのぞかないでくださいね」

それからしばらく、ピシャピシャなめるような音がきこえましたが、やがてそれもきこえなくなりました。いくら待っても障子が開かないので、心配になった連中がさわぎだしました。「おかしいなぁ…清兵衛さーん! みんな待ってますよう」「おい、返事がないよ、とても食えないってんで、逃げちまったかな?」ガラッと、障子を開けてみると、清兵衛さんがいません。よくよく見ると、

そばが羽織を着て座っていました。清兵衛さんがなめた草は、人間を溶かす薬だったようで……。


「4月11日にあった主なできごと」

1868年 江戸城開城…徳川15代将軍だった徳川慶喜が水戸へ退去し、江戸城が明治新政府の手にわたりました。前月行われた、旧幕府代表の勝海舟と、新政府代表西郷隆盛の会談により、江戸城の無血開城が実現したものです。

1921年 メートル法の公布…欧米との交流がさかんになり、わが国でこれまで使われてきた尺貫法では不便なことが多く、メートル法の採用を決めました。しかし、なじんできた尺貫法も、業種によっては今も使用されています。

1951年 マッカーサー解任…太平洋戦争で降伏した日本は、連合国軍総司令部(GHQ)に占領され、アメリカのマッカーサー元帥が5年半近く総司令官として君臨してきましたが、「老兵は死なず消え去るのみ」という名文句を残して解任されました。

↑このページのトップヘ