児童英語・図書出版社 創業者のこだわりブログ

30歳で独立、31歳で出版社(いずみ書房)を創業。 取次店⇒書店という既成の流通に頼ることなく独自の販売手法を確立。 ユニークな編集ノウハウと教育理念を、そして今を綴る。

私の好きな名画・気になる名画

私の好きな名画・気になる名画 6

「絵画の黄金時代」といわれる17世紀オランダで、その頂点をきわめたレンブラントの「夜警」は、集団肖像画の革命ともいうべき 363×438cm の記念碑的な大作です。集団肖像画というのは、16世紀からオランダを中心に盛んになったジャンルで、市民隊や同業者組合の幹部らが、自分たちの肖像画を当時の有名画家に描いてもらい、公的な場所に飾りました。たいていの場合、モデルは10人から20人、画家はその全員を満足させなくてはならず、そのため団体さんの記念写真のように描くのが常でした。そうした傾向に対し、レンブラントは「ただ立っているだけではつまらない。肖像画といえどもひとつの芸術だ。見る人により感銘を与えるために、明暗の効果を生かし、ドラマテックな描写を心がけよう」と、敢然と従来の描き方に挑戦をしました。

こうして、完成させたのがこの作品です。まさに舞台の一場面のように、自警団(火縄銃組合)が出動するさまを、銃に弾をこめる者、威勢よく旗を掲げる者、副官に指示をだす隊長の表情などを、生き生きと臨場感あふれる手法を駆使して描いてみせました。しかし、注文主18名(画面上の額に名前が記されています)の中には、顔が後ろ向き、半分しかない、他の人の手にさえぎられているといった苦情がよせられました。そして、男だけの集団になぜニワトリをぶら下げた少女がいるのだ、注文主以外の男がいるのはなぜだ、手前に犬がいるのは何事か等など、1642年の完成時はあまり評判のよいものではなかったようです。たしかに、この少女は誰もが不思議に思う存在で、以来、その解釈をめぐって論戦が繰り広げられています。亡くなったばかりの妻サスキアの面影を描きいれたという説、隊を守る女神的な存在という説、当時は結束を深める「宴会」が組合の人々に重要視されていたため、少女の腰にあるニワトリ(食べ物)と水牛の角(杯)で宴会を象徴しているという説、単に画面の色彩バランスを保つにすぎないという説、注文主である火縄銃組合の擬人像説など実にさまざまです。

そういう論争が起きるのも、それだけ、この絵を高く評価する人がたくさんいるという証拠だともいえましょう。ある高名な専門家は、この絵を世界3大名画のひとつに上げています。

なおこの絵の題名になっている「夜警」は、後世の人の命名で、正式なタイトルは「隊長フランス・バニング・コックと副官ウィレム・ファンライテンブルフの市民隊」というものです。実際は昼間の情景なのに、ワニス(樹脂などを溶かした透明塗料)のぬり重ねのために画面が暗くなってしまったために、誤った名称がつけられてしまいました。1975~76年に修復が行なわれ、見違えるほど明るいものになったということです。

私の好きな名画・気になる名画 5

もうもうとたちこめる煙を背に、上半身をさらけ出し「自由・平等・博愛」を意味する青・白・赤の三色旗を掲げ、武器をもつ人々を先導する自由の女神。この躍動感あふれる「民衆を導く自由の女神」は、ロマン主義派の代表的画家ドラクロワの代表作で、260×325cm のとても大きな絵です。そして、「フランス革命」を象徴する絵画として教科書にも登場するため、良く知られています。でもこの革命は、バスチューユの監獄に民衆がおしよせた1789年の「フランス革命」ではなく、1830年の「七月革命」を描いた作品です。

フランスは、共和制を確立するにいたるまでに90年近い年月がかかりました。ルイ14世のブルボン王朝を倒した1789年のフランス革命後、第一共和制も長く続かず、ナポレオンが皇帝となって第一帝政が始まり、ナポレオン失脚の後にブルボン王朝が復活しました。ルイ18世に続いて即位したシャルル10世は、報道の自由を制限するなど悪政の限りをつくし、これに反発した市民は怒りを爆発させ、武器を手に蜂起したのが「七月革命」でした。

どちらかというと行動派ではないドラクロワは、この「七月革命」には参加しませんでした。しかし、祖国のために銃を持って戦わなかったかわりに、絵を描くことを決意して、民衆蜂起のありさまを描いたのがこの作品です。フランス国旗の左下、山高帽をかぶって銃を掲げているのがドラクロワ本人だといわれ、ベレー帽の男、幅広ズボン、つなぎの服の人などさまざまな衣服を描くことにより、この革命があらゆる階級や職業の人に支持され、参加していることを表現しました。そして、その中心に「自由の女神」という想像上の神様をすえることによって、聖戦を意味づけたものと思われます。

ドラクロワは、何千点というほどの作品や、デッサンを主とした画帳を60冊も残しています。そして、若い画家に「5階の窓から飛び降りる人を、地面につくまでにスケッチしてしまうくらいの腕がなくては、立派な絵は描けない」というほど、素晴らしい速さで見事な作品を仕上げたようで、この作品の下書きもたくさん残されています。それを見ると、当初「自由の女神」は、正面を向いたり空を見上げたり、さまざまな方向を見ています。最終的に、振り返るように左に顔を向けることにより、絵に大きな広がりを生みだし、男たちを鼓舞する構図となって、完成度の高い名作となったに違いありません。

この絵は、七月革命後にルイ・フィリップを王とする新政府に買い上げられましたが、やがてルイ・フィリップも民衆を弾圧するようになり、絵はリュクサンブール美術館に数か月展示された後倉庫にしまわれ、ドロクロワの手にもどり、第二共和制がはじまった1848年にふたたび展示され、またもどり、政権交代のたびに居場所を変え、ようやくルーブル美術館に常設展示されるようになったのは、1870年「二月革命」により第三共和制がスタートして4年後のことでした。まさに、昆虫が何度も脱皮をくりかえして一人前になるような、フランスの激動する時代を象徴しているようでもあります。

なお最近の調べでは、ドラクロワの父は、ナポレオン執政時代の大使シャルル・ドラクロワですが、実の父親は有名な外交官タレーランであることが明らかになりつつあります。

私の好きな名画・気になる名画 4

名画を語る場合、レオナルド・ダ・ビンチの「モナリザ」を、欠かすことができません。世界一有名な絵といってもさしつかえないほどです。でも、この絵が描かれた年、場所、モデルの名前さえ、正確にわかっておりません。タイトルの「モナリザ」というのも、本人がつけたものでなく、後に、16世紀の伝記作家バザーリという人が著書の中で、モデルはフィレンツェの名士フランチェスコ・デル・ジョコンドの妻リザで、女性に対する尊称「モナ」を付けて命名したということです。そのため、モデル説は実にさまざまです。

monariza.bmp

一例をあげますと、画家晩年の肖像画とモナリザの目・鼻・肩の位置がほぼ同じ比例で描かれているため、本人をモデルに理想の美女をえがいたという説。レオナルドの描いた肖像画デッサンで、横顔がとてもよく似ているマントバ公妃イザベラ・ディスケ説。パトロンだったジュリアーノ・デ・メディチの愛人説、レオナルドの生後すぐに別れた実母説などで、ごく最近でも美術評論家の高草茂氏は「モナリザは聖母マリア」(ランダムハウス講談社刊・6月15日ブログ参照)を著わし、聖母マリア説をとなえています。

いずれにしても「モナリザ」が、神秘的で気品にみちた表情、微笑んでいるようにも、悲しんでいるようにもみえる不思議な魅力に、500年たった今も、たくさんの人々のこころをとらえるためなのでしょう。向かって左側の顔の表情と右側の表情を微妙に描き分ける手法、絵の具を何度も塗り重ねて、人物の輪郭線をぼかす「スフマート」といわれる技法、遠くの風景は手前より、光の屈折によりだんだん青みがかり、うすくなるという「空気遠近法」を駆使するなど、科学者としての研究成果と画家のテクニックを、この絵の制作にすべて出しつくしたものと思われます。

この絵は、パリのルーブル美術館にあります。イタリア・ルネッサンスの代表的な画家でありながら、晩年のレオナルドはイタリアではあまり大事にされず、フランスのフランソア一世に温かく迎えられ、アンボワーズに近いクルー城で、1519年永眠しました。67年の生涯でした。最後まで自分の手元においた3点の絵画のうちの1点が「モナリザ」でした。レオナルドにとっても、もっとも手放しがたい作品だったからに違いありません。

私はこの絵に、1991年、1999年、2006年と3度対面しています。しかし、いつもたくさんの人に取り囲まれ、77cm×53cmの小さな絵なのに、防弾ガラスにおおわれ、人の肩越しで見る絵は、正直いって興ざめなところがありました。作者や美術館に失礼かもしれませんが、よく出来た複製画や、印刷の美しい画集でじっくり鑑賞したほうがよさそうです。

私の好きな名画・気になる名画 3

この絵はローマの 「バチカン美術館」 にあります。600年以上の歳月をかけ、質、量ともに世界最大の美術品に埋めつくされ、24の美術館とミケランジェロの天井画で名高いシスチナの礼拝堂からなる美術館の総称が 「バチカン美術館」 です。部屋の数1400、美術館というより 「バチカン宮殿」 といったほうがふさわしいかもしれません。「アテネの学堂」 は、この宮殿の3つの大きな部屋のひとつ 「署名の間」 という、法王が公式の署名や捺印する重要な部屋の壁面に、横幅だけで7m70cmの堂々たるフレスコ画で描かれています。

Raffael_058.jpg

壮大なホールに一堂に会した、古代ギリシアの哲学者や科学者たちおよそ50人。中央にいるのは、はげ頭白ひげのプラトンと、黒髪黒ひげのアリストテレスです。そのむかって左側に数人の相手に講義している黄緑色の服で横向きの老人がソクラテス。左下手前にしゃがんで何か書き物をしているのがピタゴラス、その右の石机に頬杖をついているのがヘラクレイトス、右前方でコンパスを片手にかがんでいるのがユークリッドです。画面の右隅に顔を見せている二人のうち奥がラファエロ自身の自画像で、プラトンのモデルはレオナルド・ダ・ビンチ、ヘラクレイトスのモデルはミケランジェロだといわれています。これらの人々は年代も違いアテネの人だけではありませんが、まとめて描いたのは、当時の古典尊重の風潮にそったものだったのでしょう。

ラファエロというと、聖母マリアの画家として、どちらかといえば女性的なイメージを持たれがちですが、「アテネの学堂」 と同規模の壁画を数点描いており、それが弱冠27、28歳ころの作品だと聞くと、その底知れぬ力量に感服してしまいます。

先に記しましたように、私は 「バチカン美術館」 を3度訪れています。でも、1987年、1998年の時は、この絵に出会えませんでした。ツァーの1時間30分程度の見学時間ですと、あまりにも見るものが多いために、この絵にまで到達できないのが実情だからです。そこで、妻と訪れた2001年の時は、ナポリとポンペイ行をキャンセルし、バチカン美術館の見学に1日さきました。今日は、妻の命日です。早くも丸3年がすぎました。
「お母さん、バチカンはよかったよね」 「ほんとにあの日は思い出深いわ。『アテネの学堂』 もよかったけど、宮殿の一番奥の絵画館で、ラファエロの 『キリストの変容』と いうキリストが空を飛んでいる大きな絵を、誰もいない部屋でソファに座ってゆっくり鑑賞できたのも素晴らしかった……」 という声が聞こえてくるようです。

私の好きな名画・気になる名画 2

ボッティチェリ「プリマベーラ」(春)は、イタリア・フィレンツェの「ウフィツ美術館」にあり、2.03m×3.14m の大きな絵です。フィレンツェは、ルネッサンスが花開いた都市としても有名で、14世紀末から16世紀始めころまで、都市国家フィレンツェの君主として「メディチ家」は隆盛を誇っていました。
この絵の注文主はメディチ家のロレンツォ・イル・マニーフィコ、通称「豪華王」で、この人の時代がメディチ家の黄金時代といわれています。1482年に、豪華王のまたいとこに当たるロレンツィーノの結婚記念に、当時37歳のボッティチェリに依頼したものです。ボッティチェリは精魂こめて制作に取り組み、まさに結婚をたたえる絵による「愛の讃歌」として仕上げました。そのため、季節の春、愛や結婚にまつわるあらゆる要素をとりこんだ [愛の劇場] といった趣です。じつに躍動的で明るく、しかも幻想的で気品に満ちあふれた絵だといってよいでしょう。

中央の舞台にいるのはビーナス。古代ギリシア・ローマ神話の代表的な女性で、愛と美を象徴する女神です。そしてビーナスの右側の3人のグループと、左側の3人の美女のグループに大きく分かれます。

右の3人のグループは、実は2人で、春の風である西風の神ゼフュロスが、大地を表すニンフのクロリスをつかまえようとしています。そして二人は結びつき、クロリスが花の女神フローラに変身する瞬間を描いたところです。クロリスの口からこぼれた花が、フローラの花の模様になっていることでもわかります。「春」の到来は、人生における春「結婚」を意味しているのに違いありません。

左側の手をつなぎあうのは三美神。左から、大きなブローチをして髪や衣装が乱れている「愛欲」、背中を見せ質素な衣装で端正な顔立ちの「純潔」、小さなブローチをつけた「美」はビーナスのに近くにいて、「愛欲」と「純潔」の手をとって統合するようなしぐさをしています。まさに、結婚を暗示しているといってよいでしょう。

左端の男性は、神々の使者であるマーキュリー。翼のついたサンダルをはき、右手に2匹のヘビのからみついた杖を持っています。2匹の争うヘビをこの杖で引き離したということで平和を象徴し、ビーナスの庭に侵入する雲を払っていると解釈する説が有力です。

ビーナスの上で目隠しをして[愛の矢]を射ようとしているキューピッドは、三美神のうち、まだ愛を知らない「純潔」の心臓をねらうことで、これも「結婚」を暗示しています。

私はこの絵に2度対面しています。1998年と2001年のイタリア周遊旅行でフィレンツェを訪れた時でしたが、2001年の時は妻と同行しました。妻は「美術館としては、パリのオルセー美術館が一番好きだけど、好きな絵を1枚あげろといわれれば、この [春] だわ」とよく口にしていました。
妻は亡くなる前に小金井市にある「桜町病院」のホスピスに90日間お世話になりましたが、2004年6月、はじめてホスピス棟を訪れたとき、ホスピスの玄関上の壁面に、この「春」の原寸大の複製画が飾ってあるのに気がつきました。検査入院ですぐ家に帰るつもりだったのが、ホスピタリティあふれる医師や看護師の人たち、リゾートホテルとみまがうばかりの環境に大感激し、ここを訪れるまでは自宅で逝きたいといっていた前言を取り消したのには、この絵の存在もあったのかもしれません。

↑このページのトップヘ