児童英語・図書出版社 創業者のこだわりブログ

30歳で独立、31歳で出版社(いずみ書房)を創業。 取次店⇒書店という既成の流通に頼ることなく独自の販売手法を確立。 ユニークな編集ノウハウと教育理念を、そして今を綴る。

私の好きな名画・気になる名画

私の好きな名画・気になる名画 15
  
%83~%83P%83%89%83%93%83W%83F%83%8D%20%81u%8D%C5%8C%E3%82%CC%90R%94%BB%81v.jpg イタリアの首都ローマの一角にある、カトリックの総本山バチカン市国。世界最大の教会サン・ピエトロ寺院のまわりには、たくさんの宮殿や礼拝堂があり、その最大のものがシスティナの礼拝堂です。幅13.3m、奥行40.5mで、1481年に完成しました。そして、当時の一流の芸術家が装飾を担当しましたが、この天井画を描いたのが、ミケランジェロです。13×36mという史上最大のこの絵は、1508年~1512年、ミケランジェロが33歳の時、およそ5年間かけ、旧約聖書の「創世記」にある「天地創造」から、アダムとイブが「楽園追放」されるまでの物語を描いたものでした。苦心惨たんしながらほとんど独力で完成させたこの壮大な天井画については、後日、改めて記述したいと思っています。

最後の審判」は、天井画を描いてから20年以上もたった1536年、時のローマ法王クレメンス7世から、同じ礼拝堂の正面の壁に絵を描くように依頼され、構想から6年以上の歳月をかけ、1541年、ミケランジェロ66歳の時に完成させた幅13.3m、高さ14.5mの大作です。

「最後の審判」というのは、この世の終わりにキリストが善悪の裁きをして、善人は天国へ、悪人は地獄へ落とすという信仰に基づくもので、過去にたくさんの芸術家が、これをテーマに絵や彫刻に作り上げてきました。ミケランジェロは、そんな先輩たちの作品を参考にしながらも、空間においても、雄大さにおいても、独自の構想や構図を作り上げ、登場人物400名以上という圧倒的な迫力で豪快に完成させました。

中央上方に、右手を高く上げる身ぶりで、罪人を地獄にふり落とすキリストを中心に、そのかたわらで、天上に昇る善人を見守る聖母マリア。二人のすぐ両側には、ヨハネ、聖ペトロ、聖バルトロマイら預言者や使徒たちを配し、キリストが顔をむけている向かって右側は、罰せられて地獄に落ちていく人々、左側は救われて天上に引き上げられていく人々なのがわかります。

ミケランジェロは、キリストをはじめ主要人物を全裸で描きました。ところが、教会の祭壇に全裸では困るという声があがり、後の法王パオロ4世は、ダニエレという画家に命じて、腰布など44か所を描かせました。そのためダニエレには、「ブラゲットーネ」(「ズホン絵かき)というあだ名がつけられそうです。

なお、今日3月6日は、ミケランジェロが1475年に誕生した日です。その生涯につきましては、いずみ書房のホームページにあるオンラインブック「せかい伝記図書館」をご覧ください。

私の好きな名画・気になる名画 14  

%83S%81%5B%83K%83%93%82%CC%20%81u%83C%83A%81E%83I%83%89%83i%81E%83%7D%83%8A%83A%81v.jpg

ゴッホやセザンヌと並び、後期印象派の代表的な画家として評価の高いフランスの画家ゴーガンは、はじめは「日曜画家」でした。24、5歳から34、5歳の頃までは、パリで株式の仲買人として働き、おもに休日に好きな絵をかいていたのです。でもその頃から、サロンや印象派の展覧会にも入選し、一部の画家たちから認められてはいました。

そして、1882年35歳の時、突然会社をやめて画家になる決意をします。そのころ、子どもが5人もいたため生活が急に苦しくなりました。ゴーガンが画家になるのを激しく反対したデンマーク人の奥さんは、子どもを連れて故郷に帰ってしまいました。

その後数年間、ゴーガンは北西部のブルターニュでひどい暮らしをしながら黙々と絵を描き、やがてルーアンやポンタベンなどフランス各地を歩いたり、中南米へでかけたり絵の修行をつづけました。一時は印象派的な絵に刺激を受けましたが、これにあきたらず平面的な彩色で装飾的な絵に変わってきました。1888年には、ゴッホの弟テオの援助で、南フランスのアルルでゴッホと共同生活をしましたが、お互いの頑固な性格がわざわいして、わずか2か月で終局をむかえてしまいました。

ゴッホと別れてブルターニュにもどったころから、ゴーガンは都会の文化的な世界や社交をきらい、素朴な未開人の生活にあこがれるようになりました。もともとゴーガンの母方の祖母は南米のペルー人で、ゴーガンも6歳までペルーで心優しい親戚の乳母たちと暮らしていたために、原始的な生活をなつかしむようになっていたのでしょう。1891年、絵の競売で得たわずかのお金をふところに、南太平洋に浮かぶタヒチ島に渡りました。そして、現地に住む人々をモデルに、たくさんの絵を描きました。ここでの生活のありさまは「ノア・ノア」(かぐわしき香り)という本や多くの手紙に残されています。

この「イア・オラナ・マリア」(タヒチ語で「アベ・マリア」の意味)も、タヒチでの暮らしをはじめて数か月後に描いた作品です。さまざまな色彩に満ちあふれた、なんと華やかな絵なのでしょう。ゴーガンは、この絵について、友人にこんな手紙を送っています。「黄色い翼をしたひとりの天使(画面左奥の翼のある人)が、二人のタヒチ人の女に、やはりタヒチ人のマリアとイエスを指し示しているところを描いたものだ。やはり、マリアもイエスもタヒチ人。彼らはみな裸の上にパレオをまとっている。パレオというのは、花もようのついた布のことで、それを腰のところに巻きつける。背景はきわめて暗い山と花咲く木々、濃い紫の道と、前景はエメラルドグリーンで、左手前にバナナがある。私は、この作品を割りと気にいっている」と書いているので、ゴーガンにとっても会心の作品だったのでしょう。

ゴーガンははっきり意識して、タヒチ人のマリアとキリストを描きました。文明に毒されない未開の島の人々をかきこむことにより、残してきた妻子や友人たちの暮らすヨーロッパ世界との別離を意味しているのかもしれません。さらに、マリアとキリストに手を合わせて礼拝している二人の女性は、仏教のお祈りの姿(ジャワ島のボロブドール寺院にある、仏陀にあいさつをする僧の彫刻をモデルにしています)で、「総合主義の美学」といわれるゴーガンの真骨頂を示している絵でもあるようです。

しかし、ゴーガンにとってタヒチでの暮らしは必ずしも快適なものではありませんでした。すでにフランスの植民地として文明化されつつあり、より原始的な生活を求めてもっと奥地の小屋に住んで、原住民と全く同じような暮らしをしながら、土地の風景や人々の絵を描き続けました。そのうちお金がなくなり、伯父の遺産を受け取るために1893年にパリへもどり、タヒチ展を開いたりしましたが、絵はほとんど売れませんでした。失意のうちに2年後、またタヒチに戻って、また原始的な暮らしを続けました。

しかし、タヒチでの生活にもあきたゴーガンは、1901年、さらに未開の離れ小島に移り住みましたが、孤独と生活の苦労と病気に悩みながら、1903年ひとりぽっちで息を引き取りました。

一部の人たちに評価をされてはいたものの、ゴーガンの未開人の姿や生活とともに描かれたたくさんの絵が、洗練された文明人であるパリの多くの人たちを驚かせ、感銘を与えるようになるのは、死後何年もたってからのことでした。

私の好きな名画・気になる名画 13

%83%8B%83m%83A%81%5B%83%8B%20%81u%8D%BF%82%E9%83W%83%87%83%8B%83W%83F%83b%83g%81E%83V%83%83%83%8B%83p%83%93%83e%83B%83G%8F%EC%81v.jpg

先週の「セザンヌ自画像」に続き、ブリヂストン美術館所蔵作品、印象派の巨匠ルノアールの「坐るジョルジェット・シャンパンティエ嬢」をとりあげてみましょう。

ルノアールは、19世紀の後半にフランスで花開いた「印象派」の画家の一人で、やはり光と色彩の画家でした。でも、モネやピサロ、シスレーといった人たちが、主に風景を描いていたのに対し、ルノアールは人物を中心に描きました。子どもも大人も光に包まれているかのようで、とくに女性の美しさは格別なものがあります。そして、見る人たちを楽しい気分にさせるせいでしょう。日本人ばかりでなく、世界の人たちを魅了しつづけています。

ルノアールは、1841年に中部フランスの陶器の町リモージュに、仕立職人の家で7人兄弟の6番目に生まれました。3、4歳の頃一家はパリに移りましたが、貧しかったために13歳のときから陶器工場で皿に絵をかいて働くようになりました。ところが、機械による大量生産商品の増大にともない、仕事がなくなってしまいました。そのため、扇子に絵をかく仕事にかわり、家の暮らしを助けながら、少しずつ絵の勉強をつづけました。

1862年、21歳の時に官立美術学校へ通う一方、グレールという画家のアトリエに顔をだしました。そこでモネやシスレーと知り合うことにより、「目に見えた物を、ただ正確に美しく描くのではなく、見た瞬間に感じたことや印象に残ったことを絵にしていく」といった印象派の考え方に共鳴して、絵を描きつづけました。1864年には、当時の画家の登竜門ともいうべきサロンに入選、その後もときどき入選しましたが、明るい色の多い絵を描くようになると、サロンに落選するほうが多くなったため、印象派の人たちの催す展覧会に出品するようになりました。その頃になっても、ルノアールはいつも貧乏で、肖像画でやっと生活をささえるほどでした。でも、絵の上では、そんな生活の苦しみからくる影は少しもなく、師であるグレールが「君はまるで楽しむために絵を描いているようだ」と咎めたのに対し「楽しくなければ絵など描きません」と答えたという逸話が残されています。

そんなルノアールが、高い評価を受けるようになったのは、出版業を営むシャルパンティエ夫妻がルノアールの絵を気に入り、1875年に3点の作品を買い上げてくれたこと、シャルパンティエ夫人の文芸サロンに、出入りを許されたことがきっかけだったといわれています。富豪家系の出である夫人が、各界の名士たちを招くこの文芸サロンは、当時のパリでもっとも華やかなもののひとつで、ルノアールはここで有名な画家や俳優、文士たちと親しく交わることができるようになったのです。

その夫妻の長女ジョルジェットを描いたこの絵は、ルノアールの思い入れのこもった作品といえるでしょう。バラ色に輝く顔の表情、とくにつぶらな瞳がこちらをじっと見つめる、なんとも愛らしい少女。足を組んだおしゃまなポーズも絵にインパクトを与え、従来の肖像画の描き方へ挑戦しているかのようです。少女の姿ばかりでなく、日本風の居間に敷かれた豊かなじゅうたんの模様、いすの豪華な飾りなどが織りなす色彩の調和も見事です。

ところで、皿や扇子に絵をかいていたころから、絵は自分の感ずるままに楽しんでかくのだと信じてきたルノアールは、40歳をすぎると印象派の人びととはなれ、自分だけの絵をかきつづけるようになります。とくにおおく描いたのは、あどけない少女や、自然のままの女性のすがたでした。なかでも、女性の裸体画は、豊かな色で、やわらかく、あたたかく描くことをどこまでも追究して、たくさんの名画を残しました。59歳のときには、すばらしい芸術がみとめられて、フランス最高のレジオン・ドヌール勲章がおくられました。ところが、このころから、関節がいたみ始め、リューマチに苦しめられるようになりました。

しかし、ルノアールは、絵をかくことをやめません。車いすを使い、開かない手に絵筆をしばりつけて制作にはげみ、78歳で世を去るまで、絵を描き、楽しむことを忘れませんでした。そして生涯に、3000点以上の絵を描いたということです。

私の好きな名画・気になる名画 12

%83Z%83U%83%93%83k%82%CC%8E%A9%89%E6%91%9C.jpg

先週(1月24日号)のブログに [ブリヂストン美術館] のことを記しましたが、この美術館の収集作品のいくつかをを描いたセザンヌは 「20世紀の美術はすべてセザンヌから出発している」 といわれるほど、後世に大きな影響を遺した画家です。でも、生きている間はほとんど認められず、注目もされなかったのはゴッホに似ているといってよいかもしれません。

19世紀の終わり頃のフランスに、モネやマネらのように、風景でも人物でも、画家の心にどう感じたかを表現する、印象主義とよばれる美術運動が盛んになりました。1839年に南フランスの小さな町エクサン・プロバンス(エクス)で生まれたポール・セザンヌは、この印象派の技術を身につけ、さらに発展させたゴッホやゴーガンとともに、後期印象派の天才といわれています。しかし、セザンヌに天才ということばが与えられたのは、ようやく晩年になってからのことです。67歳のとき、絵をかきながらたおれてしまうまでの生涯は、決して楽しいものではありませんでした。

父は銀行を経営するほどの金持ちでした。めぐまれた家に生まれたセザンヌは、小学生のころから絵がすきでした。また中学校では、のちに大文学者となったエミール・ゾラとしたしくなり、文学にも夢中になりました。しかし、セザンヌは、父の希望で法律の大学にすすまなくてはなりませんでした。でも、画家になりたい気持ちがしだいに強くなり、ゾラにはげまされて、ついにパリにとびだしました。22歳のときです。

ところが、内気なセザンヌは、パリの芸術家たちとはしたしくなれず、ルーブル美術館に通って、絵を見学する毎日でした。そして2年ごに美術学校の入学試験をうけましたが、合格できませんでした。セザンヌは、パリの町に小さなアトリエを見つけて、ひとりで絵をかきはじめます。その絵は、絵の具を厚くぬった、だいたんで、はげしいものでした。それから何年ものあいだ、いくども展覧会に出品しましたが、落選するばかりです。ものの構造をしっかりと見て、自分の感じたままに表現するというセザンヌの絵は、だれからも理解されなかったためです。

50歳をすぎたころから、故郷のエクスにひきこもったセザンヌは、一日じゅう絵のことだけを考えて暮らしました。そして有名な 「自然はすべて、球形、円すい形、円筒形としてとりあつかわなければならない」 という結論にたっしました。

ブリヂストン美術館所蔵の 「自画像」 を描いたのもこの頃のことです。外套を着て中折帽をかぶったセザンヌが、身体を横に向けて、顔だけをこちらに向けています。きまじめな頑固おやじといった印象ですが、ものをしっかり見つめようという鋭いまなざしは、緊迫感がただよっています。若い頃の絵の具を厚くぬることから脱皮して、晩年になるほど絵の具をうすくとき、ていねいに描くようになっていて、この絵でも背中や右腕のあたりに白くみえるのは、カンバスの地がそのままになっています。そして、この肖像画は、ルネッサンス以来、さまざまな画家たちの描く目や鼻、顔の輪郭などはっきりした肖像画との違いを、明確にあらわしているといってよいでしょう。

セザンヌはこの絵をはじめ、たくさんの自画像を描いています。何しろ田舎のことで、モデルになってくれる人があまりいなかったのと、たまたまなってくれる人がいても、ちょっとでも動くとすぐに腹をたてたため、長続きしませんでした。セザンヌに 「気難しい孤高の人」 という形容詞がつくのは、傷つきやすく臆病な反面、ぶしつけで攻撃的になるなど、多くの人たちにとってつきあいやすい人ではなかったのでしょう。しかし、セザンヌが生涯をかけてめざした頂は、とてつもなく高いもので、やがてゴーガン、マチス、ピカソらにたくさんの刺激と感動を与えていったのです。

私の好きな名画・気になる名画 11

17世紀の画家フェルメールが有名になったのは、わずか160年ほど前からのことです。1842年にフランスのある美術評論家が、フェルメールの描いた「デルフト眺望」に出会い、とても感激し吹聴したことで、200年間も埋もれていたフェルメールの芸術がヨーロッパに注目され、熱心に研究されるきっかけになりました。これほどすぐれた画家が200年ものあいだ、人々から忘れ去られていたということは、それだけフェルメールの絵が、時代を先取りした新しさに満ちていたということなのでしょう。

フェルメールはオランダの、陶器で有名なデルフトで1632年に生まれ、1675年に同地で亡くなっています。43年の生涯に、現在知られている作品は30数点しかありません。特筆すべきは、そのほとんどが室内画であるということです。「デルフトの眺望」ともう1点の風景画、3点ほどの肖像画、2、3点の歴史画があるだけです。その室内画も、気持ちよくさっぱりと整とんされた室内に、一人あるいは二人の人物が軽い行動や仕事、たとえば手紙を読むとか、刺繍をする、音楽を奏するといった何気ない日常の動作をしている場面が描かれています。現在、六本木の国立新美術館で開催されている「牛乳を注ぐ女」もそのひとつで、静かな、落ち着いた日常がさりげなく描かれ、色調もしっとりとやわらかさのある作品に、多くの日本人が共感するのでしょう。平日の午後に、2度ほどこの絵に対面しましたが、何重もの人が並ぶほど熱気ムンムンで、じっくり鑑賞するどころではなかったのはちょっと残念でした。

フェルメールの伝記的な人物像に関しては、ほとんど知られていません。フェルメールの日記や手紙は見当たらず、わずかな記録が残っているにすぎないからです。自画像も描いていないので、フェルメールがどんな容貌をしていたかさえはっきりとわかっていません。フェルメールの作品 「絵画芸術」 に描かれている画家は、本人と思われていますが、うしろ姿しかわかりません。他の作品に、音楽家が描かれていて、一部の美術専門家の間ではそれがフェルメールの自画像だとされています。

フェルメールの父は、カーテンや室内装飾用のつづれ織りを作る絹織工でした。「空とぶキツネ」という宿屋兼居酒屋を営み、他に骨董店では絵画も商っていたので、フェルメールは、子どものころから美術の世界に接していたと思われます。6年間の画家としての修行を終えたあと、21歳のときにマスターとなりましたが、誰に師事したかもわかっていません。

フェルメールは作品を描くとき、「カメラ・オブスキュラ」 (暗箱)として知られる装置を使ったようです。この装置は、箱の前面に穴があり、うしろにすりガラスのスクリーンのある簡単な器具で、当時多くの画家たちに使用されていました。フードで頭をおおうと前面の光景がガラスのスクリーンに映って、用意されたカンバスに転写するというやり方です。

1672年、フランスがオランダに宣戦布告したため、父親から受けついだ商売ができなくなり、町の中心から小さな家に引っ越さなければなりませんでした。それから3年後になくなり、残された夫人と8人の子どもたちは破産状態だったといわれています。フェルメールの完全無欠ともいうべき作品ばかりでなく、謎に満ちた生涯、寡作であるために贋作事件も多いためか、330年以上たった今も注目されているのは驚きです。来年秋も、東京・上野の東京都美術館で4点以上が集められるフェルメール展が企画されています。

↑このページのトップヘ