児童英語・図書出版社 創業者のこだわりブログ

30歳で独立、31歳で出版社(いずみ書房)を創業。 取次店⇒書店という既成の流通に頼ることなく独自の販売手法を確立。 ユニークな編集ノウハウと教育理念を、そして今を綴る。

私の好きな名画・気になる名画

私の好きな名画・気になる名画 20

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有名な 「泉」 を描いた画家アングルは、1780年フランス南西部モントーバン郊外ムスティエに生まれました。父親も画家・彫刻家で、建築も手がける人でした。音楽にも造詣が深かった父は、アングルが幼い頃からルネサンスやロココの巨匠たちのたくさんの複製画を見せては、デッサンの手ほどきをしたり、バイオリンを教えたりしました。そのため、アングルは12歳でトゥールーズのアカデミーに入学して画業にはげむかたわら、オーケストラの一員となって、小遣いかせぎをするほどの腕前だったそうです。

17歳になったアングルは、パリに出てダビッドの門下生になりました。4年間の修行のかいがあって、1801年には、若い画家の登竜門ともいうべきローマ賞を受賞、ローマに留学できる権利をえました。ところが、国家財政が逼迫していたため、5年後の1806年にようやく念願のローマ留学をはたしました。バチカンでラファエロの部屋に出会い、シスチナ礼拝堂のミケランジェロの大作などに心から感銘するのでした。「これまでの自分はだまされていた」 と友人に語ったといわれています。先生である新古典派の巨匠ダビッドの権威が支配的だった時代、ほんとうの古典を知ったアングルは、4年ではあきたらず、さらに10年もの間ローマにいて、ひどい貧しさと戦いながら、人の肖像画をかいては生活の糧をえ、勉強を続けました。さらにフィレンツェに4年間いて、パリにもどったのは1824年のことでした。

しかし、定評はえていたものの、独自の美の理想を追求しようとするアングルの作品の評判は、必ずしもよいものではありませんでした。1820年ころから、ドラクロアを代表とする 「ロマン派」 が台頭してきて、「新しい時代の思想や感情を表現するためには、新しい表現手段が必要。絵画での新しい手段は、色彩と運動にある」 といって、人々の支持をえはじめていたからです。アングルは、人体も物体も、さらに思想や感情も線による輪郭の中に閉じこめるのに対し、ロマン派は、色彩と運動は解放するものとして、大きな対立をするようになっていたのです。そして、その後、30年ものあいだ、両者はにらみあいを続けました。

アングルは、美しい線を描くために、デッサンを綿密にくりかえし、特に完璧なデッサンから生み出された女性美を描くことに生涯をかけました。「泉」 を描いたのは、1856年、アングルが76歳の時です。古代ギリシアの彫刻のような均整のとれた少女の姿は、息づくような若さとやわらかさに満ちていて、壷から流れ出るすきとおった水は、さわってみたくなるほどです。水の音以外にはきこえない、静けささえただよってきます。まさに、アングルの曲線に対するこだわりがこの作品に開花したではないでしょうか。そして、4年後、さらに女性美を追求した直径1mの円形作品 「トルコ風呂」 を残し、静かにパリの自宅で息をひきとりました。

今回の 「スペイン・ポルトガル旅行」 わがベスト10・その2 「マドリッド3大美術館を制覇」 について記したいと思います。

マドリッドにある美術館といえば、まず 「プラド美術館」 があげられます。世界3大美術館の一つとして、パリのルーブル美術館、ロンドンのナショナル・ギャラリーと並び、絵画の収録点数は世界一の規模を誇ります。基礎になるのは、スペイン王室が所蔵していた大コレクションで、王家が宮廷画家たちに描かせた作品が多く、ベラスケス、ゴヤ、グレコ、ムリーリョらがその代表です。

「プラド美術館」 訪問は3度目でしたが、私自身の美術鑑賞に対する思い入れが深くなってきたせいか、以前に出会った作品を見ても、その奥が見えるようになったためか、興味が倍加するのを感じました。今回は、たまたま 「ゴヤ特別展」 が催されていて、120点所蔵しているというゴヤの作品のほとんどを3部に分類展示していました。第1部は宮廷画家になる前に描いていたタペストリーの下絵の数々。竹馬、シーソー、人形遊びなど、子どもの遊びが楽しく描かれていたせいか、幼稚園児や小学下級生たちが先生に引率されて静かに鑑賞しているシーンがあちこちに見られたのは、とてもほほえましい光景でした。第2部は宮廷画家として活躍していた頃に描いた 「カルロス4世の家族」 「裸のマヤ」 などの代表作。第3部は、黒い絵といわれる作品群で、「わが子を食うサトルヌス」 など、革命と動乱の時代に遭遇し、全聾という晩年のゴヤのやりきれない心情のほとばしりが感じられました。

午後はフリータイムを利用し、兄猛夫夫妻と3人で、ピカソの大作 「ゲルニカ」(3.5m×7.8m) があることで有名な 「ソフィア王妃芸術センター」 を訪れました。ゲルニカとは、スペイン北部の海岸にある小都市の名前です。1936年、スペインに内乱がおこり、人民戦線とフランコ率いる国民戦線に分かれて戦っていました。そして翌1937年4月、フランコの同意を得たナチス空軍は、史上はじめてゲルニカに無差別爆撃し、町を壊滅させました。7000人の人口のうち2000人以上が死亡したといいます。当時パリにいて万国博覧会のスペイン館壁画の準備していたピカソは、この大事件を耳にして計画を変更、戦争の悲惨さをこの絵にこめたといいます。この美術館には、ゲルニカを制作するにあたって描いた数十枚にもおよぶ習作やデッサンなどを展示して、いかにピカソが試行錯誤しながら、この大作に取り組んだことがよくわかりました。その他 「泣く女」 など、当時ピカソが描いたキュービズムの代表作も展示されていました。

3つ目の美術館は、「ティッセン・ボルネミッサ美術館」。ラッキーだったのは、イタイアに生まれ、第1次大戦後にパリのモンマルトルとモンパルナスを中心におこった新しい時代の芸術運動 [エコールドパリ] の代表的画家 「モディリアニ展」 が開かれていたことです。ヨーロッパ中のさまざまな美術館からモディリアニの代表作が集められていたばかりでなく、初期に大きな影響を受けたセザンヌの 「赤いチョッキの少年」 と対比したり、絵画より彫刻家をめざしていたモディリアニがアフリカやオセアニアの原始的な彫刻からヒントを得て細長い顔と首の作品を制作したこと、やがてそれを絵画に応用して、一度見たら忘れられない肖像画の傑作をいくつも描くようになる過程がとてもよく整理されていました。特に35歳で亡くなる2、3年前に描かれたユニークな 「裸婦」 の数々はまさに圧巻でした。

こうして、大満足のうちに、マドリッドの3大美術館を制覇しました。そして、その合間を利用して、3つの美術館の西側にある 「レティロ公園」 をのぞいてみました。40万坪という桁違いの公園で、歩いても歩いても果てしないほど。ボートが浮かぶ人工池や噴水があるというので、地図を手に15分ほど歩いて見ましたが、まだまだ先のようです。こんな大公園が都会のど真ん中にあって、市民にいこいの場所を提供しているのはうらやましいほどで、新緑の美しさが特に印象的でした。

私の好きな名画・気になる名画 19

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パリにある 「ルーブル美術館」 で、いちばん人だかりがしているのはレオナルド・ダ・ビンチの「モナリザ」。この絵の前には世界中から来ている観光客のさまざまな言語が飛びかいます。もうひとつの人だかりは、ダビッドの代表作 「皇帝ナポレオン一世と皇妃ジョセフィーヌの戴冠」。この絵の前にいるのはフランス人が多数を占めるようです。それは、フランスの英雄ナポレオンのもっとも誇り高い瞬間が描かれているからに違いありません。ナポレオンは、1796年にイタリア遠征軍最高司令官に任命されて成果をあげてから、1815年に追放されるまでの20年間が栄光に満ち時代であり、1804年12月2日に「ノートルダム大聖堂」で行なわれた皇帝ナポレオン即位の儀式を描いたのがこの作品なのです。

当時ダビッドは、ナポレオンから「主席画家」の称号を受けていました。そして、その名誉にかけて、歴史の目撃者として、また記録者として、あらゆる能力を駆使してこの戴冠式を描きました。はじめダビッドは、ナポレオンが教皇(ピウス7世・絵の中でナポレオンの後ろでいすに座っている) から冠を授かるのではなく、誇らしげに自ら冠をかむるところを描くつもりだったようです。でも、ナポレオンの動作が周囲と関係なく完結してしまうこと、傲慢な印象を与えるおそれがあること、構図としても面白さがかけるために、その冠をひざまずくジョゼフィーヌの頭上にかざすようにしたといいます。

およそ3年の歳月をかけて制作した、たて621cm、横976cmというこの巨大な絵を見たとき、ナポレオンは思わず 「これは絵ではない。まるで画面の中に入っていけるようだ」 と感嘆の声をあげたそうです。大聖堂の内部の空間、特に高さを実際の半分ぼどに縮小して臨場感あふれる演出をしたり、人物はほぼ原寸大で、総勢200人にもおよぶ人々が誰であるかを認識できる価値ある肖像画、威厳にみちた歴史画をめざしたのでしょう。中央の貴賓席には、実際に出席してはいなかったナポレオンの母親が描かれ、その上にはスケッチする自画像も描き入れているのも、自身の代表作となることを強く意識したに違いありません。

ダビッドは、1748年に鉄材を扱う商人の家に生まれました。父親はまもなく商人から徴税請負人に転進しますが、ダビッドが9歳の時、父は決闘に敗れて死亡。ダビットは、建築家である母方の叔父に引き取られました。やがて、絵の才能が認められ美術学校へ入学して、絵の修行にはげみました。でも、22歳から25歳まで毎年、若い画家の登竜門というべき「ローマ賞」に応募しますが、なかなか評価してもらえません。そして1774年、5度目の挑戦でめでたく受賞、1775年にローマ留学をはたすことになりました。出発前はイタリア美術にたいした期待はしていませんでしたが、たちまちその素晴らしさに圧倒されてしまいました。

その後、サロンという官展に「ホラティウス兄弟の誓い」という絵が出品されると、一大センセーショナルを巻き起こし、そこに描かれた兄弟愛や団結心が人々への共感をもたらし、これが1789年のフランス革命への呼び水になったとさえいわれています。生来の熱血漢だったダビッドは、革命の理想に共鳴して、美術界の行政にも力をふるいました。しかし、友人だったロベスピエールが失脚すると、ダビッドも逮捕されてしまいます。そんな彼に救いの手をさしのべたのが、英雄ナポレオンでした。ダビッドの才能と実力を高く評価していたナポレオンは、画家を主席画家に任命して、この戴冠式の絵を描かせたことは、はじめに記した通りです。

このように、ダビッドは、彼が生きた時代と同じように大波乱の人生でした。ナポレオンの失脚後は、逮捕をのがれるためにスイスに逃亡、さらにベルギーのブリュッセルで亡命生活を送リ、1825年その地で生涯を終えました。しかし、ダビッドはアングルら多くの弟子たちを育て、「新古典主義」という新しい画風をこしらえたと高く評価されています。

なお、この絵とほぼ同一の作品が、パリ郊外にあるベルサイユ宮殿にもあります。ダビッドは、会心の作品が焼却破棄されることを恐れて、亡命先のブリュッセルで描いたものです。左端に描かれた5人の女性のうち、ナポレオンが最も愛したといわれる妹フォーリンクの衣装だけを白からピンクに変えてあります。

私の好きな名画・気になる名画 18

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18世紀後半から19世紀はじめにかけて、数々の名画を残したスペインの巨匠ゴヤは、さまざまな伝説の持ち主です。1746年、スペインのサラゴサ地方にある田舎町で、貧しい職人の家に生まれました。子どもの頃から絵が好きで、父親にいいつけられた仕事をせずに道ばたで一心に豚の絵を描いていると、たまたまそこを通りかかったお坊さんがあんまり上手なのに感心して、両親を説得し、町のアトリエに入れたというエピソードが残っています。

この2枚の絵 「裸のマハ」 「着衣のマハ」 にもさまざまな伝説が残されていて、この絵のモデルはゴヤの愛人だったアルバ公爵夫人だという説があります。ゴヤが愛人のすばらしい裸身を残しておきたいと考えましたが、二人の関係に疑いを持ったアルバ公爵が、急にゴヤのアトリエを訪れたときのために、着衣の絵を用意しておき、実際は裸体を描きながら、表向きは着衣の絵をかいていることにしたため、この2枚が対になっているというものです。

当時のスペインは、カソリックの教えがとても強く、神話の女神以外の裸体画を描くことが禁止されていて、違反者には厳罰が下されました。そんな時代に、なぜゴヤは、この裸体画を描いたのでしょうか。この絵が描かれ年についてはよくわかっていませんが、おそらく1790年~1800年だろうといわれています。ゴヤは1789年、43歳の時に、念願だったカルロス4世の宮廷画家になりました。しかし、まもなく聴覚に異常をきたしはじめ、2、3年後には完全に聾者になってしまいました。孤独と絶望のなか、次第に内向的になり、病的なまでに想像力がふくらんだためか、より人間を深くみつめた作品を描くようになっていきました。

この絵の注文主は、おそらく王室の実権をにぎっていたマニュエル・ゴドイだったといわれています。彼は、カルロス4世の王妃マリア・ルイザの愛人で、王妃の口ぞえで25歳にして総理大臣にまで取り立てられました。ゴドイの依頼を受け、ゴヤはかねてから描きたかった禁断の裸体画を描くことで、封建的な社会に挑戦する覚悟だったのでしょう。完成したこの2点の 「マハ」 (ちなみに、「マハ」というのは、スペイン語で「伊達女」を意味する、意気で陽気なスペイン女性) の絵は、ゴドイの隠し部屋に収められ、鑑賞できたのは、ごく限られた人たちだけでした。ところが、1808年ナポレオンの軍隊がマドリードに進軍し、失脚したゴドイの邸宅も占領されました。この時、2点の 「マハ」 を含むゴドイの膨大なコレクションが発見されました。特に 「裸のマハ」 の発見の衝撃は大きく、1812年、カトリック教会は、禁断の絵を描いた罪でゴヤを取調べましたが、ゴヤは何も語らず、証拠不十分で無罪となったようです。

ゴヤの証言がないためか、この絵のモデルが誰なのか、いまだに謎のままです。最有力なのは、ゴドイの愛人だったペピータ・トゥドウ説です。マドリードのある美術館にその肖像が残されており、ほんのり朱を帯びた肌の輝きが 「マハ」 を思わせるといいます。いずれにせよ、この2枚の絵が、それだけ人々をひきつける魅力に満ちあふれているからなのでしょう。収蔵するプラド美術館では、並べて掲げられているこのゴヤの傑作だけは見逃すまいと、鑑賞する人々でいつもにぎわっています。

私の好きな名画・気になる名画 17

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この絵 「フォリー・ベルジェールのバー」 を描いたマネは、モネやルノアールらとともに、印象派を代表する画家といわれます。でも、マネは彼らと同時代に新しい絵画を創造していましたが、印象派展には一度も出品したことはなく、印象派の画家たちに行くべき道を示した先駆者といってよいかもしれません。

マネは、1832年に裁判官の子としてパリに生まれました。16歳のころ、画家になる決心をしましたが、法律を勉強させたい父親は許してくれません。やけになったモネは、南アメリカに行く船の水夫になりました。苦労をすれば世間のつらさもわかって、自分のいうことを聞くようになるだろうと父親は甘くみました。でも航海から帰ってからもマネの決心は変わらず、父親もついに画家になることを許してくれました。

マネはクーチュールという画家の弟子になりましたが、師の教えにあきたりなくなって、ルーブル美術館に通っては、イタリアのベネチア派のティツィアーノ、スペインのベラスケスやゴヤ、オランダのフランス・ハルスらに夢中になり、模写したりして熱心に勉強をしました。さらに、画家たちの故郷であるイタリア、オランダ、スペインを旅行をするほど彼らに傾倒しました。

マネの絵の新しさは、「明るく、もっと明るく」 と従来の暗い絵に挑戦して絵を明るくしたことと、人々の暮らしをいきいきと描いたことにありそうですが、それがあまりに革新的でした。1863年、マネは大作 「草の上の昼食」 をサロンという官展に出品しましたが落選しました。しかし、その年の選び方に問題があるとして、ナポレオン3世は落選展を開きました。でも、「服を着た男たちの間に全裸の女がいるとはけしからん」 と非難されてしまいました。さらに、1865年には 「オランピア」 が出品されると 「全裸でねている女と黒人の下女と黒ネコとは、何という無作法」 と世評はますます悪くなりました。

一方、そんな世相とは反対に、これまでの誰もが考えなかったマネの大胆で斬新な絵を高く評価する人たちが現われました。詩人のボードレール、小説家のゾラらはマネをかばい、後に印象派とよばれる若い画家のピサロ、モネ、シスレー、ルノアール、ドガたちは、マネのもとに集まっては、芸術論に花を咲かせました。

そんなマネの最後の傑作といわれるのが 「フォリー・ベルジェールのバー」 です。亡くなる1年前、50歳の時の作品で、このころのマネは、ステッキなしでは、立つこともできないほど足が弱っていたそうです。フォリー・ベルジュールは、歌やショーが楽しめるパリでも人気のカフェ・コンセールでした。まさに、世界でも有数の華やかな劇場で、マネもここによく通い、青春を謳歌していたのでしょう。この作品が最後の大作になるだろうと考えたマネは、その舞台にでかけて、すばやく描いたスケッチをもとに、アトリエの中で最終的な構図を決定したようです。

真ん中に立っているのは、幕間などに飲み物や軽食を客に提供するウェイトレスで、何か物思いにふけるようなメランコリックな表情をみせています。鏡に映っている後姿を見ると、山高帽をかぶったヒゲの男客の注文を受けているようにみえますが、どう見てもこの位置関係には矛盾があり、意図的にこのような構図にしたマネの真意は謎につつまれたままです。しかし、きらびやかな照明、何百人という着飾った人々、左上に空中ブランコ乗りの足などが映し出された鏡の中のぼんやりした映像と、手前のビュッフェの上の色とりどりのビン、果物鉢の中のオレンジ、コップの2輪のバラなどの色と形のはっきりした前景との対比が、実にみごとに表現されています。愛してやまなかったパリの生活への思い出、死を前にした孤独感や喪失感、ウェイトレスの表情は、そんなマネの複雑な心境をあらわしているのではないでしょうか。

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