児童英語・図書出版社 創業者のこだわりブログ

30歳で独立、31歳で出版社(いずみ書房)を創業。 取次店⇒書店という既成の流通に頼ることなく独自の販売手法を確立。 ユニークな編集ノウハウと教育理念を、そして今を綴る。

今日はこんな日

今日11月18日は、田山花袋、島崎藤村とともに日本の自然主義文学における代表的作家といわれ、庶民的な女性の半生を浮き彫りにした作品を多く描いた作家の徳田秋声(とくだ しゅうせい)が、1943年に亡くなった日です。

1872年、石川県金沢市に没落士族の末子として生まれた徳田秋声(本名・末雄)は、幼時から病弱で小学校入学も1年遅れました。1886年石川県専門学校に入学、1888年に学制改革により同校が第四高等中学となって合格しましたが、父の病没により1891年に退学せざるをえませんでした。1892年、小学時代の同級生で共に文学を志す桐生悠々とともに上京、尾崎紅葉の門をたたくものの断られ、兄を頼って大阪へ行き、「大阪新報」などに作品を発表しました。

やがて帰郷後、1895年に再上京して、博文館編集部に職を得ました。当時博文館に出入りしていた同郷の作家泉鏡花と親しくなり、鏡花の誘いで紅葉門下となりました。1896年「文芸倶楽部」に『藪かうじ』を発表して注目されて作家生活に入りましたが、文壇的には地味な存在で、同門の鏡花や小栗風葉ほどの人気にはなりませんでした。

1903年の紅葉の死から日露戦争にかけて、実際の生活をありのままに描くという「自然主義文学」が台頭しだすと、秋声は自分の周辺を題材に、庶民的な女性の半生を浮き彫りにした作品を次々に発表しだしました。そして、1911年の長編小説『黴(かび)』の成功は、秋声の名を決定的なものにしました。田山花袋から平面描写の極致を示すものとして激賞されると、2~3年前に新聞連載して好評だった『新世帯(あらじょたい)』や『足迹(あしあと)』の再評価につながり、その後つぎつぎに発表した『爛(ただれ)』『あらくれ』『仮装人物』などにより、秋声は、田山花袋、島崎藤村とともに日本の自然主義文学における代表的3大作家として、文学史に名をとどめるほどになりました。

秋声の作品で、最も有名な代表作は長編小説『縮図』でしょう。秋声の晩年の1941年に『都新聞』に連載された作品で、東京白山で置屋を営む元芸者の小林政子をモデルに、芸妓の世界を描いた作品だったため、情報局から太平洋戦争直前の時局柄好ましくないという干渉をうけ、第80回で連載を中断、秋声の死去により未完に終わりました。銀子という芸者上がりの女性と同棲している主人公均平の語る銀子の半生記は、戦時下に生きる庶民的反骨がえがかれ、日本の自然主義文学はこの作品で完成したといわれています。同作を原作に、1953年新藤兼人は劇映画を制作して評判になりました。

私生活では、その分け隔てのない人柄が多くの文壇人に愛され、映画やダンスを好むなど現代的な面も持ちあわせていたようで、金沢市には「徳田秋声記念館」が開設されています。また、オンライン図書館「青空文庫」では、『縮図』を読むことができます。


「11月18日にあった主なできごと」

1901年 八幡製鉄所操業…福岡県北九州市に建設された八幡製鉄所が操業を開始しました。近代化を推進していた明治政府が、殖産振興・富国強兵をもとにしたわが国初の本格的な製鉄所で、日露戦争、第1次世界大戦での鉄鋼需要の増加で、急速に発展しました。

1903年 パナマ運河条約…太平洋とカリブ海を結ぶパナマ運河は、スエズ運河をひらいたレセップスが開発に着手しましたが、難工事のため断念。アメリカ合衆国はパナマとの間でパナマ運河条約を結び、10年以上もかけて建設を進めて、1914年に開通させました。そのため長いあいだアメリカによる支配が続いてきましたが、1999年末、パナマに完全返還され、現在はパナマ運河庁が管理しています。

1904年 古賀政男誕生…『丘を越えて』『影を慕いて』『青い背広』など、日本人の心にふれるメロディで、今も口ずさまれているたくさんの歌謡曲を作った作曲家の古賀政男が生まれました。

今日11月17日は、幕末期に、同郷土佐の坂本龍馬とともに、「薩長同盟」「薩土盟約」の締結に成功するものの、大政奉還の1か月後、龍馬とともに斬られた中岡慎太郎(なかおか しんたろう)が、1867年に亡くなった日です。

1838年、今の高知県北川村に大庄屋(おおじょうや=村役人)の長男として生まれた中岡慎太郎(本名・道正 通称・福太郎)は、1854年に間崎滄浪に学問を学び、翌年には武市瑞山(半平太)の道場に入門して剣術の指南を受け、1857年より大庄屋見習として村政にかかわりました。1861年に武市が土佐勤皇党を結成するとこれに加わり、武市の正系を継承すると評価されるものの、勤王党弾圧後は同志50人とともに京都、江戸に出て尊攘運動に参加、本格的に志士活動を展開し始めました。

1862年、長州藩の久坂玄瑞らとともに、佐久間象山を訪ね、国防・政治改革について学び、翌1863年の「八月十八日の政変」後に土佐藩内に尊王攘夷活動に対する大弾圧が始まると、脱藩して長州藩へ赴き、以後長州藩をバックに活動、周防国三田尻に都落ちしていた公卿三条実美ら5名の衛士となるなど、各地の志士たちとの重要な連絡役となりました。

1864年の「蛤御門の変」(京都守護職松平容保らの排除をめざして挙兵し、京都市中において市街戦を繰り広げた事件で、「禁門の変」ともいう)では忠勇隊とともに戦い、負傷して長州へ退き、同年の英・米・仏・蘭四国連合による下関砲撃事件(馬関戦争)にも出陣しました。

1965年1月、三条実美らが大宰府(今の福岡県太宰府市)に移ると、これにしたがいながらここを拠点に、活動方針を尊皇攘夷論から雄藩連合による武力倒幕に変え、長州藩の桂小五郎(木戸孝允)と薩摩藩の西郷隆盛との会合による薩長同盟締結をめざして活動をはじめます。やがて三条実美と連絡を取りながら脱藩志士たちのまとめ役として、薩摩と長州の志士たちの間を飛びまわり、亀山社中(後の海援隊)を結成した坂本龍馬とともに、三条の随臣土方久元も巻きこんで、1866年1月、京都の薩摩藩邸において「薩長同盟」を結実させました。

翌1867年3月、土佐藩から龍馬とともに脱藩をゆるされると、薩土同盟についても同様に奔走し、6月に京都「吉田屋」において、中岡と龍馬が仲介となって、土佐藩の寺村道成・後藤象二郎・福岡孝弟、薩摩藩の小松帯刀・大久保利通・西郷隆盛との間で、倒幕・王政復古実現のための「薩土盟約」を締結させました。そして、土佐藩の遊軍として龍馬は海援隊を、中岡は在京の浪士を集めて7月に陸援隊を組織し、武力討幕の一翼としました。

ところが、幕府大政奉還後の同年11月15日夜、京都河原町の下宿近江屋に龍馬を訪れて会談中、幕府見廻組に襲われてともに斬られ、龍馬は即死、中岡は2日後に絶命しました。


「11月17日にあった主なできごと」

1869年 スエズ運河開通…フランスの建設者レセップスは、さまざまな苦難の末に、地中海と紅海を結びインド洋へとつながる海の交通の要・スエズ運河を10年がかりで建設し、開通させました。政治的・軍事的重要性のために各国の争奪戦となり、当初フランスが中心だった同運河は、1875年からイギリスが支配し、1956年にエジプトが国有化しました。

1922年 アインシュタイン来日…相対性理論で名高いドイツの物理学者アインシュタインが来日し、約1か月間の滞在中、東京、大阪、仙台、福岡などで講演を行いました。ノーベル賞を受賞したばかりの時で、会場はどこも学者や学生を中心に満席だったと伝えられています。

今日11月16日は、自由な論理実証主義を実践し、ノーヘル経済学賞を受章したアメリカの経済学者フリードマンが、2006年に亡くなった日です。

1912年、ルーマニアからのユダヤ系移民の子としてニューヨークの貧民街に生まれたミルトン・フリードマンは、15歳で高校を卒業した後、奨学金を得てラトガーズ大学に入って学士を取得後、世界恐慌の惨状を目にしたこともあって、シカゴ大学院で経済を専攻するとわずか1年で修士号を取得しました。さらに、学費奨学金を得てコロンビア大学に入学してクズネッツの指導を受け、コロンビア大学と全米経済研究所の研究員として9年間働き、経済博士号を取得したのは34歳になってからでした。

その後フリードマンは、ミネソタ大学准教授をへて、1948年にシカゴ大学の教授となると、アメリカの貨幣史の研究をはじめ、貨幣がどういう経路をたどり経済にどんな影響を与えてきたかを精密に分析し、貨幣数量説による徹底した数理統計的数値を駆使した『アメリカ合衆国貨幣史1867~1960』を1963年に著しました。

いっぽう、大学の同僚や学生たちとの討論の中で経済理論「マネタリズム」を主唱しました。これは、「経済は、自由市場の尊重と財政均衡がなくてはならず、経済成長に見合う通貨供給を行うことで経済の安定化がはかられる」とするもので、ケインズのいう、「政府が財政出動など積極政策で有効需要を作り出すことで活性化されるとする」に対するものでした(裁量的なケインズ的総需要管理政策批判)。この理論の正しさは、ケインズ派の逸材たちをブレーンとするケネディ政権時代に実証されました。

この理論は、またたくまに世界をかけめぐりました。1970代まで先進国の各国政府は、「スタグフレーション」(経済が停滞しているのにインフレが進むという奇怪な現象) に悩んでいました。フリードマンは、スタグフレーションにあるインフレの要素に対しての姿勢、政策・経済に与える貨幣供給量の役割を重視し、それが短期の景気変動や長期のインフレに決定的な影響を与えるとしました。とくに、貨幣供給量の変動は、長期的には物価にだけ影響して実物経済には影響は与えないとする見方(貨幣の中立性)は、インフレ抑制が求められる中で支持されました。

これらの功績により、1976年にノーベル経済学賞を受賞したばかりか、1970年代のスタグフレーションへの処方箋として人気を博し、1980年代のレーガン政権下では、大統領直属の最高経済諮問委員会のメンバーとして活躍したばかりか、イギリスのサッチャーの保守革命においても大きな影響を与えました。日本でも、1982~86年まで日銀の顧問を務めています。またフリードマンは、シカゴ学派のリーダーとして、弟子たちから8名ものノーベル経済学賞受賞者を生み出すなど、多くの経済学者を育てました。

主著は、上記以外に『実証的経済学の方法と展開』『資本主義と自由』『一経済学者の抗議』や、世界的ベストセラーとなり今も読みつがれているシカゴ大学院時代の先輩で配偶者となったローズ夫人との共著『選択の自由』があります。


「11月16日にあった主なできごと」

1523年 インカ帝国皇帝捕えられる…15世紀から16世紀にかけてペルー南部に栄えたインカ帝国は、クスコを中心に石造建築や織物、金銀細工など優れた文明を築きましたが、この日スペインの ピサロ は、帝国のアタワルバ皇帝をだまして捕えました。翌年インカ帝国は滅亡、スペインは中・南米のほとんどを長い年月支配することになりました。

1653年 玉川上水完成…江戸幕府は急増する江戸市民の水を補うために、治水技術にすぐれていると評判の玉川兄弟(庄右衛門、清右衛門)に建設を命じ、玉川上水を完成させました。

1946年 「現代かなづかい」と「当用漢字表」…内閣は、これまでの「歴史的かなづかい」を現代の発音に近い「現代かなづかい」とする方針を発表しました(1986年に改正)。また「当用漢字表」1850字を告示し、日常生活に使う漢字を定めました。「当用漢字」は、1981年に範囲をよりゆるやかにした「常用漢字」1945字に改められ、2010年に「改定常用漢字表」2136字を答申し、現在に至っています。

今日11月13日は、箱根駅伝の開催に尽力し、高地トレーニングを導入するなど日本マラソン界の発展に大きく貢献した金栗四三(かなぐり しぞう)が、1983年に亡くなった日です。

1891年、熊本県玉名市に生まれた金栗四三は、旧玉名中学を卒業後、1910年東京高等師範学校(今の筑波大)に入学しました。1911年、翌年に開催される第5回ストックホルムオリンピックに向けたマラソンの予選会に足袋で出場し、当時の世界最高記録を27分も縮める(2時間32分45秒)を出して、短距離の三島弥彦と共に、日本人初のオリンピック選手として出場が決まりました。

翌1912年のストックホルムオリンピックでは、金栗が国内予選で大記録を出したことから各国にマークされ、期待の重圧と睡眠不足、レース途中で40度を越える猛烈な暑さに日射病で意識を失って30キロ付近で倒れてしまいました。近くの農家で介抱され、その農家で目を覚ましたのは、翌朝のことでした。当時、日本からスウェーデンへは20日もかけて船と列車でかかり、さらにマラソンの当日は、金栗を迎えに来るはずの車が来なかったため、競技場まで走らなければならないという過酷なものでした。

この敗戦は金栗にとって大きなショックで、以後の練習は、徹夜、絶食でマラソンを走るというような奇妙なものでしたが、その甲斐あって、1914年の国内レースで2時間19分30秒という当時の世界最高記録をぬりかえるものでした。残念なことに、第1次世界大戦が勃発したため、1916年の第6回大会は中止となってしまいます。第7回アントワープ、第8回パリの両大会にも出場したものの、年齢的に峠を越えていて、それぞれ17位、棄権という結果に終わってしまいました。

それまでの十数年間に、金栗がマラソン練習に走った距離は驚異的で、30万キロともいわれ、金栗が走らなかった国道はひとつもないといわれるものでした。オリンピックでは実績を残せませんでしたが、引退後の指導者としての功績は実に多くのものがあり、「日本マラソンの父」といわれるのも、納得のいくものです。

その一つは、今も正月の風物詩となっている「箱根駅伝」を1920年に創始したことでしょう。1917年に日本で初めての駅伝となる「東京奠都五十年奉祝・東海道駅伝徒歩競走」が、京都三条大橋と東京・上野不忍池間で行われました。これは京都―東京516キロを23区間に分け、三日間、東西に分かれた2チームが昼夜兼行で走り継ぐ壮大なたすきリレーでした。これが大成功を収めたのに意を強くした金栗が、大学などに箱根駅伝創設の意義を説いて参加を呼びかけ、早大、慶大、明大、東京高師の4校が応じたことからスタートしたものでした。

さらに金栗は、全国の優秀選手を1か所に集めて練習をさせるいわゆる合宿練習を提唱しました。富士山山頂まで駆け上がる高地練習、等間隔で並ぶ電信柱を目印に全力疾走とジョギングを交互に行うインターバルトレーニングを行うなど、日本に優秀なマラソンランナーを輩出させる指導力を発揮しました。また、箱根駅伝を読売新聞社、朝日新聞社に「金栗賞朝日マラソン」(のちの福岡国際マラソン)をそれぞれスポンサーにするなど、組織者としての力も発揮しました。

なお、こんなエピソードが残されています。金栗は、1967年3月、スウェーデンのオリンピック委員会から、ストックホルムオリンピック開催55周年を記念する式典に招待されました。ストックホルムオリンピックでは「金栗は、競技中に失踪し行方不明」として扱われていました。招待を受けた金栗はストックホルムへ赴き、競技場をゆっくりと走って、場内に用意されたゴールテープを切りました。するとこの時、「日本の金栗、ただいまゴールイン。タイム、54年と8ヶ月6日5時間32分20秒3、これをもって第5回ストックホルムオリンピック大会の全日程を終了します」とアナウンスされたのです。金栗はゴール後のスピーチで「長い道のりでした。この間に孫が5人できました」とコメントしたと伝えられています。


「11月13日にあった主なできごと」

1523年 インカ帝国皇帝捕えられる…15世紀から16世紀にかけてペルー南部に栄えたインカ帝国は、クスコを中心に石造建築や織物、金銀細工など優れた文明を築きましたが、この日スペインのピサロは、帝国のアタワルバ皇帝をだまして捕えました。翌年インカ帝国は滅亡、スペインは南アメリカ大陸の大半を長い年月支配することになりました。

1614年 高山右近国外追放…織田信長、豊臣秀吉、徳川家康につかえた高山右近は、築城術もたけ茶道にも長じたキリシタン大名でしたが、禁止されたキリスト教を捨てなかったためにこの日国外追放、40日後にマニラで亡くなりました。

今日11月12日は、毛沢東に次いで、第2代中華人民共和国主席を務めたものの、文化大革命の中で失脚した劉少奇(りゅう しょうき)が、1969年に亡くなった日です。

1898年、湖南省寧郷に生まれた劉少奇は、省都である長沙の中学をへて、1920年に省の中国社会主義青年団に入団、翌1921年にソ連に入国し、モスクワの東方勤労者共産大学で学びながら、中国共産党に入党しました。1922年に帰国後は、江西省の炭鉱ストライキや上海5.30事件で40万労働者のストライキを指導するなど数々の労働運動活動が評価され、1927年に党の中央委員に選出されました。

国共分裂後は、国民党支配地域(白区)を中心に地下工作活動に従事し、1936年から党の北方局書記となり、華北地区での抗日運動を指導します。さらに新四軍の政治委員となり、軍の再建と華中地区の拡大に務めながら、党員の規律や指導についての書『共産党員の修養を論ず』を著し、理論的指導書として広く党内で読まれました。

1943年、延安にもどって党中央書記に就任すると、整風運動に従事し、1945年4月から6月にかけて開催された第7回全国代表大会(党大会)では毛沢東に次いで中央委員に当選、「党規約の改正についての報告」を発表してこの中に「毛沢東思想」という言葉を初めて公式の文書に使用しました。

中国国民党との国共内戦を経て、1949年に「中華人民共和国」が建国されると、中央人民政府副主席や人民革命軍事委員会副主席、全国人民代表大会常務委員会委員長を歴任しました。さらに、1956年9月、第8回党大会で政治報告を担当し、続く第8期1中全会で中央政治局常務委員に選出され、中央委員会副主席の筆頭に位置づけられました。1958年頃から毛沢東主導で実施された大躍進政策が、この国を襲った農業危機、食糧危機のなかで、2000万人もの餓死者が出るなど失敗に終わると、劉は毛沢東に代わって国家主席に就任し、毛沢東批判派の頂点に立ちました。

こうして劉は、�ケ小平党総書記とともに民主主義を発揚しようと呼びかけ、調整政策を実施して経済の行きづまりを切りぬけました。党内への影響力を失っていった毛沢東が、文化大革命を決意したのはこのころからでした。そして1966年に、大革命が始まった8月の第8期11中全会で、「資本主義の道を歩む党内最大の実権派」とされ、党内序列第8位に格下げされたばかりか、「中国のフルシチョフ」と夫人とともに紅衛兵につるし上げられ、1968年10月の第8期12中全会では永久除名処分をうけ、1年後に失意のうちに亡くなりました。

この文化大革命中に、「劉�ケ」路線と呼ばれて失脚した�ケ小平でしたが、毛沢東が死去し、四人組が打倒されて政権の実力者となって復帰すると、劉の名誉回復の機運が高まり、1980年2月、11期第5回中央委総会で正式に名誉回復され、「劉少奇追放は、党史上最大の冤罪事件」とコミュニケが発表されたのでした。


「11月12日にあった主なできごと」

1871年 日本初の女子留学生… 岩倉具視を団長に、伊藤博文、木戸孝允ら欧米巡遊視察団48名がこの日横浜港を出港。そこに59名の留学生も同乗、後に「女子英学塾」(現・津田塾大)を設立する6歳の津田梅子ら5名の女子留学生の姿がありました。
 
1898年 中浜万次郎死去…漂流した漁船にのっていてアメリカ船にすくわれ、アメリカで教育を受け、アメリカ文化の紹介者として活躍した中浜万次郎(ジョン万次郎)が亡くなりました。
 
1948年 極東軍事裁判判決…太平洋戦争敗戦後、GHQ(連合軍総司令部)による占領政治が開始されると、満州事変以来の政府と軍部指導者の戦争責任をさばく極東軍事裁判(東京裁判)が1946年から31か月にわたっておこなわれました。この日に最終判決が下され、東条英機ら7名に死刑、被告25名全員が有罪とされました。

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