児童英語・図書出版社 創業者のこだわりブログ

30歳で独立、31歳で出版社(いずみ書房)を創業。 取次店⇒書店という既成の流通に頼ることなく独自の販売手法を確立。 ユニークな編集ノウハウと教育理念を、そして今を綴る。

今日はこんな日

今日11月26日は、唐朝第3代皇帝高宗の寵愛を受けて高宗の皇后となり、その死後に「周」を興して皇帝となり、15年にわたって中国全土を支配した則天武后(そくてんぶこう)が、705年に亡くなった日です。

624年または630年に、山西省の大材木商で唐朝の創業に貢献して栄進した武氏の娘として生まれた、のちの則天武后(本名・照)は、14歳のとき、その才知と美貌により、唐の第2代皇帝太宗の私生活の場である後宮に入りました。649年に帝が亡くなると尼となっていましたが、その美しさと激しい気性が、唐朝第3代皇帝高宗に気に入られて高宗の後宮に入りました。そして、皇后の王氏や反対勢力を押し切って高宗の寵愛を得ると、655年に、自ら皇后となりました。

その後、高宗が病気がちであることを利用して政治に口をはさみ、文芸や事務能力に長じた新興官僚を巧みに登用して操縦し、貴族層を排斥しました。やがて高宗が病に伏すと、自ら政務を行い、武氏一族による独裁権力をふるうようになります。そして、683年に高宗が病没すると、実子の中宗、弟の睿宗を次々と帝位につけ、彼女に反抗して挙兵した李敬業や唐の皇族らを武力で打倒して殺したり左遷して武氏の天下を宣伝し、690年、国号を「周」(中国では「武周」)と改め、自ら皇帝「則天武后」を名乗り、中国史上唯一の女帝となって約15年間、中国全土を支配しました。

理想の世とされていた古代の周王朝(BC11世紀~399年)の政治に従って暦法、官名などを改正したり、則天文字という新字を使わせるなど、政治、社会、文化の各方面にわたり新機運をもたらした点は、評価されるものの、やがて政治が乱れ、これに反対する勢力が705年に、中宗をふたたび帝位につけたことで退位し、まもなく亡くなったのでした。

なお、林語堂の小説や郭沫若の戯曲など、則天武后をテーマにした作品も多く、その女傑ぶりはいまなお語りぐさとなっています。また、則天武后の名称は自らの遺言によるもので、中国では「武則天」と呼ぶのが一般的です。


「11月26日にあった主なできごと」

1086年 院政のはじまり…白河天皇がわずか8歳のわが子に、堀川天皇として位を譲りました。上皇となった白河天皇は、幼い天皇の後見役として政治の実権を握り続けました。上皇のいるところが「院」と呼ばれ、そこで政治が行なわれたために「院政」とよばれます。

1906年 満鉄設立…日露戦争に勝利した日本は、ロシアが建設した東清鉄道を譲り受け、南満州鉄道(満鉄)として経営することになりました。満鉄は、鉄道事業を中心に広範囲にわたる事業を展開、日本の満州(中国東北部)進出の中核となりました。

1911年 小村寿太郎死去…日英同盟、日韓併合の立役者であり、日露戦争が終結したポーツマス講和会議の全権大使を務めた外交官の小村寿太郎が亡くなりました。

1952年 ヘディン死去…87年の生涯を中央アジアの探検にそそぎ、砂にうずもれた楼蘭の町や、インダス川の水源や、ヒマラヤ山脈の北にあるもう1つの山脈トランスヒマラヤなどを探りあてたスウェーデンのヘディンが亡くなりました。

今日11月25日は、第3代国際連合事務総長として、キューバ危機、コンゴやキプロス紛争、ベトナム停戦などの解決に取り組み、以後の国連の役割・あり方・運営に大きな道筋をつくりあげたビルマのウ・タントが、1974年に亡くなった日です。

1909年、イギリス領ビルマ(現ミャンマー)のパンタナウに熱心な仏教徒の子として生まれたウ・タントは、地元の高校を経てラングーン大学(現ヤンゴン大学)で歴史学を専攻し、卒業後、パンタナウの高校で教鞭をとり、25歳の若さで校長に就任しています。そのころ、のちにビルマ首相となるウー・ヌーと親交を結ぶかたわら、フリー・ジャーナリストとなり、新聞・雑誌への寄稿をしたり、数冊の翻訳本を手がけたりしました。

第二次世界大戦後、ウー・ヌーとアウン・サンの要請で、反ファシスト人民自由連盟の活動に参加、報道担当官として活躍。1948年にビルマ独立後は、情報省次官、総理府計画局長・同官房長などを歴任しながら、ウー・ヌー首相の訪問外交に側近として随行しました。

1957年、優れた外交感覚を買われてビルマ国連代表となったウ・タントは、1959年国連総会副議長を経て、1961年ハマーショルド事務総長の事故死に伴い暫定事務総長に推されると、キューバ危機に対し出身国ビルマの非同盟路線を武器に温厚な人柄で平和的に解決したことで、翌1962年11月、全会一致で正式に事務総長に選任されました。

1963年には西イリアン問題を解決して1966年に再任され、1971年の中国国連代表権問題の解決に至る任期満了まで、コンゴおよびキプロス紛争、ベトナム停戦など東西緊張緩和、「国連開発の10年」など南北格差是正、国連軍の経費分担問題などの解決に取り組み、その後の国連の役割やあり方に関し、大きな功績を残しました。

なお、ビルマ人は一般的に姓を持たず、「ウ」や「ウー」は男性の敬称です。


「11月25日にあった主なできごと」

1890年 第一回帝国議会…明治憲法発布翌年のこの日、帝国議会が開かれました。議会は、貴族院と衆議院の2院からなり、貴族院議員は皇族・華族、多額納税者などから選ばれ、衆議院議員は、25歳以上の男子で国税15円以上を納める人に限定されていました。
 
1892年 オリンピック復活の提唱…フランスのクーベルタン男爵は、アテネで古代競技場が発掘されたことに刺激され、スポーツによる世界平和を築こうとオリンピック復活の提言を発表、オリンピック委員会が作られ、4年後に実現しました。

1970年 三島由紀夫割腹自殺…『仮面の告白』『金閣寺』『潮騒』など、ちみつな構成と華麗な文体で人気のあった作家の三島由紀夫が、アメリカに従属する日本を憂えて自衛隊の決起をうながすも受け入れられず、割腹自殺をとげました。

今日11月24日は、「朝日新聞」を日本を代表する世界的な大新聞に発展させた村山龍平(むらやま りょうへい)が、1933年に亡くなった日です。

1850年、伊勢国田丸(現・三重県玉城町)に紀州藩士の子に生まれた村山龍平は、幕末激動期の1867年から田丸城に務めましたが、1871年に一家とともに大阪に移住すると、父と西洋雑貨商を営みました。1878年に大阪商法会議所の議員に選ばれ、1879年に同業者の木村平八・騰(のぼる)父子が「大阪朝日新聞」を創刊すると、これを支援しました。

1881年に木村父子の要請により、上野理一と共同出資して実質的な社主となって新聞事業に専念すると、上野とともに大衆向けの小新聞だった「大阪朝日新聞」を、関西中心ながら中新聞に育てあげました。さらに1888年には「めざまし新聞」を買収し「東京朝日新聞」を創刊して東京に進出、1908年には、東西の両新聞を合併させると、1年ごとに上野と社長を交代し、海外に特派員を派遣したり海外通信網の確立強化に先鞭をつけました。印刷面でも新しい機械を率先して導入、大量生産を可能にし、各界の有能な人物を抜擢して登用するなど、つねに積極政策をとりました。やがて「朝日新聞」は、「毎日新聞」とともに日本を代表する世界的な大新聞としての地位を確立しました。

その間村山は、1891年に第1回衆議院議員総選挙補欠選挙で衆議院議員に初当選後、第2回、第3回にも当選して衆議院議員を通算3期務めた他、大阪府会議員、大阪市会議員などを歴任し、1930年には貴族院勅選議員となりました。また、日本美術収集家、茶人としても知られています。

なお、朝日新聞社長時代の1915年、全国中等学校優勝野球大会(現・全国高等学校野球選手権大会)の創設を決断、第1回大会では羽織袴姿で開会式の始球式をつとめました。その功績により、誕生100周年でもある2015年の今年、野球殿堂特別表彰者に選出されました。


「11月24日にあった主なできごと」

1940年 西園寺公望死去…自由主義思想を支持し、2度総理大臣になるなど、明治・大正・昭和の3代にわたり活躍、最後の元老政治家といわれた西園寺公望が亡くなりました。

1944年 東京初空襲…アメリカ軍の爆撃飛行機B29が、東京へ初めて爆撃を敢行しました。航空機を製造する中島飛行機武蔵野工場が主な攻撃目標でしたが、やがて無差別爆撃へ戦術を変え、翌年3月10日には東京の下町を火の海にする大空襲を行いました。

今日11月20日は、評論家・翻訳家・劇作家・演出家として多くの業績を残した福田恒存(ふくだ つねあり/こうそん)が、1994年に亡くなった日です。

1912年、今の東京都文京区に生まれた福田恆存は、旧浦和高校を経て東京帝国大学英文科に入学すると、演劇に興味を持ち、「演劇評論」の同人となりました。1936年に卒業後、中学教師、出版社勤務、団体職員などを務めるかたわら、1937年雑誌「行動文学」に関わり、文芸評論を開始しました。敗戦後の1947年には、日本近代文学への批判をこめた評論集『作家の態度』『近代の宿命』を著すいっぽう、雑誌「思索」に政治と文学を厳しく分けるべきだという評論「一匹と九十九匹と」を発表、「政治と文学」論争に一石を投じます。

福田恆存の名を有名にしたのは、左翼思想や進歩派全盛のなかで、進歩的文化人への批判を加え、論争を展開したことからでしょう。1954年に「中央公論」に発表した「平和論の進め方についての疑問」で、進歩派の平和論を批判し、1955年から翌年にかけて金田一京助らと戦後の国語国字改革論争をおこし、その集大成として1960年に『私の国語教室』を刊行、「現代かなづかい」や「当用漢字」の不合理を指摘、歴史的仮名遣いのすすめを説いて、読売文学賞を受賞しています。

その後も、厳しく文化人を批判することから、保守的と非難されることが多かった福田でしたが、歴史や現実を無視した見方を認めないという考えが基礎にあるもので、評論の代表作として、上記のほかに『芸術とはなにか』『人間・この劇的なるもの』があります。

演出家としては、1952年に文学座に入って『ハムレット』、自作の『龍を撫でた男』などの演出を担当するものの、文学座の看板女優・杉村春子との意見の相違から、1956年に退団。1963年に、芥川比呂志、仲谷昇、岸田今日子、神山繁ら文学座脱退組29名と財団法人現代演劇協会を設立し、理事長に就任しました。やがて芥川と対立すると、協会内で新たに「劇団欅」を設立し、1975年に芥川らが退団した「劇団雲」の残留組と「劇団欅」を統合し、「劇団昴」を結成しました。

翻訳家としては、シェイクスピアの「四大悲劇」ほか主要戯曲15作品、ヘミングウェイ『老人と海』、ワイルド『サロメ』『ドリアン・グレイの肖像』などの翻訳があり、劇作家としては、衰弱した現代人への風刺喜劇『キティ颱風』『竜を撫でた男』、詩劇『明暗』、歴史劇『明智光秀』『有馬皇子』他の戯曲を発表・上演した以外に、戯曲『解ってたまるか!』『総統いまだ死せず』などがあります。また、東京・駒込に三百人劇場を建設したことでも知られ、『シェイクスピア全集』の訳業により岸田演劇賞、1980年には多年の評論活動により菊池寛賞・芸術院賞を受賞しています。


「11月20日にあった主なできごと」

1179年  後白河法皇を幽閉… 平清盛は、院政を行なっていた後白河法皇をこの日、鳥羽殿に幽閉。まもなく孫を安徳天皇にして、平氏の独裁体制を築いていきました。

1910年 トルストイ死去…『戦争と平和』『アンナ・カレーニナ』『復活』などの長編小説や随想録『人生読本』で名高いロシアの作家トルストイが亡くなりました。平和主義者としても知られ、『イワンの馬鹿』ほか民話の再話も有名です。

1945年 ニュールンベルク裁判開始…第2次世界大戦の戦犯を裁く国際軍事裁判が、アメリカ、イギリス、フランス、ソ連から選ばれた裁判官のもとに、ドイツのニュールンベルクで始まりました。この裁判で史上初めて「戦争犯罪」という考え方が明確に打ちだされました。

2001年 イチロー大リーグMVP獲得…アメリカの大リーグマリナーズに移籍1年目のイチロー外野手は、日本人初のMVP(最優秀選手)に選ばれました。あわせて、新人王、盗塁王、アメリカンリーグ首位打者、ゴールドグラブ賞にも輝く活躍でした。

今日11月19日は、千利休が開拓したわび茶を、禅の精神性を加味した「宗旦流」とし、現代まで続く「武者小路千家」「表千家」「裏千家」(三千家)を3人の息子にそれぞれ興させた千宗旦(せんの そうたん)が、1658年に亡くなった日です。

1578年、千利休の後妻千宗恩の連れ子少庵と、利休の娘お亀の子として堺に生まれた宗旦は、10歳の頃に家督争いをさけるために、利休の希望で大徳寺に預けられました。春屋宗園のもとで禅の修行を積んで出家すると、将来大徳寺興隆を期待されるほどになりました。

1594年、利休を切腹させた豊臣秀吉により千家再興がかなうと、少庵の希望で還俗し、秀吉が利休から召し上げた茶道具を宗旦を名ざしで返したことから、宗旦が利休の後継者と目されるようになりました。やがて、妻帯して長男宗拙、次男宗守をもうけ、1600年ころには、少庵の隠居により家督を継ぎました。

こうして本格的に茶会活動をはじめると、弟子たちととも利休流のわび茶に精神主義的な奥深いものにし、茶の湯と禅の融合を心がけるようになりました。1620~30年代ころは、小堀遠州による「きれいさびの茶」が好まれるようになると、宗旦は時代に逆行するように、一畳台目(約2畳の広さ)の茶室を構築したことから、まるで乞食修行を行っているように清貧であるということから、「乞食宗旦」と呼ばれたといわれています。

自らは、祖父利休の悲劇を顧みて仕官することはありませんでしたが、子どもたちの就職には熱心で、長男宗拙を加賀藩前田家に、次男宗守を高松松平家に、後妻にむかえた宗見との間に生まれた3男宗左を紀州徳川家に、4男宗室も加賀藩前田家に仕えさせました。

やがて69歳のころに、父少庵から相続し「宗旦流」の中心だった家屋敷を4男宗室に譲り(これがのちの「裏千家」)、北側に建てた隠居所に隠退しました。75歳のころにこの隠居所を、3男宗左に譲って4世を名のらせ、これがのちの「表千家」となりました。また次男の宗守に官休庵を建てて、「武者小路千家」の初代としました。(長男宗拙は勘当)

こうして宗旦は、祖父利休をしのぐ茶の湯者として高く評価され、一畳台目の茶室は、わび茶の精神を表した究極の茶室とされています。


「11月19日にあった主なできごと」

1827年 小林一茶死去…江戸時代後期の俳人で、子どもや動物、自然を愛して素朴な歌を読み続けた小林一茶が亡くなりました。

1828年 シューベルト死去…『ぼだい樹』『野ばら』『アベ・マリア』など600曲以上もの歌曲、『未完成交響曲』などの交響曲や室内楽曲、ピアノ曲などを作曲したシューベルトが亡くなりました。
 
1956年 東海道本線全線電化…米原~京都間がこの日電化され、東海道本線が全線電化。電化完成により、東京・大阪間を走る最速特急が7時間半となりました。これを記念し、1964年からこの日を「鉄道電化の日」としています。

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