児童英語・図書出版社 創業者のこだわりブログ

30歳で独立、31歳で出版社(いずみ書房)を創業。 取次店⇒書店という既成の流通に頼ることなく独自の販売手法を確立。 ユニークな編集ノウハウと教育理念を、そして今を綴る。

今日はこんな日

今日12月3日は、東京専門学校→早稲田大学の草創期に、発展の礎を築いた学者・政治家の高田早苗(たかた さなえ)が、1938年に亡くなった日です。

1860年、今の東京深川に生まれた高田早苗は、東京英語学校などで英語を学び、大学予備門を経て、1882年東京大学哲学政治学及理財学科を卒業しました。在学中に法学者の小野梓と知り合ったのがきっかけで、大隈重信を盟主とする立憲改進党の結成に加わり、小野や大隈とともに東京専門学校をおこしました。

1888~90年まで読売新聞の主筆となった高田は、小野の早逝後は、事実上の学校長的存在として、私立高等教育の確立に尽力しました。1902年には東京専門学校を早稲田大学とし、1907年に総長・学長制を敷くと、初代学長に就任し(初代総長は大隈重信)、日本の私立大学全体の地位向上に努めました。

いっぽう1890年の第1回総選挙で埼玉2区から立候補し、全国最年少で当選、立憲改進党系の政党に参加して、1903年の第8回選挙まで、通算6期を務めあげました。その間、1897年第2次松方内閣(大隈と連立した松隈内閣)で外務省通商局長、1898年第1次大隈内閣(隈板内閣)で文部省参事官、高等学務局長、参与官兼専門学務局長となって活躍しています。1915年5月に貴族院議員に勅撰されると、同年8月には第2次大隈重信内閣の文部大臣として入閣しました。

1917年、早大騒動により一時大学から離れますが、1922年に大隈没後は総長に就任しています。こうして、多岐にわたる早大への功績から、学内の高田早苗記念研究図書館に名を残しています

なお高田は、英米政治研究の第一人者として『英国政典』『英国憲法史』などを著し、文芸・演劇・絵画にも第一級の鑑賞眼を示す人物でした。


「12月3日にあった主なできごと」

1552年 ザビエル死去…1549年に、初めて日本へキリスト教を伝えたカトリックの宣教師ザビエルが亡くなりました。

1872年 太陽暦の実施…この日旧暦(陰暦)から新暦(太陽暦)に変わり、旧暦明治5年12月3日が、新暦明治6年1月1日となりました。日本では、7紀末以来1200年以上も陰暦が使われてきましたが、幕末から欧米諸国との交渉が始まると、太陽暦と1か月前後の差が不便になり、国際的に広く使われているグレゴリオ暦の採用が急がれていました。

1894年 スティーブンソン死去…冒険小説『宝島』によって名をなし『ジキル博士とハイド氏』『誘惑されて』など独自の文学を開いたイギリスの作家スチーブンソンが亡くなりました。

今日12月2日は、三菱合資会社の4代目として社長に就任し、日本最大の重工業企業集団に成長させた岩崎小弥太(いわさき こやた)が、1945年に亡くなった日です。

1879年、三菱合資会社の創始者岩崎弥太郎の弟で2代目岩崎弥之助と、後藤象二郎の長女早苗を母に、その長男として東京に生まれた岩崎小弥太は、旧一高を経て東京帝国大学法科大に入学するものの中退して渡英、1902年にケンブリッジ大学へ入学し、1905年同大学を卒業して翌年帰国すると、三菱合資会社の副社長となりました。社会的活動に目をむけた小弥太は、1907年には成蹊学園を創立し、1910年には東京フィルハーモニック・ソサエティを設立して洋楽の振興につとめ、翌年には山田耕筰を後援して交響楽音楽会を開催しました。

1916年、3代目岩崎久弥(弥太郎の長男)のあとをつぎ、三菱合資会社4代目となった小弥太は、社長に就任するや、三菱の事業組織の改革に陣頭指揮をとって臨みました。これまでの三菱の諸事業は、三菱合資会社の事業部だったものを、1917年から21年までに順次、三菱造船、三菱製鉄、三菱倉庫、三菱商事、三菱鉱業、三菱海上火災保険、三菱銀行、三菱内燃機製造、三菱電機各社を、それぞれ独立した株式会社として設立しました。そして、三菱合資会社はすべての会社の株式を所有する持株会社となり、傘下各社を支配する日本最大の重工業企業集団に成長させました。これは、三菱財閥の完成ともいえる大改革でした。

小弥太以前の三菱の事業は、岩崎家の独占的ともいえる出資によってきましたが、「資本の一部を社会公衆に頒かち、出来うれば従業員をも参加せしめて、開放的に事業を経営したい」と、株式公開が時代の流れであることを主張しています。必ずしも、その通りにはならなかったものの、考え方の基本はそこにありました。

太平洋戦争開始前の小弥太は、戦争反対の立場を貫いていましたが、開戦後は国家の政策に協力するのが国民の義務であるとして、軍需生産にまい進しました。1945年8月の日本の敗戦時には病の床にあり、GHQの圧力による財閥解体には、三井、住友、安田がこれに同調したのに対し、小弥太は「国策の命ずるところに従って全力を尽くしたのであり、顧みて恥ずべきものはなにもない」と、最後まで抵抗しましたが適わず、この日亡くなってしまいました。


「12月2日にあった主なできごと」

1922年 ベル死去…聾唖(ろうあ)者の発音矯正などの仕事を通じて音声研究を深めているうちに、磁石式の電話機を発明したベルが亡くなりました。

1970年 歩行者天国…東京銀座・新宿・渋谷などで、歩行者天国が実施され、ふだんの日曜日の2.4倍もの人びとがくりだしました。この日の一酸化炭素濃度が、ふだんの日の5分の1になったことから、車の排気ガス汚染を食い止め、汚染のない環境をとりもどそうと、全国各地に広まるきっかけになりました。

今日12月1日は、長編小説『平将門』『天と地と』、史伝『武将列伝』長編史伝『西郷隆盛』など、たくさんの歴史小説を著した作家の海音寺潮五郎(かいおんじ ちょうごろう)が、1977年に亡くなった日です。

1901年、今の鹿児島県伊佐市に生まれた海音寺潮五郎(本名・末富東作)は、国学院大学高等師範部国漢科を卒業後、指宿中学や京都府立二中の教師を務めながら小説を書き続け、1929年に『うたかた草紙』、1932年に『風雲』が、『サンデー毎日』懸賞小説に、2度にわたって入選しました。

1934年、教職を退いて鎌倉に居を構えて文筆に専念すると、1936年に茶人千利休と娘のお吟の生涯をえがいた『天正女合戦』他で直木賞を受賞しました。太平洋戦争中は、 陸軍報道班員として徴用されて約1年間マライへ行くものの、体調をこわして帰国後入退院をくりかえし、戦争末期には鹿児島に疎開しました。敗戦後、執筆を開始するもののGHQの検閲により発表できず、1952年になって『蒙古来る』が「読売新聞」に連載を開始することができ、1954年に単行本化されました。

海音寺の名がいちやく、一般の人たちにも有名になったのは、上杉謙信をえがいた長編小説『天と地と』(1960~62年刊)を原作に、NHKの大河ドラマで初カラー作品として、1969年に1年間放送されてからでしょう。川中島の戦いでの謙信と信玄の対決は、名場面として評判となったばかりか、1年を通じて高視聴率を続けました。1976年にも、『平将門』(1955年刊)と、藤原純友を描いた『海と風と虹と』(1955年刊)を原作とした『風と雲と虹と』がNHK大河ドラマになりました。平安時代中期を舞台に、ほぼ同時期に朝廷に対する反乱を起こした平将門・藤原純友は、余り知られていない人物にもかかわらず、この作品も高視聴率を記録しました。

海音寺の代表作は、上記以外に、連作小説『二本(ふたもと)の銀杏(ぎんなん)』(1959~61年刊)、『火の山』(1961~62年刊)、『風に鳴る樹』(1963~64年刊)などの歴史小説や、史伝(フィクションの要素を完全に排除し広範かつ詳細な文献調査した独自の文学)『武将列伝』に33名収録(1959~60年刊)、『悪人列伝』に24名収録(1961~62年刊)、ライフワークで絶筆・未完作の長編史伝『西郷隆盛』(1976~78年刊)などで、乱世の英雄をえがいた作品には右にでるものがないといわれ、その男性像は意地と節操を貫く悲壮美と力感にあふれていると高く評価されています。1973年に文化功労者に選ばれ、1977年、芸術院賞が贈られました。


「12月1日にあった主なできごと」

1789年 ギロチンの採用…フランス革命のころ、死刑執行のために使われた首切り器械のギロチンは、医師のギヨタンが提案してこの日の国民議会で採用されました。ルイ16世やその妃マリー・アントアネットをはじめ何万人もの人が首を切られましたが、ギヨタンもまたギロチンで処刑されました。

1997年 京都議定書…「地球温暖化防止会議」が、この日から10日間京都で行なわれ、地球温暖化の原因となる温室効果ガスをだす量を、先進国が国別に目標値を定めて減らしていくことを決めました。この取り決めは「京都議定書」と呼ばれています。

今日11月30日は、大正デモクラシーの最先頭に立って言論活動を行い、戦後は国際的平和運動に身をささげた政治学者・社会運動家の大山郁夫(おおやま いくお)が、1955年に亡くなった日です。

1880年、今の兵庫県相生市の福本家に生まれた郁夫は、17歳の時に養子縁組により大山姓となりました。東京専門学校に入学すると、在学中に早稲田大学政治経済学部に改組され、1905年に同学部を首席で卒業しました。1906年に同大学の講師となり、1910年よりアメリカとドイツに留学して1914年に帰国すると、早大の政治学教授に就任し、国家主義的デモクラシー論を携えて論壇にも登場しました。

ところが、1917年の早稲田騒動により同僚教授の解雇に反対して大学を辞すと、大阪朝日新聞社に入社して、鳥居素川編集局長のもとに長谷川如是閑とともに、大正デモクラシーの最先頭に立って言論活動を行いました。翌年、当時の寺内正毅内閣のシベリア出兵や米騒動への対処に激しい攻撃を加えたところ、弾圧の機会をねらっていた内閣は、報道記事の中にあった〈白虹日を貫けり〉という一句を問題視し、新聞紙法の「朝憲紊乱」に当たると同紙を発行禁止にもち込もうとしたことで、大山は、如是閑ら論説委員たちと辞職しました(白虹筆禍事件)。1919年に大山は、如是閑らと雑誌「我等」を創刊し、民主主義思想を広めることにつとめました。

1920年に早大に復職すると、このころから社会主義に接近し、知識人の無産運動への参加協力の必要を唱えるようになり、1923年に軍事研究団反対運動への参加を契機に、早大内で学生たちと大学の自由と自治擁護運動の中心となってたたかいました。

1926年には、結成されたばかりの「労働農民党」の中央執行委員長に就任し、「輝ける委員長」として、多くの労働者や農民から慕われ、無産政党運動の先頭にたちました。1929年、暗殺された山本宣治追悼演説で「われらの行くところは戦場であり墓場である」の文句は有名です。

1929年11月に、新労農党を結成して翌年衆議院議員に当選しましたが、労農党は内部からの解消運動によって他党との合同を余儀なくされ、1931年に満州事変がおこると軍部の力が強まり、大山は政治的に孤立し、弾圧をのがれるために1932年に渡米、ノースウェスタン大学政治学嘱託として亡命生活を送りました。

1947年、16年ぶりに帰国した大山は、「国の内外の反動勢力と闘わなくてはならない」と宣言、早大に復帰して国際的平和運動に身をささげました。1950年には参議院議員に選ばれ、1951年にスターリン国際平和賞を受賞し、議員在職中に亡くなりました。


「11月30日にあった主なできごと」

1667年 スウィフト誕生… 『ガリバー旅行記』 などを著したイギリスの風刺作家スウィフトが生まれました。

1835年 マーク・トウェーン誕生…少年文学『トムソーヤの冒険』『ハックルベリーフィンの冒険』や『王子と乞食』など、ユーモアのなかにするどい社会風刺をもりこんだ数々の作品を著したアメリカの作家マーク・トウェーンが生まれました。

1874年 チャーチル誕生…第2次世界大戦の際、イギリス首相として連合国を勝利に導くのに大きな力を発揮したチャーチルが生まれました。

今日11月27日は、現在もっともよく使われている摂氏温度計(セ氏・ºC記号)を提唱したスウェーデンの天文学者のセルシウスが、1701年に生まれた日です。

スウェーデン中東部のウプサラに生まれたアンデルス・セルシウスは、ウプサラ大学天文学教授だった父から学んだ後、ウプサラ大学で数学・天文学・実験物理学を学び、1725年にウプサラ科学協会の書記を務めました。1730年には、父と同じウプサラ大学天文学教授となり、1744年までを務め、その間1732年から1735年までドイツ、イタリア、フランスの有名な天文台を訪ねる旅行をしています。

また、当時ニュートンが予想した地球の形状(扁球説)が、カッシーニの測量結果(長球説)と一致せず論争が続いていた問題に関して、より正確な子午線の測定が求められていました。1736年、セルシウスがパリ滞在中、モーぺルチュイと知り合い、子午線弧長の測量のためフランス王立科学アカデミーが組織したフランス探検隊に天文学者として加わり、ラップランドで行われた子午線1度の長さの実測によって、扁球説が正しいことを実証しています。

1741年、セルシウスはウプサラ天文台の創立者の1人として天文台長に就任すると、翌1742年にはスウェーデン王立科学アカデミーに投稿した論文の中で、世界最初の実用的温度計を提唱しました。これは100分目盛りの温度計であり、現在最もよく使われているセルシウス温度計の基となりました。ただし、セルシウスの提案は、水の沸点を0度、氷点を100度とするもので、現在のセルシウス温度とは逆の目盛りとするものでした。(植物学者のリンネによって氷点を0度、沸点を100度の目盛とされ、1743年ごろフランスの医師クリスタンが温度計を考案)。

ところが、その2年後の1744年、セルシウスは結核により亡くなりましたが、セルシウスの名は、摂氏温度計の名とºC記号に残り、月のセルシウス・クレーターとしても残っています。著書には、『地球形状の関する観測』、1716年から1732年まで316回ものオーロラ観測結果を収集した『オーロラの観測』があります。


「11月27日にあった主なできごと」

1095年 十字軍の提唱…ローマ教皇ウルバヌス2世は、この日フランス中部クレルモンの宗教会議で、聖地エルサレムをイスラム教徒から奪回するために、聖なる戦いを勧告。これにより、胸に十字の標識をつけた兵士・キリスト教徒が聖地にむけて出発する「十字軍時代」が始まりました。

1769年 賀茂真淵死去…江戸時代中期に活躍した国学者で、本居宣長へ大きな影響を与えた賀茂真淵が亡くなりました。

1894年 松下幸之助誕生…パナソニック(旧松下電器産業)を一代で築き上げた日本屈指の経営者であるとともに、PHP研究所を設立して倫理教育に乗りだ出す一方、松下政経塾を立ち上げて政治家の育成にも意を注いだ松下幸之助が生まれました。

1958年 皇太子婚約発表…皇太子明仁親王(現天皇)と正田美智子さん(現皇后)の婚約がこの日に発表され、美智子さんが民間から出た最初の皇太子妃となることで日本中がわきたち、ミッチーブームがおこりました。

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