児童英語・図書出版社 創業者のこだわりブログ

30歳で独立、31歳で出版社(いずみ書房)を創業。 取次店⇒書店という既成の流通に頼ることなく独自の販売手法を確立。 ユニークな編集ノウハウと教育理念を、そして今を綴る。

今日はこんな日

1936年の6月27日は、児童雑誌 「赤い鳥」を創刊した鈴木三重吉が、児童文学を愛する人々におしまれながら、亡くなった日です。
三重吉は、帝国大学(いまの東大)に在学中、グリムやアンデルセンの童話を原書で読んだり、師である夏目漱石から借りた世界各国の子ども文学に親しむうち、日本の作品が世界水準より、はるかに劣っていることを強く感じ、なんとか優れたものにしたいと考えるようになりました。卒業後は、中学校の先生をしながら大人向けの小説をかいていましたが、1916年に長女が生まれたのをきっかけに、童話を書くようになりました。そして2年後の1918年6月に「赤い鳥」を創刊、日本の童話や童謡を文学的に高める活動をはじめました。
当時、文学者として定評のあった泉鏡花、谷崎潤一郎、芥川龍之介、有島武郎、菊池寛、島崎藤村らに、子ども向けの作品を依頼、「将来この国をになう子どもたちには、大人向の作品以上に心をこめて執筆をお願いします」 という情熱は、とてもはげしいものがあったと多くの方々が回想しています。
そんな情熱がたくさんの名作を生み出したのでしょう。「赤い鳥」に掲載された作品には、芥川龍之介「くもの糸」「杜子春」、有島武郎「一房の葡萄」、新美南吉「ごん狐」などの児童文学、童謡では「からたちの花」(北原白秋)「かなりや」(西条八十) は特に評判となり、今も読みつがれ歌いつがれています。「赤い鳥」は1936年に三重吉が亡くなるまで198冊が刊行されました。
「赤い鳥」が高く評価されるのは、雑誌の発刊だけではなく、子どもの文学の大切さを世の中に広く訴え、ひとつの運動として高めたことです。「赤い鳥」 に刺激され、「金の船」(1919年)、「童話」(1920年)など、類似の児童雑誌が次々に発刊され、子どもの文化を大きく花開かせました。そして、その運動の中から、たくさんの童話作家、童謡作家、絵本作家を生み出したのです。

なお、「青空文庫」では、鈴木三重吉の代表作「古事記物語」をはじめ、25作品を読むことができます。

今日6月21日は、江戸幕府の鎖国政策に対し、海外のようすを少しも知らない国民たちに、警告を発した先駆者・林子平が、1793年、仙台のちっ居先で亡くなった日です。

「海国日本を守るためには、海軍の力を強くしなければだめだ」

林子平は、日本が鎖国で外国とのまじわりを閉じている時代に、勇気をだして、海の守りのたいせつさをとなえた人です。そのころ、世界の大きな国ぐには、発達した科学の力ですぐれた船や大砲を造って、中国や東南アジアの国へのりだし始めていました。また、ロシアも、シベリアを東へ進んで千島や蝦夷地 (北海道) へ手をのばそうとしていました。江戸で生まれ、外国の情勢を耳にしながら成長した子平は、30歳をすぎるとまもなく行動をおこしました。日本が危機にさらされようとしているときに、机に向かって学問をしているだけではいけない、と考えるようになったからです。子平は、1772年に蝦夷地へ渡って、この大きな島のようすを調べました。また、1775年から1782年にかけて、鎖国のもとでたったひとつだけ港を開いていた長崎へ何度も出かけて行き、オランダ人に外国の事情を聞きながら、海防問題を学びました。

「早く、幕府の役人たちの目をさまさせなければ、きっと、たいへんなことになる」

このように信じた子平は、47歳から53歳までのあいだに2つの本を著わして、海防の必要を役人たちに訴えました。朝鮮、琉球(沖縄)、蝦夷などの地図を示し、さらに蝦夷地がロシアにねらわれていることを注意した『三国通商図説』と、大きな船を建造し、大砲をそなえて、外国の侵略から日本を守らなければならないことを説いた『海国兵談』です。とくに、全部で16巻という『海国兵談』では、海軍の充実を叫ぶだけではなく、「江戸日本橋を流れる水は、中国やオランダまで境なくつづいているのだ」と訴えて、鎖国の世に眠りこけている幕府を、きびしくひはんしました。ところが『海国兵談』を出版した、その年の暮、子平は幕府に処罰され、本を印刷した板木をとりあげられたうえに、仙台の兄の家から外にでてはならぬ、と命じられてしまいました。外国が日本をおそってくるなどと言って、日本をさわがせた罰だというのです。

「親もなし 妻なし 子なし 板木なし  金もなけれど 死にたくもなし」。子平はこんな歌をよんで、やがて、55歳でさみしく亡くなりました。死のまえの年に、ほんとうにロシアの使節が根室に現われ、『海国兵談』はしだいにみとめられるようになりましだが、罪がゆるされて初めて子平の墓が建てられたのは、死後50年もたってからのことでした。

なおこの文は、いずみ書房「せかい伝記図書館」(オンラインブックで「伝記」を公開中)32巻「小林一茶・間宮林蔵・二宮尊徳」の後半に収録されている7名の「小伝」から引用しました。近日中に、300余名の「小伝」も公開する予定です。ご期待ください。

本日6月14日は、アメリカの小説家ストー夫人が196年前に生まれた日です。
ストー夫人の代表作は、よく知られているように「アンクル・トムの部屋」。1852年この小説が発表されるや大評判となり、1年間で30万部も売れたといいます。そして、9年後、リンカーンによって南北戦争がおこされたので、[戦争を巻きおこした小説]ともいわれています。
当時、アメリカではたくさんの黒人がどれいとして使われていました。人間の権利はなにひとつ認められず、物のように売り買いされていました。ストー夫人は、お父さんの神学校で先生をしていたストー教授と結婚、幸せな暮らしをしていました。そんなある日、ストー家で女中としてやとった黒人の少女が台所で悲鳴をあげています。ストー夫人がいってみると、少女は中年の白人の男に手をつかまれて、外にひきずり出されているところでした。男をよびとめると「わしはこの女の持ち主。こいつは、わしのところから逃げ出したんだ」「でも私が今の主人です」「そうはいきません。どれい逃亡法では、どれいは元の主人のものなんだ」「あなたは神さまに恥ずかしくないの」というストー夫人の真剣な声に男はたじろぎました。「でも、法律は法律ですからな」と、男は泣き叫ぶ少女を連れて行ってしまいました。この出来ごとが、ストー夫人の心を奮い立たせ、どれいの悲しみをどうにかして訴えたい、どれい制度をやめさせたいという思いが、この小説を書かせるきっかけとなりました。

「アンクル・トムの部屋」のあらすじは次の通りです。
セルビイ家で、トムという黒人が使われていました。トムは老人でしたが人一倍丈夫な働き者、しかも正直で信心深く、セルビイ一家はトムをとても大事にしていました。子どものジョージとは大の仲良し、「アンクル・トム」と呼んで慕っていました。ところが、セルビイ氏は事業に失敗し、トムはどれい商人に連れていかれてしまいました。このことを後で知ったジョージは、トムを追いかけ、必ずぼくがお前を買い戻すから待っていてくれと、トムに誓うのでした。
どれい商人とミシシッピー川を下っていく途中、トムは牛馬のように働かされている黒人どれいたちに心を痛めました。この船中、セントクレアという人の娘エバに出会いました。そのエバが急な船ゆれのために、川の中に落ちてしまいました。トムはすぐに飛びこんでエバを救ったおかげで、セントクレア家へ買われていきました。セントクレア家でのトムは再び幸せな日々を送り、ジョージにもその暮らしぶりを手紙に書きました。
エバは、よくつくしてくれるトムを自由な身体にしてくれるよう父に頼み、その許しを受けましたが、病魔に勝てずに亡くなってしまいます。そのご間もなく、セントクレア氏はけんかの仲裁に巻き込まれて急死してしまいました。心の冷たい夫人はトムをはじめ、使用人だった黒人をどれい商人に売り飛ばしました。
次のトムの主人となった綿栽培の農場主は、非情な男で、トムをさんざんこき使いました。でもトムには希望がありました。「いつかジョージが買い戻しに来てくれる」と。あるとき、仕事の遅い女どれいのために綿花を分けてやったトムの行為が農場主にみつかり、半殺しにされるまでたたかれます。トムの丈夫だった身体にも衰えが見えはじめ、あまりの苦しさに信仰もぐらつきはじめます。そんなトムのために、どれいの一人が脱走をすすめますが、トムはきっぱりことわりました。ところが、ある女どれいが農場を脱走しました。農場主は、それをトムのせいにし、トムをなぐり殺してしまったのです。
ちょうどその日、成人したセルビイ家のジョージが、トムを買い戻すために農場へやってきました。トムのくれた手紙を頼りに、ようやくトムの居所を探しあてたのです。ジョージは、トムの遺体にすがりつき、泣きながらトムをていねいにお墓に葬るのでした。

この歴史的名作を手に入れようといろいろ調べてみましたが、現在どこの出版社からも刊行されていません。30年前の資料によると、新潮社、岩波書店、講談社、河出書房、偕成社の5社から刊行されていたのに、とても残念なことです。

↑このページのトップヘ