児童英語・図書出版社 創業者のこだわりブログ

30歳で独立、31歳で出版社(いずみ書房)を創業。 取次店⇒書店という既成の流通に頼ることなく独自の販売手法を確立。 ユニークな編集ノウハウと教育理念を、そして今を綴る。

今日はこんな日

今日12月10日は、江戸時代後期の尼僧で歌人・陶芸家の大田垣蓮月(おおたがき れんげつ)が、1875年に亡くなった日です。

1791年、伊賀国上野の城代家老の子として京都に生まれた蓮月(本名・誠[のぶ])は、生後まもなく京都知恩院の坊官大田垣光古(てるひさ)の養女となりました。7、8歳のころから、丹波亀山城主松平家に奉公し、やがて1807年、養父光古が養子に迎えた望古(もちひさ)と結婚し、1男2女をもうけましたが、いずれも幼くして亡くなった上、1815年には望古も亡くなってしまいました。

4年後の1819年、ふたたび光古が養子に迎えた古肥(ひさとし)と再婚、1823年には夫が死別したため仏門に入ることを決め、出家して蓮月を名乗りました。養父も亡くなったため、蓮月は生まれ育った知恩院を去って、岡崎村(今の京都市左京区)に移りました。その後の蓮月は住居を転々とし、聖護院村、方広寺大仏そば、北白川の心性寺、西賀茂村など、「屋越し蓮月」と呼ばれるほどの引越し好きとして知られ、85歳で亡くなったときは、西賀茂の神光院でした。

蓮月は、幼い時から和歌に親しみ、歌道を正式に千種有功に学び、のちに香川景樹、小沢蘆庵らに私淑したといわれています。出家して岡崎村で暮しはじめたころから、陶芸により生計をたて、自作の焼き物に自詠の和歌を釘彫りで施した作品は「蓮月焼」と呼ばれ、京のお土産として人気を博すほど評判になりました。歌文集に『海人(あま)の刈藻(かるも)』があり、幕末京都女流歌人を代表する一人とされています。代表作には次のような作品があります。

はらはらと 落つる木の葉にまじりきて 栗の実ひとり 土に声あり
山里は 松の声のみ聞きなれて 風ふかぬ日は さびしかりけり
木の間より ほの見し露のうす紅葉 おもひこがるる 始めなるらむ

なお、オンライン和歌集「千人百首」には、36首が解説付きで紹介されています。

蓮月自身は、質素な生活を生涯続け、飢饉の際には匿名で奉行所に寄付したり、資財を投じて賀茂川に丸太町橋を架けるなど、慈善活動に勤しみました。また、若き日の富岡鉄斎を侍童として暮らし、鉄斎の人格形成に大きな影響を与え、幕末の志士頼三樹三郎や梅田雲浜らとも親交したといわれています。


「12月10日にあった主なできごと」

1896年 ノーベル死去…ダイナマイトを発明したスウェーデンの化学技術者ノーベルが亡くなりました。「人間のためになると思って苦労して発明したものが、人々を不幸にしている」── そう気づいたノーベルは、死ぬ前に遺言を書きました。「財産をスウェーデン科学学士院に寄付するので、そのお金の利子を人類の平和と進歩のためにつくした人に賞として贈ってほしい」。こうしてノーベルの死後5年目の1901年から、遺志にしたがって「ノーベル賞」を贈ることがはじまり、命日であるこの日が授賞式となりました。
なお、最近の日本人のノーベル賞は、2012年にiPS細胞を作製し再生医療実現に道を開いた山中伸弥(医学・生理学賞)に続き、昨年は青色発光ダイオード(LED)の開発と商品化により、赤崎勇・天野浩・中村修二の3名(物理学賞)が受賞しました。そして今年は、線虫の寄生による感染症に対する治療法発見などにより大村智(医学・生理学賞)とニュートリノ振動の発見により梶田隆章(物理学賞)が受賞、日本生まれのノーベル賞受賞者は24名となりました。

今日12月9日は、弁慶などの荒物から、他に追随を許さない内面的な演技まで、4世吉田文五郎と共に、文楽人形の全盛期を創りあげた吉田栄三(よしだ えいざ) が、1945年に亡くなった日です。

1872年、今の大阪市南区に玩具の人形作りの子に生まれた吉田栄三(本名・柳本栄次郎)は、母方の叔母が女義太夫で、幼いころから義太夫節に親しみました。その叔母が人形遣いの吉田栄寿と結婚したことから、1883年にその紹介で人形遣いとなり、吉田光栄(みつえ)を名のって、日本橋の「沢の席」という小屋で初舞台を踏みました。

1884年に彦六座が開場するとすぐに入座するものの、その後は特に決まった師匠をもたず、稲荷座などにも出入りしながら、名人といわれる人たちからむさぼるように伝統的技術や型を学びました。その間、1892年に生涯の名跡「栄三」と改名しています。1898年に稲荷座がなくなると、御霊神社境内にあった御霊文楽座に移り、初世玉造と紋十郎から厳しく鍛えられ、2人の人形の手足を手伝いながら先人の型を自分のものにしていきました。

1907年に紋十郎の代役で、『和田合戦』の「市松初陣の段」での一場面が大好評となってこれが出世芸となり、やがて文楽座の花形となって活躍、1927年には長らく空席だった人形の座頭(ざがしら)になりました。初めのうちは女方をやっていましたが、座頭になってからは、女形は4世吉田文五郎に譲って、もっぱら立役に転じ、小柄な身体ながら弁慶、熊谷、光秀など荒物を見事にこなしたばかりか、『天の網島』の治兵衛、『沼津』の重兵衛、『良弁杉由来』の良弁などは、他に追随を許さない渋く内面的な演技として、近世の名人といわれました。

栄三の演技は、常に華麗な女形の文五郎と対比されながら、2人によって文楽は絢爛たる人形時代を創りあげ、1943年に文五郎とともに朝日文化賞を受けました。ところが、1945年3月の米軍による空襲により、文楽座は炎上し、栄三の自宅も焼失、この日奈良の疎開先で栄養失調により死去しました。いわば、「戦死」でした。


「12月9日にあった主なできごと」

1860年 嘉納治五郎誕生…講道館柔道の創始者であり、日本のオリンピック初参加に尽力するなどスポーツの海外への道を開いた嘉納治五郎が生まれました。

1916年 夏目漱石死去…『坊ちゃん』『吾輩は猫である』『草枕』などの小説で、森鴎外と並び近代日本文学界の巨星といわれる夏目漱石が亡くなりました。

1945年 農地改革…連合国軍総司令部(GHQ)は、占領政策として経済構造の民主化をはかりましたが、そのひとつが、この日指令された「農地改革に関する覚書」でした。1947年から49年の間に、全国260万町歩の小作地のうち200万町歩が自作農に解放され、地主制はほぼ壊滅することになりました。

今日12月8日は、明治時代の「自由民権運動」に大きな影響を与えたイギリス在野の哲学者・社会学者のスペンサーが、1903年に亡くなった日です。

1820年、イングランド中部の都市ダービーに、非英国教会の家庭に生まれハーバート・スペンサーは、教師であった父の方針で学校教育を受けず、父と叔父を教師として、家庭で教育を受けました。16歳でロンドン・バーミンガム鉄道の鉄道技師として働きながら著作活動を行ない、1843年には経済誌「エコノミスト」記者になり、1848年には同誌の副編集長になっています。叔父の遺産を相続した1853年以降は、亡くなるまで約50年間、どこにも勤めず、結婚もせず、在野の研究者として著述に専念しました。

その間、1858年にダーウィンが進化論を発表しましたが、スペンサーはそれに先んじて、生物は単純なものから複雑なものに分化してきたと主張し、のちに、この考えを基礎に、「社会進化論」をとなえ、宇宙の生成から人間社会の進歩から道徳倫理の原理まで、あらゆるものを「進化論」の立場に立って統一的に説明しようと試みました。それが1862~96年まで35年かけて完成させた『総合哲学体系』(10巻)でした。

スペンサーの思想は、個人主義と自由主義を擁護するものだったために、1870年代以降、イギリスのJ・Sミルやアメリカの鉄鋼王カーネギーら欧米諸国の進歩的な人々のなかに広く普及し、日本でも自由民権運動の活動家に広く受け入れられ、1880~90年代の明治期は、スペンサーの著作が数多く翻訳されて、「スペンサーの時代」と呼ばれるほどでした。

いっぽうスペンサーは、オーギュスト・コントの実証主義と社会学思想に大きな影響を受け、社会学の創始者の一人としても有名です。その社会学は、社会を「システム」として把握し、これを、維持、分配、規制の各システムに分け、社会システムの「構造と機能」を分析上の中心概念とするもので、社会有機体説と呼ばれています。現代社会学における「構造機能主義」の先駆とされ、とくに「自由放任」という経済政策上の考えを、社会全体に拡大したことで、政府の規制を好まないアメリカでは熱狂的に支持されました。

晩年は、栄光にみちていたばかりか、その思想はアメリカのサムナーら後継者に引き継がれ、のちの1920年代アメリカの社会学、社会思想の中枢となりました。


「12月8日にあった主なできごと」

BC441年 シャカの悟り…仏教を開いたインドのシャカが、王宮の妻子の元を離れて6年目のこの日、悟りを開いたといわれています。

1941年 太平洋戦争勃発…日本の連合艦隊がハワイ・オワフ島の真珠湾に停泊中のアメリカ太平洋艦隊を奇襲して、この日から3年6か月余にもおよぶ太平洋戦争に突入しました。

1980年 ジョン・レノン射殺…世界的なロックバンド、ビートルズの中心メンバーだったジョン・レノンが、ニューヨークの自宅アパート前で、熱狂的なファンにピストルで撃たれて亡くなりました。

今日12月7日は、西洋哲学、とくにドイツ哲学を日本に紹介し、東大の日本人初となる哲学教授に任ぜられた井上哲次郎(いのうえ てつじろう)が、1944年に亡くなった日です。

1856年、筑前国(福岡県)太宰府に、医師船越俊達の三男として生まれた哲次郎は、中村徳山に儒教を学んだのち、1868年博多に出て英語を学び、1871年に長崎の広運館に入って西洋学を修めました。1875年には上京して開成学校に入学、1877年に東京大学の1期生として哲学を専攻、翌年、井上鉄英の養子となりました。

1880年同大学を卒業すると、文部省に入り御用掛として勤務するかたわら、1881年に杉浦重剛らと「東洋学芸雑誌」を発刊し、日本初の哲学辞典『哲学字彙』を編さんしたのをはじめ、ベイン『心理新説』の翻訳、『倫理新説』『西洋哲学講義』の刊行など、やつぎばやに多くの業績を残しました。いっぽう、1882年には東大助教授として東洋哲学史の編さんに従事したり、外山正一、矢田部良吉と『新体詩抄』を出版して、新体詩運動のさきがけとなっています。

1884年、哲学修業のためにドイツに留学した井上は、ハイデルベルク大学とライプツィヒ大学でフィッシャー、ブントらに学びながら、ドイツ観念論哲学を本格的に研究しました。1890年に帰国すると、東京大学から東京帝国大学となった東大で、日本人初の哲学教授に任ぜられ、西洋哲学、とくにドイツ哲学の紹介に大きな功績を残しました。

いっぽう、1890年に「教育勅語」が発布されると、翌1891年に政府の意を受けて、その解説書『勅語衍義(えんぎ)』を出版しています。さらに1893年には『教育と宗教の衝突』を刊行し、内村鑑三不敬事件(第一高校教師のとき「勅語」に礼をしなかった)などを取り上げて、キリスト教を反国体的宗教として激しく批判して、世論を動かしました。こうして、国粋主義者といわれながらも、明治政府の道徳主義を後押しする思想界の切り込み隊長的な行動をしました。しかし、国民道徳としての『教育勅語』には限界を覚え、やがて世界道徳を説くようになり、国民道徳と世界道徳との矛盾を解消しようとしました。

井上は、日本古来の思想をよみがえらせることにも努め、『日本陽明学派之哲学』を1900年に著すなど、近世儒教研究を行いました。また、1912年に刊行した『国民道徳概論』で国民道徳の基礎づけの研究など、終始、天皇制国家主義を貫いた学者として知られています。


「12月7日にあった主なできごと」

1827年 西郷隆盛誕生…大久保利通、木戸孝允と並び、徳川幕府を倒すために大きな功績のあった「維新の三傑」の一人西郷隆盛が生まれました。

1867年 日本初の紡績工場…薩摩藩は、イギリスのプラット社から3600錘もの紡績機械を購入し、技師をつきそわせてこの日その荷が長崎に到着。それからまもなく、薩摩藩は、家内工業的な機織にかわる近代的な「鹿児島紡績工場」を操業させました。
 
1878年  与謝野晶子誕生…『みだれ髪』など明治から昭和にかけて活躍した歌人であり、詩人・作家・思想家としても大きな足跡を残した与謝野晶子が生まれました。

今日12月4日は、電気火花を当てるとカエルの筋肉がけいれんすることを発見し、生体電気研究のきっかけをつくったイタリアの医師で物理学者のガルバーニが、1798年に亡くなった日です。

1737年、イタリアのボローニャに、医師の子として生まれたルイージ・ガルバーニは、1959年、ボローニャ大学で哲学と医学の学位をえて医者になると、1762年にボローニャ大学医学教授に就任しました。1766年に解剖学博物館の管理者に任命され、1775年、同大学の解剖学教授になると、とくに鳥類の聴覚器や泌尿器・生殖器の比較解剖学的研究で有名になりました。

やがて、動物電気に興味を持ったガルバーニは、研究室に起電機(静電気発生装置)やライデン瓶(静電気を貯める装置)を置き、1780年11月、皮をむいたカエルの後ろ足にメスが触れたとき、カエルの足が激しく震えるのを発見したことが、電流の発見の糸口になりました。この現象は、起電機の放電の結果だと考え、雷(大気中の放電)のときにも同じ現象が生じることを確認しました。また、鉄の格子に真ちゅうのかぎでカエルの足をつるしておくと、晴れた日でもけいれんが生じることに気づき、さらにを研究を深めて、神経や筋肉中に動物特有の電気があることを解明し、ライデン瓶のように筋肉中にたまった電気が金属で回路がつくられたときに放電すると考えました。

こうして1791年、『筋肉運動における電気の作用に関する覚書』として出版すると、この動物電気は、「ガルバーニ電気」といわれて有名になり、各国の学者たちはこぞって電気現象についての研究を進めました。

1796年にボローニャは、フランスのナポレオン軍によって占領され、イタリア共和国の一部となりました。新国家に忠誠を示さなかったためにガルバーニは教授の職を追われてしまい、失意のうちに亡くなりました。

やがて、動物の身体以外の適当な導体を連結するだけで電流が生ずることがわかり、1800年に同じイタリア人のボルタが電池を発明して、動物電気の問題に決着をつけました。しかし、ガルバーニのいう動物電気が、脳から出て神経を通り身体中に伝わるという生体電気研究は、今日の神経系の電気パターンや信号の研究につながっています。


「12月4日にあった主なできごと」

1027年 藤原道長死去…平安時代中期の貴族で、天皇にかわって摂政や関白が政治をおこなう「摂関政治」を独占。藤原氏の全盛期を生きた藤原道長が亡くなりました。

1722年 小石川養生所設立…江戸幕府は、貧しい病人のための無料の医療施設として、東京・文京区にある小石川植物園内に小石川養生所を設立しました。第8代将軍徳川吉宗と江戸町奉行の大岡忠相が主導した「享保の改革」における下層民対策のひとつで、町医者の小川笙船が、将軍への訴えを目的に設置された「目安箱」に投書したのがきっかけでした。幕末まで140年あまりも、江戸の貧民救済施設として機能したといわれます。この診療所の様子は、山本周五郎の小説『赤ひげ診療譚』や、この原作をもとに黒沢明が映画化した『赤ひげ』で知られています。

1890年 血清療法…ドイツの細菌学者コッホのもとへ留学していた北里柴三郎は、破傷風とジフテリアの免疫血清療法を発見したことを発表しました。

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