児童英語・図書出版社 創業者のこだわりブログ

30歳で独立、31歳で出版社(いずみ書房)を創業。 取次店⇒書店という既成の流通に頼ることなく独自の販売手法を確立。 ユニークな編集ノウハウと教育理念を、そして今を綴る。

今日はこんな日

今日10月19日は、20世紀初頭の旧中国のありかた・みにくさを鋭く批判した「狂人日記」「阿Q正伝」を著した魯迅が、1936年になくなった日です。

中国近代文学の父とたたえられている魯迅は、1881年、中国東部の浙江省で生まれました。本名は周樹人といいました。魯迅は、小説を書くようになってからの、ペンネームです。

10歳をすぎるまでの魯迅は、家が豊かなうえに、理解ある両親や祖父にかこまれ、たいへんしあわせでした。絵本を読むことと、絵本の絵を写して楽しむことがすきな少年でした。

ところが、12歳のとき、とつぜん祖父が牢獄につながれ、そのうえ、父が病気でたおれ、家族の生活は一気にどん底にたたき落とされてしまいました。質屋へお金を借りにいく魯迅を見て、それまで「坊っちゃん」とよんでうらやんでいた人たちは、あざけり笑うばかりでした。父は、3年ごに亡くなりました。

「人間の心って、なんて冷たいんだろう」

人の心のみにくさを知った魯迅は、役人にも商人にもなるのをこばみ、17歳のとき、学問の道を求めて故郷をあとにしました。母は、泣きながら、わずかなお金をにぎらせてくれました。

江蘇省の都市南京で、およそ3年、西洋の新しい学問を学んだのち、21歳の年に留学試験に合格して日本へ渡りました。そして、東京で日本語を学び、やがて医者になる夢をいだいて、仙台医学専門学校へ入りました。

しかし、2年ご、中国人がロシアのスパイとして日本軍に殺される場面をスライドで見た魯迅は、医学をすてました。

「中国人の精神をかえなければだめだ」

虫けらのように殺される中国人、それを何もできずに見ている中国人の群。この悲しみをおさえることができず、文学の力で、新しい中国人と中国を育てていくことを、ちかったのです。

28歳のときに帰国して、師範学校の先生になりました。

まもなく辛亥革命がおこって清朝がたおれ、新しい中華民国が生まれました。魯迅は胸をおどらせました。ところが1年もすると、軍の力で、またも古い中国へもどりはじめました。

魯迅は、筆をにぎって立ちあがりました。中国の古い社会をきびしくひはんした名作『狂人日記』を発表したのは、37歳のときです。数年ごには、中国人のみにくいどれい根性をえぐりだした『阿Q正伝』を書きあげ、心の弱い人びとの前につきだしました。また、政府ににらまれながら、中国の生まれ変わりをうったえる評論や論文も、次つぎに発表していきました。

中国の人びとに勇気をあたえつづけた魯迅は、1936年に、55歳の生涯を閉じました。それは、日本とのあいだで日中戦争が始まる、まえの年でした。

なお、この文は、いずみ書房「せかい伝記図書館」(オンラインブックで「伝記」を公開中)16巻「アムンゼン・チャーチル・シュバイツァー」の後半に収録されている7名の「小伝」から引用しました。近日中に、300余名の「小伝」を公開する予定です。ご期待ください。

今日10月17日は、ピアノの形式、メロディ、和声法など、これまでにない表現方法を切り開いた作曲家ショパンが、1849年になくなった日です。

ピアノの詩人とたたえられるフレデリック・ショパンは、ポーランドの首都ワルシャワの近くで1810年に生まれました。父も母も、音楽を愛する人でした。

ショパンは、4歳のころからピアノをたたきはじめました。

7歳で作曲の才能を示し、8歳でピアノ演奏会を開き、天才少年とよばれるようになった中学生時代には、とうぜん、音楽家として生きていくことを心に決めていました。

20歳のとき、祖国をあとにしました。このころ初恋にやぶれたショパンは、失恋の悲しみをのりこえて偉大な音楽家への道をつき進むために、心のつばさを広げたのです。

「祖国を思いだしながら、がんばってくれたまえ」

馬車にゆられるショパンの手には、ふるさとの人びとからおくられた、祖国の土をつめた銀のカップが、しっかり、にぎられていました。

1831年の9月、ショパンは、ヨーロッパ文化の花が咲きみだれるパリで、新しい生活を始めました。初めは、祖国のことを思わない日はないほど孤独でした。ポーランドからでてきたいなかものの青年など、だれも相手にしてくれなかったからです。

でも、作曲家、ピアニスト、文学者、画家たちと交わるうちに、しだいに、ピアノの詩人と、みとめられるようになりました。そして、パリ生活2年めに開いた演奏会で、ピアニストショパン、作曲家ショパンの名は、パリの人びとにすっかり愛されるようになりました。

栄光につつまれたショパンは、パリを第2のふるさとにして、活やくをつづけました。演奏よりも作曲に力を入れ、夢のようにやさしいノクターン、優雅なワルツ、おごそかで美しいポロネーズ、情熱にあふれるマズルカなど、さまざまな種類の曲を次つぎに生みだしていきました。ポロネーズも、マズルカも、ポーランドの舞曲です。パリの空の下にいても、ショパンの胸には祖国への愛が、いつも燃えていたのです。

パリへきてからも恋をしました。しかし、婚約までした女性とも、また9年も交際した女性とも、むすばれませんでした。

結核におかされていたショパンのからだは、30歳をすぎたころから少しずつ衰えていきました。そして、1848年にロンドンで大成功をおさめた演奏旅行を最後にたおれ、つぎの年、ろうそくの火が燃えつきるようにして、39歳の短い生涯を閉じました。パリにほうむられようとするショパンの遺体にふりかけられたのは、銀のカップの中のポーランドの土でした。

この文は、いずみ書房「せかい伝記図書館」(オンラインブックで「伝記」を公開中)10巻「リンカーン・ダーウィン・リビングストン」の後半に収録されている7名の「小伝」から引用しました。近日中に、300余名の「小伝」を公開する予定です。ご期待ください。

なお、ショパンの名は、音楽コンクールの草分けでもあり、若いピアニストの登竜門ともなっている「ショパン国際ピアノコンクール」に燦然と遺されています。ショパンの故郷ワルシャワでほぼ5年に1度、ショパンの命日の前後に開かれ、1927年から2005年まで、すでに15回開催されてきました。世界的な大イベントとしていつまでも続くことでしょう。

今日10月9日は、ユーモア、風刺、空想に満ちた作品「ドン・キホーテ」を著したスペインの作家セルバンテスが、1547年に生まれた日です。

騎士道物語を読みふけっていたドン・キホーテは、いつしか自分が物語の主人公になってしまいました。よろいかぶとに身をかため、やりを持ち、よぼよぼのやせ馬にまたがって、武者修業にでかけました。けらいは、ロバにのった小作人のサンチョ・パンサです。ある農家の風車を、巨大な怪物と思いこんだキホーテは、やりをかざして、もうぜんと風車におそいかかっていきました。

セルバンテスの小説『ドン・キホーテ』です。17世紀はじめのスペインの小説家セルバンテスは、当時流行の騎士道物語とは、ちがったかたちの読物を書こうとしました。『ドン・キホーテ』では、こっけいな英雄気どりの騎士を登場させ、ユーモアあふれる話のなかで、世の中のむじゅんをするどく風刺しています。なにをやってもうまくゆかないドン・キホーテのように、セルバンテスの人生も、なかなか芽がでませんでした。

セルバンテスは、1547年にスペインの首都マドリードに近いアルカラ・デ・エナーレスに生まれました。父は町医者でしたが暮らしは貧しく、あちこちにうつり住みました。セルバンテスは学校にもあまり通えませんでした。23歳のときにイタリアへわたり、軍隊にはいりました。1571年のレパント海戦にくわわって、セルバンテスは負傷し、一生左手がつかえなくなってしまいます。それでも、地中海の各地でいさましく戦い、スペイン海軍の司令官から表彰されたりしました。しかし、スペインに帰るとちゅう、海賊につかまってしまい、アフリカのアルジェリアで5年間も奴れい生活をつづけました。

1580年、ようやくマドリードへもどってきました。それからは、なにをやってもうまくいきません。田園小説『ラ・ガラテア』や、戯曲『ヌマンシア』などを発表しましたが、これも、評判は良くありませんでした。セルバンテスはしかたなく、アンダルシアへいって食糧を集める役人になりました。ところが、銀行が破産したりして、ろう屋にいれられるようなしまつです。

ほかの地へ、またほかの地へ、といったふうに10年ちかくも歩きまわったあげく、ふたたびマドリードにもどってきました。1604年、びんぼうのどん底でなかばやけっぱちで書きあげたのが『才知あふれる郷士ドン・キホーテ・デ・マンチャ』でした。これが、セルバンテス自身もびっくりするほど人気を集めました。1615年には、続編も出版しました。のちに、人間をえがいた近代小説のはじまりと評された本です。しかし、セルバンテスの生活は最後まで楽にはなりませんでした。

なおこの文は、いずみ書房「せかい伝記図書館」(オンラインブックで「伝記」を公開中)5巻「ミケランジェロ、レオナルド・ダ・ビンチ、ガリレオ」の後半に収録されている7名の「小伝」から引用しました。近日中に、300余名の「小伝」を公開する予定です。ご期待ください。

今日10月1日は、フランス革命の精神的導きをしたことで名高いルソーらに学び、自由民権思想を広めた明治期の思想家・中江兆民が、1847年に生まれた日です。

明治時代にわきおこった自由民権運動の、理論の面での指導者としてあおがれたのが、中江兆民です。

兆民は、江戸時代の終わりころ、土佐藩(高知県)の下級武士の家に生まれました。幼いときから学問をこころざし、19歳のころには藩の留学生として長崎へ行き、フランス語を学びました。さらに2年ごには、江戸や横浜でフランス語を学んで、フランス公使の通訳をするまでになりました。まもなく、明治政府が誕生し、政府が西洋へ留学生を送ることになると、政府の実力者のひとり、大久保利通に直接交渉して、留学生になりました。1871年(明治4年)24歳のときのことです。

およそ3年におよぶフランス留学で、思想家ルソーのとなえた民主主義の考え方を心にきざんだ兆民は、帰国して仏学塾を開きました。やがて、フランスで知り合った西園寺公望とともに『東洋自由新聞』を創刊して、自由と権利を守ることが、どんなにたいせつであるかを訴えました。そして、1882年(明治15年)にルソーの『民約論』をほん訳して、自由民権運動を進める人びとに指導者とあおがれ、東洋のルソーとよばれるようになったのです。

兆民は、次つぎと政府の政策を批判する文章を書き、国民のことを考えない政治のあり方に反対しつづけました。しかし、40歳のとき、政府ににらまれて東京を追放されてしまいます。大阪へ行った兆民は『東雲新聞』を創刊して、くじけることなく言論を武器にして政府と闘いました。

1890年(明治23年)におこなわれた第1回の衆議院選挙に立候補した兆民は、ほとんど金を使わずに当選しました。ところが、議会が開かれると、政府を批判すべきはずの野党の人たちが、政府に買収されているのをまのあたりにしました。胸のなかがはげしい怒りでいっぱいになった兆民は、きたない政治の世界に失望して議員をやめてしまいました。そのご、理想とする政党をつくるために、実業家となって資金を得ようとしましたが、ことごとく失敗してしまいました。

1901年、医師からがんにおかされており1年半しか生きられないと告げられた兆民は、最後の気力をふりしぼって、『一年有半』『続一年有半』を遺書のつもりで書き、その年に静かに息をひきとりました。高い理想を掲げ、著作活動によって日本の近代化に貢献した兆民でしたが、印ばんてんに腹がけ、ももひき姿で講演したり、夏の暑い日に井戸の中に鍋でつるしたかごに入って読書するなど、奇行の人でもありました。

なおこの文は、いずみ書房「せかい伝記図書館」(オンラインブックで「伝記」を公開中)32巻「伊藤博文・田中正造・北里柴三郎」の後半に収録されている7名の「小伝」から引用しました。近日中に、300余名の「小伝」を公開する予定です。ご期待ください。

今日9月25日は、江戸後期に長崎のオランダ商館つき医師として来日したシーボルトが、すぐれた西洋医学を広めるも帰国の際に禁じられたた日本地図などを持ち去ろうとしたことで、1829年、江戸幕府から国外追放を申し渡された日です。

シーボルトは、1796年南ドイツにあるビュルツブルクの外科医の名家に生まれ、その地の大学に学びました。医学ばかりでなく、自然科学、博物学などさまざまな学問に興味を持ち、1822年にオランダ東インド会社の外科軍医に任命されて、ジャワ勤務ののち、長崎の出島商館の医師として働くことになりました。まだ、27歳の時です。

当時、鎖国を守る江戸幕府は、外国人はオランダ人のほかは認めず、長崎の出島だけに限っていました。しかし、シーボルトの医術の高さが評判になると、長崎奉行が幕府に願い出て館外にもでられるようになり、やがて長崎郊外の鳴滝に日本人名義で土地と家屋を買い取り、そこを校舎兼診療所にして、講義と治療をするようになりました。これが名高い「鳴滝塾」で、海外の知識に飢えていた青年たちは、こぞって長崎に集まり、シーボルト先生に教えを受けにはせ参じました。たくさんの門人の中に、後に開国論者として蛮社の獄に倒れた高野長英や、小関三英、伊藤玄朴といった人たちがいました。好奇心の旺盛なシーボルトは、日本の地理や歴史、風俗や習慣、動植物の生態などにも興味を示し、シーボルトを慕う門人たちはこぞって研究資料を提供しました。

1826年、シーボルトは将軍徳川家斉に会見する長崎商館長にしたがって、江戸へ出ました。この旅行はシーボルトにとって、日本の各地を広く見学できるだけでなく、日本の自然や人文を実際に研究できるよい機会でした。江戸に3か月、京都と大坂(大阪)に数日とどまっている間に、蘭学者ばかりでなく、オランダや西洋に関心を持つ人たちと親しく会見し、見聞を深めました。とくに幕府の天文方を勤める高橋景保は、熱心にシーボルトのもとに通って、シーボルトの持っている本と伊能忠敬の作った地図などと交換しました。しかし、これが事件の原因になってしまったのです。

1828年8月、シーボルトは任期を終え、帰国間近になったとき、いわゆる「シーボルト事件」が突然おこりました。高橋がシーボルトに、大切な地図などを贈ったことを知った幕府は、江戸と長崎で、関係した幕府の役人や門人数十人をとらえて厳しく罰し、高橋は、牢の中で病死しました。シーボルトは帰国も延ばされ、1年間出島に閉じこめられた上、厳しい取調べをうけました。せっかく集めた研究資料の数々もとりあげられ、提供した門人や知人も獄に入れられたり苦しむ姿を見て、自殺をしかけたともいわれています。

帰国したシーボルトは、大著「日本」をはじめ「日本植物誌」「日本動物誌」などの本を著し、いずれも当時の日本の姿をしっかり記述した書としてヨーロッパの人たちの評価は高く、とくに日本にすぐれた地図があることに驚きました。世界地図の中に「間宮海峡」の名を残したのも、シーボルトだということです。

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