児童英語・図書出版社 創業者のこだわりブログ

30歳で独立、31歳で出版社(いずみ書房)を創業。 取次店⇒書店という既成の流通に頼ることなく独自の販売手法を確立。 ユニークな編集ノウハウと教育理念を、そして今を綴る。

今日はこんな日

今日12月25日は、1960年代から80年代にかけての24年間にわたり、ルーマニア共産党政権の独裁者として君臨するものの、「ルーマニア革命」により夫人とともに銃殺されたチャウシェスク大統領が、1989年に亡くなった日です。

1918年、ルーマニア王国オルト県スコルニチェシティの貧しい農家に、10人兄弟の3男として生まれたニコラエ・チャウシェスクは、11歳のとき、工場で働くために首都のブカレストに移りました。

1932年、当時は非合法組織だったルーマニア共産党に入党し、青年共産同盟の地方書記に就任しました。翌1933年に逮捕され、1934年にも鉄道職員試験に嘆願抗議する署名運動を扇動したことで再逮捕されて2年半投獄されました。出所と同時に青年共産同盟中央の書記になるいっぽう、ブカレスト経済専門学校に学びました。1940年からまた投獄されましたが、1943年にはトゥルグ・ジウの強制収容所に移されたとき、獄中でゲオルギュ・デジらとあって連帯感を育てました。1944年の反枢軸クーデターのあとに出獄します。

1945年5月、第二次世界大戦の敗戦によってルーマニア王国は崩壊し、1947年にルーマニア人民共和国が成立して共産党が権力を握ると、チャウシェスクは、ゲオルギュ・デジの下で国防次官を務め、翌1948年に党中央委員となりました。1952年には党中央委組織局長を務め、基盤をさらに固めると、デジにその精力と組織能力を買われて1954年に正式に政治局の一員となり、党内の序列2位に昇りました。1955年に政治局員に選任され、1965年のデジの死後は、47歳の若さで党第一書記に就任し、デジが開始した自主路線をさらに発展させました。

チャウシェスクの統治は、権限の集中が特徴的で、1967年に国家評議会議長となって、統一戦線、国防、経済、イデオロギーなどの最高機関の議長を兼務し、1974年に大統領制導入とともに初代大統領となりました。こうして、1960年代から80年代にかけての24年間にわたり、ルーマニア共産党政権の頂点に立つ独裁的権力者として君臨し、その間1960年代後半から70年代にかけては、チェコスロバキアの「プラハの春」自由化運動の際らには軍事介入に参加せず、ソ連を激しく糾弾するなど、東欧社会主義圏にあってソ連と距離を置いた自主的な外交政策を展開し、国際政治のカギを握る人物・東欧の異端児として注目され、西側マスメディアでは、スター的な存在でした。

ところが、1980年代に入ると、食糧と電力の深刻な不足が国民生活をおびやかしはじめ、労働者の抗議デモがおきて、国民の怒りが高まるいっぽうとなりました。1989年4月、チャウシェスクは、国土開発計画に着手しました。この計画は村落の破壊と村民の強制移住につながるもので、とくにトランシルバニア地帯に居住するハンガリー系少数民族200万の伝統的生活文化を奪うものでした。

やがて反体制派のハンガリー人牧師の国外強制退去が執行される12月16日、ティミショアラ市民は、逮捕にきた警官隊から牧師を守り、翌日1万人の市民と警官隊が衝突、数百人の死傷者を出しました。抗議デモはトランシルバニア一帯に拡がり、憂慮したチャウシェスクはイラン訪問から急遽帰国、21日にブカレストで政府主催の集会が10万人の市民を前に開かれました。大統領の演説が始まると、群衆のなかから「チャウシェスクを倒せ」「ルーマニア人よ、目覚めよ」との声が巻きあがり、狼狽した大統領が絶句して立ち往生しました。ここで世界にも発信されたテレビ放送は中断され、デモ隊が大統領官邸や党本部を襲い、治安警察が激しい銃撃を加えました。

翌日、政府は非常事態宣言を行うものの、ルーマニア軍は革命側につき、イリエスクを議長とする「救国戦線評議会」によって新政権が樹立されました(ルーマニア革命)。国外逃亡をはかったチャウシェスクは、失敗して逮捕されました。12月25日、特別軍事法廷で1時間足らずの裁判で死刑を言い渡されると、ただちに夫人とともに銃殺されました。翌26日に、裁判と処刑の模様が世界に向けて放映されたため、むごたらしい最期が映しだされました。しかし、異常ともいえる大統領の独裁政治の実態は、解明されないまま、永遠に闇の中に葬りさられてしまったのでした。

「12月25日にあった主なできごと」

800年 カール大帝即位…カール大帝 (シャルルマーニュ)は、この日聖ピエトロ寺院で、ローマ教皇からローマ皇帝として戴冠されました。大帝は、ゲルマン民族の大移動以来、混乱した西ヨーロッパ世界の政治的統一を達成、フランク王国は最盛期を迎えました。

1642年 ニュートン誕生…万有引力の法則、数学の微積分法、光の波動説などを発見したイギリスの物理学者・数学者・天文学者のニュートンが生まれました。

1897年 赤痢菌の発見…細菌学者志賀潔は、この日赤痢菌の病原菌を発見したことを「細菌学雑誌」に日本語で発表しました。しかし、当時の学会はこれを承認しなかったため、翌年要約論文をドイツ語で発表、この論文で世界的に認められることになりました。

1926年 大正天皇死去…1921年には当時20歳だった皇太子・裕仁親王が摂政に就任していましたが、この日大正天皇が亡くなり、裕仁親王が天皇の位を受けついで「昭和」となりました。

1928年 小山内薫死去…明治末から大正・昭和初期に演劇界の発展に努めた劇作家、演出家の小山内薫が亡くなりました。

1977年 チャップリン死去…イギリスに生まれ、アメリカで映画俳優・監督・脚本家・プロデューサーとして活躍したチャップリンが亡くなりました。


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新年は、元旦にごあいさつをいたし、5日からスタートする予定です。
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今日12月24日は、近代日本の西洋化に対決しアジア主義を唱道した国家主義的思想家の大川周明(おおかわ しゅうめい)が、1957年に亡くなった日です。

1886年、山形県酒田市に代々続く医者の家に生まれた大川周明は、旧荘内中学、五高を経て、東京帝国大学で印度哲学を専攻しました。その間、中学時代は、庄内藩の儒者角田俊次宅に下宿して漢学を学び、五高時代には学校当局の不正事件に対し見事な演説をして「快男児」と称されました。大学時代は宗教学を学ぶうち、キリスト教系の宗教団体に加入し、マルクス主義に傾倒したり、歴代天皇の業績をまとめた『列聖伝』の出版(未完)を試みるなど、多彩な秀才ぶりが注目されました。

1911年大学卒業後は、参謀本部の翻訳の仕事に従事し インドの独立運動を支援してボースやグプタを一時期自宅にかくまうなどインド独立運動に関わり、研究論文「インドに関する国民的運動の現状」を記して、インドの現状を日本人に伝える努力をしました。これが、初代満鉄総裁の後藤新平に評価され、1918年満鉄に入社した大川は、翌年に満鉄東亜経済調査局の編輯課長となって、アジア主義の立場にたち、研究や人的交流、人材育成につとめました。1920年には拓殖大学教授を兼ねながら植民史を講義し、1922年には、アジア各地域の独立運動に関して『復興亜細亜の諸問題』を著して、欧米からのアジアの解放や日本改造を訴えました。

いっぽう、1919年にはのちに「二・二六事件」(1936年) の理論的指導者として死刑になる北一輝らと「国家改造」をめざす猶存社という右翼団体をつくって親交を深めるものの、1924年には北とも意見が合わずにわかれ、行地社をつくって日本精神復興を唱え、佐藤信淵、源頼朝、上杉謙信、横井小楠らの評伝をまとめた『日本精神研究』を著しました。

1929年に東亜経済調査局理事長になると、このころから小磯国昭らの軍部と結びつくようになり、とくに陸軍の中堅将校に大きな影響を与えるようになり、1931年の「三月事件」「十月事件」の陸軍クーデター未遂事件には、大川理論の背景があったとされています。そして、1932年に犬養毅首相を暗殺した「五・一五事件」では、これを指導したとして、反乱罪で実行者とともに連座逮捕され、禁固9年に処せられました。

1937年に仮出所すると、日本史を概観する書物として『日本二千六百年史』(1939年刊)を著すや、大ベストセラーとなりました。ところが当時は、賊徒(反逆者)とみなされていた北条義時、北条泰時、足利尊氏・直義兄弟を称賛する内容があったため批判され、改訂を余儀なくされています。

敗戦後、民間人としては唯一A級戦犯の容疑で起訴されましたが、東京裁判に大川はパジャマを着用し、素足に下駄をはいて出廷、休廷中に前に座っている東条英機の頭を後ろからたたいたり、支離滅裂な言葉をはいたりしたため、オーストラリアのウェッブ裁判長に精神異常と判断され、裁判から除外しました。そのため、東京裁判で起訴された被告の中では、有罪にならなかった唯一の人物となりました。

その後大川は、入院中に以前からの念願だったコーラン全文の翻訳を完成させ、1951年には自伝『安楽の門』を著しています。


「12月24日にあった主なできごと」

1940年 西園寺公望死去…自由主義思想を支持し、2度総理大臣になるなど、明治・大正・昭和の3代にわたり活躍し、昭和初期からは「最後の元老」といわれた西園寺公望が亡くなりました。 

1944年 東京初空襲…アメリカ軍の爆撃飛行機B29が、東京へ初めて爆撃を行いました。航空機を製造する中島飛行機武蔵野工場が主な攻撃目標でしたが、やがて無差別爆撃へ戦術を変え、翌年3月10日には東京の下町を火の海にする大空襲を行いました。

今日12月22日は、第41代天皇として律令国家の確立に努め、白鳳文化の発展に尽くした女帝の持統天皇(じとうてんのう)が、702年に亡くなった日です。

645年、のちに天智天皇となる中大兄皇子の次女として、「大化の改新」開始の年に生まれた持統 (名・鸕野讚良 うののさらら)は、657年13歳のときに、叔父の大海人皇子(のちの天武天皇)に嫁ぎました。大海人は天智天皇の皇太子の地位につきましたが、天智の晩年に意思の疎通を欠き、671年に朝廷を去って吉野山に入ったため、持統もこれに従いました。

671年に天智が亡くなると、持統の異母弟の大友皇子が弘文天皇として天智の後をつぐものの、大海人は翌672年に「壬申の乱」を起こして大友を倒し、皇位について天武天皇となり、飛鳥浄御原(きよみはら)に都を定めて持統を皇后としました。

持統は天武の政治を補佐し、686年に天武が亡くなると、皇太子の草壁皇子を助けるものの、689年に草壁が亡くなると、690年に正式に持統天皇として即位しました。持統は、戸籍を作ったり「班田収受法」により、6歳以上の男女に一定の広さの土地を与える制度の実施にふみきるなど、諸制度を整備して、律令国家の確立に努めました。また、天武の都建設の計画を継いで、飛鳥地方藤原(今の奈良県橿原市)に藤原京を建設して694年に遷都しました。また、仏教を保護し、薬師寺などの寺院を建立したり、柿本人麻呂ら宮廷詩人を輩出させて『万葉集』の黄金時代を作るなど、「白鳳文化」の発展に尽くしました。

697年、皇位を孫の文武天皇に譲りますが、太上(だいじょう)天皇(のちの上皇)として文武の政治を助け、701年「大宝律令」の施行をみとどけると、その翌年に57年の生涯を閉じました。

なお、持統の歌として『万葉集』に収められている6首のひとつ「春過ぎて 夏来るらし 白妙の 衣ほしたり 天の香具山」はよく知られています。また、「小倉百人一首」にも選ばれていますが、こちらは「春過ぎて 夏来にけらし 白妙の 衣ほすてふ 天の香具山」となっています。


「12月22日にあった主なできごと」

1572年 三方が原の戦い…甲斐の武田信玄は、三方が原(浜松市付近)で、徳川家康・織田信長軍と戦い、勝利をおさめました。家康の生涯で唯一の敗戦といわれています。

1885年 伊藤博文初代内閣総理大臣…明治政府は、太政大臣制を廃止して内閣制度を開始し、初代の内閣総理大臣に伊藤博文が就任しました。

今日12月21日は、江戸時代後期の博徒で、上州から信州一帯を実質的に支配し、天保の大飢饉で農民を救済したとして講談や小説、映画、新国劇などの題材となった国定忠次/忠治(くにさだ ちゅうじ)が、1850年に亡くなった日です。

1810年、赤城山南麓の国定村(今の群馬県伊勢崎市国定町)の豪農の子に生まれた忠次(本名・長岡忠次郎)は、父が9歳で死去したため、家や土地を弟の友蔵に譲って無宿になりました。17歳のころから博徒(ばくと=金や品物を賭け、サイコロや花札などで勝負するばくち打ち)になり、しだいに有名になります。そして21歳のころ、上州大前田村(今の前橋市)の博徒・大前田英五郎の縄張りを受けついで親分となりました。

ばくち打ちを業とするものの、渡世頭取とか差配などと称して縄張り内の賭場(とば=とばく場)から寺銭をとり、無届けの賭場を荒らして金銭を奪いとりました。縄張りを守るためには子分を集めて私闘を繰りかえし、1834年には敵対する島村伊三郎を殺したことから関東取締出役に追われる身となりました。そのため長脇差、鉄砲などで武装し、赤城山を根城として役人と敵対したことで、お尋ね者となります。その後も逃亡や潜伏をくりかえすうち、1842年9月、忠治処刑の罪状の一つでもある大戸(東吾妻町大戸)の関所を破って信濃国に逃げこみました。やがて国定村に戻り、1849年には縄張りを子分の境川安五郎に譲るものの、1850年7月に中風となり、隣村(田部井村)の宇右衛門宅で療養していたところを密告され、江戸勘定奉行の取り調べの上、罪状が多すぎるため最も重い関所破りを適用されて、はりつけとなったのでした。

明治以降、講談、小説、演劇、映画、浪曲などで描かれる忠次像は、才知、胆力、人情に優れ、貧しい農民の味方をして悪い代官をこらしめる人物として扱われていますが、たいていのものはフィクション。忠次を題材とする戯曲としては、「赤城の山も今宵をかぎり」の名台詞で有名な新国劇の行友(ゆきとも)李風作『国定忠治』(1919年)、舞台に激しいチャンバラを持ち込み内省的な忠次を描いた真山青果作『国定忠治』(1932年)、新しい観点での忠次像を否定的に打ち出した村山知義作『国定忠治』(1957年)などのほか、長谷川伸らの小説、伊藤大輔監督の映画『忠次旅日記』がよく知られています。


「12月21日にあった主なできごと」

1339年 南北朝時代はじまる…後醍醐天皇が吉野に移り「南朝」を開いたため、室町幕府を開いていた足利尊氏は新しい天皇を立てて「北朝」として、朝廷の分裂時代がはじまりました。南北朝時代は、室町幕府3代将軍足利義満が1392年、北朝に統一するまで続きました。

1909年 松本清張誕生…『点と線』『ゼロの焦点』など、「社会派推理小説」と呼ばれる傑作を次々にヒットさせた松本清張が生まれました。

今日12月19日は、江戸時代後期の薩摩藩の家老で、破たん状態の財政を大改革して回復させた調所広郷(ずしょ ひろさと)が、1848年に亡くなった日です。

1776年、薩摩藩の下級武士川崎家の子として生まれた広郷(通称・笑左衛門)は、1788年に茶道家の調所清悦の養子となりました。1798年、隠居していた前藩主の島津重豪(しげひで)にその才能を見出されて茶坊主(茶の世話をする人)として登用されると、同年11月に養父清悦が江戸で死去したため家督を相続、1813年には、小納戸(髪結や食事の世話係)勤めとなって、江戸と藩を何度も往復しました。

やがて、藩主の島津斉興(なりおき)に仕え、1822年には町奉行の要職につくと、小林郷・鹿屋郷・佐多郷地頭を兼務するうち、藩主から財政家としての才能を見出され、当時500万両にも及ぶ膨大な借金を抱えて破綻寸前となっている、財政立て直しの責任者を命ぜられました。

1833年には家老格となり、1838年には家老に出世した広郷は、藩の財政を中心に農政・軍制改革に取り組みました。まず、経済学者の佐藤信淵の意見を聞き、出雲屋孫兵衛ら経済専門家を配下に置くと、1836~38年に、金を貸してくれた京都・大坂・江戸の大商人を説得し、借金を無利子で250年の分割払いにしました。また、藩内の商人からの借金は、その商人を武士に取り立てることで帳消しにしました。これは、借金踏み倒しにも等しい大胆なものでした。

いっぽう、奄美大島・徳之島などから取れる黒砂糖の専売制を行って藩が安く買い上げ、それを大坂の砂糖問屋へ売って3、4倍の利益をあげたり、琉球を通じて清と密貿易を行ない、一部商人にこの密貿易品を優先的に扱わせて大きな利益を上げるなど、1840年には薩摩藩の金蔵に250万両の蓄えができるまで短期間に財政を回復させました。

ところが、斉興の後継をめぐる島津斉彬(なりあきら)と島津久光による争いがお家騒動(のちのお由羅騒動)に発展すると、広郷が久光を推したことで、斉彬は幕府の老中の阿部正弘らと協力し、薩摩藩の密貿易に関する情報を幕府に流したのでした。そのため1848年、調所が江戸に出仕した際、阿部に密貿易の件を糾問され、薩摩藩江戸邸で服毒自殺した(斉興に罪が及ぶのを恐れた)といわれています。

没後に広郷の遺族は、藩主となった斉彬によって家禄と屋敷を召し上げられ、家格も下げられましたが、広郷の藩政改革の成功がなかったなら、薩摩藩の豊富な資本の投入による明治維新の実現は困難で、まさに「薩摩藩の救世主」だったことは間違いなさそうです。


「12月19日にあった主なできごと」

1614年 大坂冬の陣の和約…徳川家康は豊臣家を滅ぼそうと20万もの大兵で大坂城を取り囲みましたが、短期間で滅ぼすことはできないと和平を持ちかけました。その後、約束の外堀ばかりか内堀までうずめて本丸だけにし、半年後の「大坂夏の陣」で滅ぼしました。

1751年 大岡忠相死去…「大岡政談」の越前守として有名な大岡忠相が亡くなりました。ただし、名裁判官ぶりはほとんど作り話で、江戸市民に愛され尊敬されていた忠相の人柄が、人情味あふれる庶民の味方として認識され、講談や演劇、落語などで広く知られるようになりました。

1997年 井深大死去…「世界のソニー」を盛田昭夫とともに創りあげ、そのかたわら「幼児開発協会」を設立して幼児教育の大切さを普及させた井深大が亡くなりました。

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