児童英語・図書出版社 創業者のこだわりブログ

30歳で独立、31歳で出版社(いずみ書房)を創業。 取次店⇒書店という既成の流通に頼ることなく独自の販売手法を確立。 ユニークな編集ノウハウと教育理念を、そして今を綴る。

おもしろ民話集

たまには子どもと添い寝をしながら、こんなお話を聞かせてあげましょう。 [おもしろ民話集 102]
 
昔あるところに、貧しい木こりがいました。木こりは、朝早くから夜遅くまで働いて、いくらかお金がたまると、息子に「このお金をつかって、勉強しておいで。なにかをちゃんと学んで、わしが年をとっても、しっかりと暮らしができるようにしておくれ」といいました。そこで息子は、町の学校に入りました。いっしょうけんめい勉強したため、先生にほめられるほどでした。ところが、いくつかの教科を修めないうちに、木こりの貯めたお金がなくなってしまったため、家に帰るよりほかありませんでした。

息子は、父親の手伝いをしようとしましたが、斧(おの)が一つしかありません。しかたなく、となりの家からしばらく斧を借りることにしました。翌日、息子は父親の手伝いをして、きびきび働きました。やがて昼になり、いっしょに昼食を食べようと、父親はパンを息子に渡しました。ところが息子は、「鳥の巣でも探してくるよ」といって、パンを食べながら森の中へ入っていきました。

あちこち歩きまわっているうち、とても大きなカシの木の下にやってきました。すると、どこからかくぐもった声が聞こえてきました。「出しておくれ、出しておくれ」といっているようです。「どこにいるんだ」と大声をあげると、「木の根っこにはさまってるんだ。出しておくれ!」という声がします。しばらくあたりを探すうち、ガラスびんが、小さなほらあなの中にはさまっているのを見つけました。びんの中では、カエルのようなものが、とびはねています。そこで息子は、びんのせんをあけると、中のものはぐんぐん大きくなりはじめました。大きなカシの半分ほどの大入道になったおばけは、「出してくれたお礼に、お前の首をへし折ってやるんだ」といいます。

「ちょっと待てよ。おまえさんが、ほんとうにこのちっぽけなびんの中にいたのか、ぼくには信じられない。だから、もう一度このびんの中に入れたら信じよう。そうすりゃ、おまえさんのしたいように、ぼくをするがいい」といいました。おばけはそれを聞くと、とくいそうに、みるみる小さくなって、びんの中に入ってみせました。息子はすばやくふたをしめ、もとの場所にびんを投げ出しました。「お願いです、ここから出してください」と、あわれな声がきこえます。「だめだよ、いちど、ぼくの命をねらったやつを、助けるわけにはいかないよ」「もし自由にしてくれるなら、一生こまらないものをあげます」「だめだ、おまえは、さっきのようにだますだろう」「なんにもしない。あんたは幸運をにがしてしまうよ」

これを聞いて息子は、おばけが、あんがい約束を守りそうだと感じて、もう一度びんのせんをあけてあげました。また大入道のようになったおばけは、「さぁ、お礼にこれをあげよう」といって、ばんそうこうのような小さな布を息子にわたしました。「一方の端で傷口をなでると、傷はたちまち治る。もう一方の端で金属をなでると、鉄でもはがねでも銀に変わる」といいます。息子は斧で木の皮に傷をつけ、もらった布でなでると、傷口がきれいになおったのをみて、ほんものであることがわかり、おたがいにお礼をいって別れました。

つぎに息子は、斧を布の反対側でなでてから、木に打ちつけました。すると、斧は銀に変わっていたために、たちまち曲がってしまいました。父親はびっくりして息子を叱りつけると、使えない斧を売っていくらになるか聞いてくるようにいいました。しかたなく息子は、町の鍛冶(かじ)屋のところへ行って、いくらで買ってもらえるかたずねました。斧はまるごと銀になっていたので、400ターラーになりました。鍛冶屋には、そんな大金がなかったので、そのときあった300ターラーを息子に払い、100ターラーは借りにしました。

大金を持って父親のところへ帰った息子は、斧がいくらくらいするのか聞きました。「1ターラーあれば買えるな」「じゃあ、お隣には倍の2ターラーあげてよ。お金はありあまるほど持ってるんだから」といい、父親に100ターラーをあげ、「けっしてお金には不自由させないよ」というと、「おまえは、どうして大金持ちになったのだ」とたずねました。そこで息子はおばけのことを話してきかせました。

息子はのこりのお金でまた学校へ行き、勉強を続けました。そして、おばけにもらった布で、どんな傷も治せたため、世界でいちばん有名なお医者さんになりました。

* なおこのお話は、8月27日に紹介した「ビンのなかのおばけ」(おもしろ民話集・97) の、パターンの違うもので、グリム童話に出てくるものに近いものです。


「10月17日にあった主なできごと」

1849年 ショパン死去…ピアノの形式、メロディ、和声法など、これまでにない表現方法を切り開き「ピアノの詩人」と呼ばれた作曲家ショパンが亡くなりました。

1887年 横浜に日本初の水道…江戸時代末に開港したものの人口の急増のために水不足となり、コレラが流行したこともあって、近代的な水道が急がれ、この日横浜で使用されるようになりました。

たまには子どもと添い寝をしながら、こんなお話を聞かせてあげましょう。 [おもしろ民話集 101]

むかしむかし、山のふもとの小さな村に、おじいさんとおばあさんが住んでいました。ある日おじいさんは、山へ炭焼きに出かけました。山の木を切って、炭を焼いて俵(たわら)に詰めて、近くの町ヘ売りに行くための用意です。でもおじいさんは、年を取ってきたために、仕事がつらくなりました。「ああ、腰は曲がるし、目はしょぼしょぼするし、いやになってしもうたなぁ」でも、なんとか炭俵をかついで、ヨタヨタ山を下りはじめめました。

とても暑い日だったので、のどががカラカラに渇きました。ふと見ると、突き出た岩かげから、きれいな水がチョロチョロと吹き出していました。「こいつは、ありがたい」 おじいさんは、その冷たい水を飲みました。「ああ、うまい。なんだか腰がシャンと伸びたようだぞ」おじいさんは水のおかげで元気が出たのだと思い、よく考えもせずに山を下りて家へ帰ってきました。「ばあさんや、帰ったよ」ガラリと戸をあけて家の中に入ると、おばあさんは、とびさがって、「あなたさまは、どなたでしょうか。うちのじいさんの服なんか着こんで」「なにをいうんだい、この家のじいさんだよ」おばあさんがよくよく見ると、まちがいなくおじいさんです。それも、おばあさんがお嫁に来たころの、若いおじいさんでした。おじいさんも、おばあさんにいわれて、はじめて自分が若返っているのに気づきました。

「じいさんや、おまえさんは、どうして、そんな若者になれたのだい?」おじいさんは、岩からあふれでていた清水をのんだ話をし「若返りの水というのがあると聞いたことがあるが、あれがそうだったんだな」と、いいました。「じいさんばかりが若がえって、わたしがしわくちゃばばぁじゃ、つりあいがとれません。わたしもすぐに行って、いただいてきましょう」 「まぁ、ばあさんや、そろそろ日も暮れてくる。あしたの朝にでも、ゆっくり出かけておいで」「とんでもない。その水が止まってしまったら、たいへん。今すぐに行ってくる」と、山のほうへとびだしていきました。

おじいさんは、はちまきをキリリとしめて納屋に入ると、農具をせっせとみがき、台所につり棚をこしらえたり、屋根に登って雨もりの修理をしたりしました。どんなに働いても、若者になったおじいさんは、すこしも疲れません。「若いというのは、こんなにいいものだったかなぁ」とつぶやきながら、夕焼けの山を見上げました。

おばあさんが、若くきれいになって帰って来るのを楽しみに、夕飯のしたくをして待っていましたが、いつまでたっても帰ってきません。「山で、なにかまちがいでもおきたのかな」心配しながら、うとうとしているうちに、夜が明けていました。はね起きて、家じゅうさがしましたが、おばあさんはどこにもみあたりません。「こうしてはおられぬわい」おじいさんは、村の人にわけを話して、みんなで山へ探しにいそぎました。とくに、あの清水のあたりを念入りに探しても、みつかりません。「いったい、どこへ行ってしまったんだろう?」「キツネにでも化かされて、山奥へ連れて行かれてしまったのじゃあるまいか」みんなが話し合っていると、どこからか、赤ちゃんのなきごえが聞こえてきました。「はてな、こんな山奥に、赤子が泣いてるぞ」

声をめあてに近づいてみると、岩から流れる清水のそばの草むらに、おばあさんの着物にくるまった赤ちゃんが、顔をまっ赤にして泣きじゃくっていました。おじいさんは、あっと叫んで近よると、赤ちゃんをだきあげました。「おまえは、ばあさんだな。うんと若くなりたくて、水を飲み過ぎて赤子になってしもうたにちがいねぇ」仕方なく、おじいさんは、赤ちゃんになったおばあさんをだっこして、あやしながら家へ帰ったんだって。


「10月3日にあった主なできごと」

1804年 ハリス誕生…アメリカ合衆国の外交官で、江戸時代後期に初代駐日本公使となり、日米修好通商条約を締結したハリスが生れました。

1990年 東西ドイツ統一…第2次世界大戦後、東西に分裂していたドイツは、45年ぶりに統一されました。

たまには子どもと添い寝をしながら、こんなお話を聞かせてあげましょう。 [おもしろ民話集 100]

むかし、子どものいない夫婦がありました。あるとき、おかみさんが近くの川で魚をとっていると、網に小さな金色のカメがかかりました。心やさしいおかみさんは、カメを逃がしてやり、別のところで魚をとっていると、また、おなじカメがかかりました。また逃がしてやろうとすると、そのカメが「おねがいですから、ぼくを飼ってくれませんか」といいます。カメが口を聞いたのでビックリしましたが、「いいわ、家には子どもがいないから、おまえを飼ってあげましょう」と、家に連れ帰りました。

だんなもよろこんで、ふたりは金色のカメを、自分たちの子どものようにかわいがりました。そのうち、このカメがいろいろなことを予言する能力があることがわかりました。そんなある日、「お父さん、お母さん、近いうちに大洪水がおこって、このあたりは水びたしになります。いかだと食べものを用意してください」といいます。

夫婦は、金色のカメのいう通り、いかだを作り、食べものを用意しておきました。まもなく大雨がふりはじめ、一週間もすると、川の水があふれだし、野も畑も水につかっていきました。そしてついに、高台にある家も水びたしになって、人間も動物たちも水に流されてきました。でも、夫婦のいかだだけは、大きな木にくくりつけられていたので、無事でした。「そこへ、1ぴきのトラが流されてきました。どうしようかとカメにたずねると、「トラさんならいいでしょう」というので、トラをいかだにあげてやりました。こんどは、大きなヘビが流されてきます。ヘビもおなじように、いかだにのせてあげました。

こんどは人間が流されてきて、「助けてください」といいます。カメは、「人間なら、助けないわけにはいきませんね。でも、もうそろそろ、水がひきますよ」。カメのいった通り、すぐに水はひき、みんなはもとの地上に帰っていきました。トラもヘビも人間も、夫婦とカメに感謝し、頭をさげながら、別れていきました。

それから、数か月後のことです。この国の王女がとなりの国から帰るとちゅう、森の中で一夜をすごしました。そのとき、1ぴきのトラがしのびよって、王女の宝石箱を盗みだしました。それを夫婦のところへ持っていき、このあいだのお礼だというしぐさをして、おいていきました。夫婦は喜んでこれをもらい、部屋に飾っておきました。いっぽうお城では、家来たちが盗まれた王女の宝石箱を探しまわっていましたが、どんなにさがしても見つかりません。しかたなく、「宝石箱を探し出した者には、ほうびをとらせる」とい立て札をたてました。

そんなある日、洪水のときに助けられた男が、夫婦の家にやってきて、宝石箱に気がつきました。そのまま、王さまに知らせたため、夫婦は捕まって、牢屋へ入れられてしまいました。これを知ったあのときのヘビは、お城に忍びこんで、眠っている王女のまぶたに毒の針をさし、眼をみえなくさせてしまいました。王女の眼は、どんな名医でもなおすことができません。しかたなしに王さまは、「王女の眼をなおした者には、国の半分をつかわす」というおふれを出しました。王さまは、予言者から「国じゅうのだれかが治せる」といわれていたからです。ところが、国じゅうの者たちが、われもわれもとやってきましたが、だれひとりなおすことができません。

あとは、牢屋の中の夫婦だけとなりました。王さまはふたりを呼び出しました。前の日の晩、ヘビは牢屋に忍びこんで、薬の小びんを渡していました。夫婦がこの薬を王女の眼にさしたとたん、もと通りのよくみえる眼になりました。王さまは大喜びで夫婦を許したばかりか、約束通り、夫婦に国の半分をあげたのでした。


「9月26日にあった主なできごと」

1904年 小泉八雲死去…「耳なし芳一」 や 「雪女」 などを収録した 『怪談』 などを著し、日本の文化や日本の美しさを世界に紹介したラフカディオ・ハーンこと小泉八雲が亡くなりました。

1943年 木村栄死去…日本の天文観察技術の高さを世界に知らせた天文学者の木村栄が亡くなりました。

たまには子どもと添い寝をしながら、こんなお話を聞かせてあげましょう。 [おもしろ民話集 100]

むかし、西国の殿さまのけらいの飛脚(ひきゃく)が、江戸にいるある殿さまへ、大切な手紙をとどけに、国を飛び出しました。船で大坂までいき、その後は、文箱というのを肩にかついで走り、東海道を東へ東へといきます。興津(おきつ)に宿をとり、朝暗いうちに宿を出て江戸をめざしました。

富士山を目の前に海岸を走り、さった峠という山の坂道を、海岸のほうからのぼろうとしていたときのことです。近くのそばの岩に、なにか動くものがありました。大きなタコが、小さな子どもにからみつき、海に引き入れようとしていたのです。子どもは泣き声をあげて、岩にしがみついていました。「こいつはまずい」飛脚は助けに走りました。

子どもと見えたのは1ぴきのサルでした。サルは飛脚の顔を見ると、顔をくしゃくしゃにして、キーキー鳴きました。飛脚は手紙の入った文箱をそばに置くと、石をひろって、タコに投げつけましたが、びくともしません。近くにあったこん棒をとってタコをたたきましたが、タコはたたかれるたびにサルをしめつけ、海の中へ引きこもうとします。しかたなく飛脚は、脇差(わきざし=みじかい刀)をぬくと、タコに切りつけました。するとタコは、もうかなわないと思ったか、サルをまいていた足をほどき、海の中に姿を消しました。 

助けられたサルは、とてもうれしそうに水ぎわから砂浜にとびのき、じっと飛脚の顔を見つめました。「よかったな、あぶなく海に引きこまれるところだったぞ」飛脚がそういって脇差をおさめると、サルはどうしたことか、置いてあった文箱を持つと、峠ののぼり口のほうへかけあがっていったのです。飛脚はおどろいて後を追いかけました。峠の道は急で、飛脚の足でも、かけあがるのには大変でした。ところが、しばらくいっても、サルの姿がみえません。手紙をなくしてしまっては、江戸へ行くことも、国へかえることもできないのです。飛脚はあたりを見まわし、あのサルが、文箱をどこかにすてていないか探しましたが、どこにも見つかりませんでした。

こまり果てた飛脚が、ぼうぜんとすわりこんでいると、サルの鳴き声がします。声のするほうを見ると、何びきかのサルがやってきました。その中に、文箱をもったあのサルがいました。おまけになにかコモで包んだ長いものをもっています。飛脚が立ち上がって待っていると、サルは飛脚に近よってきて、文箱とコモ包みを置いていきました。飛脚は文箱を手に取ると、ほっとためいきをつきました。そして、包みをといてみると、中から白木のさやに入った刀が出てきました。

サルはそれを見ると、ペコンと頭を下げ、なかまたちと山の方へ帰っていきました。サルがどこからその刀をもってきたのかわかりませんでしたが、飛脚はぶじに江戸の殿さまのお屋敷に手紙をとどけました。

飛脚は、すぐに名高い刀鍛冶(かじ)のところへもっていって、品定めをしてもらいました。すると、その刀には、五郎正宗の銘が入っています。むかし、日本でいちばんといわれた人がこしらえた刀かもしれないと、刀鍛冶が研いでみると、少しの傷もない名刀そのものでした。国にもどった飛脚は、殿さまに刀のいきさつを話し、殿さまに献上しました。殿さまはたいそう喜び、飛脚はたくさんのほうびをもらいました。

殿さまは、サルからもらった刀だということで、「サル正宗」という名をつけて、家の宝として、いつまでもたいせつに残したということです。


「9月19日にあった主なできごと」

1870年 平民に苗字…明治政府は戸籍整理のため、これまで武士の特権とされてきた苗字の使用を、平民にも許可しました。しかし、めんどうがってなかなか苗字をつけない人が多く、5年後の1875年2月には、すべての国民が姓を名乗ることが義務づけられました。

1902年 正岡子規死去…俳誌「ホトトギス」や歌誌「アララギ」を創刊し、写生の重要性を説いた俳人・歌人・随筆家の正岡子規が亡くなりました。

たまには子どもと添い寝をしながら、こんなお話を聞かせてあげましょう。 [おもしろ民話集 99]

むかし、ローマ法皇の命令で、えらい司教がいろいろな国の修道院を視察にまわっていました。あるいなかの修道院に、司教がもうすぐ到着するという知らせがとどくと、年老いた院長は、顔色を変えました。この司教は大変な賢者である上に議論にすぐれ、しかも手まねで議論するといううわさでした。その手まねにうまく対応できない修道院は、日ごろの精進が疑われるといわれていたからです。

「神父のみなさん、どうじゃろう。どなたでもよろしいので、司教さまの問答のお相手を引き受けてくれる人は、名乗り出てくれませんかな。最近わしは、年のせいで動作がのろくなってしまったので、とても自信がありませんのでな」と、集まった神父たちにたずねました。ところが、どの神父たちも、ゆずりあっているばかりで、相手をつとめようという人があらわれません。でも、院長も神父たちも、問答をのがれる知恵もうかばず、頭をかかえるばかりでした。

この修道院には、下働きをしながら神父をめざしているひとりの若者がいました。無教養ですが、ほがらかで、人がらがよいため、院長にかわいがられていました。若者は、おどおどしている神父たちの顔色を見て、院長にたずねました。「おそれながら、おたずねしますが、なにかこまったことでもあるんですか。わたしは、神父さまたちが頭をたれて、うかない顔つきしてるのを、はじめて見ました」「えらい司教さまと、手まね問答の相手をつとめる者がいないので、こまっておるのじゃよ」「手まねで話しゃいいんですね。おもしろそうだなぁ。その役目、わたしにやらせてくれませんか?」院長も、神父たちも、これには大喜びです。
 
よく朝早く、司教が修道院に到着し、院長はじめ、神父たちは列を作ってお迎えしました。下働きの若者も、神父の服を着せてもらって、列のいちばんうしろにひかえていました。司教は、にこりともせず、口もひらかず、ただあいさつのしるしに、軽くうなずくだけでした。やがて、おそろしい食事の時間がやってきました。というのも、この司教は、食事の時間に討論をはじめるのが好きだったからです。食前のお祈りがすむと、司教は立ちあがって、指を1本さし出しました。いよいよ、問答のはじまりです。

若者は、司教の前にすすみでると、指を2本さし出しました。つぎに司教は、指を3本さしだします。これに対して若者は、げんこつをさしだして、これに答えました。院長も神父たちも、かたずをのみながら、ふたりのやりとりを見ています。つぎに司教は、テーブルの上からリンゴをつかむと、ゆっくり若者に投げるかっこうをしました。若者もテーブルからパンをとりあげると、頭の上にさしだしました。

すると司教は、満足げなようすでにっこりうなずくと、席につきました。これを見て、院長も神父たちも、意味がわかりませんでしたが、司教が笑顔をみせたので、一同ほっと胸をなでおろしたのでした。司教は、上きげんで、院長や神父たちと言葉をかわしながら、おいしい食事をこころゆくまで楽しみました。

つぎの日の朝早く、司教は修道院をたちましたが、帰りぎわに院長にいいました。「あなたはしあわせなお方だ」「それは、どうしてです?」「すえたのもしい若い神父がおられる。わたしの出した問題に、みごとに答えられた。神につかえるまことの資格をもったお方だ」「さようですか、まことにおはずかしながら、あの問答は、わたしにはさっぱりわかりませんでした」「では、説き明かそう。わたしが指1本だして『神はただおひとり』といったところ、あの神父は『いかにも神から命をいただいていますが、救いは神の子です』と、指を2本だされた。そこでわしは指を3本だして『父なる神と神の子に、精霊を加え、三位(さんみ)であろう』というと、『まことにさよう、三位一体である』と、こぶしをにぎられた。そこでわたしは、リンゴをとって、『われわれの祖先アダムが、神のいいつけにそむいて禁断の実を食べたから、人類に死がもたらされた』といったら、あの神父は『アダムの罪はみとめるが、ご聖体をいただくことによって、人間の罪はまぬがれる』と、ご聖体にかわるパンをささげられた。まったくあざやか、おそれいった。院長、あの若い神父をたいせつにしてあげてください」

司教が帰ったあと、院長は庭のそうじをしている若者をみつけ「おかげで、おまえに救われたよ。ありがとう」「院長さま、お礼にはおよびませんよ。むずかしくもなんともありませんでした。学問のある司教さまだって、わたしたちと、おんなじ気持ちをもってるってことがわかりました。司教さまは『わしのいうことがわからなけりゃ、尻の穴に1本つっこんでくしざしにするぞ』といわれたんで、『あなたが1本なら、わたしは2本ぶっとおしてやる』と2本指を出しました。すると司教さまも、負けずぎらいだとみえて、3本さすっていうから、それじゃわたしは、このげんこつくらいの穴をあけてやるっていったんです。そしたら司教さんは、リンゴをもって『なまいきなやつめ、おまえのようなやつには、リンゴを投げつけるぞ』っていうんで、それじゃしかたがないから、パンで防ぎますってやっただけです」……だって。


「9月13日にあった主なできごと」

1592年 モンテーニュ死去…世界的な名著 「随想録」の著者として、400年以上たった今も高く評価されているフランスの思想家モンテーニュが亡くなりました。

1733年 杉田玄白誕生…ドイツ人の学者の書いた人体解剖書のオランダ語訳『ターヘル・アナトミア』という医学書を、苦労の末に『解体新書』に著した杉田玄白が生まれました。

1975年 棟方志功死去…仏教を題材に生命力あふれる独自の板画の作風を確立し、いくつもの世界的な賞を受賞した版画家の棟方志功が亡くなりました。

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