児童英語・図書出版社 創業者のこだわりブログ

30歳で独立、31歳で出版社(いずみ書房)を創業。 取次店⇒書店という既成の流通に頼ることなく独自の販売手法を確立。 ユニークな編集ノウハウと教育理念を、そして今を綴る。

心の子育て論

読書したり、本を読んでもらったりすると、どのようなことが展開するのかを少し掘り下げて考えてみましょう。読んだり聞いたりしたその言葉から、人は独自のイメージを創りあげます。さまざまな体験をもとにしたイメージです。幼児はその体験が少ないので、さし絵が必要になります。絵本の1シーンを見せ、次のシーンを思い浮かべることを容易にするためです。そのうち文字や言葉だけで、自由に想像することができるようになるわけですが、これはくりかえしの訓練をしないとむずかしい作業です。子どもの成長にあわせ、あきさせない工夫をしながら、段階的にすすめていく工夫をしてみてください。

何をいおうとテレビは、イメージをそのまま見せてしまいますから、このイメージ力が育ちません。私は、子どもにテレビを見せるなというつもりはありません。テレビ文化のおかげで、どんなに子どもの世界は豊かになったか、はかりしれないものがあるからです。しかし、テレビの世界とは別に、本の世界という、まことに奥深い、面白い世界があることを幼児期に是非体験させて欲しいのです。相手を思いやれるやさしさ、やつけられた気持ちをイメージできる子が増えれば、陰湿ないじめは今よりずっと少なくなるにちがいありません。

ラジオを聞くことも、読書と似た体験をすることになりました。まだ私が小学生のころ、NHKラジオで夕方放送していた「白鳥の騎士」「笛吹童子」「紅孔雀」といった15分ほどの放送劇に夢中になっていたことがありました。音が時折消えかかる受信機のスピーカーにかじりつくように、ひとつの言葉も聞き漏らすまいと集中していました。ひとつの話は1年間続いていたはずですから、丸3年間は欠かさずに聞いたはずです。ある時、近くの映画館で「笛吹童子」が上映されることになりました。親にねだって、見に行かせてもらいました。感想は、何とおそまつな映画なのだろうと、がっかりした気持ちをいまだに覚えています。1年間積み重ねてきた私のイメージに、映画はとてもかなわなかったのです。(以下次回)

テレビがなかった頃は、どの家も、ひとつちゃぶ台を前にみんな集まり、おしゃべりしながら食事をするなど、貧しくとも、会話と団らんがありました。私の子ども時代を思い起こせば、食事を終えると冬はコタツに入り、みかんを食べながらトランプやいろはカルタ、時には百人一首に興じ、満ち足りた時間を過ごしたものです。夏はひとつ蚊帳に入り、ラジオを聞くのを楽しみにしていたことを思い出します。

そして、寝る前は本を読んでもらう時間。私と妹は、一冊ずつその夜に読んでもらう本を決めていて、これが日課であるかのように、父親は毎晩グリムやアンデルセンなど、心わくわくする童話や名作を読んでくれたものでした。

やがて、聞く読書から、自分自身で読む面白さを知るようになり、アラビビアンナイトの不思議な世界、ガリバー旅行記、幸福の王子、クリスマスキャロルのような人生を深く考えさせてくれる物語にふれました。さらに放送劇でその面白さを知った「次郎物語」(下村湖人) や「宮本武蔵」(吉川英治)、担任の先生に勧められた「ドリトル先生」旅行記シリーズを小学校高学年の頃に読破していきました。そこから得た感銘は、この世の奥深さを知ると同時に、しっかり勉強して大人になれば、もっと面白いことにたくさん出会えそうだという、大きな夢や希望につながったような気がするのです。(以下次回)

朝から晩までテレビの勧善懲悪ストーリーを見続け、やっつける疑似体験を何度もしているうち、これを試してみたくなります。学校へ行くようになり、ちょっとこいつは弱そうだなと思えば、手をだしてしまいます。幼児の頃に他の子どもと触れ合う体験をしていれば、やられた時の悔しさやイヤな気持ち、やっつけた時も快感ばかりでなく心の痛むことがあることを知っています。そんな体験をしていないまま、いじめた子が抵抗しなければ、これは面白いとばかりエスカレートしていきます。

やられた子どもはしょげかえります。ほしいものは何でも買ってもらえ、かわいいかわいいと甘やかされて育ってきていますから、いきなり友だちに暴力をふるわれたり、仲間はずれにされたりすると、免疫がないのですぐにまいって、学校へ行きたくないといいます。その理由を知った親も親で、一方的に怒り狂い、いじめた子の親と話し合うでもなく、担任の教師や学校を通り越して、教育委員会に怒鳴りこむというのですから、嘆くより、あきれてしまいます。

それでも小学校低学年で発覚したらまだよい方で、高学年や中学生になってからではだんだん始末におえなくなります。親にも友だちにも言えず、内にとじこもってかたくなになり、自分には生きる価値や意味がないのではないかとまで自分を追い込み、ついには自殺という最悪の道を選んで実行してしまうのです。なんと救いようのない悲しい結末なのでしょうか。(以下次回)

今の親が生まれ育ったのは、昭和40年代のはじめから55年前後の15年間ほどです。それ以前に子ども時代を過ごした親たちと決定的に違うことがあります。それは、生まれたときから家にテレビがあり、そのテレビも草創期を終え、白黒からカラーになって視聴率競争が激化、そのあおりから子ども向け番組も、一部良質な番組はあるものの粗製乱造され、朝の時間帯から夕方の2~3時間は、子どもたちがテレビにかじりつくという習慣が身についてしまいました。
これまでは、園や学校が終わった後は、友だちと外で遊びまわり、さまざまな体験をすることによって、子ども社会のルールを身につけていた時間が急速に失われていきました。

日本中のほとんどの家庭が一度にそうなっていったのですから、私たちの生活そのものをまったく変えてしまった大事件といっても言い過ぎではありません。テレビというのは、映像そのものを相手におかまいなく次々に見せていきます。そのため、イメージをふくらませる、想像する、じっくり考えてみるという余地を視聴者にまったく与えてくれません。
テレビアニメの多くは、勧善懲悪の見本みたいなもので、ヒーロー、ヒロインが悪者どもをやっつけるストーリーです。ハラハラドキドキしながらも、最後には悪者を必ずやっつけて終わることになっています。(以下次回)

これからしばらく、子育てはどうあるべきかについて考えてみることにします。
というのも、最近、子どもの「いじめ」や「自殺」が社会問題になり、テレビや新聞をはじめ、マスコミには連日のように報道され、いろいろな分野の論者が意見を出しあっています。その傾向は歓迎してよいことでしょう。

なぜなら、世の中はじゅんぐりだからです。20年後、30年後のわが国は、今の子どもたちが社会の中心となり、こんどは親としてわが子の子育てをしていかなくてはなりません。つまり日本の将来は、子どもたちいかんにかかっているわけで、その子どもがどうあるべきかを議論することは、とても意義のあることだと思うからです。

「いじめ」は今にはじまったことでなく、昔からありました。しかし、以前とはっきり違うところがあります。それは、わが子可愛さのあまり、子どもに味方しすぎる親が多くなったことです。もうひとつは、生まれてくる子どもの激減により、兄弟をふくめ、自分以外の子どもたちと接触する時間が急に短くなったことです。さらにいえば、なぜいじめるのか、なぜいじめられるのかをしっかりみつめ、その原因は何なのかを考えない短絡的な親があまりに増えました。

それはなぜなのでしょう。私には、今の親が育てられてきた時代背景に根っこがあるような気がしてなりません。(以下次回)

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