児童英語・図書出版社 創業者のこだわりブログ

30歳で独立、31歳で出版社(いずみ書房)を創業。 取次店⇒書店という既成の流通に頼ることなく独自の販売手法を確立。 ユニークな編集ノウハウと教育理念を、そして今を綴る。

月刊 日本読書クラブ

10年以上にわたり刊行をし続けた「月刊 日本読書クラブ」の人気コーナー「本を読むことは、なぜ素晴しいのでしょうか」からの採録、第28回目。

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「花さき山」(斉藤隆介作・滝平二郎絵 岩崎書店刊)のあらすじは次の通りです。
お祭りのごちそうに使う山菜を採りに、山へ行った少女のあやは、山奥でやまんばに出会いました。ふもと見ると、あたり一面に、美しい花が咲きみだれています。やまんばは、あやに言いました。「この花は、山のふもとの人間が、やさしいことをひとつすると、ひとつ咲く。おまえの足もとの赤い花、それは、おまえが咲かせた花だ。祭りの晴着をがまんして、妹のそよにつくらせた、あやのやさしさが咲かせた花だ」。村へもどったあやは、このことを村の人びとに話しました。しかし、夢でも見たんだろうと、だれも信じてくれません。それからしばらくして、あやはまた山へ行きました。ところがやまんばはおらず、花の咲いているところもありませんでした。でも、あやは……。

● 心の中で涙を流す
この民話ふうの物語絵本を読んだ小学1、2年の子どもたちは、ひとりのこらず、自分のことよりも人のことを考えてあげる、やさしい心の美しさとたいせつさに、心から感銘を受け、共感しています。
「家がびんぼうで、二人のまつりぎをかってもらえねえことを知ってたから、じぶんはしんぼうした。おっかあは、どんなにたすかったか! そよは、どんなによろこんだか!……この本のなかで、ここのところがとってもすきで、読めば読むほど、あやの、やさしさがわかります。いままで、いろんな本を読んだけど、この本がいちばんいい本でした」
「おらは、いらねえから、さよさかってやれ、といったとき、あやは、どんなきもちだったのだろう。心のなかでは、なみだをながしていたのかな。でも、その涙が、花をさかせたんだ」
「おっかあと、妹のために、じぶんはがまんした、あや、なんてやさしいんだろう。でも、あやは、ほんとうは、とってもつよいんだ。心がつよくないと、あんなことはできない」
「ぼくは、この本をよんで、心のつよい、じぶんにまけないにんげんでないと、ほんとうの、やさしいにんげんになれないのだとおもった」
「あやは、おまつりに、はれぎをきることはできなくても、きっと、だれよりも、きれいだったにちがいない。だって、心に、きれいな花をさかせていたんだもの」
「3回よんで、3回、心のなかでなきました。あやさん、ずっと、ずっと、わたしの友だちになってね、わたしも、花さき山に花をさかせるように、がんばるから」
子どもたちは、母親のために妹のために、自分をぎせいにしたあやの心を、いっしょうけんめいに思いやり、やさしい人間のなみだから生まれる、花さき山の清らかな美しさに、目をほそめています。

● ほんとうのやさしさとは何か
また 「心のなかで泣けてしかたがなかった」 ほどの、あやの、やさしさをとおして、ほんとうのやさしさは、自分にうちかつ強い心からしか生まれないことに気づいています。そして、あやとくらべて自分自身を見つめなおし、あやに負けないように、花さき山に花をさかせることのできる人間にならなければ、ということを、心に誓っています。それは、あやのやさしさが、すきとおった感動となって、心に深くしみ入ったからです。
「人には、心からやさしくしなければいけませんよ」 「人間は、自分のことばかり考えてはだめですよ」……こんなことを、子どもに、口先でどんなにくり返し言い聞かせても、なかなか身につくものではありません。ところが、この 「花さき山」 の物語は、ただこれだけで、この絵本を読むすべての子どもの心に、「やさしさ」 の花を咲かせ、実もつけさせています。それは、この物語のもつ香り高い文学性が、子どもの心に純粋な感動をよびおこしたからです。
「ものが、いっぱいあるから、いまのわたしたちは、きっと、たいせつなことをわすれているのだとおもう。どんなにまずしくても、あやは、しあわせだ。あやのかぞくも、しあわせだ。やさしい心のきものをきることを、知っているのだから」
これは、2年生の女の子の感想ですが、文学作品から受けた感動は、小さな子どもの心にも、これほど深い思考を発芽させるのです。純粋な感動ほど子どもを成長させるものはありません。

なお、この絵本「花さき山」は、「絵本ナビ」のホームページでも紹介されています。
http://www.ehonnavi.net/ehon00.asp?no=604

10年以上にわたり刊行をし続けた「月刊 日本読書クラブ」の人気コーナー「本を読むことは、なぜ素晴しいのでしょうか」からの採録、第27回目。

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● 自分との闘い
偉人として、子どもたちにもっとも人気のある発明王エジソン。このエジソンの伝記を読んだ子どもたちは、どんなことを感じ、どんなことを考え、どんなことを学ぶのだろうか。これを小学校2~5年生の読書感想文にみると、エジソンの、失敗にくじけない忍耐力の強さと、わからないことに自分の力で立ちむかっていく精神力の強さに、感銘を受けているようです。
「新しいものを、発明しても発明しても、それでほっとしたり、まんぞくしたりしないで、死ぬまで努力をつづけた、すばらしい人、エジソン」 「22歳のとき、万能印刷機の発明で、4万ドルもの大金を手にした。ふつうの人なら、このお金で遊んだり大きな家でも建てたりするのに、それを、つぎの研究費にあてて、さらに新しい発明にいどんでいった、強いエジソン」 「なん百回、なん千回の失敗にもめげずに、ついに電気の発明に成功した、不屈の人エジソン」 「母も妻も早く亡くして自分は不幸だったのに、人々のしあわせのために生きつづけた、心の大きいエジソン」……子どもたちはこのように、たたえています。
しかし、たたえるだけなら、あたりまえのことですが、子どもたちにとって、もっとも価値があるのは、エジソンに自己を重ねてみたとき、自分の忍耐力の足りなさ、努力の足りなさ、心の弱さなどを、見つめられることです。
「わたしなら、どんなにがまんしても5回もしっぱいしたら、なけだしてしまう」 「ぼくには、さいごまでやりとおさないで、とちゅうでやめてしまったことが、たくさんある」 「ぼくだったら、大きな発明で大金がはいったら、あとは、のんびり遊んでしまうにちがいない」 「わたしには、あんなことをやりたいなあと思っても、ただ思うだけで、ひとつも努力しないことがほんとうに多い」……こんなことを自省させ、そのうえで、すべての子どもに「これではいけないんだ」 「たとえ、エジソンのような発明はできなくても、ぼくはぼくなりに、努力しなければいけないんだ」 「どんな人間にとっても、いちばんたいせつなことは、自分とたたかうことだ」 ということに、気づかせています。

● 学ぶことの意味
つまり、エジソンの発明のすばらしさに感嘆する以上に、その強い生きかたに心うたれて、改めて自分の生きかたを見つめなおしており、ここに、伝記から学ぶ大きな意味があるのです。ある2年生の男の子は 「どりょくするということが、どんなことか、わかった。人からいわれたとおりに、人とおなじようなことをしただけでは、だめなんだ」 と言っていますが、これは、すばらしいことです。この男の子の生きかたや心のもちかたは、エジソンの伝記にふれた直後から、おそらく、少しずつ変わっていったのではないでしょうか。また、たとえ目に見えて変わらなくても、かけがえのない心の肥料になったのではないでしょうか。
つぎに、もう1つ、この発明王の伝記から、子どもたちが学びとったものがあります。それは、学ぶことの意味です。「エジソンは、小学校をわずか3か月でやめて、あとは、家で母のナンシーから教わりながら、自分のやりたいことを、自分の力で学んでいった。これが、きっと、ほんとうの勉強だ」 「小さいときから、ふしぎだと思うことは、なんでも人に聞いた。それに、アヒルのたまごを自分であたためたりして、自分のなっとくがいくまで、自分の力でどりょくした。きめられたことだけをおぼえたりするのではなく、自分の知りたいことやしたいことを、自分からすすんで学んでいく、これが、正しい勉強にちがいない」 「いろんなことをおぼえるだけでは、だめなんだ。おぼえたことを、しゃかいに、やくだたせていかないと、なんにもならないんだ」 などと語っている子どもたち。ここでも多くの子どもたちが、自分をふりかえって 「いまの自分の勉強のしかたでよいのだろうか」 と、自分に問いなおしています。
偉大な人間の生きざまは、子どもたちに 「ほんとうに生きる」 気力を与えます。だからこそ、伝記にふれさせることは、大きな意味があるのです。

なお、いずみ書房のホームページにある「せかい伝記図書館」のオンラインブックで「エジソン」を紹介しています。

10年以上にわたり刊行をし続けた「月刊 日本読書クラブ」の人気コーナー「本を読むことは、なぜ素晴しいのでしょうか」からの採録、第26回目。

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「わたしのぼうし」(作・絵 さのようこ ポプラ社刊)のあらすじは、次の通りです。
……たいせつにして、いつもかぶっていたわたしのぼうしが、きしゃの窓から吹きとばされてしまいました。おとうさんが 「とんでいったのが、おまえでなくて、よかったよ」 と言ってくれても、おかあさんが、えきでアイスクリームを買ってくれても、わたしはかなしくてたまりませんでした。つぎの日、おとうさんが、新しいぼうしを買ってくれました。でも、わたしのぼうしのようでなくて、かぶりませんでした。けれどある日、あまりに暑いので、そっとかぶると、ちょうちょがとんできて、ぼうしにとまったのです。わたしはうれしくなりました。そしてこの時から、その新しいぼうしをかぶるようになりました。新しいぼうしが、やっと、わたしのぼうしになったのです。

● 物語の奥を読み取る力
とんぼとりに行くときも、動物園へ行くときも、デパートへ行くときも、「おかあさん、ぼうし、ぼうし」 と言って、いつもかぶった、少し古くて少しよごれた、かわいいぼうし。そしてこのぼうしを、うっかりなくしてしまった少女……。31ページの絵本 「わたしのぼうし」 は、この少女の悲しみと、心のやさしさをえがいたものです。そして、この絵本を読んだ子どもたち(小学校1、2年生) も、物語の主人公の気持ちを、いっしょうけんめいに思いやっています。
「きしゃのまどから、とんでいって、ひろいのはらに、ぽつんとのこされたぼうしのことが、しんぱいだったのね。だから、アイスクリームも、たべられなかったのね」 「この女の子のきもち、とっても、よくわかるよ。ぼくだって、ジャイアンツのぼうしが、かぜにとばされて、川をどんどんながれていったとき、とおくへいってしまうぼうしをみながら、なみだが、ぽろぽろ出たんだよ」「大好きなぼうしを、なくしたのも、かなしかったけど、ほんとうは、だれもいないのはらで、ひとりぼっちになった、ぼうしが、かわいそうだったのね」
ただ、ぼうしをなくしたから、悲しいのではない、ひとりぼっちになったぼうしがかわいそう……これは、たいへん深い思いやりです。しかも、さいごにちょうちょがぼうしにとまって、少女が、やっと新しいぼうしをかぶるようになったところでは、子どもたちはこう言っています。
「あのちょうちょは、きしゃのまどからとんでいった、古いぼうしの、おつかいだったのね、きっと」 「女の子が、古いぼうしのことを、いっしょうけんめい、しんぱいしたから、古いぼうしが、もう、しんぱいしなくていいよって、ちょうちょを、おつかいによこしたんだ」 「ちょうちょには、この子のやさしいきもちが、わかったのね。だから、はやく、あたらしいぼうしを、すきになってほしかったのね」 「あたらしいぼうしを、すきになってよかったね。もしかしたら、古いぼうしは、ひろいのはらで、かわいいうさぎさんたちの、おうちになっているかもしれないよ」
この物語のなかには、少女は、野原でひとりぼっちになったぼうしがかわいそうで悲しかったのだ、というようなことは、ひとことも書かれていません。また、ちょうちょが、古いぼうしのおつかいだったのだ、というようなことも、全く書かれていません。

● 読書力を深めるすばらしさ
しかし、この絵本を読んだ子どもたちは、まだ小学校1、2年だというのに、文字で書かれていないところにまで思いを広げて、感銘を深めています。ここに、子どもをすぐれた文学作品にふれさせることの、かけがえのないすばらしさがあるのです。
もちろん、ここまで読みとることを、すべての子どもに期待することはできません。この絵本を読んで 「たいせつにしていたぼうしをなくして、かなしかったでしょうね」 という感想に終わっている子どもも、たくさんいます。本の読みとり方は、ひとりひとり異なるのがとうぜんだ、ということからすれば、その読みとり方がだめだということは、けっしてありません.
でも、どんな子どもでも読書力 (文字を読む力と、作品の内容や主人公の心を読みとる力) がついてくれば、親がびっくりするほど、深い読書ができるようになることだけは、十分に知っておくことです。
たった1冊の絵本が、子どもの心をどれほど豊かにすることか、それは、はかりしれません。もし、わが子に、この 「わたしのぼうし」 を読ませるのならば、少なくとも2回か3回は読ませてみてください。きっと、やさしい目をむけて、すばらしい感想を聞かせてくれます。なんどでも読み返すことができる……これが、一過性のテレビには要求することのできない、読書のすばらしさでもあるのですから。

なお、この本は、「えほんナビ」でも紹介されています。
http://www.ehonnavi.net/ehon00.asp?no=1857

10年以上にわたり刊行をし続けた「月刊 日本読書クラブ」の人気コーナー「本を読むことは、なぜ素晴しいのでしょうか」からの採録、第25回目。
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●「そうだったのか」という発見の喜び
「ヒマワリ」 や 「アサガオ」 の、生態とか観察のしかたについて解説した図鑑……これらの図鑑からも、子どもたちはすばらしいことを感じとっています。それは、知ることのよるこび、発見のよろこび、生物の神秘へのおどろきなどであり、童話などの文学作品からは感じとることのできない、貴重なものです。
「ヒマワリ」 の図鑑を手にした子どものほとんど全員が、まず 「1つの花だと思っていたのは、ほんとうは花の集まりだった」 「花の外がわの花びらのように見えるのは、たねのできない1つ1つの花で、うちがわが、たねのできる、たくさんの花だったのだ」 ということに、いちようにおどろいています。
また 「ヒマワリの名は、花が太陽に似ていて、太陽についてまわると思われたので、そう名づけられたというけれども、ほんとうは、花が太陽についてまわることはないんだ」 「太陽の方をむいてまわるのは、花が咲きだすまえの、てっぺんの葉だけなんだ」 ということに、はじめて事実を知ったよろこびを味わっています。そして、この事実を本で知ったすべての子どもが、自分の家の庭や学校の花壇のヒマワリを観察して 「自分の目で、それをたしかめた」 と語っています。「本には、23センチくらいの花だったら、1300くらいのたねをつけると書いてあったので、ほんとうに23センチの花をとってきてかぞえてみました。そしたら、12しかちがわない1312だった」 と語っている3年生の子もいます。
いっぽう 「アサガオ」 については、多くの子どもが 「むかしは、うすい青色の花しかなかった。それが、人間がさいばいするようになって、いろんな色の花ができてきたのだ」 ということに興味をもち、遺伝のしくみのふしぎさに、首をかしげています。
また、本に「花は、朝早く、外がまだ暗いうちから開き始める」「朝、4時ごろ開きはじめて、5時ごろにはすっかり咲いてしまう」 などと書いてあるのを見て、何人かの子どもは朝の3時とか4時に起きて、「かいちゅうでんとうで、てらしながら、1つ1つ、花がひらくのをたしかめた」 「はじめは、なかなかひらかないけど、半分ひらくとパラッとひらくのがおもしろくて、1時間いじょうも、かんさつしてしまいました」 などと語っています。つるの左巻きを 「1つぐらい、右巻きのがあるかもしれない。あったらおもしろいと思って、みんなたしかめました」 という子もいます。
● 自分の目と手で事実をたしかめる喜び
さて、以上のことは、おとなから考えれば、なんでもないことのようです。しかし、子どもにとっては、その1つ1つが胸のときめくような発見です。
ヒマワリを、ただ聞き知りで、1つの大きな花だ、太陽をむいてまわる花だと思いこんでしまい、それになんの疑いももたない子どもとくらべたら、なんと大きな違いでしょう。アサガオは 「朝咲く花だから朝顔というのだ」 と、わかりきったつもりの子どもにくらべたら、なんと大きな違いでしょう。
それも、たんに本の上で知識として知るのではなく、自分の目で自分の手でたしかめ、生物の神秘にもじかにふれながら、実験と体験を通して納得していくのですから、そのすばらしさは同じ知識でも最高のものです。
「自分の目でほんとうのことを知ることのたいせつさを、おしえられました」 「ほんとかなあ、どうなってるのかなぁ、と、考えてみるたのしさを知りました」 「人間は、ひょっとすると、うそを、ほんとうと思いこんでいることが、とっても、おおいのかもしれない。これからは、少しでも、ほんとうのことを知るように、努力しよう」 「花だって、生きてるんだなぁ、ということが、よくわかった」……子どもたちは、読書感想文のなかで、このように言っています。
本を読んだら、その感銘やおどろきを、自分とむすびつけて、自分の身のまわりとむすびつけて考える……というのが、読書のもっともすばらしい姿ですが、図鑑を読んで、まわりの物を改めて見なおすことによって得る感激を知った子どもは、その読書のもっともすばらしい姿を自分のものにしたのです。子どもに図鑑を与えたら 「なぜだろう、ふしぎだな」 と思うようなヒントをも、いっしょに与えるようにしてみることです。子どもは、必ず、目を輝かせてくれます。

10年以上にわたり刊行をし続けた「月刊 日本読書クラブ」の人気コーナー「本を読むことは、なぜ素晴しいのでしょうか」からの採録、第24回目。

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今回紹介するのは「しょうぼうじどうしゃ じぷた」(渡辺茂男作・山本忠敬絵 福音館書店刊) です。

● ちびっこを笑ってはいけない
ある町の消防署。高いビルが火事のきは、ぐんぐんはしごをのばして指揮する、はしご車の、のっぽくん。どんな大火事でも、すごい圧力で水をふきかけて火を消してしまう、高圧車の、ぱんぷくん。けが人がでると、矢のような早さで病院へはこぶ、救急車の、いちもくさん。そして、はたらきものだが、ちびっこの、じぷた。でも、じぷたには、なかなか出番がありません。
いつも、のっぽくん、ぱんぷくん、いちもくさんの自慢を聞きながら、出番を待っています。なにもしないから、町の子どもたちも、見向きもしてくれません。ところがある日、山火事がおこり、大きな車は通れず、じぷたの出番。じぷたは必死の活躍で、みごとに火を消しとめ、つぎの日、その活躍ぶりが新聞に……。この物語を読んだ子どもたちが、いちように声をあげているのは 「がんばれ、じぷた」 「よくやったね、ちびっこじぷた」 という言葉です。1年生になったばかりの1人の男の子は 「ぼくは、むちゅうになって、じぷたを、おうえんした。じぷたは、いままで、みんなからばかにされていたこともわすれて、いきのつづくかぎり、がんばった。ぼくは、はらはらしたが、ひとりで火をけしてしまったとき、おもわず、やったあ、とさけんだ」 と、語っています。読んでいくうちに、じぷたと自分がひとつになってしまうのです。

● ちびっこだって負けやしない
でも、子どもたちは、ただ 「じぷたがんばれ」 「じぷたよかったね」 で終わっているのではありません。じぷたから、すばらしいことを、くみとっています。
それは、ちびっこだって、いっしょうけんめいにやれば、だれにも負けはしないんだ、ということです。また、みんなに笑われたくらいで、めそめそすることなんかないんだ、ということです。「ぼくは、クラスのなかでも、いちばんのちびっこだ」 という男の子が、この物語を読んだあと、胸をはって言っています。
「ぼくは、みんなから、ちびっこちびっことばかにされ、いつも、大きくなりたい、大きくなりたいと、おもってきた。かみさまにも、いつも、大きくしてくださいと、おいのりしてきた。でも、この本をよんで、そんな、おいのりなんか、することないってことが、はっきりわかった。ちびっこだっていい。じぷたみたいに、がんばればいいんだ。じぶんで、ちびっこちびっこと、おもって、ちいさくなっているから、みんなに、ばかにされるんだ。もう、これからは、まけない。ちびっこといわれても、へいきだねえ、じぷたくん。そうだよね。じぷたくん、すばらしいことおしえてくれて、ありがとう」
また、ちびっこ、ちびっこと、からかわれて、いつも悲しかったという女の子は、つぎのように語っています。
「この本を読んだあと、どこからか、ちびっこでも、つよくならなければいけないんだよ、というこえが、聞こえてきました。きっと、じぷたのこえです。じぷたは、わたしを、はげましてくれたんです。じぷたさん、ありがとう。じぷたさん、いつまでも、わたしと、なかよしでいてね」
この物語のなかに、ちびっこでも強くならなければ、というような教訓的な言葉は、でてきません。でも、子どもたちは、じぷたとひとつになることで、それを学びとっているのです。
「ちびっこだからといって、けっしてばかにしてはいけないんだ」 「じぶんだけが、
いいことができたからといって、じまんしては、いけないんだ。人が、さみしそうにしているときは、その人のきもちを、かんがえてあげないといけないんだ」 と、のっぽくん、ぱんぷくん、いちもくさんの立場から、他人への思いやりを考えている子どももいます。
わずか28ページの1冊の絵本が、この本を読んだすべての子どもたちへ、すばらしい心の贈りものをしているのです。この本が出版されたのは昭和38年。それからもう40年以上も読みつがれています。

なお、この本は、「えほんナビ」でも紹介されています。
http://www.ehonnavi.net/ehon00.asp?no=220

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