児童英語・図書出版社 創業者のこだわりブログ

30歳で独立、31歳で出版社(いずみ書房)を創業。 取次店⇒書店という既成の流通に頼ることなく独自の販売手法を確立。 ユニークな編集ノウハウと教育理念を、そして今を綴る。

月刊 日本読書クラブ

10年以上にわたり刊行をし続けた「月刊 日本読書クラブ」の人気コーナー「本を読むことは、なぜ素晴しいのでしょうか」からの採録、第43回目。



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● 自分の言葉で物語を作り、自分の力で感じとる

この絵本(太田大八絵 文研出版刊)には、文章がありません。どのページをめくっても、絵ばかりです。

雨の日、赤いかさをさした女の子が、おとなのかさを一本持って歩いて行きます。駅まで、お父さんを迎えにいくのです。

ぶらんこが雨にぬれている公園の前を通り、池のふちに立ちどまって、あひるの親子をながめ、友だちに会って声をかけあい、雨にすっかりぬれた犬に会い、陸橋から線路をながめ、ケーキ屋さんやショーウインドーの人形をのぞいたりしながら、 やっと駅へ。

そして、帰りは、さっきのぞいたケーキ屋さんでケーキを買ってもらい、それをだいじにかかえて、お父さんのかさにいっしょに入って……。

これだけの話ですが、なんて、楽しい絵本でしょう。女の子のかさだけが赤く彩られ、あとのかさは、すべて黒の濃淡。ページをめくりながら赤いかさを追っていくと、それだけで、あたたかい物語が伝わってくるのです。

お母さんと子どもが向きあい、お母さんがひざの上にこの絵本を立て、「さあ、お母さんがページをめくるから、お話をつくってみましょう」 と誘いかけると、子どもは、目をきらきらさせながら 「あのね、雨がふってきたからね……」 と語り始めます。

そして、お話をつくっていくうちに、女の子のちょっぴり不安な気持や、駅でお父さんに会った時のほっとした気持、それに、お父さんのあたたかさも、家で二人を待つお母さんのやさしさも、すっかり感じとっていきます。

一人でお父さんを迎えに行く女の子の、ちょっぴりおとなになったようなうれしさも、味わいとることでしょう。

ほんとうにすてきです。話を終わった時の子どもの表情、それを見ると親のほうがうれしくなってしまいます。そして、おそらく、ほとんどの親が 「絵本はいいなあ」 と思ってしまいます。自由に創造する子どもの心の美しさと、創造の中にひたった子どもの心の高まりが、体に伝わってくるからです。

もう一つ、すばらしいことがあります。それは、文章がないからこそ、子どもは、全く自由に考え、全くすなおに想像することです。

しかも、テレビの映像のように画面が流れていくのではなく、一つのページを前にしていくらでも考えることができるのですから。「えーと、えーと」 「それからね……」 などと、つっかえながら、思いっきり想像力をふくらませます。

そして、人に読み聞かせてもらって感じとるのではなく、自分の力、自分の言葉で考えて、登場人物のやさしさやあたたかさを、自分の心の中に湧きでるままに何かを感じとります。

ある著名な作家が言っています。

「わたしは、やさしい心のたいせつさも、思いやりのたいせつさも、それから、ものを空想する力も、すべて、小学校へ上がる前に母親が与えてくれたような気がする。あれは、どんなものにも代えがたい、かけがえのないものだった」

決して言い過ぎではなく、幼児期に絵本と遊ぶことを知っている子どもは、より豊かな心を育むことができるのです。

『おおきなかぶ』『ぐりとぐら』『ちいさなねこ』『ねずみくんのちょっき』など、文章の部分をわざとかくして、子どもに話をつくらせてみるのもおもしろいでしょう。

なお、この絵本は、「絵本ナビ」のホームページでも紹介されています。http://www.ehonnavi.net/ehon00.asp?no=1641

10年以上にわたり刊行をし続けた「月刊 日本読書クラブ」の人気コーナー「本を読むことは、なぜ素晴しいのでしょうか」からの採録、第42回目。

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● マンガでは育たない豊かな心

最近は 「子どもとマンガ」 のことがあまり口にされなくなりました。
これは、子どもたちがマンガを読まなくなったからでも、こんなにマンガばかり読んでいていいのかという不安がなくなったからでもありません。
その理由の最も大きなものは 「これだけ子どもの生活に入りこんでしまったものを、批判ばかりしていてもはじまらない。質の高い作品に見られる芸術性や児童文化財としての価値をみとめ、マンガはもう子どもたちとは切り離せないものとして、とらえ直していこう」 という考えから、子どもたちの生活にすっかり受け入れられてしまったからです。
しかし、「こんなにマンガばかり読んでいていいのかしら」 という不安がなくなったのではないということだけは、十分に知っておかなければいけません。なぜなら、マンガを見ることと、物語や童話を読むこととは、やはり本質的に違うからです。
こんなことを言えば、一部のマンガ愛好家の方から文句がとんでくるかもしれません。
かりに、質のよいマンガばかり読んだとします。でも、それから得る感動は、質の悪いマンガから得るものとは違うとしても、目で、すでに描かれている絵を追いながら読みとっていくという読みの方法は、どのマンガでも同じです。
「マンガばかり読んでて」 という不安が去らないのはここです。物語や童話を読むとき、あるいは読み聞かせてもらうとき、子どもは、文学または言葉をとおして、話の主人公の姿や行動や、物語の場面や展開を、自分で想像しながら頭のなかに描いていきます。
絵本には絵の部分が多いとしても、マンガほどこまかくは描かれていません。
たとえば、以前紹介した 「ひさの星」 の絵本にしても、ひさが犬におそわれた赤ん坊を助ける場面や、川に落ちた男の子を助けだす場面などは描かれていません。ひさが濁流にのまれていくところも描かれてはいません。マンガだったら必ず描かれているはずです。
だから、子どもたちは読みながら、ひさの悲しい姿や、その悲しい場面などをいっしょうけんめい想像します。
ところどころにさし絵が入っただけの物語や童話だったら、なおさらです。子どもは、読みとった文字から、自分の頭のなかに絵を描きながら一歩一歩読み進めていく、つまり、文字や言葉のなかの目には、見えない世界を自分の頭のなかで想像しながら理解していく、これこそ、かけがえのないことなのです。
マンガの伝記が多く読まれていますが、この場合、その人の生きた軌跡や業績を知ることについてはマンガでも物語本でも同じかもしれません。しかし、知るに至るまでの思考の方法と深さには絶対的な違いがあり、だから 「マンガでは想像的に深く考える力がつきませんよ」 となるのです。
「マンガのほうがよくわかる」──マンガのすきな人は、よくこう言います。
でも、あまり考えなくてもわかるということは、せっかく人間に与えられた 「考えることの楽しみ」 を、自ら放棄しているのだということを忘れてはなりません。

ほとんどの子が小学校へあがるとマンガにとびつきます。
この時、マンガしか見ない子になるか、童話や物語も読みマンガも見る子になるかは、すべて、就学前にどれほど絵本に親しんだかにかかっています。
小学校にあがってから、「マンガばかり読む子」 「マンガしか読まない子」 になったとしたら、それは子どもが悪いのではありません。多くの場合、お母さんに責任があるのです。
就学前に絵本に親しむ機会を与えられないでいて、学校にあがったら 「どうしてマンガばかり読むのよ」 と叱られたのでは、子どもはたまりません。

10年以上にわたり刊行をし続けた「月刊 日本読書クラブ」の人気コーナー「本を読むことは、なぜ素晴しいのでしょうか」からの採録、第41回目。

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● 子どもは自分が子やぎになって、みずから母親のやさしさを思う

子どものための世界の聖典といわれるグリム童話は、ヤコブ、ウィルヘルムのグリム兄弟が、ドイツに古くから語り伝えられている昔話を集めたものです。したがって、もともと 「語り聞かせ」 のために生まれたものです。
さて、「おおかみと七ひきの子やぎ」 は、そのグリム童話の中でも、もっとも親しまれている話の一つです。なぜでしょうか。それは、おおかみが、やぎを食い、そのおおかみが最後には殺されるという残酷な話の中に母が子を思う心、子が母を慕う心、つまり母と子の愛が語られているからです。
この話を、まだ一度も聞いたことのない子どもに、絵本を見せながら語り聞かせたらどうでしょう。
おおかみがやってきて 「あけておくれ、おかあさんですよ」 というとこうになると、子どもは、ほんとうに胸をドキドキさせながら聞き入ります。心の中では、きっと 「あけてはだめよ、おかあさんじゃないよ」 と叫んでいるのです。
その次に、とうとう、おおかみが入ってきて末っ子のやぎだけを食べ忘れて、あとの6ぴきを食べてしまうところや、やがて帰ってきたお母さんやぎが、おどろき悲しむところになると、話を聞いている子どもの表情も沈んでしまいます。お母さんやぎの気持ちを思って、いっしょに悲しむのです。
ところが、さいごに6ぴきの子どもが、おおかみの腹の中から元気に現われ、腹に石をつめられたおおかみが井戸に落ちて死んでしまうと、話を聞いていた子どもたちは、やさしい笑顔になって、読み聞かせているお母さんの顔をみつめます。お母さんやぎのうれしさを感じ、それを、目の前の母親のやさしさと重ねあわせてほっとするのです。
このお話を読み終えたあと、子どもに言い聞かせるお母さんがいます。
「この子やぎたちは、お母さんやぎの言うことを、よく聞かなかったから、こんなめにあったのよ。だから、これから、○○ちゃんも、お母さんの言うことを、よく聞くのよ」
しかし、この言いきかせは全く無用のことです。そんなことを言いきかされなくても、子どもは、かわいい子やぎのことを心配したお母さんやぎのやさしさと、みんなを助けてくれたお母さんやぎの強さを通して、ごく自然に、お母さんにすがりつきたいような気持ちを発酵させているのですから。
おおかみに襲われて死の恐怖にさらされながら、お母さんやぎの力で助けられた七ひきの子やぎたち。子どもは読み聞かせに耳をかたむけているあいだ、自分がすっかり子やぎになって、自分たちを心配してくれた、お母さんやぎの心を思うのです。
日常の生活のなかで、お母さんはいろいろなことを子どもに言い聞かせます。しかし、その言い聞かせは、たいていの場合、子どもにとっては実感をともなわない、いわば親のおしつけです。だから、言い聞かせたあと、子どもに 「いいわね、わかったわね」 と、だめを押します
すると、子どもは 「わかったわよ─」 などと答えて、わかったことにしてしまいます。
こんなことを考える時、すばらしい本を通じて、だれかが 「教える」 のではなく、物語を通じて子ども自身がみずから 「わかる」 ことのすばらしさを再認識せずにはおれません。

10年以上にわたり刊行をし続けた「月刊 日本読書クラブ」の人気コーナー「本を読むことは、なぜ素晴しいのでしょうか」からの採録、第40回目。

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● 笑いころげて読むうちに自分の心を解放していく
「ねしょんべんものがたり」(椋鳩十監修 童心社刊)は、児童文学者の岩崎京子、神沢利子、坪田譲二、椋鳩十ら、女性7名、男性13名が語った、幼い日のねしょんべん体験記。1971年に出版されて以来、爆発的な人気をよび、今もなお、小学2~4年生を中心に、多くの子どもたちに読みつがれています。たんに、おもしろいというのではなく、ふしぎなほど、子どもたちの心に安らぎを与えるからです。 
この本を読んでの感想文のなかで、子どもたちは楽しそうに言っています。
「わたしは、この本を読んで、ほんとうに安心しました。学校の先生だって、童話を書いている人だって、えらい人だって、みんなみんな、おねしょしたことがあるんだもの」
「おねしょして、なやんでいる日本中の子どもたちに、この本読ませてあげたい。みんな、おねしょしたってへっちゃらだよ」
「ぼくは今まで、だれにも、ぼくのねしょんべんのことは話したことはありませんでした。ぼくひとりだろうと思って、はずかしくて、だれにもいえなかったのです。でも、この本読んで、なんだか、あんしんしたような気もちになりました」
「もう、へっちゃらだ。これから、ねしょんべんたれたら、きょうは、アメリカの勉強したんだぞーっ、きょうは、オーストラリアの勉強したんだぞーって言ってやろう。もうあんしんだ。この本読んで、ほんとにすっとしました」
「この本は、いちばんに、妹に読んでやろう。おねしょしたって、平気のへっちゃらだってわかったら、妹、よろこぶだろうな」
「先生がこの本読んでくれてから、先生が、きのう、ふとんの中に雨をふらせた人、なんて言うと、いつも何人かがいばってハイハイと手をあげるようになった。1人か2人のときは、先生は、なーんだ、たったのこれだけかと言って、みんなをわらわせます。ねしょんべんたれの子にとって、この本は神さまです」
「これまで、ぼくは、ねしょんべんした朝は、おい、おちんちん、また、やったんか、きょうはゆるすけん、あしたはすんなよ、と、いいきかせてきました。でも、もう、いうのやめます。おい、おちんちん、よかったね」
「この本、お母さんにもよませました。お母さん、アハハ、オホホとわらいながらよみました。ぼく、お母さんのところへ行って、もう、ねしょんべんたれのばかじゃないからねといいました。お母さん、また、アハハ、オホホとわらいました」
子どものこんな声に耳をかたむけていると、こちらまで楽しくなってきます。今まで秘密にしていたことを、みんなぶちまけてせいせいしている子どものきもちが、あたたかく伝わってくるからです。
子どもたちの心は、「ゆかい、ゆかい」 「おかしくて、おかしくて」 と読んでいるうちに、「わたしだって、ねしょんべんたれだったよ」 という (えらい人) たちの心と一つになってしまっています。つまり、同化しています。
実は、これがすばらしいのです。同化によって、孤独な苦しみ、悲しみ、さみしさから解放され、心を明るく開いていく──これこそ、かけがえがないのです。
苦しい環境の子どもが、苦しみに耐えて生きる子どもの物語を読んで感動したとき、「苦しいのは自分だけではないのだ。がんばらなければ」 と思い、苦しみにうちかつ力を自分自身で育てていく……これと同じだと言ってもよいでしょう。
よく 「私をかえた1冊の本」 などと言われるように、本は、たしかに、人間を変える力をもっています。
しかし、人間を変えるなどと言っても、むずかしく考えることもありません。「ねしょんべんものがたり」 を読んだ子どもは、ねしょんべんたれの孤独の悲しみから自分を解放することによって、自分を変えたのですから。

10年以上にわたり刊行をし続けた「月刊 日本読書クラブ」の人気コーナー「本を読むことは、なぜ素晴しいのでしょうか」からの採録、第39回目。

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● これまで知らなかったことを知る喜び
『ちのはなし』(堀内誠一文・絵 福音館書店刊)という本があります。人間の血のはたらきを、幼児向けに絵と文で楽しく解説した絵本です。
この本を読んだ子どもたちは、こんなふうに言っています。
「ぼく、おはなしの本より、もっとおもしろい本をみたよ」 「人間のからだの、ひみつの本を読んでもらったよ、とっても、おもしろかったよ」 「ちのふしぎな力にびっくりして、みているうちに、ぼくの心ぞうがドキドキしてきたよ」
子どもたちは、心臓、白血球と赤血球、血管などのしくみのふしぎに目を見はっています。しかし、この本を 「おもしろい」 と感じさせたのは、体のしくみについて新しい知識を得たことと共に、それまでなんとも思わなかったことを 「ああ、こういうことだったのか」と“発見”させたことにあります。
「走ったりしたあとに心ぞうがドッキンドッキンなるのは、体じゅうにあたらしいちをどんどんおくっているからだということが、はじめてわかった」
「けがをしても、しぜんにちがとまるのは、けっしょうばんが、ちをかたまらせていたのだ」
「足がしびれるのは、からだのおもみでけっかんがおされて、ちがながれないからだって……」
「ちがあかく見えるのは、ちのなかにせっけいきゅうがあるからなんだね」
こどもたちは、こんなことを知ると 「やったぁ」 と叫び、「よし、あした、みんなに話してびっくりさせてやろう」 と考えただけで、うれしくなるものです。
この本を読んだ子どもたちの多くは、いろいろなことを実験してみたくなり、そのよろこびも語っています。
「ぼくね、この本よんでじっけんしてみたよ。まっくらなところで手をかいちゅうでんとうにかざしてみたよ。口の中もてらしてみたよ。手もほっぺたもすごくきれいなあかになったよ。だいはっけんだったよ」
「まきがみのしんをつかって、おかあさんの心ぞうにあててみました。ドッキン、ドッキン、なっていました。うちの犬にもあててみました。やっぱり、ドッキン、ドッキン、なっていました。なんでもないことだけど、なんだか、だいはっけんしたみたいな気もちでした」
今まで知らなかったことを知る。そうだったのかと納得する。知るよろこびを知る。まわりのことに疑問をもつ楽しさを知る。自分の科学する心や創造性をそだてていく。──すぐれた科学の本・知識の本は、子どもにすばらしいものをもたらします。
「今の子どもは、一般的に、ものごとを深く考える力が弱い、‘なぜだろう’と疑問をもつことも少なくなってきている」 などと言われがちです。しかし、それは 「知るにあたいするもの」 を与えられていないからではないでしょうか。
子どもたちに未知のことを知るよろこびを味わわせる本は、ほかにもたくさんあります。これらの本は、ふだん本を読まない子どもにも、興味をもってむかえられるはずです。
血のこと、ひとつにしても、子どもに語り聞かせることは、なかなかむずかしいものです。本が、その役割を十分にはたしてくれるなら、子どもに、1冊でも多くの適書に出会わせ、子どもたちの目と心を、少しでも広く開かせてやりたいものです。

なお、「ちのはなし」は、「えほんナビ」のホームページでも紹介されています。
http://www.ehonnavi.net/ehon00.asp?no=621

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