児童英語・図書出版社 創業者のこだわりブログ

30歳で独立、31歳で出版社(いずみ書房)を創業。 取次店⇒書店という既成の流通に頼ることなく独自の販売手法を確立。 ユニークな編集ノウハウと教育理念を、そして今を綴る。

月刊 日本読書クラブ

10年以上にわたり刊行をし続けた「月刊 日本読書クラブ」の人気コーナー「本を読むことは、なぜ素晴しいのでしょうか」からの採録、第3回目。

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● テレビは思考の浅い人間をつくる
前回は、テレビ視聴が受動的な行為であるとすれば、読書は能動的ないとなみであろうということについて考えてみました。そこで今回では、もう一歩すすんで、テレビのもつ宿命的なものとの比較のうえで、読書の大切さを考えてみましょう。
デレビの最大の宿命は、一過性であるということです。映像も音も、視聴者の意思にはかかわりなく流れていきます。ある場面で視聴者が立ちどまって考えようとしても、つねにそれを拒んで、瞬間、瞬間で消えていきます。しかも、再放送を待つか、ビデオテープにたよるかしないかぎり、その番組を、もう二度と求めることはできません。
つまり、くる日もくる日もテレビばかりを楽しんでいると、自分でも気づかないうちに、立ちどまって思考することを忘れていきます。マスコミとの接触を皮相的、せつな的なものに終わらせることに慣れてしまいます。また、疑問を疑問のままにほうむり去ることにもなれ、これらが、思考の浅い人間を形成することにつながっていくのです。
さて、これに対して読書は、まず、なによりも、その本の1ページを相手に、1行を相手に、読者の意思のままに立ちどまって考えることを許してくれます。その1ページ、1行と反復して対話することも許してくれます。また、疑問が生じたときは、その本とのつきあいをいちじ中座して疑問をとき、ふたたび、つきあいをはじめることもできます。さらに、もしも、その本が身近にあれば、その本を生涯の友、生涯の師とすることもできます。つまり、これらが読書本来の価値として高く評価されてきたものであり、だからこそ深い読書が、思考の深い人間の形成に大きく寄与することになるのです。

● 本は立ちどまって深く考えさせる
物理学者・随筆家として名高い寺田寅彦は、名著 「寺田寅彦随筆集」 中で 「読書と今昔」 について語り、そのなかで、つぎのようなことを言っています。
「あるとき、ちっとも興味のなかった書物が、ちがったときに読んでみると、ひじょうに興味をおぼえることも珍しくない。(中略) たいへんおもしろく、読めば読むほど、おもしろ味の深入りする書物もある。(中略) 二、三ページ読んだきりで投げ出したり、また、ページをめくって挿絵を見ただけの本でも、ずっと後になって、意外に役だつ場合もある」。
寺田寅彦がここで言っているのは、1冊をなんどでもくり返して読めることへの、楽しみではないでしょうか。また、その本と、自分の思いどおりに対話できることへの、よろこびではないでしょうか。
ところが、当然のことながらテレビは、中途で投げ出しておいて、のちに、再び見ることなど、また、なんどでも見ることなど、とてもできません。内外の思想家は 「人間は、あるときはとまどい、あるときはつまずきながら反復して考えることがたいせつであり、立ちどまって考えることは人間を深くする」 という意味のことを言っていますが、テレビにそれを要求することはできません。というより、テレビは、むしろ、それを阻害しているのです。

10年以上にわたり刊行をし続けた「月刊 日本読書クラブ」の人気コーナー「本を読むことは、なぜ素晴しいのでしょうか」からの採録、第2回目。

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● 自分の意志で行動を起こす
今回は、本を読む行為の能動性について考えてみましょう。
まず対比的に、テレビ視聴のときの身構えを思いだしてみますと、人が映像にむきあっているときは、多分に受動的です。それは第1に、受像機のスイッチをひねりさえすれば、全く労せずに映像が目に、音が耳に、とびこんでくるからです。そして第2には、たとえチャンネルと番組は選べるとしても、基本的には、放送局から一方的に送られてきたものを、受ける形で視聴するよりしかたがないからです。まして、とくに見たい番組もないのに、ただ暇つぶしにテレビにむかっていたとしたら、それはもう受動の極致です。
考えてみれば、テレビ視聴者のこの状況は、動物園にとじこめられている動物たちの状況に、よく似ています。
オリのなかの動物は、ねころんでいようが、あくびをしていようが、自分がオリの中にいさえすれば、人間たちが向こうからやってきてくれます。日曜や祭日にでもなれば、それはもう、うんざりするほどやってきてくれます。しかし、会いたいと思う人間に会うことを求めることはできません。
ときには、人間の顔を見るのにすっかり、あきてしまうこともあるでしょう。しかし、他になにもすることがないから、やっぱり、つい、人の顔をみながら、なんとなくすごしてしまいます。そして、それが習慣化してしまうと、人間を見てもなにも感じなくなるうえに、人間以外のことは、なにも考えようとしないようにもなってしまいます。また、オレは、ほんとうは強い動物だということも、草原をどんな動物よりも早く走れるのだということも忘れてしまいます。

● 能動的に活動する人間を育てる
さて、以上のようなテレビ視聴時の状況に対して、本を読むときはどうでしょうか。
まず第一に、本を読もうとするときは、自分で読みたい本をえらんで、その本を自分のところに持ってこなければなりません。つまり、テレビのように与えられるものを受身で待つのではなく、自分の意志によって、自分で行動をおこさなければなりません。
つぎに、 本はテレビ番組をえらぶように一定の枠のなかからの選択を、余儀なくされるのではなく、無限の量のなかから自由にえらぶことができます。いいかえれば、本をえらぶことひとつにもその人の主体性を十分に生かすことができ、つねに、能動的でありうるわけです。
つまりこれは、動物にたとえるなら、オリから解放されて野生にかえった動物の行為です。自分の意志で自分が行動をおこさないかぎり、人間に会うことも、食べものにありつくこともできません。そのかわり、広大な草原をかけまわれば、さまざまな生きものにであうことができます。また、自由に冒険を楽しむこともできます。
さあ、どうでしょうか。オリの中の動物と、野生の動物とでは、その動物にとって、どちらがすばらしいのでしょうか。それは、いうまでもなく野生の動物のはずです。
動物園の動物たちは、飼育されるうちに、敵と戦うことも、大自然のきびしさに耐え勝っていくことも、もう、忘れてしまっているのかもしれません。
これでは、あまりにもかわいそうでしょう。とすれば、人間がオリの中の動物のようにならないためにも、読書を通じて能動性をしっかり育てていくことが大切でしょう。

「月刊 日本読書クラブ」は、1983年2月の第1号から、1993年8月通巻123号で休刊するまで10年以上にわたり刊行し続けた。その内容は、読書に関するさまざまな情報を中心に、実に多岐にわたっていたが、その中でも特に人気と評価の高かった「本を読むことは、なぜ素晴しいのでしょうか」というコーナーを、このブログを通じて紹介してみよう。

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● 自分の頭で想像する力をはぐくむ
ここ20数年、日本人がますます本を読まなくなってきていることが嘆かれています。それは大づかみにいえば、日本人は「ものを考えることを忘れ、豊かな心を失ってしまう」 ことへの恐れを嘆くものです。そこで、いまやマスコミの王者であるテレビと対比しながら問題を考えてみましょう。
児童文学者で、「日本読書クラブ」の講師でもあった椋鳩十さんの作品に、小学校の教科書にもおさめられている「月の輪ぐま」という短編があります。
山で母と子のクマにであった人間が、あるとき、川原で子グマだけがあそんでいるのを見つけて、その子グマをいけどりにしようとします。ところが、子グマを谷川の滝壷の近くまで追いつめたとき、高さ30メートルもある滝の上に、母グマがあらわれ、その母グマが、子グマを助けたい一念で滝にとびこむという、母グマの崇高な愛情をえがいた名作です。
さて、この作品を、子どもたちが本をとおして楽しむときは、目で文字を追いながら、頭のなかでは、山奥の谷川と滝の情景を、いろいろ想像するでしょう。母グマが、川岸の大きな岩をだきおこして、子グマにカニをとらせるところがありますが、そこでは、母グマのあたたかい姿と、子グマのかわいい姿を、あれこれ頭にえがいてみるでしょう。また、人間に追われて、いっしょうけんめいに逃げていく子グマの姿、子グマのことを心配して滝の上から人間をにらみつけ、やがて、まっさかさまに滝へとびこむ母グマを、いろいろ思いうかべるでしょう。さらには、そんな情景だけではなく、谷川の水の音、山にこだまする滝の音、それに、子グマのなく声、母グマのほえたてる声も想像するでしょう。

● 自由で主体的な思考をはぐくむ
ところが、もし、この物語をテレビで見たとしたら、どうでしょうか。谷川や滝の景色も、母グマや子グマの姿も、すべて、完成した画像になって目にとびこんできます。谷川の水の音も、滝の音も、クマのほえたてる声も、視聴者に想像するいとまも与えずに聞こえてきます。つまり、視聴者は、自分ではなにも想像しなくてもいいということになり、ここに本を読むことと、テレビを見ることの決定的なちがいがあるのです。
本を読むときは、文字が語っているものを、目には見えていないものを、自分の頭をはたらかせて映像にし、あるいは音にして、思いをめぐらしながら、いろいろ考えます。でも、テレビを見るときは、その必要がありません。したがって、本を読んでいるときの考える行為と、テレビを見るときの考える行為には、おのずから深浅の差が生まれ、これが、テレビ人間がふえればふえるほど読書の効用が問われる理由の、最大のものではないでしょうか。
それから、もうひとつ大切なことがあります。それは、たとえば5人がいっしょに一つのテレビ番組を見ているとしたら、その5人は一方的に送られてきた共通の映像を楽しむことしかできませんが、本は、たとえ同じ本を読んだとしても、5人が、それぞれ独自の映像をえがくことができるということです。つまり、テレビを見ながらの思考は、画一的なものになりがちなのに対して、本を読みながらの思考は、自由で、主体的で、個性的であることが許され、この自由な思考こそが、人間のほんとうの「考える」いとなみを育ててくれるのです。
テレビを見るな、などというのではなく、テレビを見ても、それにむしばまれてしまわないためにも、やはり読書の大切さを、もっと知るべきではないでしょうか。

1983年1月に設立した「日本読書クラブ」のその後についてふれてみよう。
設立から10年後の1992年5月に、「くもん式」として有名な公文教育研究会の発行する月刊「ケイパブル」という教育情報誌の編集部から取材を受け、「作家と出版社の提携で、読書好きを育てて10年。2000家庭の会員をもつ日本読書クラブ」という見出し付で、次のような記事にしてくれた。10年間の歩みが、的確に記述されているので、2回にわたり紹介してみよう。

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親と子の読書の大切さ。子どもの人格形成にのぞましいしつけ。教育の正しいあり方。非行や暴力に走らない自制心のある子ども。……こんな願いをこめて親子読書運動を続けている 「日本読書クラブ」 をたずねました。


くもん記事


● クラブの発足と発展
『本を読む人を1人でも2人でもふやしていく。本を読みあうことを通して親と子の心が通いあったあたたかい家庭を1軒でも2軒でもふやしていく。読書により、ものごとを豊かに考える習慣を身につけた人びとの力を結集して、人間が人間らしく生きていくことができる社会をすこしずつでもきずいていく』
このような願いをもつ「日本読書クラブ」(東京都三鷹市) が1983年1月に設立されて、今年で足かけ10年になる。 クラブ発足のきっかけは、近頃の子どもが読書に親しまなくなり、受験勉強に追われ、その結果他人への思いやりや自主性がなくなってきたという読書調査を見て、それを食いとめるには幼児期の 「親子読書」 が最良だと考えたことから。
童話作家の有吉忠行さんやいずみ書房代表の酒井義夫さんが世話人となって、早船ちよ・早乙女勝元・なだいなだ・加子里子・長崎源之肋・田中澄江・萩原洋三・羽仁進・椋鳩十(故人)さんら作家、文化人の方々を講師に迎えて、クラブは発足した。
もともと読書好きな母親は、だまっていても子どもに本を買ってやったり、読んでやったり、さらには地域の読書会へ参加したりしている人も多いので、クラブとしてはそれほど本に親しむ習慣のない親子を掘りおこして運動を広げていく方針にした。
そこで、児童書出版社 「いずみ書房」 がバックアップして、その直販網を通じて毎月発行の会報『月刊・日本読書クラブ』を各家庭に配ったり、講師による講演会を各地で開いたり、また会員になった人の口こみなどで会員家庭をふやしていくことにした。
こうして、あまり読書好きではない人を読書好きにしていくという地道な活動が始まった。現在は全国に二千有余の会員家庭となっているが、足かけ10年の間に巣立っていった会員は約3万人になるという。
当初の目標だった50万人にはまだ及ばないが、地道な読書運動としてはそれなりの成果をあげているといえるのではないだろうか。

● 親への呼びかけ
「読書は本と人との戦いです。本にいどむ意欲を失えば、短絡的な視覚人間ばかりが育ってしまう。小学校入学前に親子ともども読書する習慣を身につけておけば、大きくなっても対話がとぎれることはないし、読書を通じて学んだ人間愛や人生の深遠さが情緒の安定にもプラスになって、暴力や非行に走る子は少なくなる」 と、有吉忠行さんはクラブの基本的な考えをかたっている。
このような考えをもとにクラブでは、次のような形で入会の呼びかけをしている。
* 子どもに読書の贈りものをしてみませんか。
* 親子読書で心の交流を深めてみませんか。
* 読書会で仲間の輪をひろげてみませんか。
* 自作の童話や絵本を発表してみませんか。
* 地域の文化運動に参加してみませんか。
* 会員の特典を生活に生かしてみませんか。
これらの項目は誰にでもわかりやすい事柄ばかりで、ことさら説明する必要はないが、その主旨は本を媒体にして親子がともども読書の楽しさや喜びを知り、社会への参加をうながし、心を豊かにしていくことができるという意味だそうだ。
そこでクラブでは、単に親子読書のすすめだけでなく個人読書から集団読書へ、さらには地域ぐるみの読書運動へと、読書の輪が広がっていくための様々な相談に応じている。
投書による初歩的な読み聞かせの方法についての相談にも文書でていねいに答え、また要請によっては専門の読書クラブインストラクターや顧問講師を派遣している。

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