児童英語・図書出版社 創業者のこだわりブログ

30歳で独立、31歳で出版社(いずみ書房)を創業。 取次店⇒書店という既成の流通に頼ることなく独自の販売手法を確立。 ユニークな編集ノウハウと教育理念を、そして今を綴る。

月刊 日本読書クラブ

10年以上にわたり刊行をし続けた「月刊 日本読書クラブ」の人気コーナー「本を読むことは、なぜ素晴しいのでしょうか」からの採録、第8回目。

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● ほんとうの友情とは?
太宰治の小説のなかで、少年少女たちに、もっとも愛読されている作品に 「走れメロス」 という短編があります。
メロスは、牧場ではたらく若者です。ある日メロスは、ちかく結婚する妹の衣裳や祝宴のごちそうを買いに、はるばる王のすむ町へやってきます。すると、町のようすがへんです。町じゅうひっそりして、人びとは暗い顔をしています。道行く人に聞くと王は、人を信じることができなくなり、人の心を疑っては、身内のものやけらいを、つぎつぎ殺してしまうという。
メロスは 「あきれた王だ、生かしてはおけぬ」 と怒り、ひとりで城へのりこみます。しかし、すぐ、とらえられてしまいます。メロスは、死はかくごです。でも、ふと、妹のことが気になります。そこで、処刑まで3日間のゆうよを願いでると、この町にすむ親友のセリヌンティウスを人質において、村へ走ります。そして、妹の婚礼をすませると、3日めの朝、折からの雨のなかを町へ……。
メロスは走ります。橋を失った濁流うずまく川を必死で泳ぎきり、山では、おそってきた山賊をうちたおして、やがて王の手で殺されるために走ります。メロスが3日めにもどってこなければ、かわりに自分が殺されてしまうことはわかっていながら、メロスを信頼して人質になってくれたセリヌンティウスのために、息たえだえになっても走りつづけます。
「走れメロス」 は、このような物語をとおして、正義と友情の美しさをえがいた作品です。
さて、この作品にふれた子どもたちは、とうぜん、メロスとセリヌンティウスとの友情のすばらしさに、心をうたれます。
セリヌンティウスに、私は信頼されている。私は、信頼にむくいなければならぬ。信じられているから走るのだ。走れメロス! ……こんな言葉をとおして、子どもたちは 「世のなかに、こんなにも美しい友情があるのか」 ということを学びます。
刑場にひきだされて、いまにも、メロスの身がわりに処刑されようとするセリヌンティウス。 「殺されるのは私だ」 とさけびながら、さいごの力をふりしぼって刑場にころげこんできたメロス。そして、たったいちどだけ、自分の命が助かるために友の信頼をうらぎることを考えたと告白して、セリヌンティウスに、私をなぐってくれと迫るメロス。また、たったいちどだけ、メロスはもうもどってこないのではと、友の心をうたがったことを告白して、私こそ、なぐってくれと迫るセリヌンティウス。やがて、頬を打ちあい、ひしと抱きあって、うれし泣きに声をあげて泣くふたり……作品の、このさいごの場面にくると、子どもたちは、もう、声をつまらせます。おさえきれない感激につつまれるのです。

● 読書は心にくさびを打ちこむ
この小説を読んでの感想文のなかで、子どもたちは、自分と自分のまわりをふりかえって、つぎのようなことを言っています。
「私にも、セリヌンティウスのような友だちがほしい。でも、そのまえに、私自身が、人に信頼される人間にならなければ」 「いまは、だれもが自分のことばかり考えている。受験戦争が、友情までも、くいつぶしてしまったのだろうか」 「どんな人間にも、人をうらぎったり、うたがったりする心の弱さがある。でも、その弱さに負けないようにしないと、人間が人間でなくなるのだ」
考えてみると、いまの子どもたちに、日常生活のなかで友情や信頼について、これほど考えさせるものが、どれほどあるでしょうか。おそらく、ほとんどの子どもに、そんなものはなく、だからこそ本を読む価値がたたえられるのです。
「友情はたいせつにね」 「友だちをうらきってはいけませんよ」 「人間は人に信頼されるようにならなければ」……こんなことを、親が、口先だけで言ってきかせても、子どもにわかるものではありません。心にくさびを打ちこむような実感がともなわなければダメです。口先だけの100回の言い聞かせよりも、たった1回の読書のほうが、どれほど効果的かしれません。読書は、自分で自分の心をゆさぶり、自分で自分の心にくさびを打ちこむからです。

10年以上にわたり刊行をし続けた「月刊 日本読書クラブ」の人気コーナー「本を読むことは、なぜ素晴しいのでしょうか」からの採録、第7回目。

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● 心の落ち着きのある人間に
本を読むことは、人の心を豊かにします。考える心を育てます。知識を豊富にします。……これらは一般的にいわれる読書の効果であり、この効果が期待されるからこそ、読書のたいせつさが説かれるのでしょう。
ところが、このほかに、もうひとつ大きな効果があります。それは、「ひとりで本を読む」 という行ないが、「孤独に耐える人間」 「落ちつきのある人間」 を、つくるということです。
事実、活溌すぎる子をもつ母親が、よく 「ときには、静かに本でも読んでくれたらいいのに」 とぐちをこぼします。これは、本でも読んでくれたら、すこしは落ちつきのある子になってくれるだろう、という期待の表われにほかならないでしょう。
では、「本を読む行ない」 が、なぜ、落ちつきのある人間をつくるのでしょうか。また、その 「落ちつき」 は、どのような 「力」 になって、その人のうえに表われるのでしょうか。
孤独に耐える心と、心の落ちつき……まずこれを生みだすものについて考えてみますと、とうぜん、本から得るものによって、その人が思慮深くなっていくことが、第一にあげられましょう。しかし、これだけではなく、「思慮深くなっていく」 ことに、まさるとも劣らない要因があります。それは 「本を読む行ない」 そのものが 「孤独のいとなみ」 であるということです。しかも、その 「孤独のいとなみ」 は、たんに 「一人でなにかをする」 こととは、質がちがいます。
たとえば、子どもが一人でマンガに熱中している姿を考えてみますと、たしかに、これも孤独のいとなみであることに変わりはありません。しかしマンガを読むことには 「楽しい遊び」 としての要素が強く、自分から挑んでいく、あるいは、心をたたかわせる、という深いものは望めません。プラモデルを作る、電子ゲームに熱中する、人形遊びや折り紙に夢中になる……というのもやはり同じでしょう。

● 深い思考力
ところが、本を読むということは、たとえ 「楽しい読書」 という言い方はしても、本質的には遊びではありません。目で追えば理解できるものでも、目で見ながら手を動かせばよいというのでもなく、頭と心で、本の内容に、あるいは未知の世界に挑んでいかなければ、理解できません。
つまり、本を読むことには、より深い思考がともなわなければなりません。また、本を読む過程では、目に見えない疑問や迷いと、心をたたかわせなければなりません。さらには.わからないこと、理解できないことに、自分ひとりの力で、うちかっていかなければなりません。そのうえ、それらの、深い思考、疑問とのたたかいなどを、持続していかなければなりません。
本を読むといういとなみを、このように見てくると、読書が 「孤独に耐える人間」 「落ちつきのある人間」 をつくることと、いかに深いかかわりがあるかがわかります。ひとりでプラモデルや電子ゲームに、どんなに夢中になれる子どもでも、その子が、それらの遊び道具からはなれると、多くの場合、落ちつきを失ってしまいます。それは、物と遊ぶこと、悪くいえば物に遊んでもらうことは知っていても、「心の世界に遊ぶ」 「思考の世界にひたる」 ことを知らないからです。
つまり、読書の習慣がほんとうに身についた人は、たとえ遊び道具などがなくても、たとえ長時間たったひとりでも、自分の心の世界で遊ぶことを知っているから、孤独に耐えることも、落ちついていることもできるのです。また、自分から求めて何かを得ていくことを知っているから、どんなときにも、あわてないでいられるのです。

● 学業成績の向上にも大きな効果
では、この 「ひとりで考える落ちつき」 が、どんなにたいせつか、これを、子どもの勉強に表われる具体例で明らかにしてみましょう。
それは、本を多く読む子どもは、読書ぎらいの子にくらべて、行ないが思慮深いうえに、学業成績もすぐれているということです。これは、どこの学校でも証明されていることですが、 なぜでしょうか。
本を多く読む子どもといっても、読んでいる本の多くは童話や物語であり、直接、教科に関係のある本ではありません。また、本人たちが、学業成績にプラスすることを意図して読んでいるのでもありません。
ところが、結果として、勉強にプラスになっているわけですが、これこそ、本を読むことによってしぜんに培われた 「主体的に、ひとりで時間をすごす能力」 「わからないことに挑みかかっていく意志」 「ひとつのことに深く集中する落ちつき」 などが、大きくえいきょうしているのです。ひとくちにいえば、ものごとに自分からすすんで落ち着いてとりくんでいく心がまえが、本を読む習慣のなかで育ち、それが、よい勉強、よい学習態度につながっていったのです。

● 身についていく孤独に耐える力
このことは、学生時代の勉強にかぎったことではありません。本を読むという 「主体的ないとなみ」 の習慣を身につけた人は、社会人として仕事に追われるようになっても、家事に追われるようになっても、それにおぼれてしまわないでいることができます。
忙しい暮らしのなかででも、読書をとおして、自分を見つめる時間、自分の心と語る時間を、もちつづけることができるからです。
なお、読書が 「孤独に耐える心」 を培うということについては、つぎのようなことも実証されています。それは、老後の問題ですが、それまで本を読む習慣を身につけてきた人は、老後も、読書を楽しむことによって孤独にうちかっていくことができる、しかし、ひとりで読書を楽しむことを身につけていない老人の多くは、自分自身で孤独に耐えるすべを知らないがために、どうしても心が荒れていくというのです。といって、 読書のいとなみを知らなかった人が、さあ老境に入って暇ができたから本でも読もうと思っても、それは大変むずかしいことです。
「自分ひとりの時間を主体的に楽しむ」 読書の習慣を、身につけるか、つけないかが、その人の全人生に、さまざまな形で影響するものであることを、もっともっと知ることが必要なのではないでしょうか。
子どもには、できるだけ早い時期から、読書の習慣をつけてやりたいものです。自分から学びながら、落ちつきのある人生を歩ませてやるために……。

10年以上にわたり刊行をし続けた「月刊 日本読書クラブ」の人気コーナー「本を読むことは、なぜ素晴しいのでしょうか」からの採録、第6回目。

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● 学力と能力を混同しない
いまの日本を見わたすと、おとなが子どもを評価するときのありかたに、どうも、おかしいと思われるところがあります。それは、子どもの 「学力」と「能力」 を、いっしょくたにしてしまっている傾向のつよいことです。わかりやすくいえば、多くのおとなが、学校の成績のよい子、勉強のできる子を 「能力のすぐれた子」 とし、成績の悪い子、勉強のできない子を 「能力の低い子」 と、きめてかかっているということです。
もちろん、「学力」も「能力」 のひとつです。しかし、それは学校の授業をとおして得た能力、つまり、人間の能力の一部にすぎず、「人間の能力」 そのものではありません。ところが、多くの人が、知識のつめこみにかたよりすぎた学校教育に幻惑されてしまって、「学力」と「能力」 を混同するようになったのでしょう。
「能力」 とは、正確にいえば 「ものごとを、やりとげることのできる力」 「事をなし得る力」 です。したがって学習の結果として得た知識としての学力とはちがいます。「能力」 は、人間にとって、「学力」 などよりも、もっともっとたいせつなもの、もっともっと基本的に備えておかなければいけないもの、であるはずです。
さて、そうだとすれば、「学力」 によって、「能力」 のあるなしをはかるのは、根本的にまちがいだということになるのではないでしょうか。
人間にとって、いちばんたいせつなものは、「ものごとを、自分の考え、自分の力で、やりとげていく能力」 です。この 「能力」 さえあれば、たとえ、いまの 「学力」 がおとっていても、人生の荒波を泳ぎきることができます。しかし、「つめこんだ学力」 「学ばされた学力」 がどんなにすぐれていても、「自分で事をなし得る能力」 に欠けていたら、おそらく苦しい人生にうち勝つことはできないでしょう。
では、その 「能力」 を子どもの時代から身につけてやるには、どうしたらよいのでしょうか。「ものごとをやりとげる」 「事をなす」 ためには 「自分の意志で生きていく力」 が必要だとすれば、「学ばされる」 「やらされる」 ことを除けば、いろいろなことが考えられます。しかし、もっとも効果的だと思われるのは、読書によって、子どもたちに 「人間の生きる意味」 をつかみとらせることではないでしょうか。

● 本の世界こそ生きた能力が育つ
子どもがじっさいに経験できることは限られています。また、とくに、いまの時代は、本来、子どもが自由奔放に経験できるはずのものを、半ば社会が奪いとってしまっています。それに、一般的なことをいえば、おとなの生き方自体が甘くなっているのですから、親から子へ伝えられるものも、浅く薄いものになってしまっています。ところが、本の世界だけは、「心でできる経験」 にも 「教えられるもの」 にも、なに不自由ありません。
文学作品のほか、歴史、伝記、科学などを読むことをとおして、人間が生きることの意味や、人間が人間らしく生きるための愛や、社会のしくみや矛盾などを知ることができます。それらは 「学力」 のなかでは学ぶことのできないものばかりです。しかも、本を読む行ないそのものが、「ものごとに自分から立ち向かって、それをやりとげる力」 を、つちかわせてくれます。
同じ学力でも、学ばされて得た学力と、自分から立ちむかって得た学力とでは、大きなちがいがあることを十分に知っておかなければいけません。ほんとうの生きる意味を知り、ほんとうに生きる希望をもったら、人間は、ほっといても学ぶようになり、それこそ、ほんとうの 「学力」 を身につけるようになります。
読書は、とくに子ども時代の読書は、人間の能力の花を開かせる、最高の肥料だと断言してもよいのではないでしょうか。

10年以上にわたり刊行をし続けた「月刊 日本読書クラブ」の人気コーナー「本を読むことは、なぜ素晴しいのでしょうか」からの採録、第5回目。

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● 孤独のさみしさ・いたずらの悔い
すぐれた本にであうと、読後、なぜかぼんやりしてしまうことがあります。それは、きっと、感動に酔っているからです。また、その1冊の本から、ある衝撃を受けたからです。そこで、今回は、本が読者の心をゆさぶることの大きさについて考えてみましょう。
小学校の国語の教科書に収められている読書教材のひとつに、新美南吉の 「ごんぎつね」 があります。人間と動物との心の通いあいをえがいた名作です。
さて、この作品を読んでいくうちに、子どもたちは、いろいろな場面にぶつかり、いろいろなことを考えます。
まず、はじめに、兵十がせっかくとった魚を、キツネのごんがいたずらをして、みんな川へ捨ててしまうところでは、子どもたちはみんな、ごんのいたずらをにくみ、いたずらの悪を考えるでしょう。と同時に一方では、「ごんは、ひとりぼっちだから、きっと、さみしいのだ」 などと、いたずらをするごんの気持ちを、やさしく思いやるでしょう。
つぎに、兵十のおっかあが死んで、兵十は、あの魚を病気のおっかあに食べさせてやりたかったのだ、ということを知ったごんが、「ちょっ、あんないたずらをしなけりゃよかった」 と後悔するところでは、多くの子どもが、自分もいたずらをして後悔したことがあることを思いだしながら、悔いているごんの心に思いを寄せるでしょう。そして、兵十へのつぐないの気持ちで、ごんが、魚やクリやマツタケを、毎日こっそり兵十の家へとどけるところでは、子どもたちはさらに深く、ごんの心を考えるでしょう。また、ごんと兵十の、ひとりぼっちどうしのことをも考えるでしょう。
ところが、兵十が神さまにお礼を言おうとするのを見て、ごんが 「おれが、クリやマツタケを持っていってやるのに、そのおれにはお礼を言わないで神さまにお礼を言うんじゃぁ、おれはひきあわないなあ」 と思うところでは、子どもたちは、せっかくのしんせつに報いを求めるごんに、批判の目を向けるでしょう。

● 善意が通じあわない悲しさ
でも、最後は、兵十に火なわ銃でうたれ、「ごん、おまえだったのか。いつも、クリをくれたのは」 という兵十の声に、ぐったりと目をつぶったままうなずいて死んでいくごんに、すべての子どもがやさしく心をふるわせ、すべての子どもが、この作品の悲しい世界に心からひたります。
以上のようにたどってくると、ひとつの作品が、いかに、いろいろなことを語りかけてくるかがわかります。また、読みすすむ読者の心を、いかにゆすぶるかがわかります。つまりこれが、すぐれた作品を読むことの価値であり、これが読者を酔わせるのです。
ところで、生活のなかの実経験で、心から怒り、心から同情させ、心から悲しませるような事件にめぐりあうことが、どれほどあるでしょうか。たとえば、作品 「ごんぎつね」 が訴える、ひとりぼっちの孤独さや善意が通じない悲しさにしても、これを日常生活のなかで考える機会が、どれほどあるでしょうか。一般的にいって、それは、めったにないことであり、だからこそ、文学作品などを通じて代理経験することの意義の大きさが、指摘されているのです。
世界の思想に多くの影響をあたえたフランスの思想家モンテーニュは、名著 「随想録」のなかで 「私は、本のなかからこそ、多くの人生を学んだ」 という意味のことを言っていますが、これは、ひとりモンテーニュにかぎったことではないでしょう。
読書が考える人間をつくるというのは、まったく真実です。子どもたちに、1冊でも多くのすぐれた本にめぐりあわせて、すこしでも多く、心をゆさぶられる機会をもたせてやりたいものです。「ごんぎつね」 1冊に酔わせただけでも、これほど多くのことを考えさせることができるのですから。

10年以上にわたり刊行をし続けた「月刊 日本読書クラブ」の人気コーナー「本を読むことは、なぜ素晴しいのでしょうか」からの採録、第4回目。

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● 真実に目をむけて深くものを知る
今回は、ほんとうのことに目を向け、少しでもほんとうのことを知り、ほんとうの疑問をもつために、という観点から問題を考えてみましょう。
一般的に、疑問は、ものごとを知らないからおこると思われています。しかし、これは、80パーセントまちがっています。日常的な疑問の多くは、生活的、便宜的なものであり、真理、真実に目を向けて問いを発した疑問はあまりにも少ないからです。
つまり、ほんとうの疑問は、ものごとを「知る」ことによっておこるものです。知る→疑問がおこる→学んでもっと深く知る→もっと深い疑問がわく→さらに深く知りたくなる……このような疑問、こうして深まり広まった疑問こそが、ほんとうの疑問というものではないでしょうか。
ところが、少しきびしいいい方をすれば、そのような疑問を発するほどのことを 「知っている人」 「知ろうとする人」 が、あまりにも少ないように思われてしかたがありません。これは強く言えば、ものごとの皮相的なことしか知らないから、また、知ろうともしないから、ものごとを考えて判断する知性や、自分の思想や言動をかえりみる内省から発した深い疑問をいだくことができなくなってしまっているのでしょう。

● ほんとうの疑問を持つ心
これは、なぜでしょうか。 端的にいえば、多くの人びとが、マイホーム主義に代表される「物の世界」と、進学・受験戦争に代表される 「形式の世界」 におぼれ毒されて、いつのまにか、ものごとの真実を見つめたり、考えたりする 「心の世界」 を、どこかに置き去りにしてしまっているからではないでしょうか。 物の豊かさのみに心を奪われた中流意識や、形を追いかけるだけの知識偏重主義がおそれられるのは、まさに、そのためです。
「人間は……」 などといえば、あまりにも思いあがったいい方かもしれませんが、それにしても、いまの日本人は、もっと、ほんとうのことを知る心をもつべきでしょう。
ところが、隣を見ても、友だちを見ても、なにかを学びに行っても、その多くが毒されてしまっていますから、まったく手のつけようがありません。少し極端なことをいえば、一般的な日常生活のなかででは、もはや 「ほんとうのことを知る」 すべが、なくなってきています。
さて、だからこそ、おとなも子どもも、本を読むことがたいせつなのです。本は、童話や小説などの文学はもちろんのこと、自然科学の書も、社会科学の書も、歴史の書も、すべて、真理、真実を求めて書かれたものです。世の名作のなかに、真理、真実を追究していないものは、たったの1冊もありません。文学書は人間を、あるいは命あるものを追究しています。科学書は自然界と社会のしくみを追究しています。歴史書は人類の興亡と変遷を追究しています。
したがって、本のページをめくれば、だれだって、いつの世だって、真理、真実を見つめる目にぶつかることができます。そして、表面には表われていない、ものごとの深い部分を知り、それによって、知性的、内省的な疑問をもつことができるようになります。
たとえば、太平洋戦争というのろわしい戦争を書きのこすことのたいせつさが叫ばれ、戦争告発の書がたくさん出版されていますが、戦争を知らない世代の人びとは、それらの本の幾冊かに接しないかぎり、おそらく、戦争の悲惨さも、戦争のむなしさも知ることのないまま、時をすごしてしまうでしょう。つまり、戦争に対する、ほんとうの疑問をもつことのないまま、終わってしまうことでしょう。実は、これこそおそろしいことであり、だから、戦争告発の書の1冊や2冊はだれもが読まなければいけないのです。
読書は、考える人間をつくるといわれます。それは、いいかえれば、真の疑問をもつことのできる人間をつくることでもあります。
「知る」 ため 「疑問をもつ」 ために、いまほど、1冊でも多くの本を読むことのたいせつなときはないでしょう。一人ひとりの子どもにも、幼いうちに、「疑問をもつ心」 を育ててやりたいものです。

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