児童英語・図書出版社 創業者のこだわりブログ

30歳で独立、31歳で出版社(いずみ書房)を創業。 取次店⇒書店という既成の流通に頼ることなく独自の販売手法を確立。 ユニークな編集ノウハウと教育理念を、そして今を綴る。

月刊 日本読書クラブ

10年以上にわたり刊行をし続けた「月刊 日本読書クラブ」の人気コーナー「本を読むことは、なぜ素晴しいのでしょうか」からの採録、第13回目。

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「かわいそうなぞう」 (土家由岐雄文・金の星社刊) のあらすじは次の通りです。
戦時中、空襲がはげしくなった東京の上野動物園。空襲を受けて猛獣がおりから逃げだしては危険だというので、トラやライオンなどといっしょに、3頭のゾウも殺されることになります。ところが、りこうなゾウは、毒入りの餌をやってもたべません。毒を注射しようとすると、針が折れてしまいます。そこで、ついに、餌も水も与えずに餓死させることに……。

● みんなが涙を流し、みんなが泣き
「わたしは、ないてしまいました」 「むねがいたくなって、ながいこと、なみだがとまりませんでした」 「むねがジーンとなって、なみだが、ふきだしました」 「ぼくは、もう、声をあげて泣きたかったです」 「ぼくは、わんわん、なきたいようなきもちでした」 「いっしょによんでいたおかあさんも、なみだをボロボロながしていました」 「よこで、よんでいたおかあさんの声も、とちゅうから、ふるえていました」 「このお話をしてあげると、おばあちゃんも、ほそい目から、なみだをボロボロこぼして泣いていました」……。
これは 「かわいそうなぞう」 を読んでの感想文につづられている、子どもたち(小学校1~6年生)のことばです。
感想文にみるかぎり、この 「かわいそうなぞう」 ほど、子どもたちの涙を、そして母親たちの涙をさそった本は、ほかにありません。かりに1万人の子どもと母親が読んだとしたら、1万人のすべてが、この本のページに消えることのない涙のしみをつくったに違いありません。
これほどまでに涙をさそったもの、それは、戦争の犠牲になって餓死させられていったゾウへの悲しみです。えさ欲しさに、よろよろしながら芸をしてみせ、ついには、ばんざいの芸をしたまま死んでいったゾウへの、かぎりない悲しみです。そして、もうひとつは、かわいいゾウを、命令で、どうしても殺さなければならなかった「ゾウがかりの、おじさん」 の心への思いやりです。
もちろん、この物語にこめられているほんとうの願いは、たんに、ゾウの死への涙をさそうことではありません。ゾウの死をとおして叫ばれている真の願いは、いうまでもなく、ゾウを殺させた戦争の悪、なんの罪もない動物たちまでも死に追いやった戦争のいまわしさです。
つまり、この 「かわいそうなぞう」 の話は、戦争を知らない子どもたちに 「戦争とは、こんなにもおかしなものだ、こわいものだ、おろかなものだ」 「だから、再び戦争をおこしてはならないのだ」 ということを、さとらせようとしたものですが、その願いは、涙がとまらないほど、ゾウの死への悲しみが深ければ深いほど、大きく果たされています。

● 悲しみと感動の奥で戦争を考える
子どもたちは 「なみだが、とまりませんでした」 につづけて、なんどもくりかえして書きしるしています。
「せんそうは、ざんこくです」 「せんそうは、みんなを、ふこうにするのだ」 「なんで、せんそうなんかしたんやろ」 「せんそうは、だいきらいだ」 「戦争なんて死んでもいやだ」 「ぼくが、ゾウがかりだったら、せんそうを、やめてくれ、やめてくれと、泣きながらさけんだと思います」 「人間を殺し、動物を殺し、国をメチャメチャにする戦争は、もう、ぜったいにしてはいけない」 「ふつうは人をひとり殺しても大きなつみになるのに、せんそうは、たくさんの人や動物を殺しても、どうしてへいきなんだろう」。
子どもたちには、なぜ戦争が起こるのか、地球上から、なぜ、戦争がなくならないのかなどは、まだ、わかっていません。しかし、この1冊から、戦争は 「いけない」 ということだけは、純粋に感じとっています。そして 「ぼくは、平和を守ることを考えるにんげんになろうと、つよく思った」 「平和でないと、人も動物も、しあわせにはなれないのだ」 などと、平和のたいせつさをも感じとっています。
また、この本に接した子どもの半数以上が、ゾウとゾウがかりのおじさんへの悲しみをおさえきれずに、あるいは戦争へのにくしみをおさえきれずに、父母や祖父母と、戦争について、戦争で死んでいった人たちのことについて、さらに原爆のおそろしさについて、語りあっています。「せんそうって、ほんとうに、こんなだったの?」 という子どもの声に、父母、祖父母が 「ええ、もっともっとひどかったのよ。こんなこともあったのよ」 と、語りかけてやっています。
さあ、こうしてみると、この 「かわいそうなぞう」 という、たった1冊の本の力が、いかに大きいかがわかります。戦後生まれで戦争を語ってやれない親でも、この1冊を子どもに与えることで、また、子どもと読みあうことで、わが子に戦争を伝えてやることもできます。
子どもたちは、この物語を、いつまでも忘れないはずです。このとき戦争をにくんだことを忘れないはずです。それは、すべての子どもの感動をよびおこすものが、この本にあったからではないでしょうか。感動こそ、子どもの心を豊かにする、もっともたいせつなもの、だから、読書はすばらしいのです。

なお、この絵本は「えほんナビ」のホームページでも、詳しく紹介している。

10年以上にわたり刊行をし続けた「月刊 日本読書クラブ」の人気コーナー「本を読むことは、なぜ素晴しいのでしょうか」からの採録、第12回目。

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「ないた赤おに」 は、愛と善意をえがきつづけた童話作家浜田広介の代表作のひとつです。1933年に書かれ 「かしこい2年生」 という雑誌に発表されてから、半世紀以上ものあいだ、読みつがれてきています。ストーリーを紹介してみましょう。

赤おには、人間と仲よくくらしたいと考えますが、人間がこわがってうまくいきません。すると、友だちの青おにがやってきて 「ぼくが村であばれるから、きみは、ぼくをなぐれ。そうすれば、人間はきみをほめて、あそびにきてくれる」 といいます。そして、そのとおりにすると成功しました。でも、友だちのことが心配になって青おにの家へ行ってみると、青おには、赤おにのしあわせを祈って旅へ出たあとでした……。

● 友のしあわせのための自己犠牲
さて、この 「ないた赤おに」 を読んだ子どもたちは、まずはじめに、こんなにも心のやさしい鬼のいることに、おどろきのことばをもらしています。「いっすんぼうし」 にでてくる鬼も 「ももたろう」 にでてくる鬼も、みんな悪ものなのに、この 「ないた赤おに」 の鬼は 「ぜんぜんちがう」 というのです。
「太い金の棒をふりまわして、 物をうばったり、人をさらったり殺したりする鬼は、おそろしくて悪いやつばかりだ」 と思っていたのに、やさしい心で人間と仲よくしたいなあと思う鬼なんて、悲しくて、しくしくなみだをながす鬼なんて、子どもたちには、なんだか、ふしぎでしかたがなかったのでしょう。でも、このことは、小学校2、3年生にもなると 「にんげんでも、からだや、かおだけで、そのひとを、こんなひとと、きめてしまってはいけない」 「たいせつなのは、こころなんだ」 ということを、はやくも、さとっています。
ところで、子どもたちは、この物語にでてくる赤鬼と青鬼のどちらを、すきになるのでしょうか。ほんとうにやさしいのは、どちらだと思うのでしょうか……それは、青おにです。子どもたちは、口をそろえて言っています。
「あおおには、ともだちを、こころから、たいせつにしたんだね」 「わざとあばれて、わざとなぐらせて、赤おにがやさしいようにみせてあげた青おにさん。なんて、おもいやりがあるのでしょう」 「青おには、じぶんがぎせいになって、ともだちの、しあわせだけを、かんがえてあげたのね」 「じぶんが、わるものになって、たたかれる役を、ひきうけた青おに。そんなこと、ぼくには、とてもできません」 「じぶんが、そんをして、赤おにをたすけるなんて、青おにには、すごいゆうきがある」。
「赤おにと青おには、ぐるなんだと、むらの人たちに思われないように、青おには、たびへでて、いなくなってしまった。どこまでも、どこまでも、ともだちのことを、かんがえたんだ」 「青おには、ともだちのために、じぶんのさみしいのは、がまんしたんだ」
子どもたちは、友だちのしあわせのために自分を犠牲にした愛の深さと勇気にうたれ、青おにの、美しい心と行動に拍手をおくっているのです。そして 「勇気のある、ほんとうのやさしさとは、なにか」 を、考えています。

● 鬼の心から学ぶ美しい友情
しかし、だからといって赤おにが、きらいだというのではありません。「あかおにくん、きみは、あおおにくんに、ぼかぼかなぐれといわれても、はじめは、ひとつしか、 なぐらなかった。あおおにくんが、かわいそうだったんだね」 「あおおにくんが、ひたいを、はしらにぶつけて、こぶをつくってにげていくとき、きみは、しんぱいで、あとを、おいかけたね。きみも、あおおにくんにまけないくらい、こころのやさしい、おになんだね」 「赤おにくん、きみは、ともだちのことがしんぱいになって、青おにくんのいえへいったんだ」 「きみは、青おにくんのやさしいおもいやりに、むねがいっぱいになって、なみだをこぼしたんだね」……などと、赤おにに語りかけている子どもたち。
そして 「わたしは、赤おにさんの、いちばんのともだちは、やっぱり、いつまでも青おにさんだとおもいます」 「赤おにくんも青おにくんも、すばらしいともだちをもって、よかったね」 と、その美しい友情をたたえる子どもたち。「わたしも、青おにさんのような、ともだちがほしい」 「でも、いい友だちがほしいなら、まず、わたしが、いい友だちにならなければいけない」 「これからは、もっともっと、友だちをたいせつにしよう」 と、自分にいい聞かせるこどもたち。
「あおおにさんの、きもちを、かんがえると、なんかい読んでも、なみだがでました」 という、この作品から、すべての子どもが美しい友情を学びとるのではないでしょうか。すぐれた文学は、こどもの心に、紙が水を吸うように、しみいるものです。

10年以上にわたり刊行をし続けた「月刊 日本読書クラブ」の人気コーナー「本を読むことは、なぜ素晴しいのでしょうか」からの採録、第11回目。

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「かたあしだちょうのエルフ」 (おのきがく絵/文・ポプラ社) は、つぎのようなストーリーです。
子ども(動物の)のすきなエルフは、ある日、子どもを守るためにライオンとたたかって片足を失い、自分で、えさもさがせなくなってしまいます。ところが、ほかの動物たちは、エルフを助けてやろうとはしません。しかし、エルフは、またも、くろひょうとたたかい、ついにいのちをおとして、大きな木に生まれかわります。木の下には、エルフのなみだでできた池が……。

● 周囲のために生きる愛と勇気
▼ 「エルフのはなし、よんでもらって泣いた。でも、かなしかったんと、ちがうよ」 小1・男 ▼「こんなかわいそうな本、はじめてよみました。よる、おかあさんによんであげながら、なみだが、ぽろぽろでました」 小1・女 ▼「エルフさん、わたしは、あなたをしって、ほんとうによかったとおもいます」 小1・女 ▼ ぼくは、ほんとうにつよいというのは、心がつよいことだと、きがつきました」小2・男。
多くの子どもが、こんなことばを残している 「かたあしだちょうのエルフ」。子どもたちが、この本を読んでもっとも大きく心にひびかせているのは、エルフの愛と勇気です。
エルフが、ライオンとたたかって片足を失う……子どもたちは、ここで、心のなかで 「エルフさん、がんばれ、しっかりと叫んだ」 と言っています。そして片足をくいちぎられてしまったことに 「いたかったやろう」 「かわいそうで、なみだがでた」 「きゅうきゅうしゃで、おいしゃへ、つれていってあげたかった」 などと思いやりの心をよせ、エルフが自分は片足をくいちぎられて痛いのに、自分のことはほっといて、助かった動物の子どもたちに 「みんな、ぶじで、ほんとによかった」 とつぶやくところでは、声をそろえて 「自分のくるしみをがまんして、こんなやさしいことをいうなんて、すごい」 と、エルフをたたえています。また、エルフと自分をくらべて 「ぼくには、こんなことはできない」 「ぼくは、いつも自分のことを先に考えてしまう」 などと、エルフの心よりも小さな自分の心を、反省しています。

● 崇高な生き方と自己犠牲の尊厳さ
片足のエルフは、さいごに、くろひょうとたたかって気がとおくなり、1本の大きな木になってしまう」……ここにくると、子どもたちの感動は 「さいごのさいごまで、子どもたちのために、たたかったんだね。かたあしのだちょうでも、きみが、いちばんすてきだよ」 「きみこそアフリカのどうぶつの王さまだ」 「エルフさん、わたしは、一生あなたを忘れません」などと、もはや〈偉大なエルフ〉への崇拝となっています。
そして、エルフが木に生まれかわったことへ思いをよせ、この本のページをめくり終えたほとんどの子どもが 「かみさまは、エルフのゆうきをほめて、大きな木にしてくれたのだ」 「かみさまが、ごほうびに、もういっこのいのちをくれたのだ」 「しんでしまってハゲワシやハイエナにたべられないように、かみさまが、木にしてあげたんじゃないかな」 「エルフは、しんでからでも、どうぶつたちを、まもってあげたかったんだ」 などとエルフの死を崇高にとらえ、自己犠牲の尊厳さに心をふるわせています。

● 心のきたなさと気高さ
ところで、以上は、エルフのやさしさと勇気への感動ですが、この物語は、もうひとつ別なことを、子どもたちに考えさせています。それは、はじめはライオンとたたかっこてくれたエルフに感謝していた動物たちが、いつのまにかエルフのことなんか忘れ、ついには、ハイエナなどが 「早く死んで、おれたちのエサになれ」 といいだす、動物たちの心のきたなさです。
子どもたちは 「かたあしのエルフは、えさをさがせずにこまっているのに、みんなは、どうしてたすけてやらないのだ」 「みんなは、どうしてエルフに、おんがえしをしないのだ」「エルフのなみだを、どうして、わかってやろうとしなかったのだろう」 「みんなは、ひきょうで、よわむしだ」 などと、いかりを、ぶつけています。「ぼくが、つよかったら、とんでいって、どうぶったちを、なぐってやる」 とさえ、いきどおっています。そして。食べものがなくても 「早く死んでエサになれ」 といわれても、じっとこらえたエルフの苦しみを察しながら、「きみはいつも、まわりのしあわせばかりを考えたんだね」 と、エルフの気高い心に語りかけています。
さて、こうしてみると、子どもたちはわずか30ページたらずの、この1冊の絵本から 「美しい心」 と 「美しい生きかた」 について、なんと深く読みとっていることでしょう。この本をなん回も読みかえしたという2年生の子は 「読んでいるうちに、なみだでボロボロになったけど、エルフは、いちばんたいせつな本です」 と、言っています。エルフは、この本を読んだすべての子どもの心に、いつまでも生きつづけるにちがいありません。

なお、この本は「えほんナビ」のホームページに紹介されている。
http://www.ehonnavi.net/ehon00.asp?no=825

10年以上にわたり刊行をし続けた「月刊 日本読書クラブ」の人気コーナー「本を読むことは、なぜ素晴しいのでしょうか」からの採録、第10回目。

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● だれもがおぼえる共感と快感
夏目漱石の作品のなかで、子どもにも、おとなにも、もっとも広く愛読されているものに 「坊っちゃん」 があります。
四国の中学校へ赴任した、正直で正義感のつよい竹を割ったような性格の坊っちゃんが、教頭の赤シャツを代表とする悪がしこい教師たちと対立して不正とたたかい、やがて、みずから、この不浄の地をはなれて、やさしい清(奉公人) の待つ東京へ帰るまでをえがいた中編です。
この作品を読みすすめると、だれもが、主人公の坊っちゃんに拍手をおくりたくなります。そして、読後、胸がすっとします。それは、よいことはよい、悪いことは悪いとはっきりいう純粋な坊っちゃんに、あるいは、裏おもてのあるきたない人間に天罰とばかりに制裁をくわえる坊っちゃんに、人間としての共感と快感をおぼえるからです。
赤シャツたちのような、ずるがしこくて、人の心を金と権力でもてあそぼうとする人間は、この世の中にいっぱいいます。ところが、それに腹がたっていても、こんな世の中ではいけないと思ってはいても、それに対して、この坊ちゃんのように立ちむかっていくことは、なかなかできるものではありません。多くの人間は「世の中とは、こんなもんだ」と妥協して通りすぎます。
つまり、この「坊っちゃん」の主人公は、わたしたちがやりたい、やらなければいけない願望を、みごとに果たしてみせてくれる人間であり、だからこそ万人が共感をおぼえて、この作品を愛読するのです。わたしたちは、すこしむてっぽうでも、自分の心に正直に生きる生きかたを、この主人公の坊っちゃんをとおして、作品のなかで体験していくというわけです。

● ちがった生き方の体験
さて、この文学体験……じつはこれが、たいへんかけがえのないことなのです。
よくいわれるように、実生活のなかでの、ひとりの人間の実体験には、だれにだって、かぎりがあります。幼年時代も少年時代も青春時代もたったいちどであり、たとえば、天にものぼりたいようなよろこび、死んでしまいたいような悲しみ、涙があふれてしかたがないような感激、そして、血みどろのたたかいなどを、ひとりの人間がいくたびも体験することは、とてもできません。
しかし、文学作品を読んでの文学体験であれば、だれでも、これを、くりかえしてもつことができます。読者はちがった作品を読むことに作中人物といっしょに生きて、作中人物のよろこび、悲しみ、苦しみ、愛、たたかいとして、心にひびかせていくことができるからです。しかも、人間のあるべき真実のすがたを追求したのが文学ですから、ひとつひとつの文学体験によって、現実の自分の考えや行動が正しいか正しくないかを、見つめなおしていくこともできます。文学作品を多く読む人は、どことなく思慮深いなどといわれるのは、とりもなおさず、文学作品をとおして多くの文学体験をつみ、そのうえで、自分の人生を見つめているからではないでしょうか。
ことばの文化をもたない動物は、とうぜん、この文学体験をもつことはできません。この文学体験をもつことのできるのは、ことばの文化をもつ人間のみです。だったら、人間であるかぎり、この文学体験をもたないことは損です。
子どもが、たとえば、アンデルセンの 「みにくいあひるのこ」 を読んだとします。すると、その子どもが作品に夢中になっているあいだは、みにくいあひるのこは、もう、あひるではありません。あひるは、まぎれもなく自分自身であり、自分自身が 「みにくい、みにくい」 といわれながら、悲しみにたえて生きていく、つまり、文学体験をしていくのです。そして、そんな文学体験のつみかさねが、その子どもの心を、すこしずつ、すこしずつ、豊かにしていくのです。

なお、「坊ちゃん」の原文は「青空文庫」で読むことが出来ます。
http://www.aozora.gr.jp/cards/000148/files/752_14964.html

10年以上にわたり刊行をし続けた「月刊 日本読書クラブ」の人気コーナー「本を読むことは、なぜ素晴しいのでしょうか」からの採録、第9回目。

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● 真実のやさしさ、幸せを知る
前回の「走れメロス」に引き続き、岩波書店刊・ 岩波子どもの本の1冊 「はなのすきなうし」(マンロー・リーフ文、ロバート・ローソン絵、光吉夏弥訳 幼児~小低学年向) を例にあげながら、読書のもつ意味を考えてみましょう。
昭和29年初版で、いまも版をかさねて読みつがれている 「はなのすきなうし」 は、次のような物語です。
むかし、スペインに、フェルジナンドという名の子ウシがいました。ほかの子ウシたちは、あばれまわっているのに、フェルジナンドは、いつも、草の上にすわって、静かに花のにおいをかいでいるのがすきでした。お母さんウシが 「おまえは、さみしくはないのか」 と心配しても 「ぼくは、こうしているのがすきなんだ」 と答えます。だから、お母さんウシも、フェルジナンドのすきなようにさせてやることにします。
やがて、大きくなった子ウシたちは、強い闘牛になるのを夢見るようになりました。でも、フェルジナンドだけは、やはり、静かに花のにおいをかいでいました。しかし、闘牛場へつれていかれることになってしまいます。フェルジナンドが、草にとまっていたハチの上にこしをおろして、そのハチにさされ、あまりの痛さにとびはねているところを、ちょうど強いウシをさがしにきていた闘牛士に見つけられて、猛牛にまちがえられてしまったのです。
ところが、いよいよ闘牛場へひきだされたフェルジナンドは闘おうとしません。闘牛を見にきた女の人たちが頭につけている花を見つけると、すわりこんでしまったのです。がっかりしたのは闘牛士たち。こうしてフェルジナンドは、ふたたび、もとの牧場へ……。
この作品は、作者が、自分のいいたいことをはっきり主張した物語といってよいでしょう。お母さんウシが、わが子を信頼して、わが子の生きかたは、わが子にまかせたこと、そして、フェルジナンドは、自分は自分の生きかたをつらぬき、花を愛するやさしい心を育てて、しあわせに生きていくこと……作者は、こんなことをえがいたのでしょうが、これは物語を読んだほとんどの子どもたちの心に、あたたかくつたわります。

● 作者の人生観を読みとる子どもたち
「フェルジナンドは、花のにおいをかいでいるうちに、心が花のようにやさしくなったのね」 「闘牛士と闘わなくて、だれもけがしたり死んだりしなくてよかったね」 「闘牛なんかになるより、牧場でくらしたほうが、ずっとしあわせよね」 「牧場で、いつまでも、しあわせにくらしたでしようね」 「フェルジナンドの気持をたいせつにしてやったお母さんウシもえらかったのね」……子どもたちは、こんな読後の感想をもらします。美しくやさしい心のすばらしさ、ほんとうのしあわせ、母親の愛情などを、ちゃんと読みとっているのです。
フェルジナンドがハチにさされたり、闘牛場にすわりこんでしまったり……子どもたちは、こんなことに笑い声をたてながら、作者の主張は、しっかりくみとっていく。それも、やさしさ、愛、しあわせと何かを、外から教えられるのではなく、自分で自分の心にきざみながら実感的に理解していく。ここに本の力、本のすばらしさが、あるのではないでしょうか。
「走れメロス」 の太宰治もそうであるように、作者は、たとえ子どもの本であっても、自分の信念や人生観を作品のなかに沈めこんでいます。そして、その信念や人生観は、すぐれた作家になればなるほど偉大なものであり、人が教えを乞うには十分なものです。
この 「はなのすきなうし」 に秘められているような教えを、本の力を借りずに、いったいどれだけの親が、子に伝えることができるでしょうか。こう考えると、本の価値の大きさが、よくわかります。

なお、この作品は、「えほんナビ」のホームページに紹介されている。
http://www.ehonnavi.net/ehon00.asp?no=1918

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