児童英語・図書出版社 創業者のこだわりブログ

30歳で独立、31歳で出版社(いずみ書房)を創業。 取次店⇒書店という既成の流通に頼ることなく独自の販売手法を確立。 ユニークな編集ノウハウと教育理念を、そして今を綴る。

月刊 日本読書クラブ

10年以上にわたり刊行をし続けた「月刊 日本読書クラブ」の人気コーナー「本を読むことは、なぜ素晴しいのでしょうか」からの採録、第18回目。

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● 自分の考えをつらぬいた信念の強さ
まるで宮殿のような家にすみ、なにひとつ不自由なことはない。王女さまのように、どんなぜいたくなことでもできる。それなのに、少女のころから看護婦をこころざし、ロンドンの女子病院の監督になったのち、クリミヤ戦争では自分からすすんで野戦病院の看護婦総監督をつとめ、帰国後は看護学校の設立にも力をつくしたナイチンゲール。このナイチンゲールの伝記を読んだ子どもたち (小学校3~6年生) は大きく、二つのことについて深い感銘を受けています。
まず一つは、ナイチンゲールの信念の強さへの感銘です。「看護婦なんて、きたない仕事、身分のいやしい女のする仕事ときめられていた時代に、自分からすすんで、その苦しい道をえらび、いちど決心したら、だれがなんといっても、その決心をかえなかったナイチンゲールは、なんと強い心をもっていたのでしょう」 「かわいそうな病人のいる家へ、おみまいや手つだいに行っては、なみだをながすような、やさしい女の子だったのに、どうして、あんなにつよい信念をもつことができたのか、ふしぎなくらいです」 「自分がえらんだ道を、どんなに苦しくてもとちゅうでなげださないで、さいごまで、自分のすることに責任をもったこと、これが偉大です」 「ナイチンゲールがすばらしいのは、りっぱなしごとをしたことよりも、じぶんの考えを、死ぬまで、まもりとおしたことだと思います」。
子どもたちは、その感銘を、このように記しています。そして、いつも楽しいことばかりを追いかける自分、なにか始めても、いやになればすぐやめてしまう自分、いちど口にしたことに責任をもたない自分を 「はずかしいと思った」 「あらためなければいけないと思った」 と反省しています。

● 人の悲しみばかり考えた愛の深さ
また、ある5年生と6年生の女の子は 「ナイチンゲールの強さというのはきっと愛だったのだ」 「自分のことよりも人の悲しみを考える、深い思いやりの心が、ナイチンゲールを強い人間にしたのだ」 「人間は、自分のことばかり考えていると、きっと、ほんとうの強い人間にはなれないのだ」 と、言いきっています。10歳前後の子どもにも、これほど深いものがわかるのです。
子どもたちが感銘を受けた二つ目、これは野戦病院で兵士たちから 「ランプをもつ天使」 とたたえられたことへの感動です。
「寒い冬の夜中、自分はつかれきっているのに、ランプをもって兵士たちをいたわってまわるナイチンゲール、わたしは思わずなみだがでました」 「兵士たちが天使だといったのは、当然です。ナイチンゲールは、神のような心で、兵士たちの苦しさや、かなしさや、さみしさだけを、かんがえつづけたのですから」 「ナイチンゲールは、ただ手でしごとをするのではなく、心で仕事をしたのだ」 「自分を人のしあわせのためにささげることが、ナイチンゲールのしあわせだったのだ」。
子どもたちは、このような感動をもらしています。4年生の子どもが 「自分がぎせいになって、人のためにつくす心、それが、いちばんうつくしい愛だということがわかりました」 と言っており、子どもたちは、ナイチンゲールの伝記から、ほんとうの愛をも発見しているのです。
ある5年生の子どもは 「ほんとうのやさしい人間になることは、たいへんなことなんだ。自分にきびしい心がないと、それはできないんだ」 と語っています。そして、成績のよい悪いで友だちをえらんだりする、いまの自分たちのことを、やはり 「はずかしい」 と反省しています。
ナイチンゲールの伝記は、やさしいものから少しむずかしいものまで、いろいろあります。できれば、子どもの読書力が高くなるのにあわせて、2度でも3度でも、読ませてみることです。読むたびに、あらたな感銘にひたってくれます。

なお、いずみ書房のホームページにある「せかい伝記図書館」のオンラインブックで「ナイチンゲール」を紹介しています。

10年以上にわたり刊行をし続けた「月刊 日本読書クラブ」の人気コーナー「本を読むことは、なぜ素晴しいのでしょうか」からの採録、第17回目。

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「杜子春」(芥川龍之介作) のあらすじは、次の通りです。
杜子春は、仙人鉄冠子の力で2度大金持になる。しかし、金持のときは人がちやほやするが、金がなくなると人は冷たくなることを知り、つぎに鉄冠子が現れると、もう、この世がいやになったから自分を仙人にしてくれとたのむ。ところが、仙人の山へ着くと、どんなこわいめにあっても、けっして口をきいてはならぬと言いつけられて、一人にされてしまう。杜子春は、その言いつけを守り、悪魔におそわれても、地獄へつれていかれても口をきかない。しかし、死んで地獄へ落ちていた親がつれてこられて、むちうたれると、おもわず 「お母さん」 と叫んでしまう。そして、人間らしい心をとりもどして幸福に……。

● 人間らしい心のあり方を考えて
「杜子春」 は、小学校高学年から中学校にかけての子どもたちに多く読まれていますが、ここでは、小学5、6年生の読書感想文をもとに、この作品から子どもたちが学びとるものを、ひきだしてみましょう。
「杜子春」 には、物語としての山が二つあります。一つは、仙人の鉄冠子の力で2度も大金持にしてもらった杜子春が、3度めには 「お金はもういらないのです」 「人間はみな薄情です。私が大金持になった時には、世辞も追従もしますけれど、いったん貧乏になってごらんなさい。やさしい顔さえもして見せはしません。そんなことを考えると、もう一度大金持になったところが、なにもならないような気がするのです」 と、鉄冠子に告げるところです。
そして、二つめの山は、鉄冠子から、仙人になりたいなら 「どんなことが起ころうとも、決して声をだすのではないぞ」 と言いつけられていた杜子春が、悪魔のどんな恐ろしさにも、地獄のどんな苦しみにも耐えてきたのに、目の前で鬼にむちうたれる母の 「心配をおしでない。私はどうなっても、お前さえしあわせになれるなら、それよりけっこうなことはないのだからね。大王が何とおっしゃっても、言いたくないことは、だまっておいで」 という声を聞いては、もうたまらず、はらはらと涙を落としながら 「お母さん」 と叫んでしまうところです。
子どもたちは、この二つの山をとおして、人間の正しい心のあり方、人間らしい心のあり方を考えています。

● 自分自身の心の弱さにも気づく
第一の山のところで 「自分につごうのよいときだけ人を利用する」 人間の身勝手さ、心のみにくさに気づいていた子どもたちは、第二の山で、杜子春が 「お母さん」 と叫んだことに 「あの一言は、この世でいちばん美しい叫びとして、私の心にひびいた」 「私は、あの叫びに人間をみつけた」 などと感激をもらし、自己犠牲の美しさに心を動かしながら 「自分のことだけを考える人間は人間ではない」 ということを深くかみしめるのです。
また、子どもたちは、杜子春が、自分の力でまじめに働こうとはせず、仙人鉄冠子の力で金持になってよろこび、あげくのはてには、この世から逃げて仙人になろうとしたことについても考え、この杜子春自身の身勝手さにも批判の目をむけています。そして、最後に、杜子春が 「お母さん」 と叫んで仙人にならずに人間らしい生き方を求めるようになったことを 「ほっとした」 と、よろこんでいます。小学5、6年生の子どもたちにも、人間が自分で努力をしないで、自分だけ、いやなことから逃げることのおろかさが、はっきり理解できるのです。
以上のほか、子どもたちは、もう一つ、すばらしいことを読みとっています。それは、大金持のときだけ杜子春を利用しようとした町の人びとの、心のきたなさ、あるいは、努力もしないで自分だけ仙人になって楽をしようとした杜子春の、心の弱さは 「きっと、だれにでもある、自分の心にもあるのだ」 ということ。子どもたちは、口をそろえて 「人間は、ほんとうは弱いのだ。だから、その弱さに負けないように、いつも努力しなければいけないのだ」 と、自分に言い聞かせています。そして、弱い心からでる身勝手な友だちづきあいをふり返って 「自分のつごうのよいときだけ仲よくし、その人の困っているときや、みじめなときは、さけようとする。これは、ほんとうの人と人のつきあいではない」 と、反省しています。
「杜子春」 という、たった一つの短編から、子どもたちは、なんと多くのことを学ぶことでしょう。人から教えられるのでもなく、親から教えられるのでもなく、自分ひとりで 「これからの自分の生き方にたいせつなもの」 を学んでいく……。だから、読書は、なににもまさる自己教育の場だといわれるのです。

なお、この作品の原文は、「青空文庫」で読むことができます。
http://www.aozora.gr.jp/cards/000879/files/170_15144.html

10年以上にわたり刊行をし続けた「月刊 日本読書クラブ」の人気コーナー「本を読むことは、なぜ素晴しいのでしょうか」からの採録、第16回目。

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「よだかの星」(宮沢賢治作) のあらすじは、次の通りです。
よだかは 姿形がみにくいというので、ほかの鳥にバカにされ笑われます。おまえが鳥の仲間にいるのははずかしいから名まえをかえろといわれます。よだかは、ほんとうはやさしい鳥です。でも悲しさに耐えられず、また、これまで自分が多くの虫を食べて殺してきたことを反省して、どこまでもどこまでも空へ、そして星に……。

● 姿かたちで人を差別してはいけない
「よだかは、実にみにくい鳥です」 にはじまって 「よだかの星は燃えつづけました。いつまでも、いつまでも燃えつづけました。今でも燃えています」 に終わる、宮沢賢治の短編 「よだかの星」。この名作を読んだ子どもたち(小学校中・高学年)が、もっとも深く考えさせられているものは、姿かたちで人を差別したり、バカにしたりすることのおろかさ、みにくさと、たとえ差別されバカにされても、自己の信念に生きることの強さ、すばらしさです。
子どもたちは、いきどおりをこめて、感想文に書いています。
「なんの罪もない、よだか。巣から落ちた赤んぼうのメジロを助けてあげたりしたのに、姿がみにくいだけで、どうして、こんなにいじめられないといけないのだろうか」 「ほかの鳥たちは、よだかの顔が悪いからといって、なぜ、すべてが悪いと、きめつけるのでしょう」 「私は、外見だけでよだかを判断してしまって、ほんとうのよだかを理解しようとしない鳥たちが許せない」
作品への感想だけではありません。作品をのりこえた発言をも、忘れてはいません。
「私も、これまで、人を、顔や身なりだけで、判断してきたのではないだろうか」 「私は、人のことを、その人の気持ちになって、しんけんに考えてあげたことが、あっただろうか」 「社会の差別は、ほとんどみんな、人間の外見だけにとらわれた、差別ではないだろうか」 「アメリカを中心にした黒人差別問題も、この、よだかの場合と、まったく同じだ」 「人を笑ってはいけない。人を笑うまえに、自分のみにくい心を笑わなければいけないのだ」 「賢治は、鳥の世界のことではなく、人間の社会のみにくさを、えがきたかったのだ」 などと考え、あるいは反省して、命あるものへの差別を、自分の問題として、しっかりとらえています。

● 自分を犠牲にして人の幸せのために
つぎに、よだかが、自分の信念をつらぬきとおしたことへの賛辞、これは、よだかが 「自分をぎせいにまでして、まわりのものの幸福だけを願いつづけた」 ことへの感銘です。
「それまで、自分が、羽虫やかぶと虫など、自分より弱いものをくい殺していたことに気づいて大声で泣き、もう虫を食べないで死のうと決心して、空高くのぼっていった、よだか。よだかは、自分のいのちを投げだすことで、りっぱに生きたんだ」 「弟のかわせみのところへ、お別れに行って、『どうしても、とらなければならないときのほかは、いたずらに、お魚をとったりしないようにしてくれ』と、言いのこしたよだかには、姿はみにくくても、だれよりも美しい心があったのだ」
子どもたちは、よだかの大きな愛に、心をうたれています。そして、作品をとおして 「自然を愛し、どんな小さな命もたいせつにして、土とともに生き、農民につくして、農民のしあわせのために生きた賢治」 の心を、いっしょうけんめいに思いやろうとしています。
「自分ひとりの、しあわせなんかない。みんなが、しあわせでないと、けっして、自分も、しあわせにはなれない。賢治は、きっと、このように考えて生きたんだ」。ここまで考えた子どもたちの心には、いつまでも、よだかの 「星」 が輝きつづけるのではないでしょうか。

なお、この作品の原文は「青空文庫」で読むことが出来ます。
http://www.aozora.gr.jp/cards/000081/files/473.html

10年以上にわたり刊行をし続けた「月刊 日本読書クラブ」の人気コーナー「本を読むことは、なぜ素晴しいのでしょうか」からの採録、第15回目。

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「モチモチの木」 (斎藤隆介・作、滝平二郎・絵、岩崎書店刊) のあらすじは次の通りです。
峠の猟師小屋に、ふたりっきりで住んでいる、やさしい、じさまと、甘えんぼうの豆太。豆太は、小屋の前の、おばけのように見えるモチモチの木がこわくて、夜、ひとりで、しょんべんにもいけない弱虫です。ところが、ある夜、じさまが腹痛をおこすと、豆太は、こわさをこらえて、山のふもとの医者のもとへ。そして、医者をつれて小屋へもどってくると、モチモチの木に、火が灯っているのを見ます。それは、ほんとうの勇気のある人間だけが見ることのできる、火でした。

● ほんとうの強さ、やさしさとは何か
1971年に出版され、人間のやさしさを語りかける絵本としていまも、4、5歳から小学校低学年の子どもたちに読みつがれている 「モチモチの木」。この本を読んでの感想文は、多くが 「弱虫だけど勇気のある豆太君」 「まめた、ほんとうに、よく、やったね」 というように、主人公の豆太に語りかけるかたちで、つづられています。
それは、子どもたちが、5歳にもなって、ねしょんべんする豆太に、また、夜は、じさまについていってもらわないと、しょんべんにもいけない、おくびょうな豆太に、自分の分身のような親しみを感じるからでしょう。
さて、この物語を読んだ子どもたちが、口をそろえてたたえているのは、弱虫だったはずの豆大の、思いがけない勇気です。弱虫の豆太が、腹痛のじさまを助けるために 「イシャサマヲ、ヨバナクッチャ!」 と、家をとびだし、こわいのをがまんして、泣き泣き、山のふもとの医者のところへ走った、美しい感動的な勇気です。
子どもたちは 「豆太、よくがんばったね」 「じさまのことが、しんぱいで、ゆうきの子に、へんしんしたんだね」 「豆太だって、やれば、できるんだよね」 と、語りかけています。
しかし、これは、たんに、夜道を泣き泣き走った豆太のすがたに感激しているだけではありません。1年生、2年生の子どもでも、もっと、すばらしいことに気がついています。
それは、この物語のなかで、じさまが豆太に話して聞かせている 「にんげん、やさしささえあれば、やらなきゃならねえことは、きっと、やるもんだ」 ということばに秘められた、人間のやさしさの、たいせつさです。

● 感銘が肥料となって子どもを育てる
子どもたちは、豆太に勇気をださせたのは 「豆大の、じさまのことを思う心のやさしさだ」 ということを、しっかりつかみとっています。そして 「豆大のやさしさが、モチモチの木に、火をつけたんだよね」 「くらいみちを、なきなき、はしったとき、なみだに心がはいっていって、空にのぼっていったんだよね」 「あの火は、つよいだけでは、つかなかったんだよね」 と言っています。子どもたちは、ほんとうの勇気というものは、心のやさしさがあってこそ、はじめてだせるのだということを、深く感じとっているのです。
子どもたちは、じさまの、やさしさにも、心をうたれています。それも、夜、豆太に、「シー」 と、しょんべんさせてやる、やさしさに、うたれているだけではありません。豆太に 「じぶんで、じぶんを、よわむしと、おもうな」 と言って聞かせる、豆太への深い愛から生まれたやさしさにこそ、大きく心を動かしています。
「ほんとうは、つよい心をもった、じさまの大きなやさしさが、あったからこそ、豆大の心にも、あんな、つよいやさしさが、そだったんだね」
これは、3年生の子どもの感想文に記されていたことばです。「つよいやさしさ」 とは、へんなことばのようですが、すばらしい、とらえかたです。
「豆太君、これからも、がんばってね」 「豆太くん、モチモチの木のひをみたときの、ゆうきで、これからも、じさまを、たいせつにしてあげてね」 「ぼくも、モチモチの木のひを、みることができるように、がんばるからね」 「ぼくの、こころにも、やさしい火のはなを、さかせてみせるからね」 などと、感想文の終わりをむすんでいる子どもたち。
子どもたちは、ながく豆大のことを忘れないでしょう。豆大の愛と勇気への感銘を、いつまでも忘れないでしょう。それは 「モチモチの木」 が 「人間に、やさしささえあれば」 をえがいた、まぎれもない文学だからです。
山奥の木は、地に落ちた1枚1枚の葉を肥料にして生長していきます。心になにかを残す1冊1冊の本は、人間にとっては、その、地に落ちた1枚の葉にたとえてもよいのではないでしょうか。

なお、この絵本は「えほんナビ」のホームページでも、詳しく紹介している。
http://www.ehonnavi.net/ehon00.asp?no=139

10年以上にわたり刊行をし続けた「月刊 日本読書クラブ」の人気コーナー「本を読むことは、なぜ素晴しいのでしょうか」からの採録、第14回目。

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● ヘレン・ケラーに比べて自分は
ヘレン・ケラーは、ナイチンゲール、エジソンとならんで、数多い伝記のなかでも、もっとも多くの子どもたちに親しまれ愛されている人物です。しかも、その愛されかたは、ヘレン・ケラーが1968年に88歳で亡くなってから現在まで、年ごとに深まってきています。
ヘレン・ケラーの伝記が、これほどまで読まれつづけているのは、なぜか。それを子どもたち(小学校1~6年生)の読書感想文にひろってみると、大きく、つぎの三つを、あげることができます。
まず第1は、目が見えない、耳が聞こえない、口もきけないという三重苦にうちかって生きた生涯が、そして、その心の強さが、すべての子どもたちに 「生きる」 ことへの勇気を与えるからです。
第2は、ヘレンとともに苦しみ、ともに泣き、ともによろこんだサリバン先生の愛。自分の生涯をへレンのためにささげた、その愛の大きさが、子どもたちの心をうつからです。
第3は、「からだの不自由を悲しむことはありません。人間にいちばんたいせつなものは心です」 と訴えながら、からだの不自由な人たちのしあわせのために生きたへレンの生涯の崇高さが、清らかな光の粒となって、子どもたちの心にしみ入るからです。
しかし、ヘレン・ケラーの伝記が子どもたちに与えるものは、たんに、うえの3つのことについての感動に、とどまってはいません。むしろ、子どもたちに与える最大のものは 「ヘレン・ケラーとくらべて自分は……」 と、自分で自分の考えかた、生きかたに問いかけさせることです。
「これまで、自分のことばかり考えてきた、わたし自身が、とってもはずかしい」 「わたしも目が悪く、みんなから、へんなあだなで呼ばれて悲しかったことがありました。しかし、ヘレンの苦しみにくらべると問題になりません」 「私は、2年間の入院生活で、私だけが、どうしてこんなに苦しい思いをするのかと考え、もう死んだほうがましだと思ったこともありましたが、これが、どんなに弱いことだったかに気がつきました」 「いままで叱られたり自分の思いどおりにならなかったりしたときは、すぐ、私は不幸な人間だと思ったが、これが、どんなにわがままだったか、よくわかった」。

● 自分を反省して生き方を考える
子どもたちは、このように、ヘレン・ケラーを鏡にして自分を見つめなおし、自己中心だった自分、弱かった自分を反省しています。そして、その反省をふみ台にして 「もっと、人のことを思いやらなければいけない」 「もっと、自分自身とたたかわなければいけない」 「もっと、しんぼう強く、毎日を、せいいっぱい生きなければならない」 「自分を見るときも、人を見るときも、外見よりも、心を深く見つめていかなければいけない」 「物の豊かさの幸福よりも、心の豊かさの幸福をこそ、たいせつにしていかなければいけない」 などと、これからの自分の生きかたを、とらえなおしています。
ヘレン・ケラーの伝記にかぎらず、強く、美しく、夢多く、そして人間らしく生きた人の伝記を読むということは、じつは、これがすばらしいのです。
もちろん、童話や民話や小説を読んでも 「生きる」 ことを考えさせます。また、自分を問いつめさせます。
ところが、伝記は、1冊の本のなかで演じてみせる人間が、目に見える偉業、歴史に残る業績を残して 「現実に生きてきた人間」 だけに、その人と自分とをくらべさせるもの、自分をふりかえらせるものが、童話や小説などの場合よりも、リアルなのです。
伝記は、人間の生きかた、とくに、自分はいかに生きるべきかを多様に考えさせます。それは、とうぜんのことながら、10人の伝記を読めば10の生きかたを具体的に学ぶことができるからです。
多くの子どもたちが、自分の人生を自分の意志で選択することを忘れている時代……伝記は、いまこそ、もっと読まれるべきではないでしょうか.

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