児童英語・図書出版社 創業者のこだわりブログ

30歳で独立、31歳で出版社(いずみ書房)を創業。 取次店⇒書店という既成の流通に頼ることなく独自の販売手法を確立。 ユニークな編集ノウハウと教育理念を、そして今を綴る。

日本読書クラブ

「日本読書クラブカタログ(本の価値と楽しみ)」の第3章「歴史」の項を紹介してみよう。

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● 過去がなければ今の自分はない
この地球上には、無数の生物がいます。そして、どの生物にも歴史があり、その歴史の長さは、人類よりも他の生物のほうがまさっています。ところが、もっとも短い歴史しかもたない人類が、もっとも進歩、発展しました。これは、なぜでしょうか。
このことを子どもたちに問うと、ほとんどの子どもが 「それは、人類がいちばん頭がよかったからだ」 と、単純に答えます。子どもだけではありません。おとなでさえ、そう思っている人が少なくありません。
しかし、この問いへの正解は、同じ歴史ではあっても、人類の歴史と、他の生物の歴史とが、根本的に異なることにあるのではないでしょうか。つまり、人類以外の生物は、時間の長さの歴史はもっていても、その歴史をふりかえったり、保存したり、未来に役だてたりはしませんでした。でも、これとは対照的に人類は、過去の歴史を忘れないように心がけながら、過去の歴史をつねに現代に役だてながら、そして現代を未来に結びつけながら、かさなりつながりあった歴史を形成してきました。地球上の生物のなかで人類のみが進歩、発達した最大の理由は、ここにこそあるのではないでしょうか。科学の発達だって、芸術の発達だって、経済の発達だって、文化の発達だって、すべて 「歴史のつみかさね」 の成果です。歴史のつみかさねがなければ、おそらく、なにひとつ発達していません。
ということは、人間は、歴史の流れのなかに身をおいて、いっぽうでは歴史の恩恵に浴しながら、いっぽうでは歴史をつくりながら生きているのであり、だからこそ、歴史と人間の生活をきりはなすことは、ぜったいにできないのです。このことは、10歳の子どもは自分の10年の歴史、30歳の人は自分の30年の歴史、50歳の人は自分の50年の歴史の上に今があるのだということを考えれば、もっともよく理解できるのではないでしょうか。過去がなければ今の自分は存在し得ないのですから。

● 知識として覚えてもダメ
ところが、小学校高学年から中学、高校と6年も8年も歴史を学んできたにもかかわらず、社会にでた人、家庭に入った人の多くが、日本の歴史からも世界の歴史からも、遠ざかってしまいます。
これは、ひとつには、学校の歴史の試験といえば年号や事件を棒暗記してきたことに象徴されるように、歴史をたんに知識としてしか学ばなかったからです。血のかよった歴史、生きた歴史、胸がわくわくするような歴史を学ばなかったからです。
源氏と平家の争乱にしても、戦国武将の争乱にしても、江戸幕府の終えんと明治維新の起こりにしても、チンギス・ハンやナポレオンの遠征にしても、これほど真実で、これほどおもしろいドラマは、虚構の文学作品のなかには、あまり見ることができません。これを逆からとらえれば、古くは 「平家物語」 新しくは 「人間の条件」 などの日本の作品にしても、「戦争と平和」 や 「ジャン・クリストフ」 などの世界の作品にしても、長編の名作小説といわれるもののほとんどが歴史のなかに取材し、歴史を浮き彫りにしながら物語を展開したものです。つまり、人間を大きな渦のなかに巻きこむ歴史のなかで人間がえがかれているからこそ、その迫真性が人の心をうつのです。迫真性などとむずかしいことをいわなくても、歴史に取材した大河テレビドラマの視聴率が高いこと、歴史に関心のうすい人たちでもドラマ化されれば深い興味を示すことをみれば、事実の重みをもった歴史物語が、もともと、いかにおもしろいものであるかがわかります。
ところで、現在、刊行されている歴史シリーズを見ると、「おもしろさ抜群の、読める日本史」 「自分の興味、関心に応じて読める楽しい歴史」 「抜群におもしろい歴史物語」 「家族みんなで楽しめる歴史」、というようなことがうちだされています。また、読みものとしておもしろくするために、歴史に生きた人物を中心にえがいたシリーズも少なくありませんが、それらも 「人物と事件が織りなすドラマ」 「歴史に生き歴史に死んだ人びとの、はげしく美しいドラマ」 などと、ドラマ性が強調されています。つまり 「読んで楽しい」 歴史シリーズであることに注意がはらわれているのです。
以上のほか、図版や写真を多く入れた誌面づくりによって 「読んで楽しい」 と同時に 「見て楽しい」 シリーズであることにも、工夫されています。したがって、多くの歴史シリーズは 「歴史を学ぶ人のために」 というよりは 「すべての人のために」 つくられているということになるのでしょう。それは、歴史をふりかえることは 「すべての人にとって、たいせつなもの」 であるからです。

● 教えられる人間の生きる価値
人間は歴史と切りはなして生きることはできないのですから、歴史を知ることによってこそ、「ひとりひとりの人間の生きる価値」 を、ほんとうに認識することができるのです。また、歴史の流れを見つめることによってこそ 「自分は自分ひとりで生きているのではない」 ということを、しっかり自覚することができるのです。
家庭での親子の対話のなかに、歴史を見つめ、歴史をふまえ、歴史を考えた言葉があったら、どんなに、すばらしいでしょう。歴史にかかわり、歴史に挑戦しながら大きく生きる自覚が、子どもの心にも、しぜんに、芽ばえていくにちがいありません。
歴史の重み、人間の生の重みを知るために、歴史シリーズのひとつくらいは、各家庭に必備されていてもよいのではないでしょうか。
歴史は人間に勇気を与え、たくましく生きることを教えてくれます。

(日本読書クラブ推薦図書の項は省略)

「日本読書クラブカタログ(本の価値と楽しみ)」の第2章「学習事典」の項を紹介してみよう。

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● 使いかたできまる価値
学習のための事典という性格から、全15巻、20巻、25巻など、どの事典も、「文部省(現文部科学省)の学習指導要領に準拠」 し 「教科書の内容にあわせて」 「子どもの学習の展開に役だつ」 ように編集されています。したがって、各シリーズとも、例外なく、教科別に巻が構成されています。低年令層を対象にした学習事典の場合でも、各巻に教科名は明記していなくても、その全体の構成は、やはり同じです。ところで、各種事典の特色をそれぞれのカタログから拾うと、「学習の要点をズバリ説明」「基礎学力から応用までをやさしく」 「目で見て楽しみながら学べる」 など、多彩です。そして、本巻のほかに、日本地図、世界地図、人名事典、教科用語辞典、親との教育相談、子どものワークブック、質問券、添削券を付すなど、別巻にも特色をもたせるように、くふうされています。形のうえからいえば 「目で見て楽しみながら」 という宣伝のとおり、絵や写真や図をふんだんに入れて編集されていることが、どのシリーズにも共通しています。
しかし、要は、使いかたでしよう。このような大部な事典から、子どもに、わからない問題の解答をひきださせるだけでは、ダメです。問題の解答を得させるよりも、内容の豊富な事典を使うことによって、「学習に興味をおこさせ、自ら学ぶことの楽しさを学ばせる」 ことこそ、もっともたいせつでしょう。

● 画一的な学習からぬけだすために
いまの子どもたちの多くは、学校教育の画一的なつめこみ主義のえいきょうを受けて、まわりから、人から 「学ばされる」 ことに、なれすぎています。そして、その反作用で、「学ばされるものを学ぶ」 ことにはすぐれていても、「自分から、学びたいものをさがして、主体的に学ぶ」 力には欠けています。実は、「学ぶ」 ということでは、ここが、いちばん問題なのです。なぜなら 「自ら主体的に学ぶ」 ことを知らないで育った子どもは、「学ばされる」ものから解放されると、もう、学ぶことを放棄してしまいます。また、学んでいるときも、その 「学ぶ」 行為が受け身ですから、学習に独創性がなく、学ぶ内容が型にはまってしまっています。ところが、「自ら学ぶ」 ことの楽しさを知った子どもは、学ばされなくても、自分から学ぶようになります。つまり、自分からすすんで勉強するようになります。また、自分から求めて学習にとりくむのですから、学ぶ内容も幅広く個性的なものになります。親は、この学びかたのたいせつさを、よく知っておかなければいけません。学校の先生のことにしても、知識を教えることのじょうずな先生よりも、子どもたちひとりひとりに 「学びかたを学ばせる」 ことのじょうずな先生のほうが、すばらしい、ほんとうの先生だといわれているのです。自ら学ぶということは、人間の生涯にとって、もっともたいせつなことです。自ら学ぶ心が、つねに人生を前向きにきりひらいて生きていく原動力になるのですから。

● 与えっぱなしではなく親も手にとる
以上のようなことから、せっかく子どもに買い与えた学習事典は、たんに予習、復習のときだけではなく、つねに、気軽に利用するように習慣づけることがたいせつでしょう。そのためには、子どもに与えっぱなしではなく、親が子どもといっしょに事典のページをめくってみるなどして、事典を使う楽しさを、早く、子どもに気づかせることです。子どもに学習事典を買ってやった父親が、理科の巻を子どもといっしょに開いては、家庭でできるいろいろな実験を楽しみ、その結果、いつのまにか子どもは理科に深い興味をもつようになり、そればかりか、ものごとを科学的な目で見るようになった、という実例がありますが、こんなことは、親の、ちょっとした心づかいがあれば、どこの家庭でも可能なことではないでしょうか。学習事典を利用することによって、子どもが、「学ぶ楽しさ」 を少しでも知ってくれたら、それは、どんな学習塾に通わせるよりも、すばらしいことにちがいありません。

(日本読書クラブ推薦図書の項は省略)

「日本読書クラブカタログ(本の価値と楽しみ)」の第1章「百科事典」の項を紹介してみよう。

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● 百科事典はけっして高価なものではない!
「あらゆる分野の知識を要約解説して、一定の順序に配列した書物」……これが百科事典です。つまり百科事典は、まぎれもなく、知識の宝庫であり、ここに家庭必備の書物といわれるゆえんがあります。それに、いまの百科事典は、しかめっ面して利用するものではありません。どの社の百科も、解説をやさしくし、カラー写真や図版をふんだんに入れ、家族みんなで楽しめるように、また、小・中・高校生でも気軽に利用できるように、くふうされています。では、解説の量はといえば、1百科事典平均、ふつうの単行本の200冊から300冊分以上に及んでいます。つまり、単行本にくらべたらはるかに安く、カラーテレビ1台分の投資で、文化の宇宙を手に入れることができるとしたら、こんな安価な買いものはないはずです。自分の趣味のこと、子どもの教育のこと、あるいは、夢にえがいている旅行地のことなどを拾い読みするだけでも、その価値が十分にわかります。

● みんな百科事典の虫になれ!
小学2年生の子どもが、百科事典の虫になってしまったという話があります。川原へ遠足に行ってきたわが子に、「川の中に小さな島(実は中州)があったけど、あれは、どうしてできたの」 と聞かれた父が、子どもといっしょに百科事典を開いたのが始まり。川の項目のページをめくると、さまざまな川の写真があり、川の誕生、構造、役割、流域などの記述があり、さらに、日本と世界の大きな川の比較表まである。これを見た子どもは、早くも目を見はりました。そして、さらに、父親の手から事典をうばってページをめくっていくうちに、同じ巻に、火山、火星、化石の色あざやかな写真や図がのっているのを知ると、もう、このときから、百科事典の虫になってしまったというのです。日ならずして、この家の百科事典は、1巻ずつ応接間から移動をはじめ、まもなく、全巻が子ども部屋へ。

● 手垢のついていないのは恥と知れ!
ところで、多くの家庭では、百科事典をどこに置いておられるのでしょうか。もし、貴重品でも扱われるようにして、硝子戸の中に収められていたり、購入時のすがたのまま調度品的な飾りものにされていたりしたら、まさに、宝の持ちぐされ。百科事典は、備品でも飾りものでもありません。たとえ10万円、20万円で購入したものであっても、百科事典は、あくまでも消耗品です。「高いお金をだして買ったのだから」「末代まで使うのだから」などという貧乏根性が、つい装飾品扱いにさせてしまうのでしょうが、それが根本的にまちがっています。百科事典を購入したということは、その中につまっている知識の宝庫を手に入れたということです。知識は、しまっていては何もなりません。それに、百科事典は時事性をも持っており、歳月をへるにつて、価値は漸減していくものです。購入した百科事典は、まず、巻ごとのケースなどは捨てて、家族みんなの手の届くところに置くことが第一。百科事典は、手垢でよごれているほど誇りであり、いつまでも美しいほど恥と知るべきです。

● 索引のじょうずな使い方を知れ!
百科事典のもっとも効果的な使い方を知っていますか。それは、索引の巻をフルに利用することです。もちろん、調べたい項目ののっている巻を、いきなり手にしてもかまいません。しかしそれでは多くの場合、音順配列のなかの1箇所だけに目をとおして終わりになります。ところが、ライオンは 「ライオン」 の項目のところのほか 「どうぶつ」 のところにも、ジェット機については 「ジェットき」 のところのほか 「ひこうき」 のところにも、というように、それぞれ関連項目のなかで多角的に解説されていることが少なくありません。したがって、索引をとおして知りたい項目へ迫っていけば、より広い、より深い解説へたどりつくことができます。また、項目によっては、その項目の自分の読み方と出版社の読み方の違いなどから、なかなか本項目にたどりつくことができずに、数巻をひろげてみることもありますが、索引を利用すれば、それもなくなります。索引は、百科事典の宝庫を開けるカギです。

● 拾い読みの楽しさを知れ!
百科事典は、何かを知りたい調べたいときだけページをめくる人が多いようですが、これでは、消極的すぎます。百科事典を購入したら、まず、どの巻でも手にとってページをめくり、拾い読みを楽しんでみることです。つまり、百科事典と遊んでみることです。思いがけない項目、思いがけない絵や写真にひきつけられて、それこそ、思いがけない知識を自分のものにすることができます。そして、そんな経験をなんどかくり返すうちには、きっと 「知るよるこび」 が忘れられなくなってしまいます。さあ、こうなればしめたもの、百科事典の宝庫は、もう、あなたのものになったのです。ときには、こっそり百科事典から親の権威を仕入れておくのも、おもしろいでしょう。親の思いがけない知識に、子どもが目を丸くすること、うけあいです。

● 子どもをひきつける方法を知れ!
親が子どもに何かをたずねられたとき、はじめから 「百科事典をひいてみなさい」 ではダメです。子どもを百科事典に近づかせようとするなら、親子で、あるいは家族ぐるみで、百科事典をめくり、まず、親が百科事典のおもしろさに感嘆してみせることです。親の感嘆ほど、子どもをひきつけるものはありません。子どもがテレビに夢中になっているときなど、そのそばで親が百科事典を開いて 「まあ、知らなかったわ」 「おもしろいことがいっぱいだわね」 などと、つぶやいてみせるのもいいでしょう。百科事典に見入っている親の楽しそうなすがたを見ると、子どもは、きっと、百科事典をのぞき見にやってきます。これでもう子どもは、百科事典の宝庫のとびらの前に立ったのです。百科事典をとおして、子どもが、何かを知ること、調べることのよるこびを知ってくれたら、それだけでも、百科事典を買い求めたかいがあったというものです。

● 巻が散っているのをよしと知れ!
百科事典がいつも所定の場所にそろっていないのを嘆く人がいたら、その人は失格です。ある巻は子どもの部屋に、ある巻は居間に、ある巻は食堂にと、散っていてよいのです。散っていることは、使われていることの、なによりの証拠なのですから。しかし、こうなるまでには、「百科事典は消耗品なんだ」 ということが、家族みんなのあいだに浸透しなければなりません。もしも、百科事典が4、5年でぼろぼろになったという家庭があったら、その家の人たちの目は、きっと、みずみずしい光をたたえているはずです。百科事典の中の宝は、家族みんなの頭の中へ住みかをかえたのですから。

(日本読書クラブ推薦百科事典の項は省略)

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