児童英語・図書出版社 創業者のこだわりブログ

30歳で独立、31歳で出版社(いずみ書房)を創業。 取次店⇒書店という既成の流通に頼ることなく独自の販売手法を確立。 ユニークな編集ノウハウと教育理念を、そして今を綴る。

子どもワールド図書館

昨日(4/10号)に続き、25年ほど前に初版を刊行した「子どもワールド図書館」(38巻) 第15巻「東南アジア(2)」の巻末解説を記します。

「東南アジア(2)」 について

東南アジアの中でも、ここでとりあげたマレーシア、シンガポール、インドネシア、フィリピンの4か国は、赤道のまわりに点在するたくさんの島々から成り立っています。熱帯雨林気候でありながら、季節風の影響で気温はやわらげられ、人間にとって暮らしやすい環境です。そのため、この地域には*[2億あまり]の人が住んでいます。なかでも、インドネシアの人口はとびぬけて多く、世界の大国と肩を並べて*[第5位]を占めています。これほど多くの人が集まっているのは、気候、風土の条件の良さとともに、地理的重要性もみのがせません。ここは西ヨーロッパと東アジア、アジア大陸とオーストラリア大陸をつなぐ世界交通路の交差点なのです。はやくから、この地に人間が集まってきたのも歴史の必然といえるでしょう。ヨーロッパ列強国にとって、ここの島々は、ぜひ手に入れたい場所でした。南国の豊かな自然は、人間に必要なさまざまな産物をもたらしてくれます。石油やスズ、ゴムはもちろんのこと、熱帯地方特産の香料は、イギリスやポルトガル、オランダなどの触手を刺激しました。そして、ついにマライ半島はイギリスの、インドネシアがオランダの、フィリピンがスペインの植民地にされてしまったのです。16世紀半ばから19世紀にかけてのことです。こうして、第2次世界大戦までの300年にわたる年月を、南海に浮かぶ島々の人々は、圧迫と屈辱の中に生きてこなければなりませんでした。
*[2005年現在の人口は、マレーシア2530万人、シンガポール430万人、インドネシア2億2280万人、フィリピン8310万人、計3億3000万人以上。インドネシアの人口は、中国、インド、アメリカ合衆国についで世界4位です。]

支配国は、大農園を経営し、鉱山を開発し、街を整備しました。しかし、その利益は、現地をうるおすことなく全部支配国に持ち去られ、現地人は奴れいの如く働かされ、もちろん、教育など放置されたまま3世紀にもおよんだのです。こうした圧迫に対して、インドネシアやフィリピンでは激しい民族解放運動が起こりました。スぺインの圧力に抵抗し、フィリピン人民解放のために35年の生涯を燃やし尽したのが、ホセ・リサールです。リサールは獄中で、祖国への訣別の詩を書き、それをアルコールランプの中にしのばせて妹に手渡し、処刑場におもむきました。「愛する母国よさようなら! 南の太陽に抱かれるいとしい国よ! 東の海の真珠なる国よ、ああ奪いとられたる楽園よ!」 という、愛国の情あふれる言葉で始まるこの詩は、いまも、フィリピンの至宝となっています。

第2次世界大戦で、ヨーロッパ諸国にかわって、この楽園を踏み荒したのは、アメリカと日本の軍靴でした。戦後まもなく、インドネシアとフィリピンは独立し、それぞれの道を歩き出しましたが、大戦や植民地時代に奪われたものはあまりにも大き過ぎました。マレーシアとシンガポールには、いまもってイギリスの力が大きく及んでおり、そのために隣国インドネシアとのあいだもうまくいきません。

東南アジアには、多くの人種が集まっていますが、中でもマレーシア、シンガポールは人種のるつぼといわれるほどの多民族国家です。人種によって、もちろん言葉も違い、宗教も職業までも違っています。これは、単一民族、同一言語の日本には想像もつかない困難さを抱えているといえるでしょう。それに加えて、教育の遅れ、資本の不足、技術の後進性などが、工業の発展を大きくはばんでいます。戦争の賠償で、近代的なホテルや工場も建てられ、道路なども整備されましたが、それは大都市に限られています。農村地方は電気も水道もない村などめずらしくありません。豊かさと貧困、近代化と未開がとなりあわせているのが現状です。これらの国では、大国からの経済・技術援助を望みながらも、援助という名の植民地化をとても恐れています。それは長いこと国を奪われていた民族の持つ恐れとして当然のことでしょう。

前回(4/9号)に続き、25年ほど前に初版を刊行した「子どもワールド図書館」(38巻) 第14巻「東南アジア(1)」の巻末解説を記します。

「東南アジア(1)」 について

インドシナ半島には、北方のヒマラヤ山脈からまるで指をひろげたように、いくつかの山系が南下しています。その山と山の間の険しい谷間を、イラワジ、サルウィン、メナム、メコン、ソンコイなどの大きな川が流れ、下流に広大なデルタ地帯を作っています。そのデルタに住みつき、米づくりをはじめた人々が、この半島の祖先です。
ラオスをのぞき、*[ビルマのラングーン]、タイのバンコク、カンボジアのプノンペン、ベトナムのハノイ、これらは、みんな大河下流のデルタに開かれた都市です。
*[1989年、軍事政権は国名を「ミャンマー」に改めました。軍政を支持した日本政府はいち早く承認し、日本語の呼称も「ミャンマー」としています。しかし、軍政を認めないアメリカ、イギリス、オーストラリアなどは、今も「ビルマ」としています。EUでは、「ビルマ」「ミャンマー」を併記しています。ラングーンは、「ヤンゴン」に改称、2005年には首都を「ピンマナ」に移転しています。また「イラワジ川」は「エーヤワディー川」と呼ぶことが多くなりました]

5か国とも米作中心の農業国です。米の他に、トウモロコシ、イモ、トウガラシなどを作り常食としています。
温度と湿度が高いので、植物は勢いよく繁茂し、ベトナムでは米の二期作もおこなわれています。赤道の北側にあるため、雨は5月~10月にかけて集中的に降り、南側の雨季とは時期的に、ちょうど反対になります。
この地域はインドシナという名が示すように、インドと中国が出会い、行き交う場所でした。根強く幅広い仏教信仰は、インドの強い影響をうけています。この仏教を離れてインドシナ諸国を語ることはできません。
インドシナ民族の精神のよりどころとなっている仏教は、日本の仏教とは違った、戒律のきびしい小乗仏教です。僧は生産活動にはいっさいかかわらず、ひたすら徳を積むことに専念します。おびただしい数の僧の生活を支えているのが一般民衆です。民衆にかわって修業に専念し功徳を積んでくれる僧は聖なる存在なのです。来世を信じ、ひたすら僧や寺院のために私財をつぎこみ、物を持つことに固執しないのが土着の人々の生き方です。華僑や印僑がインドシナの経済をにぎり、財を成していった歴史は、こうした仏教信仰とも無関係ではありません。

19世紀、緑あふれるのどかな国々をゆさぶったのは、西欧の列強国でした。イギリス、フランスに植民地化されて以来、本当の独立を勝ち得る20世紀の今日まで、インドシナには戦争がたえませんでした。その戦乱ゆえに、この地域は、死の十字路とさえいわれました。東西の接点であり、まさに世界の十字路として重要な位置にあります。ここを掌中におさめようとする強大国アメリカがインドシナにくすぶる火をあおり、大きな戦争へと駆りたてていったのがベトナム戦争です。同じ民族同士が、長いあいだ戦い、インドシナの山河は荒廃し尽しました。あらゆる技術が結集されてつくりだされた残酷きわまりない爆弾が、毎日毎日、ベトナムの森に、畑に、道に、人家に雨のように降りました。兵士のみならず、弱い老人や子どもや母親たちまでが、たくさん殺されました。いつ果てるともなく、永遠に続くかのように戦争は広がっていきました。

  子どもよ、大きくならないで
  おまえが大きくなると
  戦争に行って
  きっと死んでしまうだろう
  子どもよ、
  どうかこのまま
  このままでいておくれ

ベトナムの母親たちのあいだで歌いつがれた子守歌です。戦争の中で生まれ育っていく我が子を、勇敢な戦士として戦場に送り出したいと思う反面、少しでも戦火から遠ざけたいという母親の切なる祈りがこめられています。これは、世界じゅうの母親の願いでもあります。戦禍で荒れ果てた大地に、小さな緑が芽ぶきはじめたように、インドシナの国々は、今やっと一人立ちをはじめたところです。世界の先進諸国は、若い芽の成長をじっと見守り、あらゆる援助を惜しんではならないでしょう。

前回(4/4号)に続き、25年ほど前に初版を刊行した「子どもワールド図書館」(38巻) 第13巻「朝鮮・モンゴル」の巻末解説(一部訂正)を記します。

「朝鮮・モンゴル」 について

[朝鮮] アジア大陸の東はしに朝鮮半島があり、大陸を背に、海をへだてて日本と向かいあっています。この朝鮮半島の人びとは、中国人や日本人と同じ膚の色をしています。いま日本にはおよそ数十万人の朝鮮の人びとがいます。なぜこんなにたくさんいるのでしょうか。日本と朝鮮の交流は古くからあり、5世紀のはじめには朝鮮からの渡来人がふえ、大陸のすぐれた知識や技術が盛んに伝えられました。イネの育て方、鉄器の作り方、漢字、仏教のほか、暦や医学、養蚕、機織り、造船、建築など、日本の文化の基礎は朝鮮人によってもたらされたといっても過言ではありません。
ところが、20世紀初頭、日本の大陸侵出によってまるでようすが変ってしまいました。港に着く船からは、たくさんの鉄砲と兵隊がおろされ、たちまち日本の軍隊と商社に占領されてしまいました。こうして第2次世界大戦が終わるまでの三十数年間、朝鮮半島は植民地として日本の思うままにされました。土地をうばわれた農民たちは生活ができなくなり、満州などに出かせぎにいきました。むりやり日本に送られ、炭鉱や工場、土木工事などで、安い賃金で働かされた人もおおぜいいます。
やがて戦争が終わり、やっと日本から祖国をとりもどした朝鮮は希望に燃えました。しかし、すぐにまた北緯38度線を境に南はアメリカ、北はソビエトに占領されました。そして、大韓民国 (韓国) と朝鮮民主主義人民共和国 (北朝鮮) の2つの国家が成立したのです。1950年には、南北の対立が深まって、朝鮮戦争となり3年にわたりはげしい火花をちらしました。
1965年に日韓条約が結ばれました。それは、韓国と日本が手を結び合う約束をとりかわしたものです。しかし、北朝鮮との交流はありません。そのため、ほんのわずかな帰国者をのぞいて、ほとんどの北朝鮮の人びとがふるさとに帰れずに日本で暮らしているのです。
東京のある小学校での話です。一年生の教室で先生が朝鮮の民話を読んだ後、「このお話は日本にいちばん近い国の話です。さて、どこの国の話だと思いますか」と質問しました。子どもたちは、アメリカ、フランス、イギリス、イタリア、スイスなど40あまりの国の名をあげました。しかし、とうとう朝鮮の名はでてこなかったということです。
この子どもたちを責める資格が、現在の日本のおとなにあるでしょうか。むしろ、それはおとなたちの責任として問われるべきでしょう。
アジアの片隅にありながら、日本の関心は常にアメリカとヨーロッパに向けられていました。めざましい経済成長をとげた日本は、アメリカやヨーロッパの資本主義国の仲間入りを念願するあまり、アジアの身近な国々との交流をあまりたいせつにしませんでした。
フランスの子どもがイタリアを知らなかったり、スペインの子どもがポルトガルを知らないということが、あり得るでしょうか。私たち日本人は、子どもだけでなく、おとなも隣国 「朝鮮」 を、もっとしっかり知る必要があると思います。
韓国と北朝鮮は、1948年の建国以来敵対関係にあり、3年にわたる朝鮮戦争後も小規模な衝突をくりかえすなど、常に緊張状態がつづいてきました。
1998年に大統領となった金大中政権が北朝鮮に対する融和的政策(太陽政策)を掲げてからは、表面的には友好関係が築かれたようにみえました。でも、北朝鮮の核開発問題や拉致問題など、未解決な問題が数多くあり、北朝鮮の経済的な破綻や人権問題の噴出により、南北統一にはなかなかつながっていないのが現実のようです。
日本にたくさんの恩恵を与えてくれた朝鮮、かつて日本が悲しみを与えてしまった朝鮮、その朝鮮の南北が一日も早く統一できるよう、日本は心からの応援を責任として果たすべきではないでしょうか。

[モンゴル] モンゴルの首都ウラン・バートルは周囲を山に囲まれた盆地の中央にあります。ぬけるような青空と澄み切った空気は、ここを訪れる旅行者の心をしんから洗い清めてくれます。ところがこの美しい街に、ゴビ地方から用事でたまにでてくる人たちは、ウラン・バートルの空気は排気ガスの臭いがしてたまらないと嘆くのです。彼らが日本にやってきたらどうでしょう。東京や大阪の繁華街などを歩いたら、たちまち窒息してしまうかも知れません。
日本の人口密度が1平方キロメートルに314人という過密ぶりに対して、モンゴルは、ふたりに満たないのです。人口をふやすことは、モンゴル国の大切な政策として長年取り組まれてきました。積極的な多産の奨励と、衛生管理の改善によって、近年の人口は年3パーセントの割合で増加しています。労働力としての人口がふえれば、地下資源に恵まれているモンゴルは、工業国としても大いに発展するでしょう。
最近は、素朴な自然の残されている国としてその名も次第に高まり、観光旅行者もふえつつあります。草原には観光用のパオも設営されています。自然の中に浸り心ゆくまで堪能したいのは誰しも望むところです。しかし観光という名のもとに、モンゴルの自然と人々のおだやかな生活を、踏み荒すことのないよう気をつけなければなりません。モンゴルの豊かな草原は、モンゴルのものであると同時に地球の大切な財産なのですから。
なお、モンゴルは、1980年代の後半よりソ連や東欧諸国情勢に触発されて民主化運動がおこり1990年には一党独裁を放棄して複数政党制を導入。1992年に社会主義を完全に放棄し、アメリカ型の資本主義を取り入れています。

前日(4/3号)に続き、25年ほど前に初版を刊行した「子どもワールド図書館」(38巻) 第12巻「中国(2)」の巻末解説と、その後の変化を記した補足事項を記します。

中国(2) について

前巻にひきつづき、中国の歩みをたどってみましょう。
中国国民党と中国共産党が合流した国民革命軍の進撃で、中国に希望の灯がともされたかにみえました。ところが、それもつかの間、思いがけない落し穴が、暗い大きな口をあけてまちかまえていました。
それは国民革命軍の総司令官、蒋介石のクーデターです。共産党を弾圧すれば「新政府として承認しよう」 とささやく、列国と財閥の求めに応じました。孫文の三民主義の理想を忘れ、中国をあらす帝国主義の諸外国としたしみ、国民をなおざりにしたのです。
蒋介石は1927年4月、労働者をおそって武器をとりあげ、共産党を攻撃したため、国共合作はくずれてしまいました。蒋介石の 「赤狩り」 はし烈をきわめ、犠牲者はわずか3年間で45万人にも達しました。
共産党は勢力の立て直しにつとめ、満州事変が起きた1931年の11月、江西省瑞金に中華ソビエト共和国臨時政府をつくり、毛沢東を主席にえらびました。国民政府は日本軍の侵略には目をつぶり、ひたすら共産党の攻撃に明け暮れました。
共産軍 (紅軍) は、たびかさなる攻撃をそのつど撃退しましたが、犠牲も大きく、1933年、60万の兵に共産党の根拠地瑞金を攻められたときは、兵力の半分を失ないました。共産党は全滅か降伏かという苦境に立たされていました。
このとき、毛沢東は全紅軍に移動を命令したのです。1934年10月、紅軍の主力9万に農民も加わり移動がはじまります。これが世界に名を残した1万2000キロメートルにおよぶ「長征」で、総勢約30万人の大移動です。
瑞金をかこんだ国民党軍の包囲網を突破するのに、2万5000人の兵隊を失いました。紅軍は、飛行機と近代兵器で装備した国民党軍と戦いながら、けわしい山道を夜も移動しなければなりませんでした。
紅軍は、368日間の移動中に18の山脈をこえましたが、そのうちの5つは万年雪のけわしい山でした。また、ぬかるみの大草原や砂漠を横切り、橋のない24の河を渡り、苗族やシャン族などが住む6つの少数民族地方を通過しました。
なかでも、揚子江上流のターツー川を渡るときは、18時間ぶっとおしで崖をよじ登るという行軍でした。こうした大長征をおえて、陜西省の西北にある延安へ到着したときは、30万の人びとが、わずか3万人たらずに減っていました。
やがて、日中戦争 (1937年) が起きました。戦況が激しくなり、蒋介石が味方の将校に監禁されるという西安事件を経て、共産党と国民党はふたたび手をにぎり、日本に立ちむかいました。共産党は朱徳を総司令官とする八路軍や新四軍を編成して、不敗の日本軍の伝説をうちやぶるいっぽう、地主の土地を小作人にわけてやる解放区を、つぎつぎ広げていきました。
日本軍は1945年8月、ついに降伏しますが、それに先立つ40年ごろから、国民党は独裁政治をするようになり、共産党の新四軍をだましうちにしたため、内戦へ突入することになります。国民党はアメリカの援助を受け、1946年、共産党に全面戦争をしかけました。はじめのうちは、アメリカの兵器で武装した国民党軍が優勢でした。しかし、独裁と腐敗の政治にたまりかねた国民に見放され、450万の大兵力をもちながら、3年半でほとんど潰滅状態になってしまいました。蒋介石は、やむなく本土を捨て、残った50万の軍隊をひきつれて、台湾に逃がれました。
中国全土を解放した中国共産党は、毛沢東を最高指導者にえらび、1949年10月、社会主義国の中華人民共和国の成立を宣言しました。
中国の空に、五色旗にかわる新しい国旗、五星紅旗がへんぽんとひるがえりましたが、それからの中国の歩みも、けして楽なものではありませんでした。革命当初、指導と援助を受けた兄弟国のソビエトと意見がかみ合わなくなったのです。新中国の指導者たちは、共産主義の理論をつくりあげたマルクスやレーニンの考え方を、正しく実行しているのは自分たちであると考えています。そうした立場から 「ソビエトは理論を修正している」 と、批難するようになり、友好関係が急速に冷えていったのです。誕生したばかりの新中国にとって、ソビエトの経済援助の中止は大きな痛手でしたが、世紀の実験といわれた人民公社の成功などによって、めざましい回復をなしとげました。
また、1966年には紅衛兵を中心にはじまったプロレタリア文化大革命の嵐が、10年近く吹き荒れ、文革がおさまるころ、新中国の指導者、周恩来と毛沢東をあいついで失いました。
そうしたなかでも、中国の国際的地位は着々と高まりました。1971年には、それまで自由主義諸国の多くが、中国の正統政府としてみとめていた台湾の国民政府にかわり、中国が国連にはいりました。翌72年には日本も新中国と国交正常化のとりきめを調印しました。
革命30年で近代国家に生まれかわろうとする中国は、いま、日本のよいところを社会主義の中に活かす努力をしています。日本も侵略戦争を反省しながら、隣国の中国と友情を深める努力をしています。しかし、第2次大戦後、30年近い交流の空白があり、おたがいを理解できるまでには、まだまだ時間がかかりそうです。

補足事項
中国(中華人民共和国)は、国家指導者の指導理論や政策などによって、毛沢東時代(1949~1978年)と�搶ャ平時代(1978年~現在)の2つに大きく分けて考えられています。毛沢東のひきいた時代は、社会主義化を促進して大きな成果をあげましたが、たくさんの餓死者を出すなど、政策は失敗に終わりました。さらに、経済の建て直しをめぐる対立から、毛沢東は文化大革命を発動して、反対派とされた人たちをつるしあげたり抹殺するなど、国内は内乱状態になりました。
文化大革命は1978年の毛沢東の死により終結し、かわった�搶ャ平が経済開放政策を打ち出しました。これをきっかけに、中国の近代化や経済の急成長をもたらしたことは高く評価されています。1997年の�搶ャ平死去後も、江沢民、胡錦濤といった指導者たちは基本的に�搶ャ平路線を引き継いでいるといってよいでしょう。しかし、急速な経済成長によるひずみが、貧富の拡大、空気汚染をふくむ環境破壊など、あちこちに露呈されています。共産党の一党独裁を維持するために、強行なやり方で分裂や脅威となる動きを封じる姿勢に、国際的に危惧がいだかれているのも事実です。
なお、中国は現在、ブラジル、ロシア、インドと並んで「BRICs」(ブリックス)とよばれる新興経済国群の一角にあげられています。


前日(4/2号)に続き、25年ほど前に初版を刊行した「子どもワールド図書館」(38巻) 第11巻「中国(1)」の巻末解説(一部改訂)を記します。なお、第10巻「東ヨーロッパ」は、2月19日、20日号に記しましたので省略します。



「中国(1)」について


中国の正式な国名は、中華人民共和国です。世界第3位の広い国土に、おおくの少数民族をふくむ、13億以上の人たちが暮らしています。世界一の人口をかかえ5000年もの歴史をもつ国です。

いまから95年ほど前まで清王朝が支配していました。そのころ、ヨーロッパの経済は、日ましに進歩し、アジアへ植民地の手をのばしはじめました。19世紀に入ると、インドを征服したイギリスが、まっ先に、中国に貿易の手をひろげました。

イギリスは中国の茶を買い、代りにインドでケシを栽培してつくった麻薬のアヘンを売りこみました。清国がこれを防ごうとしたため、1840年、アヘン戦争が起こりましたが、イギリスの近代兵器のまえに、もろくも敗れて香港を失い、上海、広州などを貿易港としてひらきました。

清国の弱体ぶりが暴露されると、アメリカやフランスもイギリスにみならい、不平等条約を強要しました。侵略者に対する中国民衆の怒りが高まり、洪秀全が内乱を起こし、太平天国を建設しましたが、失敗におわりました。

19世紀後半になると、中国への侵略はますますひどくなりました。日本も侵略国の仲間に入り、1894年に日清戦争が起きましたが、この戦争でも、清国はやぶれてしまいました。力の弱まった清国に、列国は資本主義、帝国主義の要求をつぎつぎに突きつけては、それをおしとおしました。

広州、上海、南京などの開港場に、中国の主権がおよばない租界をもうけ、そこに銀行、会社、工場をつくって、中国市場へ商品を流すいっぽう、農村から安い原料と安い労働力をあつめました。さらに、こうした搾取を強めるために、鉄道の敷設権を得て、沿線の鉱物資源を支配したり、貿易に関税をかけて中国の権利をうばいました。そればかりか、租界の治外法権を利用し、租界と権益を守る理由で軍隊をとどめたので、中国は列国の半植民地になってしまいました。

侵略の道具に利用された地主や官僚はともかく、ききんや揚子江、黄河、淮河の大洪水などに、苦しみつづけてきた中国の農民たちには、列国の侵略は二重の苦しみでした。これらの苦しみに加え、ふはいした役人や軍閥、地主の横暴にも農民たちは苦しんでいました。

大河の治水工事も、プランはできても、役人がその費用を自分たちのふところにしまいこんでしまうし、ききん地帯に送れる小麦やアワがあっても、軍閥の手でおさえられてしまう有様だったのです。
おまけに、2000年以上も遠いむかしから、封建的な地主たちが、中国の農村をわがものにしていました。わずか10パーセントにもみたない地主たちが、60パーセントから80パーセントもの広い土地をにぎり、小作農から作物の半分以上をまきあげていました。

やがて、義和団という、反帝国主義の大反乱が起きましたが、日本やイギリスをはじめとする8か国の連合軍に鎮圧されてしまいました。いっぽう、日本に戦争でまけたロシアでは、1905年に革命が起きました。大陸つづきの中国にも、いちはやく伝わり、中国革命の新しい芽ばえが生まれました。

祖国の危機を救おうと、革命団体を統一して立ちあがったのが孫文でした。彼は民族の独立をめざす 「民族平等」、人民の主権を認め、政治に参加させる 「民権主義」、民族資本を育て、経済上の不平等をなくし、生活の安定をはかる 「民生主義」 の三民主義をとなえ、1912年、中国革命軍をひきいて南京を占領、中華民国の成立を宣言しました。この革命が辛亥革命とよばれるものです。

清朝はほろびましたが、実権は軍閥がにぎりました。しかし、勢力あらそいがたえず、孫文は広州に独立政府をつくり、ソビエトとなかよくし、毛沢東らの共産党と協力する政策をとりましたが、革命が成功しないまま世を去りました。

孫文のあとをひきついだ蒋介石は、北伐軍をひきいて南京に国民政府をつくり、まもなく北京に入って中国全土に勢力をひろげました。蒋介石は第1次国内革命戦争 (北伐) に、中国共産党の協力で成功をおさめましたが、その同志をすてて、帝国主義諸国のきげんをとる政策に方向転換してしまいました。

中国に、本格的な思想運動がわき起こったのは、1914年にぼっ発した第1次世界大戦前後からです。『狂人日記』などの小説をつうじ、魯迅が権力盲従や旧思想の批判をおこなったころ、毛沢東や周恩来らも、それぞれ地方で結社をつくり、思想運動にとりくんでいました。

そうした運動は、まず北京大学の学生たちに受け入れられ、民衆の共同闘争に火をつけました。1919年5月4日におこなわれた北京大学生の 「五・四運動」 とよばれるデモは、上海はじめ、各地の労働者に強い影響を与えました。

労働者の大規模な波状ストライキは、パリ講和会議に出席していた北京代表に、不平等な講和条約をおもいとどまらせる、大きな力を発揮しました。革命は、目の前にありましたが、孫文の死後、180度政治をかえてしまった国民政府のために大きく後退し、以後約20年間にわたり、中国の国土は戦場と化してしまいました。

(以下、次回へ)


 



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