児童英語・図書出版社 創業者のこだわりブログ

30歳で独立、31歳で出版社(いずみ書房)を創業。 取次店⇒書店という既成の流通に頼ることなく独自の販売手法を確立。 ユニークな編集ノウハウと教育理念を、そして今を綴る。

子どもワールド図書館

1980年代以前は、カナダやアラスカなど北極圏にすんでいる人たちのことを「エスキモー」という名称で呼んでいました。雪や氷で作ったイグルーという家に住み、魚や海獣を捕まえて暮らし、カヤックや犬ぞりによる移住生活をしてきた人たちです。ところが一部の人たちが「エスキモー」という呼び方は、生肉を食らう者という意味なので、これは差別表現だといいだしました。そのため、1990年前後から、新聞や出版など一部日本のマスコミも「エスキモー」をやめて「イヌイット」を使い始めました。こうした動きに文部省(現文部科学省)も静観できず、1993年度の中学校教科書、1994年度の高校教科書検定から、原則として「エスキモー」という呼称を使わない方針を明確にしました。これを契機に「エスキモー」は差別語とされてしまったのです。
そんな報道が過熱したためでしょう。当社のシリーズ「子どもワールド図書館」の24巻「カナダ・アラスカ」にも「エスキモー」とあり、この表現は差別用語ではないかという問い合わせが多く舞いこみ、販売を中止した要因のひとつになってしまいました。
いっぽう、放送大学スチュアート・ヘンリ研究所の論文に『「エスキモー」はそもそも差別語ではないし、従来「エスキモー」と呼び習わされてきた人びとすべてを「イヌイット」に改称することは不都合である。では、どう呼べばよいだろうか。「エスキモー」と呼ばれることに不快感をいだくカナダの場合、「イヌイット」と呼ぶべきだろう。カナダでは方言の差はあるものの、互いに意味が通じ合うことばを話し、現在の国家体制において共通したアイデンティティをもつようになっているので、「イヌイット」に統一することに問題はない。グリーンランドはカナダと同様にイヌイットしか住んでいないが、彼らは「エスキモー」といわれることを嫌っておらず、英語やデンマーク語では「エスキモー」という呼称が一般的に使われている……』と発表するなど、文部省の対応の不備を指摘する声がまきおこりました。
こうして、当時の文部省が教科書から「エスキモー」を排除したりしたのは、実はきちんとした議論もないまま、「社会風潮に従っただけ」ということになり、当時の差別用語とみなされることばに対する魔女狩り風潮、マスコミの生かじり知識、そして何よりも検定を担当した民族学者の認識不足と糾弾されるにいたりました。
最近は、「イヌイット」(エスキモー)または逆にする例、カナダに住むイヌイットと表現したり、本人たちが「エスキモー」と言う場合は訂正しないという傾向があります。また、教科書によっては「イヌイット」から「エスキモー」に戻っているものもあります。
なお、カナダ大使館のホームページには、『カナダには、世界のイヌイット(以前はエスキモーと呼ばれた)のおよそ4分の1が住んでいる。現在、そのほとんどは、大陸北岸沿いや東西4,000キロ、5つの時間帯 にまたがる北極諸島に点在するおよそ40の小集落に住む。近代技術によって輸送・通信が便利になり、健康管理と厳しい気候からの保護が進んだ結果、イヌイットの生活は暮らしやすくなった。かつての犬ぞりはほとんどがスノーモービルや全地走行車(ATV)、乗用車、トラックに替わり、モリはライフルに替わった。そしてあの懐かしいドーム型の雪の家「イグルー」は、セントラル・ヒーティング、電気、電化製品、給水施設などが整った建物となり、今では狩りのときだけしか使われなくなった……』と記されています。

前回(5/8号)に続き、25年ほど前に初版を刊行した「子どもワールド図書館」(38巻) 第24巻「カナダ・アラスカ」 の巻末解説を記します。 

「カナダ・アラスカ」 について

[カナダ] カナダは、国土の広さにも、大自然の美しさにも、天然資源の豊かさにも、産業の開発にも、すべてめぐまれた国です。
しかし、めぐまれすぎているほどにみえる、この国にも、かくされた大きな悩みがあります。それは、国を構成している人びとの、人種的な複雑さが生みだしている問題です。なかでも、もっとも顕著なものは、国民の50%をしめるイギリス系の人びとと、30%をしめるフランス系の人びととの、内的なまさつです。
カナダの開拓に、最初にのりだしたのはフランス人でした。ところが、あとから入ってきたイギリス人が武力でフランス人たちを制圧し、この北アメリカ大陸の北半分を、イギリス支配の国にしてしまいました。
現在の、イギリス系の人びとと、フランス系の人びととの精神的な対立は、もとはといえば、この開拓時代の争いに端を発しているのです。
カナダ国内では、表面的には、イギリス系カナダ人とかフランス系カナダ人などとはいわず、すべての人びとが 「われわれはカナダ人」 だと主張しています。しかし、実生活のうえでは、静かな対立意識が、いまだにはっきりと残っています。
たとえば、住民にイギリス系が多いかフランス系が多いかによって、性格の違った市や町が生まれています。国の公用語は、英語とフランス語です。英語だけではフランス系の人たちが承知しないのです。そのため、駅のアナウンスはその2か国語でくりかえし放送され、道路標識なども同じく2か国語併記で示されています。また、イギリス系の人とフランス系の人との結婚には、いまだに、むずかしい問題が残っています。
開拓時代の対立とは別に、両国系の人びとのあいだには、どうしてもとけあうことのできない民族性もあります。しかし、カナダが近代国家として発展していくためには、国土や産業の開発と同時に、あるいはそれ以上に、両国系の人びとの真の連帯がのぞまれています。カナダの人びとが、カナダ人として、名実ともに一つにまとまることが、たいせつなのです。しかし、それまでには、まだまだ時間がかかりそうです。
ところで、このカナダや、アメリカや、アフリカなどの開拓国を理解しようとするとき、忘れてはならないものがあります。それは、原住民たちの問題です。インディアンやエスキモーや黒人たちは、開拓という名のもとに、侵入者たちに犠牲をしいられてきました。開拓は、原住民たちの犠牲のうえになりたったといってもよいのです。しかも、開拓後の原住民たちは、ほとんどといってもよいくらい、暗い谷間に追いやられたままです。
日本を知るためには、日本の歴史をひもとくのと同じように、開拓国を知るには開拓史を見つめ、そこに生きつづけた原住民たちのことを、しっかりととらえることが、たいせつではないでしょうか。
[アラスカ] アメリカ合衆国49番目の州であるアラスカといえば、すぐ、エスキモーのことを考えます。しかし、わたしたちは、エスキモーは氷上生活者であることをのぞけば、この極地の人びとのことをほとんど知りません。
エスキモーは、もともとアジア系の民族です。エスキモーのたくましさや、生活の知恵の深さなどを、いちどは学んでおきたいものです。

* なお、「エスキモー」は差別用語で、「イヌイット」と表現すべきではないかと言う問い合わせが数多くあり、この件については、後日記します。 

前回(5/7号)に続き、25年ほど前に初版を刊行した「子どもワールド図書館」(38巻) 第23巻「ソビエト(2)」 の巻末解説と、その後の変化を記した補足事項を記します。 

「ソビエト(2)について

前巻にひきつづきソビエトの歴史の跡を、たどってみましょう。大成功だった第15か年計画についで、第25か年計画(193337)も予定より早い43か月で終わらせました。社会主義国家成立当時は、10年ももつまいとみくびられていたソビエト国家は、ここに至って社会主義経済を完全に軌道にのせ、世界の人々の目をみはらせました。このすばらしい発展の陰に、有名な「スタハノフ運動」がありました。
スタハノフというのは、1935年に新しい採炭方法を考えだした、ドンパスの炭坑夫の名です。合理的な方法でノルマの14倍もの増産に成功し、レーニン勲章を受けましたが、彼にならって多くの人たちが、ノルマの量をひきあげる運動をはじめました。この下からの大衆運動は、炭坑から工場へ、工場からコルホーズへとまたたく間にソビエトの全地域に広がり、第25か年計画を早める大きな力になりました。
1938年には、第35か年計画に入り、この計画は、進んだ資本主義国に追いつき追いこそうというものでした。しかし、そのころの社会情勢は、ドイツ、イタリア、日本で、ファシストや軍国主義者が政権をとり、社会主義国を敵視していたのです。レーニンの後をひきついだ指導者スターリンは、国外からのそんな圧迫に悩まされました。一方、国内に対してスターリンは、自分の指導力や功績を過信し、個人の自由や政治的発言をおさえつけ、少しでも方針に反する者があらわれると捕えたり銃殺したりしたのです。それは、その後のソビエト社会に暗いかげを投げかけました。
1939年、ヒトラーのナチス・ドイツの軍隊がポーランドに侵略を開始し、ここに第2次世界大戦がはじまったのです。そして1941年、ドイツ軍はソビエトに侵入して満4年にわたる防衛戦争がはじまりました。ソビエトは第35か年計画をすぐに軍需工業に切りかえて、国をあげて必死に戦い、ついに勝利をもたらしました。
しかし、勝利はしたものの深い痛手を負いました。死傷者1700万人、焼きはらわれた都市1700、破かいされた大工場32000など、おもな工業都市が廃虚に変わり、国民生活は壊滅状態におとしいれられたのです。
そのため、第45か年計画(194650)は戦災復興を主目的としました。この計画もやはり成功をおさめ、ソビエト国民の底力をみせつけました。この第4次計画の特筆すべきは、大規模な自然開発計画の開始です。これは、第55か年計画(195155)の中心テーマともなるものでしたが、中央アジアと周辺の不毛な乾燥地帯に運河を開き、植林することによって豊かな土地にかえ、世界的な大綿花地帯にかえたのです。さらに、ボルガ川とドン川を結ぶ101kmの運河を完成させ、カスピ海、黒海を結んだだけでなく、他の運河を通じて白海、バルト海とも連絡を可能にしました。この大自然改造は、アメリカ合衆国のTVAと並び称されるものです。
ところで、1956年から第65か年計画を進める途中で、計画を変更し、あらたに第77か年計画(195965)にとりかかりました。この計画変更は、ソビエトの戦後の歴史の上で特筆されることです。それは、ソビエトの国家姿勢や世界情勢と深くかかわるものなので、さかのぼって補足してみましょう。
2次世界大戦中、連合国として協力してきたアメリカ合衆国をはじめとする西欧諸国とソビエトとの関係は、戦争が終わると、たちまち冷却しはじめました。東ヨーロッパ諸国の社会主義化による西欧諸国の危機意識も高まって、戦後処理をめぐり利害対立はめだってきました。その対立は、東西ドイツを分裂させるなど「冷戦」という東西対決のきびしい状況を生みだしたのです。
しかし、1956年の党大会で、スターリンにつづく指導者であるフルシチョフがスターリンの行為を徹底的に批判し、資本主義体制との平和共存の路線を打ち出しました。それがいわゆる「雪どけ」時代のスタートでした。そして、5か年計画の練り直しも含め、新しい出発をはじめました。5か年計画は、その後も第8(196670)、第9(197175)、第10(197680)と続き、これらは農業や軽工業、特に消費財を重視して不足気味だった日用品や食料品の生産量をふやし、品質も向上させてきています。ただし、60年代に入ってからは、多様化する世界構造の変化の中で、初期のころのエネルギッシュな進展ぶりは失なわれ、経済成長率も次第に低下しているのが現状のようです。
しかし一方、宇宙開発の分野には大きなウエイトをおいています。1957年に世界最初の人工衛星を打ちあげて以来、宇宙船や、数限りない気象衛星の打ちあげ、世界最初の宇宙遊泳、月表面の軟着陸、最近では175日間という史上最長の宇宙滞在記録をつくるなど、人類の月着陸ではアメリカに先を越されましたが、アメリカと並んで、世界で最も宇宙開発の進んだ国といえます。しかし、裏をかえせば、科学の最先端をいく宇宙開発のためのロケットも、全人類を一瞬のうちにほろぼす力をもつだけに、それらが世界平和のためだけに使われてほしいことを願わずにはいられません。
ところで、ロシア革命までは、欧米諸国とは比較にならないほどにたち遅れていたソビエトが、わずか80年後の今日、アメリカにつぐ工業国として、また2つの世界の中心国として、世界の情勢を左右しているのです。資本主義社会に生きる私たちにとってみると、社会主義の国ソビエトには、理解しにくい部分が多くあるはずです。
この本によって、社会主義国の構造の一端なりを理解し、より深い究明への手がかりにしてほしいものです。

補足事項
このシリーズの初版が刊行されてから、25年以上が経過しましたが、この間の最大の変貌は、1991年のソビエト連邦(ソ連)崩壊と、東西ドイツの統一、ソビエトに事実上支配されていた東ヨーロッパ諸国の独立と民主化といってよいでしょう。それぞれは密接につながりあっており、その経過をやや詳しくたどってみることにしましょう。

[ペレストロイカ] 1985年、ソ連共産党書記長に就任したゴルバチョフは、政治、経済、社会の改革を推進しました。この改革を「ペレストロイカ」とよんでいます。その背景に、ソ連国内の経済のいきづまりと、国民の共産党不信があり、その危機意識が、大改革をよぎなくさせたといってよいかもしれません。ペレストロイカは、憲法を改正し、共産党以外の政党をみとめ、大統領制を導入するところまで進んでいきました。1930年以降、共産党の一党独裁しか認めず、そのため共産党の命令を守らなかったり、批判したりすることは厳しく罰せられるという自由のない社会で、特権官僚が国を支配し、支配者に都合のよいことしか国民に知らされなかったのです。
ゴルバチョフは、国民の不信をなくすために、さまざまな情報をありのまま国民に知らせることからはじめました。これを、「グラスノスチ」といいます。その結果、ソ連社会内部の欠陥や矛盾が明らかにされ、共産党への批判はさらに強まり、ペレストロイカの徹底を求める国民の声は、東欧諸国までもまきこんで一挙に広まり、東欧諸国のどの国でも共産党の権威は失墜していきました。
ソ連は、19903月、臨時人民代議員大会をひらいて、国家元首を大統領にすること、共産党の一党独裁をやめること、個人の土地や財産の所有、経済活動を認めることなどを定めた新憲法を採択し、初代大統領にゴルバチョフを選びました。


[バルト3国] 本文にもふれましたが、バルト海に面しているエストニア、ラトビア、リトアニアをバルト3国と呼んでいます。帝政ロシアの時代にロシア領にされ、ロシア革命後の1918年にいったん独立しましたが、1940年にソ連に吸収されました。人種的にはエストニアはフィンランド、ラトビアとリストニアはポーランドに近く、生活水準もソ連の平均を大きくうわまわっていて、ロシア人を主体とする中央支配に強い反発心をもっていました。ゴルバチョフの掲げるペロストロイカやグラスノスチをきっかけに、これまでおさえられてきた民族感情が燃え上がり、ソ連から分離独立する運動を展開しはじめました。ソ連中央は、はじめのうちは話し合いによる解決をめざしていましたが、ペロストライカのいきづまりもあって、軍隊によるおさえこみをはじめました。そんな武力介入に対し、G7(英・米・独・仏・日・加・伊の7か国蔵相会議)がソ連に対して緊急援助を凍結するなど、世界中からの抗議行動がおこりました。


[独立国家共同体(CIS)] ソ連に劇的変化がおきたのは、19918月におきた保守派によるクーデターの失敗がきっかけでした。クーデター失敗後に解放されたゴルバチョフ大統領は、クーデターに反対しなかったソ連共産党中央委員会に対し、党を解散するよう求め、みずから党書記長職を辞任する意思を表明しました。これによって、ソ連共産党は事実上解散されることになりました。そして翌9月、ソ連国家評議会は、バルト3国の独立を承認する決議を採択し、バルト3国は51年ぶりに完全独立をはたしました。
これがソ連邦崩壊の第1歩となり、エリツィンロシア初代大統領らの主導により199112月、ロシア、ウクライナ、ベラルーシのスラブ系3共和国が「独立国家共同体」(CIS)を創設、まもなくカザフスタン、タジキスタン、ウズベキスタン、キルギス、モルドバ、アルメニア、アゼルバイジャン、トルクメニスタンの8か国が加わり、1993年グルジアも加盟し、バルト3国を除く旧ソ連の12の共和国が、EU(ヨーロッパ連合)型のゆるやかな国家連合体を形成しています。(その後トルクメニスタンは永世中立国を宣言したため準加盟国)


[その後の旧ソビエト連邦] バルト3国は、2004年にそろってEU(ヨーロッパ連合)NATO(北大西洋条約機構)に加盟しました。2007年には通貨もユーロとなりました。ソ連の崩壊を契機に誕生したCISの本部は、ベラルーシの首都ミンスクにおいていますが、中心は世界一の領土をもつロシア連邦で、旧ソ連がもっていた国際的な権利を基本的に継承しているのをはじめ、軍事施設や核やミサイルなどの軍事関連を一括管理しています。
なお、現在ロシア共和国は、ブラジル、インド、中国と並んで「BRICs」(ブリックス)とよばれる新興経済国群の一角にあげられています。

前回(4/25号)に続き、25年ほど前に初版を刊行した「子どもワールド図書館」(38巻) 第22巻「ソビエト(2)」 の巻末解説を記します。なお、ソビエト(ソ連)は、1991年、ロシアをはじめウクライナ、ベラルーシ、カザフスタン、タジキスタン、ウズベキスタン、キルギス、モルドバ、アルメニア、アゼルバイジャン、トルクメニスタン、グルジアのバルト3国を除く旧ソ連の12の共和国が、「独立国家共同体」(CIS)というEU(ヨーロッパ連合) 型のゆるやかな国家連合体を形成しています。

「ソビエト(1)について

ソビエトは、アジアからヨーロッパにまたがる全世界の陸地面積の約1/6を占める世界最大の国です。人口は*[約27000万人]で、中国、インドについで第3位です。正式の国名は「ソビエト社会主義共和国連邦」、世界で最初の労働者・農民による社会主義国です。民族平等の立場にたって、15の共和国が連邦国家をつくっています。1917年のロシア革命以来、わずか50年あまりのうちに、封建的な帝政ロシアから、いっきにアメリカ合衆国と肩をならべる世界の大国になりました。しかし、ここまでくるまでには、大変きびしい試練を重ねてきたことを忘れてはなりません。
*[旧ソ連最大のロシア共和国の人口は、2005年現在14300万人で、中国、インド、アメリカ、インドネシア、ブラジル、パキスタンについで第7位]


ソビエトは、1917年のロシア革命迄はロシア帝国とよばれ、皇帝(ツァー)のおさめる国でした。ロシア帝国は、17世紀の後半皇帝についたピョートル大帝の時に確立し、繁栄しましたが、その後は、皇帝や貴族たちが自分勝手な政治をおこなったために、国民の大部分は実に貧しい生活においやられていました。その苦しい生活のありさまは、ゴーゴリやドストエフスキー、ツルゲーネフらの作品に浮き彫りにされています。1900年前後には国内のあちこちでストライキがおこり、農民は暴動をくりかえしました。ツァーの政府は、貴族や地主に対する農民のうらみを外にそらすため、極東で勢力争いをしていた日本と戦争をはじめました。これが日露戦争(190405)です。その敗北により帝政ロシアの無力さが暴露され、国民は政府を信用しなくなりました。19051月、十数万人の労働者の群れは、自分たちの苦しみをツァーに直訴しようと、大がかりなデモ行進をしました。ところが政府の軍隊は、これに発砲し、何千人もの死傷者を出す「血の日曜日」事件をひきおこしたのです。
さらに1914年第1次世界大戦がおこると、イギリスやフランスから大資本をかりていたロシアは参戦せざるを得ませんでした。しかし敗北がつづき、2年間に500万人もの死傷者を出しました。しかも戦争はいつ終るとも知れないのです。おまけに国内は大ききんにおそわれ、重大な食料危機におちいっていきました。
19172月、20万人の労働者や婦人が「パンをよこせ!」「戦争をやめろ!」「専制政治をたおせ!」と叫んでストライキやデモをおこしました。それはたちまち革命の波となって、ロシア中に広がり、いたるところで虐げられた民衆が立ちあがりました。もはや皇帝も政府も軍隊も、民衆のいかりをおさえることができず、300年以上もつづいたロマノフ王朝はたおれ、臨時政府が生まれました。二月革命です。しかし、この政府も、ブルジョア政権により革命を実現することをめざすメンシェビキが中心だったため、あいつぐ改革にもかかわらず乱れた国内を統一することはできませんでした。
このとき、労農政権や民族解放などを主張するボルシェビキの人々をひきいて革命を指導したのがレーニンです。19171025(新暦117)、レーニンの指揮のもとに赤い旗印をかかげて革命をおこし、労働者と兵士の代表ソビエトが完全に権力をにぎることになりました。これこそ、人類史に新しい局面をひらいたロシア十月革命です。新政府は,まず第1に戦争はすぐにやめようと、ただちにドイツと単独講和を結びました。つづいて、大資本家のもっていた工場や鉱山、銀行、交通、商業などの設備をすべてとりあげて国営とし、地主や教会がもつ土地は農民にわけることにしました。土地の私有を認めず、働く人だけが土地を使えるようにしたのです。
ところが、新しい政治がおこなわれはじめると、貴族や資本家、地主たちはこれまでのような生活ができなくなるので、新しい政府をたおそうと立ちあがりました。その上、資本主義の国であるイギリス、フランス、アメリカ合衆国、日本など14か国が、自分の国に社会主義革命がおこることをおそれて、ソビエトに軍隊をおくったり、経済封鎖をするなどして、新政府をたおそうとしました。まさに、新政府は内外に敵をうけて、死ぬか生きるかの重大事に至ったのです。しかし、ソビエトをまもる赤軍はよく戦って、反革命軍や外国軍隊(白軍)に勝ち、ソビエト政権を守りぬきました。
ところが、打ちつづく戦乱のため国内はまったく荒れはて、あらゆる物資が欠ぼうしました。おまけに1920年には、おそろしい干ばつにあって飢え死にする人も数えきれない程です。このままにしておくと政権があぶないとみたレーニンは、1921年新経済政策(ネップ)をうちだしました。それは、新しい政治のやり方をしばらくゆるめ、それまで厳しくとりしまっていた個人で工業や商業を経営することをある程度まで許し、国土再建や経済発展のために、先進西欧諸国から資本や技術を導入しました。こうして、ネップの力を借りて、国の経済を立ちなおらせると、社会主義の建設こそ一番大切な仕事であることを確認しあい、遅れた農業国を大工業国にする努力をはじめたのです。これが、1928年にはじまった有名な第15か年計画(192832)のスタートでした。
ソビエトがこの計画を発表したとき、世界の人たちは夢物語としてばかにしたものでした。しかし、ソビエトにとってみれば、これが成功するかどうかは社会主義の国が成り立つかどうかの闘いでもあったのです。その結果は、予定より9か月も早い43か月で全計画が100%以上成しとげられました。まるでアラジンのランプの魔人のように、ウラルの山中にこつぜんと大製鉄所をつくり、ドニエプルに大発電所を生みだしたのをはじめ、新しくできあがった工業都市100以上、20万をこえる集団農場(コルホーズ)5000の国営農場(ソフホーズ)がつくられました。まさに計画は大成功をおさめたのです。


*1991年ソビエト崩壊に至るまでのいきさつ、その後の歩みにつきましては、次回「ソビエト(2)」の巻末にまとめて記載します。

前日(4/24号)に続き、25年ほど前に初版を刊行した「子どもワールド図書館」(38巻) 第21巻「アフリカ(2)」 の巻末解説と、その後の変化を記した補足事項を記します。

「アフリカ(2)」 について

産業の不振とともに、アフリカの多くの国ぐにがかかえている大きな問題の一つに、人種の複雑さがあります。アフリカ大陸には、*[4億をこえる人びと]が住んでいます。そのほとんどは原住民です。
*[2002年現在の人口約9億人]

植民地時代が終わったあとも、地下資源の開発などにともなって、ヨーロッパ人の侵出がふえてはいます。しかし、白人たちの総数は、1000万人をこえるまでには至っていません。しかも、その白人たちの多くは、南アフリカ共和国やアルジェリアや*[ローデシア]などに、片寄って住んでいます。したがって、南アフリカ共和国などを除く多くの国ぐにでは、100人のうち99人までが原住民だというわけです。ところが、その原住民が、あまりにも複雑なのです。アフリカ原住民のあいだには、現在も、1000種ちかいことばが使われ、ことばのうえから分類すると、1000種ちかい部族が住んでいることになるのです。
*[ローデシアは、ザンビア、ジンバブエを合わせた白人政権が用いた名称]

部族間で異なるのは、もちろん、ことばだけではありません。牧畜や農業を営む部族から、木の実や野獣の肉を食べて生きる部族まで、生活習慣は、これも分類できないほどさまざまです。定住の民もいれば、遊牧の民もいます。イスラム教やキリスト教のほかに、小部族が信仰を続ける伝統宗教も残っています。このような人種の複雑さが、とうぜんのことながら多くの国の国民構成の複雑さを生み、それが、独立国としての民族的な国のまとまりのむずかしさとなって、現われているのです。
そのうえ、これだけは共通の文盲率の高さが、その国のまとまりのむずかしさに、さらに拍車をかけています。それぞれの国が、高い文盲率の解消を図りながら、いかにして、異種部族からなる国民の統一を推進していくか。これは、アフリカ全体にのしかかっている民族的課題だといえるようです。

人種の問題にからんで、もう一つ、早急に解決されなければならないことがあります。それは、ローデシアおよび南アフリカ共和国における人種差別(アパルトヘイト)の問題です。ローデシアでも南アフリカ共和国でも、白人が、政治と経済の実権をにぎってしまっています。とくに、南アフリカ共和国では、白人たちは、人種差別の法律まで作り、黒人たちを、政治はもちろん、社会からもはじきだしてしまっています。黒人たちの教育水準が少しずつ向上してきて、白人たちの立場がおびやかされるようになったことから、人種隔離政策による一定居住地への黒人の封じ込めなど、横暴な白人防衛策をおしすすめているのです。
これでは、近代国家への発展など、のぞめるはずがありません。植民地時代となんら変わらないどころか、むしろ後退です。
この南アフリカ共和国の人種差別に対しては、アフリカ全土の黒人たちが、「アフリカ人のためのアフリカ」 と叫びながら、なかまたちの解放のために闘っています。また、世界の国ぐにも、きびしい批判の目を向けています。しかし、早急な解決はのぞめそうにもなく、かりに解決へ向かったとしても、白人と黒人の対立が、ながく尾をひくことは、まちがいありません。  
この人種差別が存在する限り、アフリカ大陸にも、そしてアフリカ人にも、ほんとうの平和はおとずれません。
多くの国にみられる白人の大企業独占を排除していくことなども含めて、白人の優位意識が消え去ること、そのためには、文盲社会の解消等によって、アフリカ人たちの力が向上していくことを、期待したいものです。
アフリカ諸国の発展に対する、世界の人びとの積極的な理解と協力がのぞまれます。

補足事項
1989年に南アフリカ(南ア)大統領に就任したデクラークは、アパルトヘイト撤廃の政治方針を固め、1990年、27年におよぶ獄中生活をしいられていた黒人解放運動家マンデラを釈放しました。マンデラは南アのアパルトヘイト政策の完全撤廃を国際世論にうったえるために、欧米14か国はじめ、日本にも訪れました。一方、デクラーク大統領も欧米を訪れ、南アのアパルトヘイト改革の努力を説明するとともに、国連で決議された経済制裁の緩和と見直しを求めました。こうして、マンデラ、デクラーク両氏の登場によって、南アに新しい社会の創造をめざす対話の時代をむかえました。そしてついに、1991年、デクラーク大統領は「新・南ア宣言」を発表。アパルトヘイトの全廃を宣言しました。宣言は、すべての人は、法のもとに平等であり、人種、肌の色、性別、宗教にかかわらず、平等の権利を享受できるとしています。撤廃後も、アパルトヘイト時代の白人と黒人の間の教育水準格差は歴然としていたため、黒人の失業率が白人を大きく上回っていました。しかし、最近になってこの差も急速に縮小しているようです。

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