児童英語・図書出版社 創業者のこだわりブログ

30歳で独立、31歳で出版社(いずみ書房)を創業。 取次店⇒書店という既成の流通に頼ることなく独自の販売手法を確立。 ユニークな編集ノウハウと教育理念を、そして今を綴る。

こども科学図書館



科学図書館表紙
こども科学図書館」の基本方針を、具体例をあげて説明してみよう。



先にふれたように、子どもたちは自分の身近なものには何でも新鮮な関心をもち、わかろうとする知的好奇心を持っている。そして、未熟な体験ながらも、さまざまなイメージをつくりあげている。たとえば「いぬ」という言葉を聞いたとき、近所にいるよくほえる犬、公園でじゃれついてきた可愛い犬、テレビで見たかしこい犬というふうに、体験から知り得た情報をもとに、犬のイメージを頭にえがくことになる。ところが情報量が少ないと、それ以上犬に対するイメージは広がらないし、深まらない。好奇心はあっても、いっそうの進展が期待できないのだ。




科学図書館見開き
こども科学図書館」の13巻目「いぬ」を開いてみると、犬の赤ちゃんの誕生からはじまる。よちよち歩き、すぐにいたずらをはじめるようになり、一人前になっていく様子を段階的に描写する。人間と犬との歴史的なつながり、犬のさまざまな身体的特長、うれしい時やかなしい時の感情のあらわし方、飼う時の注意、目のみえない人を助けたり、どろぼうをつかまえたりする犬、羊などの動物の番をしたり、ソリをひいたりする犬など、人間生活との深いかかわりがあることを、相当なページをさいて解説している。



日本生れの犬、外国生れのいろいろな犬、さまざまな愛玩犬。さらに、きつねやたぬきやおおかみなどが犬の仲間だというように、実に多様な側面から犬に関する情報を提供して、子どもたちの感受性と知的好奇心を刺激して関心を深め、発展性をもたせる工夫をこらしているわけである。



山にとりかこまれた地方に育つ子どもたちは、海を知らない。海をゆく大きな船も、海べの生き物のことも知らない。また、ライオンやぞう、新幹線や高速道路、飛行機がどういうものかも知らない。こういうものを知るためには、じっさいに海岸につれていったり、動物園へでかけたり、新幹線にのったり、自動車で高速道路を走ったり、飛行場を訪れたりする体験をしなくてはならない。

ところが、海や船や魚、ライオンやぞう、新幹線、高速道路、飛行機などをテーマにした絵本を与えれば、容易に体験させることかできる。ただしこれは直接の体験ではなく「間接体験」だ。間接体験ならば、宇宙へもいけるし、原始人にあうことだってできる。絵本の世界は、まさにそんな「間接体験」の宝庫といってよい。

テレビでも間接体験はできる。ただしテレビは、もっと見ていたい、もう一度見たいと思っても画面は一瞬にして消えてしまう。子どもたちにとって、興味をそそられた時が大事なのだから、時間に左右されるテレビのこんな宿命は、大きな欠点だろう。

たとえば、カブトムシを「知っている」という子どもが3人いるとする。そのうちの1人はテレビを見て知った子ども、1人は絵本を見て知った子ども、もう1人は実際に手にしたことのある子ども。この中で、カブトムシに対し最も印象の弱いのはテレビで知った子どもだという。もっと見ていたいと思っても映像はすでに消えてしまうし、刺激の強い映像が次に出てくれば、それだけでもカブトムシの印象は弱くなってしまうからだ。

3人のうちでいちばん印象の強いのは、実際カブトムシを手にしたことのある子どもだ。しかし印象は強くとも、それ以上の発展がない。つまり、カブトムシがどのように育ち、どのようにくらし何を食べて生きているのか、どんな種類がいるのか、どんな仲間がいるのかというようなことはわからない。

大切なことは、ひとつのテーマや体験から興味を持続させ、発展させることだろう。適切な絵本はそこまで導いてくれる。そして絵本は、いつまでもじっと眺めていることができるし、見たいときに繰りかえし取り出せる。だから、カブトムシを手にしたことのある子どもに絵本を与えたり、絵本でカブトムシを知って興味をおぼえた子どもに実際のカブトムシを見せれば、その印象はさらに深いものになる。いずれの場合でも、絵本のなかだちが必要だということだ。

(雑木林をかけめぐると、クヌギの木の高いところにカブトムシがいる。石をなげてみると、パッと固い羽の下からうすい羽を広げてとんでいった。そのうちの1匹が落ちてきて、ギュッとつかむと黄色い汁を出した。落ち葉の下の土を掘ると、大きくて白くてやわらかい虫がでてきて、それがカブトムシの幼虫だった)というような知り方が理想的なのだろうが、都会に住む子どもたちにはとてもむずかしい。だからこそ情報や知識や生活の空間を、いつでも、どこまでも拡げてくれる絵本の世界は、まさしく幼児の成長にとって欠くべからざる存在だ。

幼児期から少年期、青年期になるにしたがい、世界はどんどん拡がり、言葉だけで間接体験を積み重ねていかなくてはならない。そんな点からも、絵本で間接体験を積む訓練は、ますます重要な意味を持つはずである。

人間の赤ちゃんは、1歳代では同じ年令のチンパンジーより知能が低い。動作の面はもちろんのこと、記憶したり考えたりする面でも劣る。ところが2歳代になると、たちまちチンパンジーを追い抜く。言葉を使えるようになるかららしい。それほど、言葉の発達と思考力には密接な関係があるということなのだろう。ところが最近、子どもたちはお母さんから豊かな言葉を聞くチャンスか少なくなっている。子守りはいっさいテレビにおまかせという家庭が多くなっているのだ。

もちろん、テレビの影響がみんな悪いとはいわない。子どもにとって、おもしろいものが善であり、つまらないものが悪だ。身のまわりに何かおもしろいものがないか、探し続ける好奇心のカタマリみたいな子どもたちにとって、もっとも手っ取り早い興味がテレビなのだから。

テレビは、思うような遊び場所を奪われた子どもたちには、こたえられない存在である。なにしろ、素早い画面展開とヒーローやヒロインが、人間ワザとは思えない超能力を発揮し、次々にあらわれる悪ものどもをなぎ倒す。しかも、スリルとサスペンスに満ちあふれているのだから、子どもたちを魅きつけないわけはない。テレビ文化が成立したおかげで、幼児生活はどれほど楽しく、恵まれたものになったかはかりしれないものがある。

しかし、言葉の大切さ、たくさんの言葉を身につけさせるという視点からみると、テレビという機械には欠点も多いということも知っておきたい。つまりテレビは、相手におかまいなく、一方的に情報を送りつける。だから、視る方は受身で、物事を深く考えなくてもよいし、想像力をはたらかせなくてもよい。本来言葉というのは、人と人との間で、考えを伝えるコミュニケーションの手段である。したがって、子どもの言葉の発達を促進するには、相手になる人を必要とする。

言葉というのは、たまに使用するのでは発達しない。だから、できるだけたくさん練習できる機会をつくることが重要だ。そのためには聞いてあげる相手、親や兄弟、友だちが必要なのである。そして、言葉は何かについて話をするわけだから、話の対象である材料が豊かであり、話をする経験が豊かでなくてはならない。そこに「絵本」の大切な役割があるといってよいだろう。

とかく私を含め多くの親たちは、子どもたちの物事を深く知ろう、疑問を解決しようという心の動きを知ろうとしない傾向がある。おとなのそんな態度が幼い心を傷つけ、伸びようとする探究心の芽をつみとってしまいがちだ。

以前にもこんなことがあった。上の子が4歳になった誕生日のプレゼントに、電池でレールの上を動く小さな汽車を買ってあげた。8の字型になったレールの上にその汽車を走らせ、スイッチを入れたり切ったり、トンネルを出たり入ったり、レールの入れ替えなどをして小1時間も楽しそうに遊んでいた。ところが、だいぶ静かになったなと思っていたら、「汽車がこわれちゃった」と、急に泣きだしたのである。

見ると、汽車の屋根はちらばり、中のモーターが畳の上に落ちている。あやうく、「買ってあげたばかりなのに、もうこわして」 と出かかったが、そのわけを聞くと、汽車がどうやって動くのか調べたくなり、屋根をはずしていじくりまわしているうち、モーターがはずれて動かなくなったことがわかった。

そこで私は、落ちていたモーターが電池の力でまわり、車輪を回して汽車が走ること。モーターは磁石になっていること。ついでに、釘にエナメル線をまいて磁石をつくって説明してあげた。こうして、なんとか修理して動きだした汽車をみて子どもはニツコリ笑い、ほんとうにわかったのかどうか、弟に「この汽車はモーターの磁石で動いているんだぞ。すごいだろう」と解説しているのにはおかしくなった。同時に、結果だけみてしかりつけることはできるだけ避けるようと反省し、「科学する心」を素直に育ててやりたいと思ったものだ。



科学図書館
こども科学図書館」の編集にたずさわっていた1977年頃のこと。私の二人の男の子の上が5歳、下が3歳だった。初秋のある日、子どもたちと近所を散歩していると、都会ではめずらしく赤トンボが何十匹となく空を舞っている。子どもたちは、キャッキャといいながら追いかけまわしていたが、そのうち「お父さんつかまえて」というので、悪戦苦闘しながら1匹をつかまえてあげると、もう下の子は大喜び。おっかなびっくり羽根をつかみ、下からながめ、こんどはひっくりかえしながめまわしている。



私はさらに、上の子のためにトンボを追いかけ、ようやくつかまえてもどってみると、何と下の子が持っていた赤トンボの羽根がなくなっている。「だめじゃないか。生きものを大事にしなくちゃ」としかりつけたら、「だって羽根をつけてやろうと思ったんだもん!」と、目にいっぱい涙をためてふくれている。私はそれを見てハッとした。



普通、おとながものを考える時は言葉を使う。意識をしていなくても、頭の中であれをこうしてああしてと、さまざまな言葉を思いのまま使って考えをまとめあげる。ところが、幼児はまだ言葉を自由にあやつることができないので、行動が先になりがちなのだ。この時の、子どもの心の動きを想像すると、おそらくこんなことだったはずだ。



赤トンボを手にした時は、(わあ、空をとびまわっていた赤トンボが、いまボクの手の中にいる、うれしいな)と、ながめすがめつしているうちに、「どうして空をとべるんだろう。この羽根があるからだろうか?」と思い、羽根をとったらどうなるかと考える前に、いきなり羽根をとる、という行動をとった。そのうち動かなくなってしまったトンボをみて、いっしょうけんめい羽根をくっつけようとした。



このような日常のちょっとした子どもの行為の中にも、「関心」「疑問」「実験」という、科学の基本的な姿勢があらわれていて興味深い。空を飛んでいる赤トンボに対する「関心」、なぜ空を飛ぶんだろうという「疑問」、羽根をとってみるという「実験」である。ほんらい科学というのは、実験によって法則を知り、法則にしたがって次の考えを展開する過程をたどりながら進歩してきた学問だ。



日常生活の中で、雨や雪、空の色や雲の流れなどの自然現象、動植物に対する興味、自分のからだのはたらきなどについて、驚き、喜び、疑問を感じることは、2歳過ぎころから、ほとんどすべての子どもに見られる。いいかえるなら、すべての子どもが「科学好き」といってよいかもしれない。この「科学への芽ばえ」や子どもの心の動きをしっかり育ててやれるか、反対につみとってしまうかは、紙一重なのだ。



先の赤トンボの例でいうなら、いきなり「生きものを大切にしなくちゃだめじゃないか!」としかりつけてはいけなかった。赤トンボが動かなくなったのを見て、生きものは合体する超合金のおもちゃのように取りはずしのきかないものだと気づき、子ども心にも失敗したと思っていた。だから、しかられたことに対する精一杯の抵抗の涙だったに違いない。



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