児童英語・図書出版社 創業者のこだわりブログ

30歳で独立、31歳で出版社(いずみ書房)を創業。 取次店⇒書店という既成の流通に頼ることなく独自の販売手法を確立。 ユニークな編集ノウハウと教育理念を、そして今を綴る。

会社の歴史

私は1976年当時、板橋区にある高島平団地という新興高層団地の11階に住んでいた。賃貸の2DKだった。独立した年に生まれた長男と、いずみ書房を興した年に生まれた次男と、年子の子どもがいた。会社がうまくいっていたなら、社会思想社時代に知り合い社内結婚した妻・国子も退社し、いずみ書房でいっしょに仕事をする予定だった。しかし、私の収入はほとんど期待できない上、持ち出しするほどの体たらくである。二人の息子は産休後すぐに、「ベビールーム」という生後3ヶ月から7ヶ月までの乳児のための保育施設へ、そして8ヶ月目に公立保育園へ入れてもらえた。新興団地だったためにこういう施設が充実していたことは幸いだった。わが家計は、妻の収入に頼らざるを得ず、ぎりぎりの生活だったことを思い出す。

通常土曜日は、勤務する会社が休みのため妻はいずみ書房へ出かけて、経理や事務の仕事をすることが多かったが、この日はたまたま自宅にいた。子どもがいる住居というのは何かしら雰囲気でわかるようで、セールスマンがひんぱんに訪問してきた。たいていの場合、妻はうまくかわしているのだが、この日はまったく違ったらしい。声をはずませて会社にいる私へ電話してきた。
「セールスの上手な人っているのね。大型の絵本のセールスみたいだったけど、こちらの警戒感をまったく感じさせないの。日に焼けて真っ黒な顔をくしゃくしゃにしてほほ笑みながら、ぐいぐいひきつける話し方も一流。ポケット絵本の話をしたら、すごく興味をもってくれて、あとで事務所へ顔をだすって」という。

これが、W氏とのはじめての出会いであった。先に述べた「画報ルート」という業界に20年以上も所属し、現在は知人に請われて、ある児童書出版社のセールス・マネージャー兼セールスマンをやっている。だが、商品にいまひとつの魅力が感じられず、苦戦続きの毎日だという。私は、さっそく「ポケット絵本」を見せ、英国レディバード絵本をお手本にコンパクト判にした理由、原作・原話の内容をしっかり記述したこと、絵のタイプも写実的な絵、デフォルメした絵、コミカルな絵といったようにお話の内容にあわせて描き分けたり、油絵、水彩、クレヨン、版画、ポリマカラーという新画材、カラーインクなどさまざまな画材を使用したこと、親は大変かもしれないけれど、子どもたちに毎晩お話を読んであげてほしいことをかいつまんで話した。黙って聞いていたW氏は、説明を終えるとなぜか大笑い。理由を聞くと、こんな答えが返ってきた。

「私が今セールスしてる絵本というのは、新聞紙の半分ほどの大きな絵本なんですよ。この絵本はその10分の1ですね。これはラクだ。絵本を上着のポケットに入れて、手ぶらで仕事ができますもん。これは愉快、ちょっとそのへんで営業させてください。結果はすぐにでますから」。こういうと、W氏は事務所を飛び出していった。

1976年8月末、離れ業ともいえる手法で倒産をまぬがれたことを記した。しかし、それからしばらくは毎月数百万円の手形決済が待っているし、J・チェーンの売り上げがなくなってしまったわけだから、他の方法で売り上げをあげなくてはならない。それでも、これまでのようにJ・チェーンに気兼ねをする必要がなくなり、精神的にかなり開放された気分になったことは事実である。J・チェーンと独占販売に近い形で契約して以来、本部のいうことには逆らえないという見えないプレッシャーを受けながら行動せざるを得なかったからだ。そこで、これまでに独自で集めた販売会社や、知人の紹介なども含め、いろいろなタイプの会社へアプローチしていった。

当時、「画報ルート」という業界があった。「世界画報」とか「国際画報」といったグラフ誌を販売してきたことから名づけられたルートなのだろう。国際情報社、世界文化社、研秀出版、山田書院等のメーカーが競い合って、写真をふんだんに取り入れた料理、旅行、歴史、文学、音楽、子ども向などのジャンルの18巻から24巻の全集を刊行していた。主に、全国販売協力会という会に所属している40社ほどの販売会社が営業に当たっていることを耳にした。そうした販売会社に所属する1000名ものセールスマンが職場や家庭などを訪問し、全巻予約契約をとり毎月配本していく仕組みだという。このルートは当社の「ポケット絵本」を販売するのにふさわしいと、熱心に勧めてくれる人がいた。よく話を聞いてみると、メーカーから無料でもらった1巻目の代金がセールス手当となるという。セールスマンは全巻予約の契約カードを販売会社にわたす。販売会社は以後の配本を引き受けることで会社経営が成り立つという仕組みなのだ。ということは、メーカーは1巻目をタダで販売会社へ納品しなくてはならないことになる。巻数が多ければ、最終的に利益が出る可能性はあるのだろうが、当社の「ポケット絵本」のように、10回で終わってしまうのではリスクが大きすぎることがわかった。全巻一括という方法もあるというので、実際にセールスにたずさわる人に面談してみると、版型の大きなシリーズに慣れた人たちばかりなので、期待はできないという。たしかに、いくつかの販売会社と口座を開いたが、手間がかかる割に売り上げは微々たるものだった。

新聞にチラシを折り込んで予約をとる「頒布会」をやっている業者、J・チェーンと同じようなフランチャイズを展開している会社にもアプローチしたが、J・チェーンへの卸値の半分くらいならやりましょうという会社ばかりで、それでは大赤字、まったくビジネスにならない。化粧品会社、保険のセールスレディ、健康食品業界、いろいろ紹介してくれる人はいたが、どれも実を結ばない。

考えぬいた末、8月末に奇跡的な成果を得られた幼稚園納入業者で、すでに取引のある首都圏を避け、それ以外の地区を攻めてみようと思いついた。今回も、電話帳の登場である。今もそうだと思うが、規模の大きな電話局には全国の電話帳が設置してあり、無料で閲覧出来た。勘を働かせながら、片端から取り扱ってもらえそうな会社を書き写し、事務所にもどって電話をしまくるのである。ちょっとでも可能性がありそうな会社には見本とパンフレットを同封して送り、後日改めて電話をする。このようにして、東海から関西、中国道にかけて出会った会社にアポイントをとり、1週間ほどかけて訪問してみた。多少の成果はあったが、結果的に出張旅費をまかなう程度のものでしかなかった。前回は、先方からの取引の要請だったのに対し、今回は当方の売り込みである。立場が逆になると、こんなにも難しいものかということを改めて実感した。

5月30日にブログを開始して以来、6月末まで17回にわたり、創業期の大苦戦物語を綴ってきた。今思い返しても、よくもあの苦境が乗り越えられたかと思う。まさに、若さの賜物だといえよう。しかしこれも、30余年間のいずみ書房の歴史にとっての序章、シチュエーションを変えながら、それに近いことがその後、何度もおこるのである。何もかもうまくいくことなどありえない。必ず何らかの障害や困難に突き当たる。それが人生なのだと割りきってしまうほうがよいのかもしれない。大事なことは、そんな事態に直面したとき、どういう行動をとるかという「心構え」が重要なのだと思う。

困った問題に直面したとき、人は次の3つのタイプの行動をとるという。1つ目のタイプは、その障害や困難を避けたり逃げたりする人。2つ目は、それを無視して乗り越えようとする人。3つ目は、その障害や困難と正面から向き合う人。

1つ目のタイプは、社会人としては 論外で、人から信頼されない人であろう。「敗者の心構え」といってよいかもしれない。2つ目は、かっこよくみえるけれど、障害や困難の実態を無視して突き進むため、結果的に新たな問題に突き当たることになる。正しい心構えは、3つ目にあるのだろう。障害や困難がどういう原因で起きたのかを徹底的に分析し、どのように解決すればよいのか、じっくり向き合って考えて行動すること。これが、「成功者の心構え」なのだと思う。これがしっかり出来ていれば、どんな時代がこようとも怖いことはないが、そこがなかなかむずかしいことでもある。

樫村社長に200万円を受領したことを報告し、月末までに残りいくら用意すればよいかとたずねると、あと500万円はほしいという。「ポケット絵本シリーズ」は、J・チェーン分として納品した以外に、いずみ書房の奥付分を各集3000セットほど制作していた。これは、以前、保育園を中心に予約をとった人たち用にとっておいた分であった。J・チェーンと取引を開始したころからは、新たな開拓をほとんどしなかった。というのも、私が開拓した園へJ・チェーンの加盟店が訪れることがよくあり、すでに入っているのを知った加盟店が本部に苦情をいうことが続いたからだ。また、5月に全巻完成したことを知った幼稚園への納入業者のいくつかは、当社と直接取引したいといってきたが、J・チェーンの加盟店に迷惑をかけてはいけないと、この申し出もすべてことわってきた。

しかし、もはやそんな悠長なことをいっている場合ではない。会社がなくなるかどうかの瀬戸際なのだから。待機中の2、3日間に、ある程度の打ち合わせを済ませておいた幼稚園納入業者のいくつかを訪問し、納品時に手形をもらえるなら取引しましょうと、強気に交渉した。3社ばかりが当方の提案に応じてくれ、それぞれの手形を入手したのは1976年8月29日のことだった。この手形をすぐに銀行に持込んで割引してもらい、まさにすべこみセーフ、破綻をまぬがれたのである。

不渡り手形の代償として、当方の弁済要求に対し、はじめのうちは不可能一点張りのJ・チェーンの幹部たちだったが、やがて心が通じだし、一両日のうちに入金の見込みがあるので待機してほしいという。私は、車の中で待っているからと伝えた。1976年8月下旬のこと、残暑が身にこたえたが弱音をはくわけにはいかない。

この待機している時間に、思わぬ縁にめぐまれることになった。茨城県で農業のかたわら加盟店をやっているというF氏との出会いである。J・チェーンの内部事情に詳しい好人物で、当社の童話シリーズはどの地区の誰々がどの程度売っているということを、実によく知っている。特に、栃木県、福島県、宮城県など北関東から南東北地区には、絵本シリーズを中心に営業活動を行って業績をあげている加盟店が何人もいて、その人たちが中心になってあちこちで売り方の勉強会が開かれ、順調に成果をあげているという。私にとってこの情報は実にうれしいものだった。というのも、J総業に絵本を納入してはいるが、現場で売れているかどうかが気がかりだった。絵本が、組織維持の材料としてだけ利用されているとしたら、先行きの希望はないからだ。

「加盟店の人たちにポケット絵本シリーズの評判がいいのは、予約をしてくれた家へ毎月届けにいくため、お客さんと親密になれることです。子どもが一番楽しみにしていますといわれると、この仕事の苦労もいっぺんに吹き飛んでしまいますからね」とF氏はにこやかな笑顔でこう語り、当方の事情もわかってくれて、J・チェーンの幹部たちに助言することも約束してくれた。

翌日の午後2時頃のこと、会議室の隣にある個室へくるように呼ばれ、私はY社長と面談した。あの迫力に満ちた演説をした同一人物とは思えないほど疲れきった様子で、「迷惑をかけて申し訳ない。お申し出の額とはほど遠いが200万円だけ用意できました。これが当方の精いっぱいの誠意だと思ってください」と札束をテーブルの上に置いた。他の人に見られないようにすぐにカバンにしまって、領収書は後日送っておいて下さいとだけいうと、部屋を出て行った。私は、Y社長の表情から、J・チェーンもそう長くは持たないに違いないと直感した。

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