児童英語・図書出版社 創業者のこだわりブログ

30歳で独立、31歳で出版社(いずみ書房)を創業。 取次店⇒書店という既成の流通に頼ることなく独自の販売手法を確立。 ユニークな編集ノウハウと教育理念を、そして今を綴る。

会社の歴史

いずみ書房のフランチャイズ販売組織にかげりが見えはじめたのは、1983年頃だったろうか。訪問販売という販売手法は、読書や家庭教育に無関心な母親に、幼児期の子育ての大切さを知らせるという点で、たいへん重要な役割をはたしてくれたと思う。私は、営業にたずさわる人たちの基本的な理念にしてもらうため、「絵本のすすめ」(後に改題「かしこい子どもの育てかた」)という小冊子をこしらえ、契約者はもちろん関心の高い見込み客へ、配布するようにしてもらった。そして、営業マンというより教育者としての自覚をもって訪問するよう、教育の徹底をことあるごとに幹部に伝え、よく実行していてくれていた。

ところが、市場は急速に訪問販売に対し冷やかな目を向けるようになった。というのも、当時は飛び込みセールスといって、軒並みドアをたたき、相手の都合におかまいなく、一方的にセールストークを展開し物を売りつける手法が一般的だった。そして、買わないとなると、ドアをバタンと閉めたり蹴飛ばしたり、悪態をついて立ち去るというようなセールスマンまで現れた。行政側も、世間の苦情の多発に業を煮やし、セールスマンの登録証の発行を義務付け、契約後一定期間内であればキャンセルに応じさせる法律を定めて、販売業者、一般顧客双方へ注意を促した。

私は、読書の普及という使命感(ミッション)をになう「いずみ書房」の営業マンと、悪質訪問販売業者とを差別化するためには何が必要か、説得して物を売りつけるセールスという概念から脱却するための方法はないものだろうか、頭を悩ませる日々が続いた。そして、「説得」から「納得」の営業という手法を思いつくに至った。購入してもらうために「説得」するから無理が生ずるのであり、商品やサービスに「納得」してもらえれば問題が生ずることは皆無に近いことに気づいたわけである。その中心が、読書運動の組織づくりだった。

今思い起こすと、「レディバードブックス特選100点セット」を刊行した1987年から数年間が、英国レディバード社の最も繁栄していた時期だったように思う。マルコム・ケリー社長のもと、幹部も社員も生き生きと仕事に取り組み、次々と新企画を打ち出していた。1988年の晩秋、私はコンテストで優秀な成績をおさめた当社の営業幹部や営業マン7名を引き連れ、レディバード社を訪れた。私にとって初めての海外旅行でもあったため、特に印象深いものがあった。

レディバード社は、ロンドンの北西約150kmの典型的なイングランド地方の小都市ラフボローにあった。5000坪ほどの敷地に、企画・編集・デザイン部門はもちろん、印刷から製本までもすべて自前で生産する一貫工場を所有していた。出版社というのは、日本でも英国でも、印刷や製本は外注するところがほとんどで、自社工場をもっている会社はきわめて例外的だった。

日本では見たこともないようなB倍判という大きなオフセット印刷機が数台。1枚の用紙から、レディバードブックスが2冊作れるという。驚いたのは、オフセット印刷の刷版が大きな倉庫に保存されていることだった。通常、刷版というのは印刷する都度フィルムからこしらえ、印刷を終えると溶かしてしまうのだが、それを収容するだけの広いスペースがあるのと、ひんぱんに再版されたからなのだろう。

製本工場も目をみはるものがあった。12cm×18cmの上製本に規格化されたレディバードブックスは、完全にオートメーション化されていて、1日10万冊を製造する能力があるという。年間2000万冊以上を世界じゅうに普及させていると聞いていたが、この工場ならと納得できた。

工場見学の終了後、マルコム・ケリー社長はスタッフとともに、われわれをコールズコートという素晴らしいレストランで歓待してくれた。13世紀に建てられたという森の中の風格ある教会の一室、まさにおとぎの国のようなレストランでローストビーフに、高級ワインにと舌鼓をうった。われわれはみな大満足、忘れられない思い出を残してくれた

「レディバード図書館」の出版契約の成立以後、当社は急速に英国レディバード社との関係を深めていった。1985年3月には、当時のレディバード社社長のマルコム・ケリー氏が、当社の三鷹オフィスを訪問してくれ、以後、毎年のように訪日してくれるようになった。そして、希望すれば、レディバード社の刊行するすべての本の日本語翻訳権を、優先的に当社に与えてくれるまでになっていった。

1987年には、レディバード社とのタイアップ第2弾、「キーワード子ども英語教室」を刊行した。このセットのメインとなった絵本は、レディバードブックスの中でも、特に英語を母国語としていない国々で人気があった。科学的によく考えられたカリキュラムをもとに、英語圏で最もよく使われるキーワードをくりかえし使用する12段階、36冊の絵本で構成され、日常生活で不自由することのない英語の読み書きができることを目的としていた。

キーワード英語教室日本の子ども英語市場を考慮したところ、レディバードブックスの全12段階ではハードルが高すぎるため、「キーワード子ども英語教室」では入門レベルの3段階とした。さらに、絵本を朗読する音響教材と日本語訳を添付する必要性を感じ、絵本+カセットテープ+解説書を1巻分とし、全12巻のセットとして発売することにした。

朗読には、上智大学外国語学部英語学科(現教授)のマイケル・ミルワード先生にお願いした。私の学生時代の友人であり、上智大学外国語学部英語学科の菅原勉教授に相談し、純粋なクイーンズ・イングリッシュを話すマイケル・ミルワード先生を紹介してもらった。

おかげで、このシリーズは大変評判になり何回か版を重ねてきた。しかし、カセットからCDの時代になったため、現在は特価品として提供している。詳しくは「いずみ書房のホームページ」をご覧ください。

間もなく裁判所から、公判の案内があった。この件に関しては、当時の樫村社長にすべて担当してもらった。争いごとに関しては、あまり情実にとらわれず、冷静沈着であるべきと考えたためである。第1回目の公判にJ・ライフのY社長は弁護士を伴って出廷し、手形に個人保証をした覚えがないこと、J・チェーンの経理担当がY社長に無断で印鑑を押したと主張したという。

裁判は長期戦となり、第2回目以降Y社長は出廷することはなく、代理人が最初の主張を繰り返すのみだった。公判はその後4、5回行われたが決着がつかず、最終的に示談を示唆されて、お互いの弁護士の話し合いのもとで、1千万円近くの賠償額が決められた。

その後、J・ライフのY社長の脱税や違法な政治資金がマスコミに大きく報道されるようになったばかりか、「マルチまがい商法」と決め付けられ、糾弾されるようになった。まもなく、元中部管区の警察局長だった人に社長が変わり、Y氏は表舞台から消えていったようだ。

いま思い起こせば、当社にとってY氏との出会いは、良くも悪くも大きな転機になった。創業後はじめて出版した「ポケット絵本」(せかい童話図書館)を、J・チェーンが取り扱ってくれなかったなら、全40巻が完成したとしても、それより2、3年後のことだったろう。J・チェーンの加盟店だった人たちの出会いや、以後10年以上も当社の販売を支えてくれたフランチャイズ・システムによる組織づくりを思いつくこともなかったはずだ。当時の2千4百万円は、今のお金でいえば、5~6千万円以上にも匹敵する大負債をこうむることになりはしたが、今回の示談により、その負債のうち1千万円近くを取り戻すことができたのだ。そして、思いがけないこの資金により、念願の英国レディバード社「レディバード・ブックス」の日本語版「レディバード図書館」の刊行につなげることができたのである。

1983年の年末頃のことだったろうか、ある雑誌を読んでいたところ、J・ライフという会社が「マルチ訪問販売」という手法で、羽毛ふとんを中心に大躍進しているという。同年2月期に400億円を売り上げ、1984年には1000億を越えそうな勢いという。私はこの記事に釘づけになった。というのも、その社長が何と、あの倒産したJ・チェーン社長のY氏なのだ。私と同年齢ながら、1000店を越えるJ・チェーンを短期間にこしらえあげたが、マスコミや世間の「マルチ商法」の烙印をおされてもろくも崩れてしまった偶像……そんな印象だったが、7年後に不死鳥のようによみがえっていたのだ。以前の轍は踏むまいと、マルチの糾弾を受けないようにたくみに仕組みを変えて、これもわずかの期間にJ・チェーンの数倍規模の会社に盛り上げたようだった。

当社がJ・チェーンから2400万円ほどの不渡手形をつかまされるはめになったことは、以前つづった。ただし、当初不渡りを受けたのはJ・総業という系列会社で、その後J・チェーンに肩代わりしてもらったわけだが、その際、経理担当者に何度も交渉し、毎月100万円ずつ24回(24枚)の手形に差し替え、それぞれにY社長の個人保証を求めた。ノーの一点張りだったが、先方も根負けしたのか、ついに受け入れてくれた。株式会社というのは会社が倒産した場合、社長の責任はなくなるが、個人保証をした場合は、個人に支払い能力がある限り支払いに応じなくてはならない。

手形が不渡りになると、手形交換所から支払い不能の印が押されてもどってくる。そのつど銀行へ手数料を支払わなくてはならないが、当社はダメモトのつもりで24枚の不渡手形を保管していた。J・ライフの大躍進で、Y社長のふところは潤っているはずだ。そこで当社は、弁護士と相談し、正式に裁判所へ手形訴訟をおこしたのである。

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