児童英語・図書出版社 創業者のこだわりブログ

30歳で独立、31歳で出版社(いずみ書房)を創業。 取次店⇒書店という既成の流通に頼ることなく独自の販売手法を確立。 ユニークな編集ノウハウと教育理念を、そして今を綴る。

会社の歴史

業界に詳しい人に聞いてみると、雑貨を取扱う会社というのは、定価の2掛、3掛が常識だから、返品条件はあるものの70%前後で取次店に納入する書籍とはまったく違う世界、しっかりソロバンをはじいて見積りを出さないと相手にされないとおどかされた。幸い、樫村社長は、製薬会社に勤務していたころの仕事は資材部で、その責任者を長くやってきた。資材部というのは、薬の効能書やパッケージなどの印刷物を制作する部署で、いかに安くて質の良いものを効率的に入手するか、こういうことを四六時中考えながら発注することを主な業務にしてきたという。前職当時からつきあいのあったB社という印刷業者にかけあい、もうこれ以上は下げられないというシビアな見積りを出してもらい、再度J・チェーンのY社長をたずねた。

「まあまあの見積りが出ましたね。ただ、ひとつ条件があります。各集1万セットを2万セットに増やしますから、単価を30%下げてください。それが可能なら契約しましょう」と、即断するのだ。それを聞いてわれわれは、すぐにB社を訪ね、なんとかJ・チェーンの条件に合う見積りをもらえないかと交渉した。2、3日後にB社から、社運をかけてやりましょうという返事をもらうことができた。熱意が通じたのだ。こうして、毎月1集分2万セット・8万冊、10ヶ月で完成、総冊数80万冊という契約を、J・チェーンの仕入れ部門を担当する系列会社、J総業と交わすことができた。当社の利益はすずめの涙ほどしかなかったが、全巻を完成させることができれば、まだ数百人ではあったが、私を信用して全巻予約してくれた人たちにウソをつかずに済むということ、このことが私にはいちばん嬉しかった。もちろん、うまく事が進めばというのが大前提ではあったが・・・。

パチンコの景品というアイディアは良かったものの、長続きはしなかった。東京や大阪のような大都市の一部で評判になったものの、絵本を景品にするというユニークな発想はあまり現場では理解されず、地方では見向きもされなかったという。景品を取り扱う商社の担当者に泣きつかれて、買い取りの約束ではあったが、納品数の3分の2以上の返品を受けざるを得なかった。もう、お先真っ暗という状況に逆戻りしてしまったのである。

手形決済のための資金不足に頭を悩ませていたその頃、社会思想社時代にいっしょに仕事をしたことのあるフリー・ライターのT君が、当社の小さな事務所を訪ねてきてくれた。会社の窮状を知った彼は「今非常に伸びているJ・チェーンという会社があってね、取材した記事を週刊誌に載せたところ大評判になった。社長も喜んでくれて、来週会うことになっている。雑貨を中心に扱う会社だから、興味を持ってくれるかわからないけど、この絵本を見せてみようか」という。私は、ダメモトでいいからと、彼に第1集、第2集と、完成したばかりの第3集の見本を持っていってもらうことにした。

それから1ヶ月以上がたち、忘れかけていた頃、T君から電話があった。「あの話、もしかしたらうまくいくかもしれない。社長に会ったときは全然関心がないみたいだったけれど、あの絵本を自宅に持ち帰って奥さんに見せたんだそうだ。奥さんが子どもに読み聞かせたところ、子どもの反応がよくて、もうどこへ行くにも手放さないほどのお気に入りなんだって。J社から直接電話が入るはずだから、うまくやってよ」と。

ほどなく、茅場町にあったJ社のオフィスに樫村社長とともに出向き、Y社長と会うことになる。驚いたことにJ社は、会社を創業してまだ4年足らずなのに、加盟店が全国に1000店以上もあり、売り上げも100億をゆうに越えているという。Y社長の年齢は当時31歳、私と同じ年の生まれなのだ。
「ポケット絵本シリーズの内容は気に入りました。至急1万セットの見積書を提出してください。取扱うかどうかは、見積り次第です」。社長のスケジュールは分刻みのようだった。われわれと会っている時間はわずか15分程度、これだけいうと、次のアポの人と打ち合わせに入っている。伸びている会社の社長というのは時間の使い方が半端じゃないと思うと同時に、頭の回転がすばらしく速い人だなという印象を持った。

「何か困ったことがあったら、職業別電話帳を最初から最後までめくってみることだ。何らかのヒントがあるはず。あの分厚い電話帳には、ありとあらゆる業種がくまなく入っている上に、連絡先まで教えてくれているのだから・・・」。社会思想社の編集部にいたころ、著者だったT氏の言葉を思い出していた。T氏はあるテレビ局のディレクターをやっていて、主として当時の若者の実態をドキュメンタリー番組にすることで定評を得ていた。私はT氏と組んで、タイプの違うさまざまな若者たち100人の行動を分析することで、若者を読者の中心にする教養文庫シリーズの将来への方向性をさぐりたいと考えていた。編集作業に携わる中で、T氏から欲しい情報の集め方、自分のやりたいことを遂行するための方法論など、彼のノウハウを具体的にいろいろ教わった。はじめの言葉もその付き合いの中で教えてもらったことのひとつだった。

電話帳をこうでもない、ああでもないとめくるうち、「日本遊戯協会」という1行に目が留まった。何をするところなのだろう。当たってくだけろとばかりに電話をして、文庫判の童話シリーズを刊行する当社の内容をかいつまんで紹介したところ、担当者が会って話をしましょうという。山の手線「市ヶ谷駅」から細い坂を上る途中に、その事務所はあった。何とこの協会は、パチンコの景品を取り扱う団体の事務局だった。あきらめて退散しようとすると、担当者が上司をつれてやってきた。パチンコの景品というのは正直いってあまり評判のよいものではない、でも最近神保町にあるパチンコ屋さんが、文庫本を景品にしたところ、学生たちに大評判になったという。確かにそのことが話題になっていたことは新聞報道で知っていた。「この前の理事会で文庫本のことで盛り上がりましてね。次の理事会に御社の童話シリーズの提案をしてみますから、見本を3部ほど送ってください」という。
まもなく開かれた理事会で、父ちゃんがパチンコで遊んで、おみやげに子どもに童話を持って帰るというのは何ともほほえましい、ということになったそうだ。事はとんとん拍子に進んで、それから間もなく、景品を専門に取り扱う商社から5000セットの注文が舞い込むことになった。これで、第3集を刊行できる資金が入手できたのである。

なおT氏とは、「朝まで生テレビ」「サンデー・プロジェクト」の司会などでおなじみの評論家、若き日の田原総一朗氏のことである。

幼稚園がだめなら保育園に販路を求めようと、まず公立の保育園のいくつかに当たってみた。幼稚園とちがって、保育園の保母さんの何人かは興味を示してくれて、個人的に予約をくれる人が少しずつ現れたが、公立保育園では原則として園児にあっせんすることは禁止されているという。そのため、大量予約というわけにはいかない。

そんなある日、定員が8人という無認可保育園へ飛びこんだ。園長と、園児を預けにきた母親がいて、私の手にした見本を見るや叫んだ。「まあ、可愛い絵本ね、ステキだわ。すぐに予約する、私も・・・」ということで、あっという間に2セットの予約がとれた。後日全員に案内してくれて、結果的にこの小さな園から7セットの予約をもらうことが出来たのである。苦戦続きの日々だったので、この出会いはどんなに私を力づけてくれたことだろう。そうなのだ、小さな規模の保育園は、幼稚園と違って、絵本や教材を売り込まれるということが皆無に近かったのだ。気をよくした私は、この日を機会に、数人から20~30人規模の小さな私立保育園や、無認可保育園に飛び込んで、次々に予約者の数を積み重ねていった。2ヶ月ほどで300名を越え、口コミや、人に頼んでいたところからの成果も加えると、3ヶ月目には500名ほどになり、先行きにわずかな光が見えはじめてきた。

このころまでに、T銀行を通じ支払手形を発行することが可能になったため、勇気を出して、第2集を刊行することに踏み切った。しかし、各1万セット製造、数千セット販売してようやく利益が出る定価設定をしていたので、とても一息つくことは許されない。しかも、手形を発行した以上、何が何でも期日までに資金を用意しなくては破綻してしまう。胃の痛くなるような毎日が続いていた。

「せかいの童話シリーズ」の販売先として、多くの人が考えることは、幼稚園へ売りこむということだった。当然、私もそう考えて行動をおこした。園に顔のきく知り合いに紹介をもらい、朝から夜遅くまで営業活動に専心した。全巻予約申込書を用意し、園を通じて園児のいる家庭へ配布してもらえないかと頼みこむのだ。やがて紹介された園も底を尽き、片端から飛び込んでいったが、残念ながら成果はほとんど得られない。当時から、幼稚園市場への営業は競争が激しかった。というのも、年少、年中、年長の園児向けに「月刊絵本」を刊行する出版社が福音館書店、学研、ひかりのくに、チャイルド社、フレーベル館など数社あり、それぞれが読み物絵本、科学絵本の2種類、計6種類を刊行し、そのシェアの奪い合いを演じていたのだ。そういう市場に、ネームバリューのない、しかも全巻予約といっても、全10集の計画のうち1集だけしか刊行していない会社の絵本など、どんなに内容がよくても案内することは出来ないという。無理もない。次回の第2集を刊行できる見通しすら全くたっていないのだから。

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