児童英語・図書出版社 創業者のこだわりブログ

30歳で独立、31歳で出版社(いずみ書房)を創業。 取次店⇒書店という既成の流通に頼ることなく独自の販売手法を確立。 ユニークな編集ノウハウと教育理念を、そして今を綴る。

2015年11月

今日11月13日は、箱根駅伝の開催に尽力し、高地トレーニングを導入するなど日本マラソン界の発展に大きく貢献した金栗四三(かなぐり しぞう)が、1983年に亡くなった日です。

1891年、熊本県玉名市に生まれた金栗四三は、旧玉名中学を卒業後、1910年東京高等師範学校(今の筑波大)に入学しました。1911年、翌年に開催される第5回ストックホルムオリンピックに向けたマラソンの予選会に足袋で出場し、当時の世界最高記録を27分も縮める(2時間32分45秒)を出して、短距離の三島弥彦と共に、日本人初のオリンピック選手として出場が決まりました。

翌1912年のストックホルムオリンピックでは、金栗が国内予選で大記録を出したことから各国にマークされ、期待の重圧と睡眠不足、レース途中で40度を越える猛烈な暑さに日射病で意識を失って30キロ付近で倒れてしまいました。近くの農家で介抱され、その農家で目を覚ましたのは、翌朝のことでした。当時、日本からスウェーデンへは20日もかけて船と列車でかかり、さらにマラソンの当日は、金栗を迎えに来るはずの車が来なかったため、競技場まで走らなければならないという過酷なものでした。

この敗戦は金栗にとって大きなショックで、以後の練習は、徹夜、絶食でマラソンを走るというような奇妙なものでしたが、その甲斐あって、1914年の国内レースで2時間19分30秒という当時の世界最高記録をぬりかえるものでした。残念なことに、第1次世界大戦が勃発したため、1916年の第6回大会は中止となってしまいます。第7回アントワープ、第8回パリの両大会にも出場したものの、年齢的に峠を越えていて、それぞれ17位、棄権という結果に終わってしまいました。

それまでの十数年間に、金栗がマラソン練習に走った距離は驚異的で、30万キロともいわれ、金栗が走らなかった国道はひとつもないといわれるものでした。オリンピックでは実績を残せませんでしたが、引退後の指導者としての功績は実に多くのものがあり、「日本マラソンの父」といわれるのも、納得のいくものです。

その一つは、今も正月の風物詩となっている「箱根駅伝」を1920年に創始したことでしょう。1917年に日本で初めての駅伝となる「東京奠都五十年奉祝・東海道駅伝徒歩競走」が、京都三条大橋と東京・上野不忍池間で行われました。これは京都―東京516キロを23区間に分け、三日間、東西に分かれた2チームが昼夜兼行で走り継ぐ壮大なたすきリレーでした。これが大成功を収めたのに意を強くした金栗が、大学などに箱根駅伝創設の意義を説いて参加を呼びかけ、早大、慶大、明大、東京高師の4校が応じたことからスタートしたものでした。

さらに金栗は、全国の優秀選手を1か所に集めて練習をさせるいわゆる合宿練習を提唱しました。富士山山頂まで駆け上がる高地練習、等間隔で並ぶ電信柱を目印に全力疾走とジョギングを交互に行うインターバルトレーニングを行うなど、日本に優秀なマラソンランナーを輩出させる指導力を発揮しました。また、箱根駅伝を読売新聞社、朝日新聞社に「金栗賞朝日マラソン」(のちの福岡国際マラソン)をそれぞれスポンサーにするなど、組織者としての力も発揮しました。

なお、こんなエピソードが残されています。金栗は、1967年3月、スウェーデンのオリンピック委員会から、ストックホルムオリンピック開催55周年を記念する式典に招待されました。ストックホルムオリンピックでは「金栗は、競技中に失踪し行方不明」として扱われていました。招待を受けた金栗はストックホルムへ赴き、競技場をゆっくりと走って、場内に用意されたゴールテープを切りました。するとこの時、「日本の金栗、ただいまゴールイン。タイム、54年と8ヶ月6日5時間32分20秒3、これをもって第5回ストックホルムオリンピック大会の全日程を終了します」とアナウンスされたのです。金栗はゴール後のスピーチで「長い道のりでした。この間に孫が5人できました」とコメントしたと伝えられています。


「11月13日にあった主なできごと」

1523年 インカ帝国皇帝捕えられる…15世紀から16世紀にかけてペルー南部に栄えたインカ帝国は、クスコを中心に石造建築や織物、金銀細工など優れた文明を築きましたが、この日スペインのピサロは、帝国のアタワルバ皇帝をだまして捕えました。翌年インカ帝国は滅亡、スペインは南アメリカ大陸の大半を長い年月支配することになりました。

1614年 高山右近国外追放…織田信長、豊臣秀吉、徳川家康につかえた高山右近は、築城術もたけ茶道にも長じたキリシタン大名でしたが、禁止されたキリスト教を捨てなかったためにこの日国外追放、40日後にマニラで亡くなりました。

今日11月12日は、毛沢東に次いで、第2代中華人民共和国主席を務めたものの、文化大革命の中で失脚した劉少奇(りゅう しょうき)が、1969年に亡くなった日です。

1898年、湖南省寧郷に生まれた劉少奇は、省都である長沙の中学をへて、1920年に省の中国社会主義青年団に入団、翌1921年にソ連に入国し、モスクワの東方勤労者共産大学で学びながら、中国共産党に入党しました。1922年に帰国後は、江西省の炭鉱ストライキや上海5.30事件で40万労働者のストライキを指導するなど数々の労働運動活動が評価され、1927年に党の中央委員に選出されました。

国共分裂後は、国民党支配地域(白区)を中心に地下工作活動に従事し、1936年から党の北方局書記となり、華北地区での抗日運動を指導します。さらに新四軍の政治委員となり、軍の再建と華中地区の拡大に務めながら、党員の規律や指導についての書『共産党員の修養を論ず』を著し、理論的指導書として広く党内で読まれました。

1943年、延安にもどって党中央書記に就任すると、整風運動に従事し、1945年4月から6月にかけて開催された第7回全国代表大会(党大会)では毛沢東に次いで中央委員に当選、「党規約の改正についての報告」を発表してこの中に「毛沢東思想」という言葉を初めて公式の文書に使用しました。

中国国民党との国共内戦を経て、1949年に「中華人民共和国」が建国されると、中央人民政府副主席や人民革命軍事委員会副主席、全国人民代表大会常務委員会委員長を歴任しました。さらに、1956年9月、第8回党大会で政治報告を担当し、続く第8期1中全会で中央政治局常務委員に選出され、中央委員会副主席の筆頭に位置づけられました。1958年頃から毛沢東主導で実施された大躍進政策が、この国を襲った農業危機、食糧危機のなかで、2000万人もの餓死者が出るなど失敗に終わると、劉は毛沢東に代わって国家主席に就任し、毛沢東批判派の頂点に立ちました。

こうして劉は、�ケ小平党総書記とともに民主主義を発揚しようと呼びかけ、調整政策を実施して経済の行きづまりを切りぬけました。党内への影響力を失っていった毛沢東が、文化大革命を決意したのはこのころからでした。そして1966年に、大革命が始まった8月の第8期11中全会で、「資本主義の道を歩む党内最大の実権派」とされ、党内序列第8位に格下げされたばかりか、「中国のフルシチョフ」と夫人とともに紅衛兵につるし上げられ、1968年10月の第8期12中全会では永久除名処分をうけ、1年後に失意のうちに亡くなりました。

この文化大革命中に、「劉�ケ」路線と呼ばれて失脚した�ケ小平でしたが、毛沢東が死去し、四人組が打倒されて政権の実力者となって復帰すると、劉の名誉回復の機運が高まり、1980年2月、11期第5回中央委総会で正式に名誉回復され、「劉少奇追放は、党史上最大の冤罪事件」とコミュニケが発表されたのでした。


「11月12日にあった主なできごと」

1871年 日本初の女子留学生… 岩倉具視を団長に、伊藤博文、木戸孝允ら欧米巡遊視察団48名がこの日横浜港を出港。そこに59名の留学生も同乗、後に「女子英学塾」(現・津田塾大)を設立する6歳の津田梅子ら5名の女子留学生の姿がありました。
 
1898年 中浜万次郎死去…漂流した漁船にのっていてアメリカ船にすくわれ、アメリカで教育を受け、アメリカ文化の紹介者として活躍した中浜万次郎(ジョン万次郎)が亡くなりました。
 
1948年 極東軍事裁判判決…太平洋戦争敗戦後、GHQ(連合軍総司令部)による占領政治が開始されると、満州事変以来の政府と軍部指導者の戦争責任をさばく極東軍事裁判(東京裁判)が1946年から31か月にわたっておこなわれました。この日に最終判決が下され、東条英機ら7名に死刑、被告25名全員が有罪とされました。

今日11月11日は、パレスチナゲリラの指導者で、PLO(パレスチナ解放機構)執行委員会議長、パレスチナ自治政府の初代大統領になったアラファトが、2004年に亡くなった日です。

1929年、アラブ系スン二派ムスリムの名門フセイニー家に属する裕福な織物業者の5番目の子として生まれたヤ―セル・アラファトは、カイロとエルサレムで少年時代をすごした後、カイロ大学で工学を学びました。学生時代にパレスチナ学生連合の議長として、パレスチナ解放運動にかかわりました。

1956年にスエズ危機が起こるとエジプト軍に入り、「第二次中東戦争」に工兵大尉として従軍。戦後はクウェートで技師として働きながらパレスチナ解放運動を続け、後のPLO主流派となるファタハを結成しました。アラファトは、ファタハをパレスチナ解放運動の主流勢力に成長させ、1966年にはヨルダンの拠点からイスラエルを攻撃する「第三次中東戦争」の引き金となる事件を起こしましたが、イスラエルの猛反撃に、エジプトを中心とするアラブ連合は、敗北してしまいました。

アラファトがいちやく有名になったのは、1968年の「カメラの戦い」からでした。ファタハによるイスラエル占領地へのゲリラ攻撃に対し、イスラエルはヨルダン川東岸の町カメラにいるファタハを壊滅しようと猛攻を加えたのに、アラファト指揮するファタハはこれに耐えぬき、やがてヨルダン軍も支援したことで、ついに最新鋭装備を誇るイスラエル軍を撃退しました。この勝利に、エジプトのナセル大統領は、パレスチナ問題のすべてをアラファトに任せる決意をし、1969年2月パレスティナ民族評議会は、PLO執行委員会議長にアラファトを選出しました。

アラファト指導下のPLOは、パレスチナ難民が多く居住するヨルダンに拠点を作って、イスラエルに対する越境攻撃を行い、イスラエル軍の反撃を撃退。アラファトはいっきにアラブ・パレスチナの英雄「ミスター・パレスティナ革命」といわれるようになりました。ところが、勢力を拡大したPLOはヨルダンにおける「国家内国家」となってしまい、ヨルダン政府と利害を衝突させるようになってしまいました。

翌1970年、PLOによるテロがヨルダンを巻きこむようになると、パレスチナ難民の不安定化によるヨルダン情勢の悪化を恐れるフセイン国王は、9月に戒厳令を敷いて国王親衛隊のアラブ遊牧民の「ベドウィン部隊」を投入してPLOを攻撃しました(ブラック・セプテンバー)。

ヨルダンから追放されたアラファトは、今度はレバノンに移って1970年代を通じてイスラエルに対する武装闘争を続けました。さまざまな経過後の1988年7月、ヨルダンのフセイン国王は、パレスチナの領有権を破棄し、1988年11月にアラファトはパレスチナ国家を建国するとしてパレスチナの独立宣言を発表、初代大統領に就任してイスラム世界や非同盟諸国と共産圏を中心に国家承認を得ました。しかし、1990年の湾岸戦争では親交のあったイラクのフセインを支持したため、湾岸産油国からの支援を打ち切られて苦境に陥りました。

その後、イスラエルとの対話路線をうたう穏健派の指導者として復活を図り、1993年和平(オスロ合意)を成立させてイスラエルのラビン首相と会見、翌1994年、和平協定に基づいてパレスチナ自治政府が設立されると、1996年1月の選挙でその長官(初代大統領)に選出されました。1994年には、この政治決断に対してノーベル平和賞が贈られています。

しかし、その後イスラエルとの和平プロセスはラビンの暗殺がきっかけでいくども危機を迎え、パレスチナ人による自爆攻撃とイスラエルの攻撃が相次ぎ、ガザ地区やヨルダン川西岸の状況は悪化しました。やがて、アラファトの人気は低下し、ヨルダン川西岸のラマラにある大統領府は2001年から長らくイスラエル軍による包囲・軟禁状態に置かれ、その間に健康が悪化し死去したのでした。


「11月11日にあった主なできごと」

1620年 メイフラワーの誓い…2か月前にイギリスのプリマス港を出航したメイフラワー号は、この日北アメリカのケープコッドに到着。ピルグリム・ファーザーズと呼ばれる移民たちは船上で、自治の精神に基づき自由で平等な理想的な社会を建設することをめざす誓いをかわしました。こうして、1620年から1691年までの北アメリカにおけるイギリス植民地のさきがけとなるとともに、その精神はアメリカ民主主義の基となりました。

1881年 ドストエフスキー死去…『罪と罰』『カラマーゾフの兄弟』などを著し、トルストイやチェーホフとともに19世紀後半のロシア文学を代表する文豪ドストエフスキーが亡くなりました。

1918年 第1次世界大戦終結…前年、アメリカ合衆国の参戦により決定的に不利となったドイツは、この日休戦条約に調印。第1次世界大戦が終結しました。

1952年 ヘディン死去…87年の生涯を中央アジア探検にそそいだ、スウェーデンの探検家ヘディンが亡くなりました。

今日11月10日は、第二次世界大戦後の米国を描き、「ノンフィクション小説の革新者」といわれ、半世紀以上も刺激を与え続けたアメリカの作家メイラーが、2007年に亡くなった日です。

1923年、ニュージャージー州ロング・ブランチで生まれたノーマン・メイラーは、ニューヨークのブルックリンですごした少年時代から秀才の誉れ高く、1939年に16歳でハーバード大学工学部に入学しました。小説に興味を持ちはじめて積極的にアメリカ文学のありかたを研究し、18歳の時に最初の作品を公表しました。

在学中の1941年12月8日、真珠湾攻撃により太平洋戦争がはじまると、この戦争がアメリカの歴史的な流れに反する行動ととらえ、1943年に大学を卒業すると、1944年に陸軍第112騎兵連隊に入隊、フィリピンのレイテ島およびルソン島の戦いに従軍します。そして、「生き残るのが奇跡」といわれた戦場から1945年8月の終戦とともに帰国を果たすと、同年9月からは進駐軍の一員として千葉県の館山に上陸、翌1946年5月まで銚子や福島県の小名浜(現いわき市)に駐屯しました。

帰国後は、レイテ・ルソン島の戦いをもとに1年半をかけて執筆した戦記小説『裸者と死者』(日本軍が占領する太平洋の孤島で戦い死んでゆく米軍の小隊を描く)を、1948年5月に発表しました。「誰も眠ることができなかった……」ではじまるこの作品は、メイラーが第112騎兵連隊に所属していたときの体験に基づくもので、わずか一夜で文学界の寵児となり、ニューヨークタイムズ紙のベストセラー1位に輝きます。やがて第二次世界大戦を描いた最良のアメリカ小説の一つとして評価され、国際的にも評判となって、1958年には同名タイトルで映画化され、世界的にヒットしました。

やがてメイラーは、レッドパージに屈し真の芸術とは何かを探究する青年を描く『鹿の園』、アメリカ文明の送信するメッセージから逃れきれない若者を描いた『なぜぼくらはベトナムへ行くのか』などで、1960年代のシンボルとなり、ピュリッツァー賞を受けた『死刑執行人の歌』や『夜の軍隊』など、話題作を次々に発表しました。

やがて、古代・現代・未来を扱った野心的な3部作を執筆すると宣言し、1983年にその第一部『古代の夕べ』(紀元前1200年ごろのエジプト宮廷を舞台に、4回も生を受けた一高官の野心と挫折を描く奇想天外の物語)、第二部にはミステリー仕立ての小説『タフ・ガイは踊らない』を発表すると、1987年に自ら映画化、役者を演じたりしてヒットさせました。

政治、ウーマンリブ、ボクシングなど、時代と性急にかかわるメイラーは、ときに「売名の猟犬」などといわれながらも、文壇の大御所として、その発言が注目されつづけた特異な作家でした。


「11月10日にあった主なできごと」

1619年 デカルトの決意…近代西洋哲学のもとを築き、哲学の父とよばれて歴史に名をのこしたデカルトが、「コギト・エルゴ・スム」(われ思う、ゆえにわれあり)という独自の哲学の基本を決意した日です。

1871年 スタンリーがリビングストンを発見…アメリカの新聞記者スタンリーは、行方不明になっていた探検家リビングストンを追い、アフリカ奥地で236日ぶりに発見しました。

1873年 内務省の設置…明治政府の実質上の中枢である内務省が設置され、大久保利通が初代内務卿に就任。警察、地方行政など対民衆行政のすべてを掌握することになりました。

1928年 昭和天皇即位…京都御所で、昭和天皇の即位式が行なわれました。27歳で即位した天皇は、60年以上の在位期間に、太平洋戦争敗戦、玉音放送、人間宣言など、激動の時代を歩むことになりました。

今日11月9日は、イギリスの2大政党のひとつを形成する「労働党」を育て上げ、初の労働党出身の首相となったマクドナルドが、1937年に亡くなった日です。

1866年、スコットランド地方マルシウムの貧しい農家に生まれたラムゼイ・マクドナルドは、18歳のときロンドンへ出ると、教師やジャーナリストなど職を転々とするうち社会主義への関心を深めました。1886年、社会改革をおだやかにめざす社会主義団体「フェビアン協会」に入り、1894年には鉱山労働者出身の政治家ケア・ハーディのつくった独立労働党に入党しました。

1900年、労働者代表委員会が結成されると、34歳の若さで書記長に選ばれ、1906年の選挙で下院議員になり、労働代表委員会を「労働党」と改称しました。労働者の保障や産業国有化などを主張し、議会・選挙・法を通じて穏健的に改革を達成させることをめざします。そんな姿勢が国民に好意的に受け入れられ、1911年には下院で29議席を獲得、マクドナルドは労働党党首になりました。

1914年に第一次世界大戦が勃発してイギリスは参戦するものの、マクドナルドは戦争反対の態度を貫き通したため、売国奴とののしられて党首を辞任、1918年の選挙では落選して議席を失いました。しかし、大戦中のイギリスが、アメリカからの多額の戦債を抱えたために不況となって失業者を大量に生んだこともあり、1922年にマクドナルドは下院に復帰、ふたたび党首に選ばれました。

労働党は、1924年の選挙で第2党に進出し、自由党との連立ながら、マクドナルドを首相とする初の労働党内閣が誕生しました(第1次マクドナルド内閣)。ところが、反ソ・反共の熱が高まり、ソ連を承認した労働党は大打撃を受けて、わずか9か月の短命に終わってしまいました。

1929年の総選挙で、第1党に躍り出た労働党は、労働党の単独政権である第2次マクドナルド内閣を誕生させると、1930年の「ロンドン軍縮会議」で、補助艦保有比率を英国・米国・日本の比率を10:10:7とする条約締結を成功させ、インド独立運動の指導者と会議を開くなど、前進的成果をあげました。しかし前年10月におこったアメリカ発の世界経済恐慌の波がイギリスにも迫り、不景気に対する政策が、自ら育てた労働党から非難され、1931年に総辞職に追いこまれてしまいました。

マクドナルドは、国王ジョージ5世の要請を取りつけて、恐慌による経済危機から脱出するため、彼を支持するマクドナルド派と、保守党、自由党とともにマクドナルド挙国一致内閣を誕生させました。労働党はマクドナルドを裏切り者と呼び、ついに彼を党除名処分としましたが、1931年10月の総選挙では、マクドナルド側が615の議席のうち554議席を獲得したのに対し、労働党はわずか52名の少数政党に転落してしまいました。

その後マクドナルドは、1935年6月、病気のため首相を保守党のボールドウィンにあとを譲って引退しました。


「11月9日にあった主なできごと」

1872年 太陽暦の採用…明治政府は、西欧の国ぐにならって太陽暦を採用しました。具体的には、明治5年12月3日を明治6年1月1日とすることで、太陽暦(新暦)に切りかわりました。これまでの日本の暦は、月の満ち干の周期をもとにした太陰暦(旧暦)が使われていました。

1876年 野口英世誕生…黄熱病・梅毒・狂犬病・蛇毒などの細菌の研究に、大きな成果をあげた野口英世が生まれました。

1970年 ド・ゴール死去…フランス建国史上最も偉大な指導者のひとりと評価されている政治家ド・ゴールが亡くなりました。

1989年 ベルリンの壁崩壊…第2次世界大戦に敗れたドイツの首都だったベルリンは、ソ連を中心とする社会主義国が管理する「東ベルリン」と、アメリカ、イギリス、フランスの資本主義国が管理する「西ベルリン」に分断されました。さらに1949年には、ドイツという国も社会主義国の「東ドイツ」と、資本主義国の「西ドイツ」の2つに分かれてしまいました。1961年8月に作られた壁のために、行き来のできなくなった東西ベルリンでしたが、この日東ドイツ政府は通行を認めると発表。東西ドイツをへだてる象徴だった「ベルリンの壁」の崩壊がはじまりました。こうして、翌1990年10月3日にドイツは統一されました。

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