児童英語・図書出版社 創業者のこだわりブログ

30歳で独立、31歳で出版社(いずみ書房)を創業。 取次店⇒書店という既成の流通に頼ることなく独自の販売手法を確立。 ユニークな編集ノウハウと教育理念を、そして今を綴る。

2015年11月

今日11月30日は、大正デモクラシーの最先頭に立って言論活動を行い、戦後は国際的平和運動に身をささげた政治学者・社会運動家の大山郁夫(おおやま いくお)が、1955年に亡くなった日です。

1880年、今の兵庫県相生市の福本家に生まれた郁夫は、17歳の時に養子縁組により大山姓となりました。東京専門学校に入学すると、在学中に早稲田大学政治経済学部に改組され、1905年に同学部を首席で卒業しました。1906年に同大学の講師となり、1910年よりアメリカとドイツに留学して1914年に帰国すると、早大の政治学教授に就任し、国家主義的デモクラシー論を携えて論壇にも登場しました。

ところが、1917年の早稲田騒動により同僚教授の解雇に反対して大学を辞すと、大阪朝日新聞社に入社して、鳥居素川編集局長のもとに長谷川如是閑とともに、大正デモクラシーの最先頭に立って言論活動を行いました。翌年、当時の寺内正毅内閣のシベリア出兵や米騒動への対処に激しい攻撃を加えたところ、弾圧の機会をねらっていた内閣は、報道記事の中にあった〈白虹日を貫けり〉という一句を問題視し、新聞紙法の「朝憲紊乱」に当たると同紙を発行禁止にもち込もうとしたことで、大山は、如是閑ら論説委員たちと辞職しました(白虹筆禍事件)。1919年に大山は、如是閑らと雑誌「我等」を創刊し、民主主義思想を広めることにつとめました。

1920年に早大に復職すると、このころから社会主義に接近し、知識人の無産運動への参加協力の必要を唱えるようになり、1923年に軍事研究団反対運動への参加を契機に、早大内で学生たちと大学の自由と自治擁護運動の中心となってたたかいました。

1926年には、結成されたばかりの「労働農民党」の中央執行委員長に就任し、「輝ける委員長」として、多くの労働者や農民から慕われ、無産政党運動の先頭にたちました。1929年、暗殺された山本宣治追悼演説で「われらの行くところは戦場であり墓場である」の文句は有名です。

1929年11月に、新労農党を結成して翌年衆議院議員に当選しましたが、労農党は内部からの解消運動によって他党との合同を余儀なくされ、1931年に満州事変がおこると軍部の力が強まり、大山は政治的に孤立し、弾圧をのがれるために1932年に渡米、ノースウェスタン大学政治学嘱託として亡命生活を送りました。

1947年、16年ぶりに帰国した大山は、「国の内外の反動勢力と闘わなくてはならない」と宣言、早大に復帰して国際的平和運動に身をささげました。1950年には参議院議員に選ばれ、1951年にスターリン国際平和賞を受賞し、議員在職中に亡くなりました。


「11月30日にあった主なできごと」

1667年 スウィフト誕生… 『ガリバー旅行記』 などを著したイギリスの風刺作家スウィフトが生まれました。

1835年 マーク・トウェーン誕生…少年文学『トムソーヤの冒険』『ハックルベリーフィンの冒険』や『王子と乞食』など、ユーモアのなかにするどい社会風刺をもりこんだ数々の作品を著したアメリカの作家マーク・トウェーンが生まれました。

1874年 チャーチル誕生…第2次世界大戦の際、イギリス首相として連合国を勝利に導くのに大きな力を発揮したチャーチルが生まれました。

今日11月27日は、現在もっともよく使われている摂氏温度計(セ氏・ºC記号)を提唱したスウェーデンの天文学者のセルシウスが、1701年に生まれた日です。

スウェーデン中東部のウプサラに生まれたアンデルス・セルシウスは、ウプサラ大学天文学教授だった父から学んだ後、ウプサラ大学で数学・天文学・実験物理学を学び、1725年にウプサラ科学協会の書記を務めました。1730年には、父と同じウプサラ大学天文学教授となり、1744年までを務め、その間1732年から1735年までドイツ、イタリア、フランスの有名な天文台を訪ねる旅行をしています。

また、当時ニュートンが予想した地球の形状(扁球説)が、カッシーニの測量結果(長球説)と一致せず論争が続いていた問題に関して、より正確な子午線の測定が求められていました。1736年、セルシウスがパリ滞在中、モーぺルチュイと知り合い、子午線弧長の測量のためフランス王立科学アカデミーが組織したフランス探検隊に天文学者として加わり、ラップランドで行われた子午線1度の長さの実測によって、扁球説が正しいことを実証しています。

1741年、セルシウスはウプサラ天文台の創立者の1人として天文台長に就任すると、翌1742年にはスウェーデン王立科学アカデミーに投稿した論文の中で、世界最初の実用的温度計を提唱しました。これは100分目盛りの温度計であり、現在最もよく使われているセルシウス温度計の基となりました。ただし、セルシウスの提案は、水の沸点を0度、氷点を100度とするもので、現在のセルシウス温度とは逆の目盛りとするものでした。(植物学者のリンネによって氷点を0度、沸点を100度の目盛とされ、1743年ごろフランスの医師クリスタンが温度計を考案)。

ところが、その2年後の1744年、セルシウスは結核により亡くなりましたが、セルシウスの名は、摂氏温度計の名とºC記号に残り、月のセルシウス・クレーターとしても残っています。著書には、『地球形状の関する観測』、1716年から1732年まで316回ものオーロラ観測結果を収集した『オーロラの観測』があります。


「11月27日にあった主なできごと」

1095年 十字軍の提唱…ローマ教皇ウルバヌス2世は、この日フランス中部クレルモンの宗教会議で、聖地エルサレムをイスラム教徒から奪回するために、聖なる戦いを勧告。これにより、胸に十字の標識をつけた兵士・キリスト教徒が聖地にむけて出発する「十字軍時代」が始まりました。

1769年 賀茂真淵死去…江戸時代中期に活躍した国学者で、本居宣長へ大きな影響を与えた賀茂真淵が亡くなりました。

1894年 松下幸之助誕生…パナソニック(旧松下電器産業)を一代で築き上げた日本屈指の経営者であるとともに、PHP研究所を設立して倫理教育に乗りだ出す一方、松下政経塾を立ち上げて政治家の育成にも意を注いだ松下幸之助が生まれました。

1958年 皇太子婚約発表…皇太子明仁親王(現天皇)と正田美智子さん(現皇后)の婚約がこの日に発表され、美智子さんが民間から出た最初の皇太子妃となることで日本中がわきたち、ミッチーブームがおこりました。

今日11月26日は、唐朝第3代皇帝高宗の寵愛を受けて高宗の皇后となり、その死後に「周」を興して皇帝となり、15年にわたって中国全土を支配した則天武后(そくてんぶこう)が、705年に亡くなった日です。

624年または630年に、山西省の大材木商で唐朝の創業に貢献して栄進した武氏の娘として生まれた、のちの則天武后(本名・照)は、14歳のとき、その才知と美貌により、唐の第2代皇帝太宗の私生活の場である後宮に入りました。649年に帝が亡くなると尼となっていましたが、その美しさと激しい気性が、唐朝第3代皇帝高宗に気に入られて高宗の後宮に入りました。そして、皇后の王氏や反対勢力を押し切って高宗の寵愛を得ると、655年に、自ら皇后となりました。

その後、高宗が病気がちであることを利用して政治に口をはさみ、文芸や事務能力に長じた新興官僚を巧みに登用して操縦し、貴族層を排斥しました。やがて高宗が病に伏すと、自ら政務を行い、武氏一族による独裁権力をふるうようになります。そして、683年に高宗が病没すると、実子の中宗、弟の睿宗を次々と帝位につけ、彼女に反抗して挙兵した李敬業や唐の皇族らを武力で打倒して殺したり左遷して武氏の天下を宣伝し、690年、国号を「周」(中国では「武周」)と改め、自ら皇帝「則天武后」を名乗り、中国史上唯一の女帝となって約15年間、中国全土を支配しました。

理想の世とされていた古代の周王朝(BC11世紀~399年)の政治に従って暦法、官名などを改正したり、則天文字という新字を使わせるなど、政治、社会、文化の各方面にわたり新機運をもたらした点は、評価されるものの、やがて政治が乱れ、これに反対する勢力が705年に、中宗をふたたび帝位につけたことで退位し、まもなく亡くなったのでした。

なお、林語堂の小説や郭沫若の戯曲など、則天武后をテーマにした作品も多く、その女傑ぶりはいまなお語りぐさとなっています。また、則天武后の名称は自らの遺言によるもので、中国では「武則天」と呼ぶのが一般的です。


「11月26日にあった主なできごと」

1086年 院政のはじまり…白河天皇がわずか8歳のわが子に、堀川天皇として位を譲りました。上皇となった白河天皇は、幼い天皇の後見役として政治の実権を握り続けました。上皇のいるところが「院」と呼ばれ、そこで政治が行なわれたために「院政」とよばれます。

1906年 満鉄設立…日露戦争に勝利した日本は、ロシアが建設した東清鉄道を譲り受け、南満州鉄道(満鉄)として経営することになりました。満鉄は、鉄道事業を中心に広範囲にわたる事業を展開、日本の満州(中国東北部)進出の中核となりました。

1911年 小村寿太郎死去…日英同盟、日韓併合の立役者であり、日露戦争が終結したポーツマス講和会議の全権大使を務めた外交官の小村寿太郎が亡くなりました。

1952年 ヘディン死去…87年の生涯を中央アジアの探検にそそぎ、砂にうずもれた楼蘭の町や、インダス川の水源や、ヒマラヤ山脈の北にあるもう1つの山脈トランスヒマラヤなどを探りあてたスウェーデンのヘディンが亡くなりました。

今日11月25日は、第3代国際連合事務総長として、キューバ危機、コンゴやキプロス紛争、ベトナム停戦などの解決に取り組み、以後の国連の役割・あり方・運営に大きな道筋をつくりあげたビルマのウ・タントが、1974年に亡くなった日です。

1909年、イギリス領ビルマ(現ミャンマー)のパンタナウに熱心な仏教徒の子として生まれたウ・タントは、地元の高校を経てラングーン大学(現ヤンゴン大学)で歴史学を専攻し、卒業後、パンタナウの高校で教鞭をとり、25歳の若さで校長に就任しています。そのころ、のちにビルマ首相となるウー・ヌーと親交を結ぶかたわら、フリー・ジャーナリストとなり、新聞・雑誌への寄稿をしたり、数冊の翻訳本を手がけたりしました。

第二次世界大戦後、ウー・ヌーとアウン・サンの要請で、反ファシスト人民自由連盟の活動に参加、報道担当官として活躍。1948年にビルマ独立後は、情報省次官、総理府計画局長・同官房長などを歴任しながら、ウー・ヌー首相の訪問外交に側近として随行しました。

1957年、優れた外交感覚を買われてビルマ国連代表となったウ・タントは、1959年国連総会副議長を経て、1961年ハマーショルド事務総長の事故死に伴い暫定事務総長に推されると、キューバ危機に対し出身国ビルマの非同盟路線を武器に温厚な人柄で平和的に解決したことで、翌1962年11月、全会一致で正式に事務総長に選任されました。

1963年には西イリアン問題を解決して1966年に再任され、1971年の中国国連代表権問題の解決に至る任期満了まで、コンゴおよびキプロス紛争、ベトナム停戦など東西緊張緩和、「国連開発の10年」など南北格差是正、国連軍の経費分担問題などの解決に取り組み、その後の国連の役割やあり方に関し、大きな功績を残しました。

なお、ビルマ人は一般的に姓を持たず、「ウ」や「ウー」は男性の敬称です。


「11月25日にあった主なできごと」

1890年 第一回帝国議会…明治憲法発布翌年のこの日、帝国議会が開かれました。議会は、貴族院と衆議院の2院からなり、貴族院議員は皇族・華族、多額納税者などから選ばれ、衆議院議員は、25歳以上の男子で国税15円以上を納める人に限定されていました。
 
1892年 オリンピック復活の提唱…フランスのクーベルタン男爵は、アテネで古代競技場が発掘されたことに刺激され、スポーツによる世界平和を築こうとオリンピック復活の提言を発表、オリンピック委員会が作られ、4年後に実現しました。

1970年 三島由紀夫割腹自殺…『仮面の告白』『金閣寺』『潮騒』など、ちみつな構成と華麗な文体で人気のあった作家の三島由紀夫が、アメリカに従属する日本を憂えて自衛隊の決起をうながすも受け入れられず、割腹自殺をとげました。

今日11月24日は、「朝日新聞」を日本を代表する世界的な大新聞に発展させた村山龍平(むらやま りょうへい)が、1933年に亡くなった日です。

1850年、伊勢国田丸(現・三重県玉城町)に紀州藩士の子に生まれた村山龍平は、幕末激動期の1867年から田丸城に務めましたが、1871年に一家とともに大阪に移住すると、父と西洋雑貨商を営みました。1878年に大阪商法会議所の議員に選ばれ、1879年に同業者の木村平八・騰(のぼる)父子が「大阪朝日新聞」を創刊すると、これを支援しました。

1881年に木村父子の要請により、上野理一と共同出資して実質的な社主となって新聞事業に専念すると、上野とともに大衆向けの小新聞だった「大阪朝日新聞」を、関西中心ながら中新聞に育てあげました。さらに1888年には「めざまし新聞」を買収し「東京朝日新聞」を創刊して東京に進出、1908年には、東西の両新聞を合併させると、1年ごとに上野と社長を交代し、海外に特派員を派遣したり海外通信網の確立強化に先鞭をつけました。印刷面でも新しい機械を率先して導入、大量生産を可能にし、各界の有能な人物を抜擢して登用するなど、つねに積極政策をとりました。やがて「朝日新聞」は、「毎日新聞」とともに日本を代表する世界的な大新聞としての地位を確立しました。

その間村山は、1891年に第1回衆議院議員総選挙補欠選挙で衆議院議員に初当選後、第2回、第3回にも当選して衆議院議員を通算3期務めた他、大阪府会議員、大阪市会議員などを歴任し、1930年には貴族院勅選議員となりました。また、日本美術収集家、茶人としても知られています。

なお、朝日新聞社長時代の1915年、全国中等学校優勝野球大会(現・全国高等学校野球選手権大会)の創設を決断、第1回大会では羽織袴姿で開会式の始球式をつとめました。その功績により、誕生100周年でもある2015年の今年、野球殿堂特別表彰者に選出されました。


「11月24日にあった主なできごと」

1940年 西園寺公望死去…自由主義思想を支持し、2度総理大臣になるなど、明治・大正・昭和の3代にわたり活躍、最後の元老政治家といわれた西園寺公望が亡くなりました。

1944年 東京初空襲…アメリカ軍の爆撃飛行機B29が、東京へ初めて爆撃を敢行しました。航空機を製造する中島飛行機武蔵野工場が主な攻撃目標でしたが、やがて無差別爆撃へ戦術を変え、翌年3月10日には東京の下町を火の海にする大空襲を行いました。

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