児童英語・図書出版社 創業者のこだわりブログ

30歳で独立、31歳で出版社(いずみ書房)を創業。 取次店⇒書店という既成の流通に頼ることなく独自の販売手法を確立。 ユニークな編集ノウハウと教育理念を、そして今を綴る。

2015年10月

今日10月8日は、チャーチルの保守党を破り、労働党内閣の首相として第2次世界大戦後のイギリスを「福祉国家」に導いたアトリーが、1967年に亡くなった日です。

1883年、ロンドンの裕福な家に生まれたクレメント・アトリーは、オックスフォード大学卒業後に弁護士となり、ロンドンのイースト・エンドにあるスラム街を訪れ、セツルメントに関わったことが労働党入党のきっかけになりました。やがて、労働者クラブの理事となってスラム街に住みつき、貧しい人たちのために献身的に働きました。

第一次世界大戦では、ガリポリで負傷し、除隊後は政界に転じました。1919年に労働党出身者初の首長としてステップニーの市長となった後、1922年の総選挙にイースト・エンドから立候補して下院議員となり、引退まで連続当選をはたしています。

1924年に初めて労働党出身の首相としてマクドナルドが内閣を組織すると、陸軍次官や逓信相を務め、1935年には労働党党首に選出されました。第二次世界大戦中は、保守党のチャーチルと挙国一致連立内閣にくわわり、副首相として入閣すると、1945年5月の連立解消まで務めあげました。

ヨーロッパ戦線終結後初となる1945年7月の総選挙では、チャーチルの保守党193議席に対し、アトリーの労働党は381議席と圧勝、チャーチルはポツダム会談に参加中でしたが、7月25日のポツダム宣言発表後にただちに帰国、翌26日に内閣総辞職しました。労働党の勝利後、チャーチルが次期首相にアトリーを推していたことから、アトリーはバッキンガム宮殿を訪れ、国王ジョージ6世から組閣の命を拝すと、直ちにイギリス全権としてポツダム会談に参加しています。

1945~51年の首相在任中のアトリーは、、第二次世界大戦で疲弊したイギリスの戦後復興を推進、ジョージ6世の反対を押し切って、労働党の公約だった石炭、電気、ガスなどの基幹産業の国有化、「ゆりかごから墓場まで」と呼ばれる社会保障制度の確立を行い、社会主義政策を次々と実現していきました。外交面では、アジアにおける長年のイギリスの植民地であったインド、パキスタン、セイロン(現スリランカ)、ビルマ(現ミャンマー)の独立を承認し、大英帝国の清算に手を貸しました。しかし、1947年の寒波で国内は大きな打撃を受け、さらに戦後復興のためにアメリカ合衆国が示したマーシャル・プランを受け入れるなど、国際経済における主導権は失われました。

また、インド、パキスタンでは宗教問題から分離独立となり、委任統治領だったパレスチナではユダヤ人とアラブ人の対立に対処しきれず、その解決を国際連合に委ねるなど、過去における植民地支配、分割統治のつめ跡を残す結果となりました。

さらに1951年4月、再軍備予算増額のため、福祉予算が削られると、労働相が若手閣僚とともに辞任したことで、党内対立をまとめきれず、同年10月に行われた総選挙でチャーチルから代わったイーデン率いる保守党に敗北、12月に党首を辞任、1955年には労働党の党首も退きましたが、エリザベス女王より伯爵(初代アトリー伯)の爵位を授かり、以後は貴族院議員となりました。


「10月8日にあった主なできごと」

1856年 アロー号事件…中国の広州湾外で、清の役人がイギリス船アロー号を立ち入り検査し、船員12名を海賊容疑で逮捕しました。イギリスは清に厳重に抗議、宣教師を殺害されたとするフランスと連合して、1857年から1860年にかけて、清と英仏連合軍とが戦う「アロー戦争」となりました。最終的に北京条約で終結、清の半植民地化が決定的なものとなりました。

1871年 安藤信正死去…幕末期に、暗殺された井伊直弼のあとを受けて幕政を主導し、皇女和宮の降嫁を実現させるなど、幕府の権威失墜防止につとめた安藤信正が亡くなりました。

今日10月7日は、満州事変後の軍部の政治介入、軍部におもねる政治家を徹底批判するなど、立憲政治家として軍部に抵抗した斎藤隆夫(さいとう たかお)が、1949年に亡くなった日です。

1870年、今の兵庫県豊岡市の農家に生まれた斎藤隆夫は、地元の小学校を卒業後、京都の中学に入るものの学生生活にいやけが生じ、郷里にもどって農作業を手伝いながら独学しました。やがて21歳の冬、東京まで徒歩で上京し、徳島県知事の書生をしながら、1891年に東京専門学校(早稲田大学の前身)行政科に入学、1894年に首席で卒業しました。1895年に弁護士試験に合格すると、渡米してエール大学大学院で公法や政治学を学び、帰国後は弁護士を開業しました。

1912年、郷里から衆議院選挙に立憲国民党より出馬して初当選をはたすと、以後、1949年まで衆議院議員13回の当選を果たしました。立憲同志会、憲政会、立憲民政党に属して、普通選挙法導入前には衆議院本会議で「普通選挙賛成演説」を行ったり、浜口雄幸内閣では内務政務次官、第2次若槻礼次郎内閣では法制局長官、斎藤実内閣では再び内務政務次官を務めました。

斎藤は背が低かったため、「ネズミの殿様」とあだ名されながらも、硬骨な自由主義者として、巧みで説得力のある演説には定評がありました。特に1936年5月の「二・二六事件」(陸軍の青年将校がおこしたクーデター)後に、議会で軍部があからさまに政治に関わりはじめると、「粛軍演説」を行い、自粛をうながしたことはよく知られています。

また、1940年2月には政府と軍部の日中戦争指導のありかたを批判した「反軍演説」を行い、軍部を怒らせて懲罰に付され、議員を除名されました。しかし、国民からは激励の手紙がたくさん届くほどで、1942年のいわゆる「翼賛選挙」(東条英機内閣による候補者推薦制度による選挙)では、非推薦候補でありながら、兵庫5区から最高点で当選し、議席を回復しています。

太平洋戦争敗戦後は、日本進歩党の結成に務め、さらに民主党、民主自由党に所属し、この間、第1次吉田茂内閣と片山哲内閣の国務大臣となりました。政党人としては、一度も派閥に所属することなく、独自の道を歩んだ信念のある政治家でした。


「10月7日にあった主なできごと」

1674年 狩野探幽死去…江戸幕府代々の御用絵師として、日本画を代表する狩野派の栄える基礎を築いた狩野探幽が亡くなりました。

1949年 ドイツ民主共和国(東ドイツ)成立…西ドイツ成立後1か月もたたないこの日、東ドイツが誕生。ソ連の助けを借りて、社会主義国家として第1歩をふみだしました。なお、41年後の1990年10月3日に両ドイツは統一を回復。アメリカ、イギリス、フランス、ソ連の戦勝4か国は、ドイツに対してもっていたさまざまな権利を放棄して、統一ドイツは完全な主権をもった国家として国際社会に復帰しました。

今日10月6日は、日本初の推理小説作家であり、明治から大正期の新聞記者・経営者として活躍、『巌窟王』『噫無情(ああむじょう)』などを翻案・紹介した黒岩涙香(くろいわ るいこう)が、1920年に亡くなった日です。

1862年、今の高知県安芸市に土佐藩郷士の子として生まれた黒岩涙香(本名・周六)は、藩校文武館で漢籍を学び、1874年に地元の政治家板垣退助らによる自由民権運動に魅かれると、16歳で運動家を志して大阪に出て、中之島専門学校で英語を学び、演説会の花形少年弁士になりました。

翌1879年に上京、成立学舎や慶応義塾に進学するもののいずれも中退して独学に切りかえ、1882年に洋書を種本に『雄弁美辞法』を著しました。翌年「同盟改進新聞」の主幹となり、1884年には「日本たいむす」の主筆となって翻訳出版の会社を興しました。ところが、3年前に執筆した、北海道開拓長官黒田清隆の官有物払下げの攻撃記事が問題化され捕えられてしまいました。横浜の監獄に収監され、道路工事の土運びをさせられるうち、政論にかかわるより、大衆の心にしみとおるジャーナリズムの仕事に携わることを決意します。

1889年涙香は、のちに江戸川乱歩から絶賛される3部構成の『無惨』という推理小説を書きました。3段階の探究方法を駆使して最終的に同一犯人を探し当てるという「論理対経験の対照」を絵解きにした独自の着想でした。その後、「今日新聞」(のちの「都新聞」)に連載した翻案小説『法廷の美人』がヒットして、たちまち翻案小説スターとなり、次々に新作を発表していきました。その方法は、原書を読んでストーリーを解したうえで一から文章を創作するというものでした。こうして、『鉄仮面』(ボアゴベイ作 1892~93年刊)、『巌窟王』(デュマ作 1901~02年刊)、『噫(ああ)無情』(ユゴー作 1902~03年刊)など約100編を次々と流麗な自由訳で伝えた功績は高く評価されています。

特にこの手法を本格化させたのは、1892年に朝報社を設立し、「万朝報(よろずちょうほう)」を創刊してからで、この紙名には「よろず重宝」の意味がこめられた絵入りフリガナ付タブロイド判の日刊新聞でした。日本におけるゴシップ報道の先駆として一世を風靡し、ある時、淡紅色の用紙を用いたため「赤新聞」とも呼ばれ、第三面に扇情的な社会記事を取り上げたことから「三面記事」の語を生んでいます。同紙は、既に述べた『噫無情』など文学作品の他、『相馬家毒殺騒動』(相馬事件)や『淫祠蓮門教会』といったスキャンダラスな出来ごとを他紙よりも長期にわたり、ドラマチックに報道することで部数を伸ばして東京一の発行部数を誇り、最大発行部数は30万部を記録するほどでした。

ところが、スキャンダル報道だけでは、大衆にあきられて売れなくなると、幸徳秋水、内村鑑三、堺利彦らといった進歩的思想家を入社させ、青年学生層を読者として開拓する方針に転じ、「理想団」という談話会を組織して社会改良運動を起こそうとしました。しかし、1904年に起こった日露戦争をめぐり、涙香が開戦論に踏み切ったことから、非戦論の幸徳・内村・堺ら代表的な記者が退社しました。やがて、明治末期には他紙との営業競争に後れをとるようになり、第2次大隈内閣に接近したころから「万朝報」の声望は低下、新聞経営への意欲を失っていったのでした。

なお、オンライン図書館「青空文庫」では、涙香の探偵小説『無惨』など、5編が公開されています。


「10月6日にあった主なできごと」

1866年 孫文誕生…「三民主義」 を唱え、国民党を組織して中国革命を主導し、「国父」 と呼ばれている孫文が生まれました。

1954年 尾崎行雄死去…明治・大正・昭和の3代にわたり、憲法に基づく議会政治を擁護し、清廉な政治家として活躍した尾崎行雄が亡くなりました。

今日10月5日は、3度にわたる中央アジア探検を試み、仏教的アジア主義を提唱した浄土真宗西本願寺第22世法主(ほっす)の大谷光瑞(おおたに こうずい)が、1948年に亡くなった日です。

1876年、第21世大谷光尊の長男として京都に生れた大谷光瑞は、1886年に上京して学習院に入学するものの3年余りで中退、神田の英学校に学ぶもまた中退して京都へもどると、教内外の学者からの個人教授と独学により、広い教養を身につけました。1899年、はじめての海外旅行に中国を訪れ、同年末ヨーロッパ遊学を志しインドの仏跡を巡拝しながらロンドンへ渡って多方面の学芸を学び、帰路は西本願寺の留学生とともに、ヨーロッパ各国の宗教事情の視察を行いました。

一連の旅行の中で光瑞は、清国の衰退とともに中央アジアが、インドから北上するイギリス、西トルキスタンから東進するロシアなど、帝国主義列強の争奪の対象になっていることに気づきました。みずから探検隊を率いて西域に赴くことを決意し、1902年8月、教団活動の一環としてロシアからインドへ渡り、仏蹟の発掘調査に当たりました。1903年1月には、ラージギル郊外で長らく位置が判らなかった釈迦ゆかりの霊鷲山を発見する成果をあげました。

しかし、まもなく父が死去し、法主を継職するため帰国しましたが、探検や調査活動は1904年まで続けられました。これが第1次大谷探検隊で、光瑞はその後も探検を続行させ、1914年まで計3回にわたる探検・発掘調査を実施しました。その結果、昔のシルクロード遺跡、敦煌、トルファン、ローラン、チベットなどからの収集品は数万点にも及びました。

法主としては教団の近代化に努め、1908年には神戸六甲山中腹に豪邸二楽荘を建て、シナ室、インド室、アラビア室などを作って探検収集品の公開展示をしたり、若い人材を育てるためと邸内に英才教育のための武庫中学(今の甲南大理学部)を開設して自ら教壇に立ちました。またこの地に、園芸試験所、測候所、印刷所なども設置しました。

ところが、これらの光瑞の諸事業による膨大な出費により、教団は大正期に入ると数百万円の負債をつくったため反対派が勢いづき、西本願寺内の疑獄事件もからんで、光瑞は財政破たんの責任をとって1914年に西本願寺を去りました。

その後の光瑞は、定住の地を持たず、1916年以降は、南洋、中国、トルコの各地で農園などを経営したり、堂々たる体躯による弁舌さわやかな講演、著述にも優れ、経典や仏教学では専門家の域にたっするもので「大いなる駄々っ子」と評されました。また、昭和初期には、仏教に基づく「大アジア主義」を提唱し、政治・外交面で南進論に立つ独自の「興亜計画」を発表しました。日中戦争の際は、近衛・小磯両内閣の参議や顧問として政治にも参加しています。

なお、大谷探検隊が収集した膨大な資料は、龍谷大学図書館が9000点を所蔵するほか、ソウルや旅順、東京国立博物館などさまざまな場所に所蔵されています。


「10月5日にあった主なできごと」

528年 達磨死去…「七転び八起」のことわざでおなじみのダルマさんのモデルとなった中国禅宗の開祖・達磨が亡くなりました。

1274年 文永の役…元(今の中国)の皇帝フビライは日本を属国にしようと、2万人の軍隊と朝鮮(高麗)軍1万5千人を率いて対馬を占領後、博多に上陸しました。しかし、おりからの嵐にあって朝鮮へ引き上げました。1281年にも再上陸(弘安の役)を企てますが、このときも嵐にあって失敗。この2度にわたる元の襲来を「元寇(げんこう)」とよび、人々はこれを「神風が吹いた」と語りついできました。

1392年 南北朝が合一…北朝と南朝に分かれて対立していた朝廷でしたが、「明徳の和約」によって交互に天皇を出すことを約束、50年にわたる南北朝の争いを終えました。

今日10月2日は、漂着したポルトガル商人から鉄砲を購入し、分解して鉄砲製造に成功した14代島主の種子島時堯(たねがしま ときたか)が、1579年に亡くなった日です。

九州西南端にある種子島の種子島家は、鎌倉時代初期に始まり、第7代島主の頼時の頃から薩摩の島津氏に治められるようになっていました。1528年、種子島家第13代島主種子島恵時(しげとき)の子として生れた種子島時堯は、1543年、大隅半島の豪族禰寝(ねじめ)氏に攻めこまれて父が屋久島に逃れたことがきっかけになって、15歳で家督を継ぎました。

それからわずか5か月後の8月25日、今度はポルトガル商人が乗った明船が種子島に漂着しました。これは、ヨーロッパ人初の来日でした。当時種子島は、中国や沖縄へ渡航する交易船の停泊地となっていたため、種子島の人たちは、沖縄人から、ヨーロッパ人についての知識は持っていました。

好奇心旺盛な若き島主の時堯は、この時、鉄砲の威力を見て2挺を購入すると、その使用法を学んで百発百中の腕前を見せるようになりました。そして、家臣に弾薬の作り方を学ばせ、鍛冶に命じて鉄砲を模造させようとしましたが、銃筒の底をふさぐ方法が会得できませんでした。翌年来航した商船に鉄匠がいたため、鍛冶職人八板金兵衛をこの鉄匠につかせて鉄炮製造に成功すると、1年後には数十挺を所持するまでになりました。

このうわさを聞いた堺の商人の来島にはじまり、紀伊国根来(ねごろ)、近江国国友村などにも伝わり、「種子島」が鉄砲をさすほど全国へ拡がりました。やがて戦国時代の戦術を変え、織田信長、豊臣秀吉の全国統一の力となったことはよく知られています。

その後時堯は、島津忠良の娘をめとり、1555年には島津貴久に従い大隅国攻めに活躍するなど、1558年には左近衛将監に将官しています。そのいっぽう、島津氏と争っていた禰寝氏から姫をひそかに迎えて側室にし、この禰寝氏の娘との間に生まれたのが長男の時次でした。1560年に家督を時次に譲るものの、1562年に早世したため家督にもどっています。


「10月2日にあった主なできごと」

755年 吉備真備死去…奈良時代に輩出した最大の知識人・政治家といわれる吉備真備が亡くなりました。

1943年 学徒出陣公布…太平洋戦争での兵力不足を補うため、また戦局悪化により下級将校の不足も顕著になったため、26歳までは徴兵猶予されていた20歳以上の学生を、在学途中で徴兵し出征させると公布しました。そして、10月と11月に徴兵検査を実施して合格者を12月に入隊させることになりました。

1961年 柏鵬時代の始まり…大相撲の柏戸・大鵬両大関が、この日そろって横綱に昇進。前年までの栃錦と若乃花による「栃若時代」にかわって、大型若手横綱の登場に大相撲は大きな盛り上がりをみせました。

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