児童英語・図書出版社 創業者のこだわりブログ

30歳で独立、31歳で出版社(いずみ書房)を創業。 取次店⇒書店という既成の流通に頼ることなく独自の販売手法を確立。 ユニークな編集ノウハウと教育理念を、そして今を綴る。

2015年10月

今日10月16日は、ロシア帝国の遣日全権使節として、日露和親条約、日露修好通商条約を締結したプチャーチンが、1883年に亡くなった日です。

1803年、ペテルブルク(今のサンクトペテルブルク)に生まれたエフィム・プチャーチンは、1822年に海軍兵学校を卒業し、海軍士官として多くの武功をたて、1842年に海軍少将となりました。この年、イギリスがアヘン戦争の末、清との間に南京条約を結んだのを受け、プチャーチンは、ロシアも極東地域において影響力を強化する必要を感じて皇帝ニコライ1世へ極東派遣を献言、1843年に清及び日本との交渉担当を命じられました。ところが、トルコ方面への進出が優先されたため、この時の極東派遣は実現しませんでした。その後、ラザレフの世界周航探検隊参加、ペルシア派遣使節などを経て1852年に、海軍中将・侍従武官長に栄進すると、念願の日本との通商条約締結のために遣日全権使節に任ぜられました。

1853年7月、パルラダ号以下軍艦4隻を率いて長崎に来航し、ロシア皇帝の国書を手交し、千島・樺太の測量と開国通商を求めました。しかし、このときは調わず、同年12月再度来航して長崎で通好条約、国境取り決め交渉を開始しました。おりからのクリミア戦争(ロシアとトルコ・イギリス・フランスなどの連合国との戦争)がおこったために、敵対関係にある英仏の艦隊を警戒して一時上海に退きましたが、翌1854年からはディアナ号に移乗して長崎、樺太、箱館(今の函館)などに現れて機をうかがい、同年11月に大坂に現れ、1855年2月、下田において日露和親条約を結びました。これにより、下田・箱館・長崎が開港され、エトロフ島とウルップ島の間を日本とロシアの国境とすることが決まりました。

この交渉中、安政東海地震が発生して下田一帯も大きな被害を受け、ディアナ号も津波により沈没し、乗組員にも死傷者が出たため、交渉は中断せざるを得ませんでした。プチャーチン一行は、波にさらわれた日本人数名を救助し、船医が看護するなどしたため、幕府関係者らにも好印象を与えました。そのため、戸田(へだ)村(今の沼津市)で代船ヘダ号を、日本人の船大工を指導して建造したことは、わが国の西洋船型建造の始まりとなりました。

その後、1857年9月長崎で日露追加条約、翌1858年7月に江戸でアメリカ合衆国に続き、日露修好通商条約調印にたずさわりました。帰国後、その功により海軍大将に昇進し、以後文部大臣、国務顧問官などを歴任し、貴族(伯爵)の位を与えられています。


「10月16日にあった主なできごと」

1012年 藤原道長絶頂期の歌…藤原氏の全盛をきずいた道長は、「この世をば わが世とぞ思ふ望月の かけたることも なしと思へば」という有名な歌を作りました。長女彰子(しょうし)を一条天皇の、次女妍子(けんし)を三条天皇それぞれの皇后にし、そして三女威子(いし)を後一条天皇の皇后にしたこの日の祝宴で、自分の栄華を満月にたとえたものです。

1793年 マリー・アントワネット死去…フランス国王ルイ16世の王妃で、フランス革命の際に国外逃亡に失敗、この日38歳の若さで断頭台に消えました。

1946年 ナチス戦犯の絞首刑…南ドイツの都市ニュルンベルクで行なわれた、第2次世界大戦中にドイツが行なった戦争犯罪を裁く国際軍事裁判(ニュルンベルク裁判)は1日に最終判決がなされ、ヒトラーの片腕だった航空相ゲーリング、外相だったリッベントロップら12名は死刑をいいわたされていましたが、この日11名が13階段を登って絞首台に立ち処刑されました。(ゲーリングは処刑前日拘置所で服毒自殺)

今日10月15日は、ナチス・ドイツの指導者で、国家元帥をはじめ16の官職を持ったゲーリングが、1946年に自殺した日です。

1893年、ドイツのバイエルン地方ローゼンハイムに外交官の子として生まれたヘルマン・ゲーリングは、幼年士官学校を経て、第一次世界大戦中の1914年に陸軍少尉に任官し、ミュールハウゼン駐留の歩兵連隊に配属されました。まもなく陸軍航空隊へ移って偵察機の観測員、1915年9月から戦闘機パイロットとなりました。1917年代からエースパイロットとして知られるようになり、「20機撃墜を誇る空の英雄」と讃えられました。

敗戦後は、曲芸飛行士としてデンマークやスウェーデンで活動、1922年にミュンヘン大学に学ぶうち、ナチス党首のヒトラーの演説に魅了されて同党へ入党します。大戦の経歴から重用され、入党後ただちに突撃隊最高指導者に任じられました。しかし、1923年のミュンヘン一揆に突撃隊を率いて参加するものの、一揆は失敗、腰に銃弾を受けてオーストリアやスウェーデンに4年間亡命しました。

1927年、ドイツ国会で政治犯の恩赦が可決されて帰国をはたすと、翌1928年の国会総選挙でナチス党候補者名簿の最上位となって国会議員、ナチス党議員団の長となりました。交際範囲の広いゲーリングは、ヒトラーを財界、軍部、大統領に結びつけるなど、ナチス党と上流階級の橋渡し役を務めたり、大企業から企業献金を取りつけたことで、積極的な選挙活動を打てるようになって議席を急速に伸ばしました。そして、1932年7月の総選挙で第一党となり、8月にはゲーリングが国会議長に選出され、ヒトラー政権成立を裏面から支えました。

1933年にヒトラー内閣に入ると、プロイセン内相を兼ねてゲシュタポ(国家秘密警察)を組織し、自ら仕組んだ「国会議事堂放火事件」を理由に、勢力の強かった共産党を禁止しました。また、1935年3月にヒトラーがベルサイユ条約の軍備制限条項を破棄して「再軍備宣言」をすると、ただちに空軍司令長官となりました。さらに1936年「四ヵ年計画」長官として軍備拡大を推進し、アウタルキー(自給自足経済)の実現に努め、1939年9月にはヒトラーにより後継者に指名されました。

第二次世界大戦でも空軍を指揮しましたが、1940年の空軍戦でイギリスを屈服させることに失敗したことを皮切りに、1943年のスターリングラードで包囲されたドイツ軍への物資空輸作戦の失敗によって、ゲーリングの名声も権力の失墜も決定的となりました。やがて1944年までにはナチス首脳部の実質的な決定機能から退き、絵画コレクションに傾倒したり、薬物への依存が高まって常軌を失い、1945年4月末にヒトラーにかわって総統になろうとしてその怒りを買い、全官職を剥奪されたことで、英米軍へ投降しました。

敗戦後にゲーリングは、アメリカ軍のもとに国家元帥として出頭し、正当な取り扱いを要求するものの、「ゲシュタポと強制収容所設立の責任者」の罪でニュルンベルク軍事裁判にかけられて絞首刑をいいわたされ、刑執行の前日、隠し持っていた青酸カプセルを飲んで自殺しました。


「10月15日にあった主なできごと」

1564年 ベサリウス死去…16世紀神聖ローマ帝国の支配下にあったベルギーの解剖学者で、現代人体解剖の創始者といわれるベサリウスが亡くなりました。

1582年 グレゴリオ暦開始…4年ごとに閏年をおく「ユリウス暦」は1500年以上も使われてきましたが、すでに10日間もの遅れが出ていました。そのため教皇グレゴリウス13世は、以後100で割れても400で割れない年については閏年としないこと、この年の10月4日の翌日は10月15日とすることを決めました。これが今世界のほとんどの国で使用されている「グレゴリオ暦」で、これに変えなかったイギリスは1752年まで、ロシアは1918年までユリウス暦を使用したため、日付にずれが生じています。

1929年 官吏給与1割カット発表…政府はこの日、官吏の給与を1割カットすると突然発表しました。大蔵大臣井上準之助は、長引く不況を乗り越えるには、国民が節約につとめることによって物価を下げ、金輸出解禁にふみこむことが必要と主張。それには政府が模範を示さなくてはと給与カットを発表しましたが、反対にあって1週間後に撤回。しかし、昭和不況が深刻化した2年後の6月に実施されることになりました。

今日10月14日は、ペルーのリマに、自ら収集した古代アンデス文明遺物をもとにした「天野博物館」を、私財を投じて開設した実業家の天野芳太郎(あまの よしたろう)が、1982年に亡くなった日です。

1898年、今の秋田県男鹿市に生まれた天野芳太郎は、地元の高等小学校に在学中、父の仕事の都合で函館に渡ったとき、函館の遺跡から4千年も前の石器を発見したことで、考古学に関心をいだきました。その後、1916年に秋田工業学校を卒業後に上京し、横浜市の浅野造船所に就職して造船技師として腕を磨きました。やがて、1920年に神奈川鋳物工場を設立してポンプや小型エンジンを製造・販売したり、関東大震災で罹災すると、これをチャンスと見て、横浜市関内や鶴見の遊園地「花月園」にまんじゅう屋を出店するなど、実業家としての道を歩みはじめました。

まとまった資金を手にした天野は、夢見ていた海外での事業を志し、1928年4月、横浜港から一路ウルグアイのモンテビデオをめざし、大阪商船の博多丸に乗りこみます。途中、香港、シンガポール、ケープタウンに寄港しながら雑貨品を仕入れては売りさばくという商売を続けました。同年7月モンテビデオに到着するものの父の訃報が届いて急ぎ帰国、同年12月年末には再び横浜を出航し、ハワイ、ロサンゼルス、メキシコを経て、パナマに着きました。この地で「カーサ・ハポネサ(天野商会)」を開業して成功をおさめると、パナマを拠点にとした事業は他国に拡大、チリで農場経営、コスタリカでマグロ漁業、ボリビアで森林開発、エクアドルで製薬業、ペルーで金融業を営むなど、幅広い分野で事業を展開していきました。

いっぽう、シュリーマンの伝記に刺激され、ペルーにあるマチュピチュ遺跡を日本人として初めて訪れたことがきっかけになって、少年時代の考古学への情熱が再燃しました。ところが、1941年12月、日本とアメリカが開戦すると同時に、アメリカ官憲に逮捕され、バルボア収容所に収容されてしまいました。パナマ運河を租借するアメリカはここを軍事的・経済的要衝とみて、パナマに在住する日本人はほとんどがスパイ疑惑をかけられたのでした。天野は資産のほとんどを没収され、アメリカ・オクラホマ州の収容所、ルイジアナ州の収容所を経て1942年6月にニューヨークに移送され、日本とアメリカの残留者を互いに交換する交換船に乗せられ帰国したのでした。

敗戦後の1951年、天野はペルーに渡航すると、日本に強制送還される前に知人に託した資産を元手に、漁網、魚粉を扱う漁業会社「インカ・フィッシング」を設立して、念願の事業を再開しました。事業を軌道に乗せると、1953年には首都リマ北方のチャンカイ文化遺跡の調査・発掘を中心に古代アンデス文化の研究に熱中、代表的な遺物を収集し、自宅に私設博物館を開きました。さらに10年後の1964年には、リマ市ミラフロレスに「天野博物館」を開設しました。同館は、古代アンデスの生活文化のさまざまな姿を、独自の個性的な解釈に基づいて、土器、染織作品その他多様な10万点もの遺物によって再現したもので、世界的に高い評価を受けています。

なお天野は、1958年には、第1次東大アンデス地帯学術調査団の案内役を務めるなど、日本のアンデス・インカ文明研究に大きな貢献をし、1959年にはペルー文化功労勲章を受章しています。


「10月14日にあった主なできごと」

1867年 大政奉還…江戸幕府の第15代将軍徳川慶喜は明治天皇に、統治権を返上することを申し出ました。

1872年 日本初の鉄道開通…東京・新橋と横浜間の29kmに、わが国初の鉄道が開通しました。この日を記念して国鉄(今のJR)は、1922年から「鉄道記念日」として制定しました。1992年、運輸省(今の国土交通省)は「鉄道の日」と改め、私鉄も含め、全国各地で鉄道に関する行事を行っています。

今日10月13日は、ムガル帝国第3代の王で、今のインドの地に、帝国と呼ばれるにふさわしい国家に発展させたアクバルが、1605年に亡くなった日です。

「ムガル」は「モンゴル」の意で、モンゴル系のバーブルが、モンゴル帝国再興を期してトルコ人を率いて北インドに侵入、1526年デリーを占領して「ムガル帝国」を興しました。

1542年、ムガル帝国第2代王フマユーンの子(バーブルの孫)として生まれたアクバルでしたが、父王がアフガン系のシェール・シャーの攻撃を受け、ペルシャ(現イラン)に亡命しているときの誕生でした。1555年に父王はデリーを奪回しましたが、翌年急死したため、アクバルは13歳にして即位します。

即位後の数年は、父王の遺臣や乳母に握られていた政治も、1560年ころから自ら行うようになると、インド西部を支配していたヒンズー教徒であるラージプート諸王家から妃を迎えるなど融和策をとりました。その勢力を味方につけると、従わない部族は武力で征服して、1570年までに北インド一帯を平定します。さらにデカン高原、アフガニスタン、中央アジアにも進出し、デカン高原以南の一部 (ポルトガルが支配するゴア、カリカットなど) を除くインド全域を1576年までに支配下におきました。

アクバルはイスラームでしたが、他の宗教にも寛大で、1565年に非イスラームに課するシズヤという「人頭税」を廃止し、宮廷でヒンズー教、キリスト教、ゾロアスター教などの代表者を集めて、それぞれの教義に関する討論をおこなったりしました。政治にも新しいしくみをこしらえ、広大な領土は、王の領地と家臣の領地に分け、家臣の領地の勢力が大きくならないよう、しばしば配地を変えさせて、中央集権がくずれない工夫をこらしました。国内の耕地を測量して農地の等級を定め地租を現金でおさめさせ、この制度が行われない地区では収穫の数%を現物で収めさせました。

首都をデリーから、南東のアグラに移して城塞を建設したり、アラビア語やポルトガルの書物をペルシャ語に翻訳させるなど文化の発達にもつとめ、インド古来の文化と融合して独自のインド・イスラーム文化を発達させ、ムガル帝国繁栄の基礎を確立しました。

なお、アクバルはアラビア語で「偉大」を意味する名で、その偉業により「大帝」と讃えられています。ムガル帝国はその後、第6代のアウラングゼーブまでが全盛期で、第5代のシャー・ジャハーンは、亡き愛妃のためにアグラ郊外に建てた「タージマハル」は、この時代の代表的イスラーム建築として世界的に有名です。やがて、アウラングゼーブがヒンズー教徒に圧迫を加え、シズヤを復活させたりヒンズー寺院を破壊したりしたのがきっかけになって国は衰えはじめ、18世紀からはイギリスの植民地化が進み、1858年に皇帝がイギリス軍に捕えられてビルマ送りとなり、滅亡したのでした。



「10月13日にあった主なできごと」

1282年 日蓮死去…鎌倉時代中期の僧侶で、法華経に基づく教えこそが唯一の仏教の真髄と説く日蓮宗(法華宗)を開いた日蓮が亡くなりました。

1884年 世界標準時…アメリカのワシントンで「本初子午線ならびに計時法万国公会」が開かれ、イギリスのグリニッジを通る子午線を、経度0度とする世界標準時と決めました。日本では1886年から使われるようになり、日本の標準時は、世界標準時より9時間進んでいます。

1903年 小林多喜二誕生…『蟹工船』などを著し、日本プロレタリア文学の代表作家といわれる小林多喜二が生まれました。

今日10月9日は、アルゼンチン生まれの政治家・革命家で、キューバ革命のゲリラ戦を指導して革命を成功させ、『ゲリラ戦争』『ゲバラ日記』などを著して中南米ばかりでなく世界に大きな影響を及ぼしたゲバラが、1967年に亡くなった日です。

1928年、アルゼンチン第2の都市ロサリオの中流家庭に未熟児として生まれたエルネスト・ゲバラは、幼少のころから喘息に苦しみ、生涯苦しみぬきました。それが医学を志すきっかけになったのでしょう。1945年にブエノスアイレス大学で医学を学び、在学中に友人とともにオートバイで南アメリカをまわる放浪旅行を体験しました。その過程で、チリの最下層の鉱山労働者やペルーのハンセン病患者らと出会うなど、比較的裕福だったアルゼンチン以外の貧しい人々の状況を見聞するうち、社会問題に目が開かれるようになります。

1953年に博士号をえて大学を卒業すると、ふたたび友人とともに南米放浪の旅に出ました。まず訪れたボリビアでは、革命が進んだことで虐げられてきたインディオが解放され、かつてないほど自由な雰囲気が漂っているのに大きな感銘を受けると、その後はペルー、エクアドル、パナマ、コスタリカ、ニカラグア、ホンジュラス、エルサルバドルなどを旅し、グアテマラに行き着きました。医師をしながらグスマンによる革命政権に協力しましたが、1954年アメリカ政府が反革命軍を援助して隣国から侵入、革命政府を打倒するのを目の当たりにしました。

この出来事がきっかけとなり、武力によるラテンアメリカ革命を本気で志すようになったゲバラは、メキシコに逃れると、最初の蜂起に失敗して潜伏していたキューバのフェデロ・カストロらと親しくなります。バティスタ独裁政権打倒をめざすカストロに共感したゲバラは、一夜にして武装ゲリラ闘争への参加を決意、数か月間のゲリラ戦の訓練を受けた後の1956年末、カストロらとともにヨット「グラマン号」でキューバ東部へ上陸し、シエラ・マエストの山中でゲリラ戦を開始しました。

2年以上にわたるゲリラ戦で、ゲバラは革命軍の第2部隊司令官・軍医として活躍して勝利に貢献すると、1959年1月に独裁者バティチスタが亡命し、革命政権が樹立されました。キューバ市民権を得たゲバラは、カストロ政権のもとでキューバ国立銀行総裁、工業相などをつとめるなどキューバ社会主義建設につくします。親善使節を率いてアジア・アフリカ諸国訪問、キューバ代表として国連総会に出席、アジア・アフリカ人民連帯会議に出席した際には「帝国主義を攻撃するすべての国を助けることなしに、自国の社会主義を建設することはできない」という演説はよく知られています。

ところが1965年4月、「世界の他の国が私の力添えを望んでいる」というカストロへの置手紙を残し、ゲバラはすべての地位を捨てて姿をくらましました。同志とともにアフリカのコンゴに渡り、ゲリラ闘争に挫折したのち、ボリビアを「第2のキューバ」にして中南米の革命のとりでにしようと、武装ゲリラの戦いを指揮しました。しかし、1967年7月、ボリビア政府軍との衝突で負傷し、捕えられて射殺されたのでした。まだ39歳の若さでした。

しかし、彼の残した『ゲバラ日記』などの著書にある「世界のどこかで行われる不正を感じて、世界を駆け回る」という革命家のロマンは、その魅力を失っていません。なお、ゲバラは「チェ・ゲバラ」の呼び名で知られていますが、「チェ」は主にアルゼンチンやウルグアイ、パラグアイで使われている「やぁ」とか「おい」と呼びかけに使う言葉です。


「10月9日にあった主なできごと」

1547年 セルバンテス誕生…ユーモア、風刺、空想に満ちた作品『ドン・キホーテ』を著したスペインの作家セルバンテスが生れました。

1874年 万国郵便連合スタート…さまざまな国の人々が、国際交流や協力ができるように、世界の加盟国間に安い料金で郵便が送れる「万国郵便連合」(UPU)ができました。日本は1877年2月に加盟しました。

1946年 男女共学の実施…文部省(現・文部科学省)は、「国民学校令」の一部を改め、男女共学の実施を指示しました。それまでは別々にされていた男子と女子の授業は、同じ教室で受けるようになりました。

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