児童英語・図書出版社 創業者のこだわりブログ

30歳で独立、31歳で出版社(いずみ書房)を創業。 取次店⇒書店という既成の流通に頼ることなく独自の販売手法を確立。 ユニークな編集ノウハウと教育理念を、そして今を綴る。

2015年10月

今日10月23日は、江戸時代前期のころ、蝦夷地(今の北海道)日高地方に勢力を誇っていたアイヌ民族の首長シャクシャインが松前藩へ蜂起し、1669年に亡くなった日です。

江戸時代、アイヌ民族が多く住む蝦夷地は、松前藩に治められていました。特に日高地方は、比較的早くから和人が入り込んでいた地域で、シベチャリ(今の静内川下流地方)のアイヌと、ハエ(今の沙流川下流地方)のアイヌが漁業権をめぐり勢力争いをしていました。

1650年代になると、シブチャリの首長はシャクシャインが握り、ハエの首長オニビシと今の新冠町から白老町方面にかけての領分を巡って対立しました。両者は松前藩の仲介によって講和をしますが、松前藩のねらいは両者の対立を利用して支配を強めようとするもので、裏からオニビシを支援したため1661年に対立が再燃、1668年4月、シャクシャインがオニビシを殺害しました。

シベチャリへの報復のため、ハエは松前藩に武器の援助を申し出ますが拒否され、さらに使者が帰路に急死すると、使者は松前藩に毒殺されたという風説が広まり、皮肉にも対立していたシベチャリとハエを一つにまとめことになりました。

シャクシャインは蝦夷地全域のアイヌ民族へ、松前藩への戦いを呼びかけました。こうして1669年6月、シャクシャインの指導するアイヌ軍は、松前藩へ蜂起しました。これが「シャクシャインの戦い」です。東は釧路に近い白糠(しらぬか)から、西は留萌に近い増毛(ましけ)まで、アイヌ民族がいっせいに立ち上がり、砂金掘りや交易に訪れた船舶19隻などを攻撃し、和人を殺傷しました。7月末には今の長万部(おしゃまんべ)町クンヌイまで攻め進みましたが、松前藩から急報を受けた徳川幕府は、津軽藩へ松前藩に対する援軍や鉄砲・兵糧の供与を命じました。

クンヌイでの戦いは8月上旬まで続きましたが、やがてシャクシャイン側は鉄砲と毒矢で武装した松前軍に押されて劣勢となり、シャクシャイン軍はクンヌイからの敗退を余儀なくされました。さらにこの日、シャクシャインは松前藩による講和の宴会に招待され、今の新冠町にあった松前藩陣営でだまし討ちにされました。

こうして指導者を失ったアイヌ軍は、戦いがはじまってから4か月後に松前軍に降伏(最終的には1671年)。これにより、松前藩のアイヌ民族への政治的経済的支配は、いっそう厳しいものになりました。


「10月23日にあった主なできごと」

1849年 西園寺公望誕生…自由主義思想を支持し、2度総理大臣になり、晩年は「最後の元老」として後継者首相を天皇に進言した政治家の西園寺公望が生れました。

1873年 征韓論争勃発…朝鮮への派兵をめぐって、この日政府内に激しい論争がおこりました。西郷隆盛や板垣退助らは鎖国を続ける朝鮮を武力で開国させようと主張したのに対し、岩倉具視や大久保利通らが内政を優先させることが先決とこれに反対しました。結局、西郷と板垣らは論争に敗れて、翌日要職を辞任して政府を離れました。

1973年 オイルショック…10月はじめに第四次中東戦争が勃発。石油輸出国機構(OPEC)に加盟しているペルシア湾岸産油6か国は、原油公示価格の21%引き上げ、原油生産の削減とイスラエル支援国への禁輸をこの日に発表、第1次オイルショックの引き金となりました。日本では、原油価格と直接関係のないトイレットペーパーや洗剤などの買占め騒動がおきたり、デパートのエスカレータの運転中止などの社会現象も発生するなど、高度成長にストップがかかる事態に陥りました。

今日10月22日は、「20世紀最大のチェリスト」といわれ、チェロ演奏家・指揮者・作曲家として世界的に活躍したスペインのカザルスが、1973年に亡くなった日です。

1876年、スペイン・カタルーニャ地方のバンドレルに生まれたパブロ・カザルスは、幼少のころから教会オルガン奏者の父と教育熱心な母から感化を受け、4歳でピアノを始めました。6歳で作曲をするようになり、8歳でバイオリン独奏、ペダルに足が届くようになった9歳からオルガンを始め、12歳の頃にはたいていの楽器を巧みに操り、特にチェロを弾くのが大好きになりました。

1888年バルセロナに移住すると、市立音楽院に入学し、チェロ、ピアノ、音楽理論、作曲などを学びながら、チェロはガルシアに、作曲は音楽院長ロドレダに師事しました。14歳のときのチェロ演奏が評判となり、遠方からも客が来るようになりました。やがて王室の援助をうけるようになって王立音楽院を卒業すると、1895年にバリのオペラ座に迎えられ、正式にチェロ奏者として演奏活動に入りました。翌1896年にはバルセロナ歌劇場の主席チェロ奏者となり、ニューヨーク、マドリード、ブリュッセル、ロンドンなどの演奏会も成功させて、世界的に有名になりました。

カザルスの功績は、これまでのチェロという楽器が、ピアノやバイオリンに隠れ、脇役的で地味な存在だったのを、「主役」に高めたことでしょう。太く、たっぷりとした響き、底力のある表現、深々とした味わいの魅力に、市民権を与えました。当時のチェロ奏法は、両ひじを両脇につけるという窮屈なものだったのを、右手を脇から自由にして弓による表現性を広げ、左手も脇から離し、指の間隔を拡張させて同じポジションで半音広く弾くことができるように演奏改革をしたのでした。特に、単なる練習曲と考えられていたバッハの『無伴奏チェロ組曲』(全6曲)の価値を再発見し、1904年に初めて公開演奏するなど、生涯にわたり広く紹介したことは、高く評価されています。

1905年には、ピアノのコルトー、バイオリンのティボーと結成した三重奏団「カザルストリオ」は、歴史に残る数々の室内楽の名演奏を生み出し、20世紀最大の三重奏団といわれました。いっぽう、1919年にはバルセロナにパブロ・カザルス楽団を創設し、指揮者としての活動もしました。

1931年に発足したスペイン共和制に協力し、1936年の内乱の際には公演の収益で共和派を援助しましたが、その後フランコ政権によるファシストの専制になると「私の国が自由になるまでこの国には帰らない」と宣言、南フランスのプラードに隠棲しました。1945年6月から演奏活動を再開するものの、各国政府がフランコ政権を容認したことに抗議して11月から演奏活動を再停止しました。1950年、バイオリン奏者シュナイダーの説得によってカザルスを音楽監督とするプラード音楽祭が開催されました。1955年には、カザルスの母とカザルスの妻の故郷であるプエルトリコに移住し、演奏活動や教育活動を続けました。

カザルスは平和活動家としても著名で、音楽を通じて世界平和のため積極的に行動したこともよく知られています。3度目となるニューヨーク国連本部での演奏は、1971年10月24日の国連25周年を祝う「国連デー」の音楽会で行われ、カザルス自ら作曲した『国連讃歌』を見事に指揮し、最後にはカタルーニャ民謡を編曲した『鳥の歌』を独奏、「空飛ぶ鳥は、羽ばたきながら、ピース、ピース、ピースと歌うのです」と締めくくり絶賛を浴びたのでした。


「10月22日にあった主なできごと」

794年 平安京に遷都…桓武天皇はこれまでの長岡京から、この日平安京に都を移しました。南北を38町に区切り、39の大路・小路を東西に通して1条から9条に分けた京の都は、東京に移るまで1100年近くも続きました。

1906年 セザンヌ死去…ゴッホ、ゴーガンと並ぶ後期印象派の巨匠、20世紀絵画の祖といわれる画家セザンヌが亡くなりました。

1962年 キューバ危機…「ソビエトがキューバに攻撃用ミサイル基地を建設中」との情報を入手したアメリカのケネディ大統領は、この日全米に「海上封鎖を予告する」とテレビで演説、ソビエトのフルシチョフ首相に対し「封鎖を破るものは、ソ連船でも撃沈する」と警告を発しました。ソビエトはこれをアメリカの海賊行為と非難したため、核戦争の始まりかと世界中を震撼させました。しかし28日、ソビエトはミサイル基地の撤去を発表、危機は回避されました。

今日10月21日は、江戸時代中期にキリシタン禁制下の日本に潜入し「最後の宣教師」として知られるシドッチが、1714年に亡くなった日です。

1668年、イタリアのシチリア島に生まれたジョバンニ・シドッチは、カトリックの一派イエズス会(ロヨラがザビエルら6人の同志と創設)に入って司祭として活動しているうち、宣教師の報告が伝わっていた日本への渡航を決意しました。ローマ教皇クレメンス11世に願い出て、1703年に中国へ渡り、フィリピンのマニラへ移って4年間布教につとめながらチャンスをねらっていました。

マニラでの功績を認められ、布教に欠かせない日本語もイエズス会が16世紀に発行した本で学ぶと、シドッチのために建造された船に乗って1708年8月、日本に向けて出発しました。2か月後に和服に大小二本差しという日本の武士の姿に変装して屋久島に上陸しました。ところが、島民に怪しまれ、薩摩(鹿児島)藩に通報されて長崎へ、さらに翌1709年秋に江戸へ送られ、小石川のキリシタン屋敷に監禁されました。

シドッチは、時の幕政の指導者で儒学者の新井白石から、直接取り調べを受け、白石はシドッチの人格と学識に深い感銘を受け、敬意を持って接しました。シドッチもまた白石の学識を理解して信頼し、二人は多くの学問的対話を行いました。この対話の中で得られた世界の地理、歴史、風俗やキリスト教のありさまなどは、白石によって世界地理の書『采覧異言』(1713年に発表され、筆写により普及)と『西洋紀聞』(取調べのようす・世界地理・キリスト教の3部からなり、1715年に記すものの、鎖国中だったため刊行は1882年)を書いています。これらは、鎖国時代に、外国の事情を伝える貴重な資料となりました。シドッチにとっても、日本にキリスト教を布教するという本来の目的は果たすことはできなかったものの、鎖国下の日本に国際世界についての視野を開かせる一つの契機となりました。

やがて幕府は、シドッチをキリシタン屋敷へ、宣教をしてはならないという条件で幽閉することに決定し、シドッチは囚人的な扱いを受けることもなく、二十両五人扶持という破格の待遇で軟禁されました。ところが、シドッチの監視役で世話係だった長助・はるという老夫婦が、木の十字架をつけているのが発見され、二人はシドッチに感化され、シドッチより洗礼を受けたと告白したことから、シドッチと共に、屋敷内の地下牢に移されました。その後のシドッチは、きびしい取扱いを受け、10か月後に衰弱死したのでした。

なお、シドッチの所持品だったカルロ・ドルチ作「悲しみの聖母」(楕円形絵画)は、東京国立博物館所蔵として重要文化財に指定されています。


「10月21日にあった主なできごと」

1520年 マゼラン海峡発見…スペイン王の協力を得て、西回りで東洋への航路をめざしたポルトガルの探検家マゼランは、出発からすでに1年が経過していました。そしてこの日、南アメリカ大陸の南端に海峡(マゼラン海峡)を発見、7日後の28日に南太平洋に到達しました。マゼランは、翌年3月にフィリピンで原住民の襲撃にあって死亡。9月に乗組員が世界一周を終えてスペインに到着したときは、5隻の船は1隻に、256名の乗組員はわずか18名になっていました。

1684年 徳川吉宗誕生…江戸幕府第8代将軍で、「享保の改革」という幕政改革を断行した徳川吉宗が生まれました。

1805年 トラファルガーの海戦…スペインのトラファルガー岬の沖で、ネルソン率いるイギリス海軍がフランス・スペイン連合艦隊に勝利しました。しかし、旗艦ビクトリア号で指揮していたネルソンは、狙撃されて死亡しました。

1871年 志賀直哉死去…長編小説「暗夜行路」などを著し、武者小路実篤とともに「白樺派」を代表する作家の志賀直哉が亡くなりました。

今日10月20日は、室町時代北朝最後(6代)の天皇で、歴代第100代目の後小松天皇(ごこまつてんのう)が、1433年に亡くなった日です。

1377年、北朝第5代の後円融天皇の第1皇子して生まれた後小松ですが、室町幕府は3代将軍足利義満の全盛期のころで、公家の権力は幕府に押さえられ、京都の支配権さえも幕府の手中にありました。そのため、後小松は義満の親戚筋の日野家に養育されました。1382年12月に、父の後円融天皇の譲位を受けて6歳で後小松天皇として即位した式では、義満が幼い天皇を補佐したことで、「稀代なこと」とまでいわれます。

後円融上皇による院政が行われましたが、朝廷内部にまで政治的影響力を及ぼし多くの公家を主従関係の下に置いた義満は、1392年に南朝の後亀山天皇との間に和議を成立させ、三種の神器をうけて南北朝合一に成功しました。さらに義満は、次男の義嗣を親王とし、ひそかに皇位奪還をうかがっていました。そして、翌1393年に後円融上皇が亡くなると、義満は事実上の上皇として、後世「義満の院政」などと呼ばれる権力を振るい、後小松天皇は名ばかりのものでしかありませんでした。

ところが、1408年未に義満が急死したため、皇家は空前の危機を切り抜けます。あとを継いだ第4代将軍足利義持は、義満の政策をことごとくくつがえしたため天皇は権威を回復し、後小松天皇は、1412年8月に皇子の実仁(みひと)親王を称光天皇として譲位し、院政を開始しました。これは北朝の持明院統(後深草天皇の血統)と南朝の大覚寺統(亀山天皇の血統)との二つの皇統から交互に皇位に就くという南北朝合一の際の条件「両統迭立(てつりつ)」に反するもので、その後南朝勢力はしばしば反発して武装蜂起しました。しかし、これをなんとかはねつけ、1428年称光天皇の病死後、6代将軍足利義教の仲介で伏見宮貞成の子息彦仁を養子とし、後花園天皇として即位させ、称光・後花園の2代という長期にわたって院政を行いました。

なお、名高い禅僧の一休宗純は、後小松天皇の長男といわれています。


「10月20日にあった主なできごと」

1180年 富士川の合戦…源頼朝率いる源氏と平氏軍が駿河の富士川で合戦を行いました。この戦いで、平氏軍は水鳥が飛びったった水音を夜襲と勘違いして敗走しました。

1856年 二宮尊徳死去…幼い頃に両親を失いながらも刻苦して小田原藩士となり、各地の農村の復興や改革につくした江戸後期の農政家の二宮尊徳が亡くなりました。

1879年 河上肇誕生…『貧乏物語』『資本論入門』『自叙伝』などの著作で知られ、日本におけるマルクス主義の考えを推し進めた経済学者の河上肇が生まれました。

1967年 吉田茂死去…太平洋戦争敗戦の翌年に首相に就任、以来5回にわたって首相をつとめ、親米政策を推進して日米講和条約、日米安保条約を締結した吉田茂が亡くなりました。

今日10月19日は、島崎藤村と並ぶ国民的詩人として「藤晩時代」といわれた土井晩翠(どい ばんすい)が、1952年に亡くなった日です。晩翠は、英文学者としては、ホメロス、カーライル、バイロンなどを翻訳しています。

1871年、今の宮城県仙台市に、富裕な質屋の長男として生まれた土井晩翠(本名・林吉)は、和歌や俳句、読書を好んだ父や祖母の感化を受け、小学生のころから『水滸伝』『三国志』『十八史略』や『新体詩抄』を愛読するなど、広く文学に親しみました。祖父の「商人に学問は無用」という意向により小学校卒業後は、家業の質屋の見習いをしながら英語の通信教育を受けるいっぽう、自由民権運動に共鳴しました。

1887年に斎藤秀三郎主宰の仙台英学塾に通学を許され、やがて旧第二高校を経て、1894年に東京帝国大英文科に入ると、英語以外に、フランス語、ドイツ語、イタリア語、ギリシャ語、ラテン語を学び、「帝国文学」の編集委員となって、西洋の詩の形をとり入れた自作の新体詩を次々と発表しました。

24歳で大学卒業後は、郁文館中学の教師をしながら、1898年にカーライルの『英雄論』を翻訳出版、1899年には高山樗牛の勧めで第一詩集『天地有情』を刊行すると、2年前に『若菜集』を発表していた島崎藤村とともに注目され、「藤晩(または晩藤)時代」といわれました。いっぽう1898年には、東京音楽学校(現・東京芸術大)から中学唱歌用の歌詞を委嘱され、「荒城月」(のちの「荒城の月」)を作詩。同校がこの詩につける曲を公募すると、滝廉太郎の曲が採用され、1901年に「荒城の月」として発表、「中学唱歌集」に収められて今も愛唱されています。

1.
春高楼の花の宴 巡る盃影さして  千代の松が枝分け出でし 昔の光今いづこ
2.
秋陣営の霜の色 鳴きゆく雁の数見せて  植うる剣に照り沿ひし 昔の光今いづこ
3.
今荒城の夜半の月 変はらぬ光誰がためぞ  垣に残るはただ葛(かずら) 松に歌ふはただ嵐
4.
天上影は変はらねど 栄枯は移る世の姿  映さむとてか今も尚 ああ荒城の夜半の月

この歌が世界的な評価を得たのは、1921年イギリスへ演奏旅行に出たテノール歌手の藤原義江が、当時日本大使館の1等書記官だった吉田茂の努力で、文化人やマスコミを招いたパーティが開かれ、その席上で披露したこの曲の歌唱が、圧倒的な感銘をよびおこしてからでした。なお、歌詞にある「荒城(荒れた城)」は、晩翠の故郷「青葉城」、修学旅行で訪れた会津の「鶴ヶ城」、作曲者滝の郷里大分県竹田市にある「岡城址」のイメージを重ね合わせたとされ、それぞれの城には歌碑が建てられています。

その後、晩翠は帰郷し、母校の第二高校教授となり、1901年に第二詩集『暁鐘』を発表してからヨーロッパに遊学しました。1904年に帰国すると外遊中の作品を集めた第3詩集『東海遊子吟』を刊行し、その後『曙光』『天馬の道』など第7詩集まで刊行しています。

いっぽう、1924年にはバイロン没後100周年を期して『チャイルド・ハロウドの巡礼』を翻訳したり、昭和になってからはギリシャの叙事詩ホメロスの『イーリアス』『オデュッセイア』を全訳すると、格調高い名訳として高く評価されました。

なお、オンライン図書館「青空文庫」では、土井晩翠翻訳の『イーリアス』など、9編を読むことができます。


「10月19日にあった主なできごと」

1956年 日ソ国交回復…「日ソ共同宣言」をモスクワで正式調印し、国交が回復することになりました。1951年に日本と連合国48か国とのあいだで講和条約が成立していましたが、ソ連がこの条約に調印をしなかったため、国交がとだえたままでした。これにより、日本は国際連盟に加盟することができました。

1987年 ブラックマンデー…ニューヨークの株式市場で、株価が22.6%の下落という史上最悪の下げ幅を記録し、世界各国の経済を大混乱におとしいれました。

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