児童英語・図書出版社 創業者のこだわりブログ

30歳で独立、31歳で出版社(いずみ書房)を創業。 取次店⇒書店という既成の流通に頼ることなく独自の販売手法を確立。 ユニークな編集ノウハウと教育理念を、そして今を綴る。

2015年10月

今日10月30日は、西欧諸国に植民地化されつつある清国(中国)を憂い、「日清貿易研究所」を設立した荒尾精(あらお せい)が、1896年に亡くなった日です。

1859年、尾張(今の愛知県)藩士の長男として名古屋に生まれた荒尾精(本名・義行)は、1871年に一家で上京しました。家が貧しかったため知人に預けられ、勉学にはげんで東京外国語学校に入学しましたが軍人を志して中退、陸軍教導団をへて1882年に陸軍士官学校を卒業しました。熊本の歩兵13連隊に勤務後、1885年に陸軍参謀本部に移り、翌1886年に参謀本部の命を受けて、情報収集のために清(中国)に赴任しました。このとき、上海で売薬業を営んでいた岸田吟香と知り合い、その援助を受けて漢口楽善堂を運営しながら、中国各地をきめ細かく調査しました。

1889年に帰国すると、2万6千余字からなる報告書を参謀本部に提出し、西欧諸国に植民地化されつつある清を改造して、日本と力を合わて進出を食い止める努力をすべきだと主張しました。東アジア復興のためには日清貿易を基礎としなくてはならないと考えた荒尾は、翌1890年9月、上海に日清貿易研究所(後の東亜同文書院)を設立し、日中貿易実務担当者の育成に着手し、日本の青年200余名の教育に当たりました。1893年には「日清商品陳列所」を設立して貿易事業の実施を志しましたが、1894年「日清戦争」が始まったため中断せざるをえませんでした。1893年に大尉で陸軍予備役になりますが、研究所の門下生を日清戦争の通訳・諜報活動に従事させました。

1895年の日清戦争の終結に当たっては、「勝ちに乗じて過大な賠償を求めることは東亜の安定に甚大な悪影響を及ぼす」と政府の考えに異論をとなえた荒尾でしたが、その意見はかなわず、「下関条約 」により、清国は日本に対し、遼東半島、台湾、澎湖諸島を割譲し、賠償金2億テール(中国銀貨)を支払うことに決まりました。

1896年9月、台湾との貿易を進めるため「紳商協会」設立をめざして台湾へ渡りましたが、ペストにかかり死去しました。しかし、荒尾精の名は、清に対する過大な賠償に反対し、日中提携によるアジア保全を唱えた明治の先覚者として、記憶されつづけています。


「10月30日にあった主なできごと」

1850年 高野長英死去…『夢物語』を著して江戸幕府批判の罪で捕らえられるものの脱獄、自ら顔を焼き人相を変えて逃亡していた蘭学者高野長英が、幕府の役人に見つかって自殺をはかりました。

1890年 教育勅語発布…この日「教育に関する勅語」(教育勅語)が発布され、翌日全国の学校へ配布。以来、1945年の敗戦まで55年もの間、皇室中心の国家的教育が進められました。

1938年 火星人来襲パニック…アメリカのラジオドラマで、オーソン・ウェルズ主演『宇宙戦争』(原作H・Gウェルズ)を放送、演出として「火星人がニュージャージー州に侵入」の臨時ニュースを流したところ、本物のニュースと勘違いした人々が大パニックをおこして町から逃げ出す人、発狂する人まで現れました。

今日10月29日は、「わび茶」を創始した村田珠光の精神を学び、堺流「小座敷の茶」を創案、千利休らに引き継いだ戦国時代の豪商で茶人の武野紹鴎(たけの じょうおう)が、1555年に亡くなった日です。

武野紹鴎の父信久は、その父が応仁の乱で戦死し、孤児となったのち諸国を流浪し、経済都市泉州堺(大阪府堺市)に住みついて武具用の皮革業を営み、一代で財をなした人物でした。

1502年、信久の子として生まれた紹鴎(通称・新五郎)は、若い頃から学問を好みました。24歳の時、当代随一の文化人三条西実隆に師事して古典文学や和歌を学び、稽古と創意工夫の大切さを教えられました。いっぽう、大徳寺の禅を堺に広めようと草庵を開いた高僧古岳に禅の修行を受け、27歳のときには、連歌師を志しました。また、29歳の時には、信久が朝廷に献金を行い、紹鴎は因幡守の官位に任ぜら、軍人としての態勢もとりつけました。当時本願寺が堺の豊かな財力に目をつけて近づき、紹鴎は信仰と軍事の面で深い関係を持ちます。

やがて31歳の時、古岳のもとで剃髪して出家して「紹鴎」を名のり、世俗の外で生きる決断をしました。そして、京都へおもむき、「わび茶」の創始者といわれる村田珠光の弟子宗陳や宗悟に「茶の湯」を学びました。当時流行していたのは、中国の書画を壁に掛け、陶磁器や工芸品を飾った四畳半の部屋で茶をたてる「書院茶」でしたが、紹鴎は、より小さい三畳半や二畳半の茶室を考案しました。無心になって茶をたてることで、世の戦乱や争いごとを忘れ、深く澄みきった心になろうとしたのでしょう。そのため、茶室はできるだけ簡素にし、作法も自然なものがよいと考えました。

35歳のとき、父信久を、翌年師の実隆を失って堺にもどった紹鴎は、ひたすら茶の湯の研鑚につとめると、2年後に、田中与四郎(のちの千利休)の入門を受け、さらに津田宗及、今井宗久ら多くの門弟を育てました。とくに彼ら3人は、豊臣秀吉の「茶の湯政治」を支えたことは、よく知られています。


「10月29日にあった主なできごと」

1815年 井伊直弼誕生…江戸時代末期に大老となり、開国論を唱え「安政の大獄」を引き起こして尊攘派を弾圧、1860年の「桜田門外の変」で水戸浪士らに殺害された井伊直弼が生まれました。

1922年 トルコ共和国宣言…オスマン帝国を倒したトルコは、この日共和国の成立を宣言。初代大統領にムスターファ・ケマルを選びました。アタチュルク(トルコの父)として、現在に至るまで、トルコ国民に深い敬愛を受けつづけています。

1929年 悲劇の火曜日…1920年代、永遠に続くと思われていたアメリカの繁栄に大ブレーキがかかりました。5日前(暗黒の木曜日)に1日1300万株が売られる株の大暴落がおきたため、ウォール街は、不安にかられた投機家でごったがえし、大損して自殺する人まであらわれました。さらにこの日は前回を上回る1630万株が売られ、ウォール街最悪の日となって、午後には株式取引所の大扉を閉じました。株はその後も売られ続け、世界中をまきこむ大恐慌となっていきました。

1945年 宝くじ発売…政府は戦後復興の資金集めのために、第1回宝くじの販売を開始しました。1枚10円、1等賞が10万円で副賞に木綿の布が2反、はずれ券4枚でたばこ10本がもらえました。評判が良かったために、翌年には1等賞金が100万円となりました。戦後数年間の宝くじには、敗戦後の物資不足を反映して、革靴、地下足袋、人口甘味料のズルチンといった景品がつき、1948年の1等副賞には木造住宅がつきました。

今日10月28日は、ベトナム戦争を撮影した『安全への逃避』など、世界の人々を感銘させる数々の写真を撮り続けた報道カメラマンの沢田教一(さわだ きょういち)が、1970年に亡くなった日です。

1936年、 青森市に郵便局員の子に生まれた沢田教一は、13歳の時、新聞配達のアルバイトをしてカメラを買ったのが写真との出会いでした。地元の中学の英語教師から写真技術の手ほどきを受け、1954年に県立青森高校を卒業後、青森や三沢で写真店に務めながら写真技術を習得するとともに、店主で写真家の小島一郎の影響を受けました。この頃、報道カメラマンとして世界的になったキャパの『イメージズ・オブ・ウォー』やブレッソンの『決定的瞬間』に驚き、あこがれるようになります。

1961年、プロをめざして上京しUPI通信に職を得ると、1964年末皇太子夫妻の訪タイを取材しての帰り道、香港で岡村昭彦と会ったことがきっかけになって、ベトナム戦争取材の決心を固めました。1965年2月、1か月の休暇を取って自費でベトナムに渡り取材を始めました。この時期はベトナム戦争が全面戦争に発展した時期だったこともあり、UPIサイゴン支局は沢田の滞在延期を東京支局に要請すると、1か月滞在が延長されたばかりか、この取材中に撮った写真が評価され、サイゴン支局から異動の要請が入りました。

同1965年7月、 UPIサイゴン支局スタッフカメラマンとして正式に赴任すると、9月に、銃弾を避けながら川を渡る2組の母子の写真『安全への逃避』を撮影。この写真が、1965年ハーグ世界報道写真展グランプリとニュース部門第1位、アメリカ海外記者クラブ賞第1位を獲得しました。さらに、1966年1月、2人の米兵が塹壕から引きずり出したベトコン女性兵士を連行する写真『敵を連れて』(1966年ハーグ世界報道写真展2位)、2月にはアメリカ軍の装甲兵員輸送車がベトコンの死体を引きずっている写真『泥まみれの死』(1966年ハーグ世界報道写真展1位)などが脚光を浴びました。また、5月には、 前年撮影した『安全への逃避』を含む全28点収録の写真集が、ピューリッツァー賞報道写真部門を受賞しました。

沢田の撮影姿勢は、敵も味方もない、罪もない人たちの視点から見た写真で、弾丸の飛び交う生と死のぎりぎりの最前線にとどまりながら、戦争の現実をフィルムに刻むことでした。力のない老人や女性や子どもたちの姿が多いことでもわかります。『安全への逃避』の賞金の一部を、被写体となった2人の女性に渡そうと、沢田は1年間も探し続け、ついに探し当てて無事お金を渡したというエピソードも心を打つものがあります。

1968年9月、3年半にわたる報道カメラマンとしての仕事にピリオドを打ち、 UPIの香港支局に写真部長として静かな生活を送っていました。ところが、1970年1月サイゴン支局にもどると、激動するインドシナを再び撮影し始め、3月にカンボジアにクーデターがおこると、カンボジア領内でベトナム人虐殺が相次ぎ、10月に米軍のカンボジア侵攻を取材中のこの日、プノンペンの南34キロの国道で、死体となって発見されました。胸に4発、首に2発の銃弾を受け、愛機のライカは持ち去られていました。わずか34年の生涯でした。

なお没後の1971年には、ロバート・キャパ賞を受賞、1996年には、ドキュメンタリー映画『SAWADA 青森からベトナムへ ピュリッツァー賞カメラマン沢田教一の生と死』(監督・五十嵐匠)が製作されました。


「10月28日にあった主なできごと」

1583年 大坂城完成…豊臣秀吉が大坂城を築きましたが、1598年の秀吉の死後は、遺児・豊臣秀頼が城に留まりました。しかし、1615年の大坂夏の陣で落城、豊臣氏は滅亡しました。

1749年 ゲーテ誕生…『若きウェルテルの悩み』『ファウスト』など数多くの名作を生みだし、シラーと共にドイツ古典主義文学の全盛期を築いた文豪ゲーテが生れました。

1953年 民放テレビ開始…日本初の民放テレビとして「日本テレビ」が放送を開始しました。当時は受像機の台数が少なく、人気番組のプロレス中継・ボクシング中継・大相撲中継には、街頭テレビに観衆が殺到し、黒山のような人だかりになりました。

今日10月27日は、幕末から明治期に、志士・政治家として活躍する高杉晋作、久坂玄瑞、井上馨、山県有朋、伊藤博文らを育てた思想家の吉田松陰(よしだ しょういん)が、1859年に亡くなった日です。

1830年、長州藩(山口県)藩士杉百合之助の次男に生まれた松陰(通称・寅次郎)は、4歳のとき、山鹿流の兵学をつたえる吉田賢良の養子になりました。まもなく賢良が急死したため、松陰はおじの玉木文之進から学問を厳しくたたきこまれました。猛烈なつめこみ教育でしたが、松陰はこれにこたえ、9歳のころには神童ぶりがうわさされるようになりました。10歳のとき、うわさを聞いた藩主毛利敬親の前で山鹿素行の兵学書『武教全書』を講義して、その秀才ぶりを示したと伝えられています。

松陰は、18歳で藩校明倫館の師範になると、1850年、世界の大勢に目をそそぐ必要を感じて長崎に遊学し、ひきつづき翌年には、藩主にしたがって江戸に出ると、西洋兵学の必要を悟って佐久間象山の門に入りました。「山鹿流の兵学はもう古い。西洋学を学ばなくては遅れるよ」と象山に説かれて松陰は苦しみました。そして、藩のゆるしを受けずに、東北をめぐる旅で苦しみをまぎらそうとしました。しかし、旅から江戸に戻ると、藩から帰国を命じられました。脱藩の罪に問われ、禄をうばわれて師範役もとりあげられたのです。なんとか諸国留学の許しを受けた松陰は、1853年ふたたび江戸に出て、再び象山から洋学を学びました。

世の中はちょうど、アメリカのペリー艦隊が浦賀に来航し、大混乱しているときでした。アメリカの軍艦を見た松陰は、西洋人の文明があまりにも進んでいるのに驚嘆しました。そしてついに、象山のすすめもあって、海外渡航を決意します。たまたま長崎に入港したロシア軍艦にのりこもうとしましたが間にあわず、1854年、ふたたび来航したペリーの軍艦に命がけで近づきました。しかし、必死の頼みも受け入れてもらえず追い返され、松陰は長州藩の野山獄につながれてしまいました。牢のなかでは、勉強する機会を天が与えてくれたと読書にふけり、世をすねた囚人たちに学問を教えました。そんな態度が立派だったため、藩は松陰を牢から出しました。

実家の杉家に預けられると、松陰はここに「松下村塾」を開き、門人を育成しました。その教育は徹底した実学で、名利のための学問を否定し、この世の中で何をなすべきかを門人一人ひとりに問いかけました。塾がひらかれたのは、わずか2年半でしたが、この塾から高杉晋作、久坂玄瑞、木戸孝允、井上馨、山県有朋、伊藤博文、前原一誠、品川弥二郎ら、たくさんの志士や政治家が育ちました。

1858年松陰は、幕府が「日米修好条約」を天皇の許可なく調印したことを知ると幕府批判を強め、朝廷による改革を構想し、尊王志士を弾圧にのりだした老中首座の間部詮勝(まなべあきかつ)の暗殺計画や志士を収容する京都伏見牢襲撃計画の決行を門下生に命じました。翌1859年6月、大老井伊直弼によって幕府批判者に対する弾圧「安政の大獄」で逮捕された梅田雲浜との関係を調べられた松陰は、江戸に身柄を送られました。伝馬町の牢に入れられ、その取り調べの中で、間部暗殺計画についてもらしたため、この日処刑されたのでした。


「10月27日にあった主なできごと」

1728年 クック誕生…キャプテン・クックのよび名で知られ、世界の海を縦横に走り回って、オーストラリアやニュージーランドの探検・調査などさまざまな業績をのこした18世紀の海洋探検家のクックが生まれました。

1931年 2つの世界新記録…東京神宮競技場で開かれた陸上競技大会で、走り幅跳びの南部忠平が7m98cm、三段跳びの織田幹雄が15m58cmで日本人初の世界記録を樹立しました。

1977年 前田青邨死去…今村紫紅、安田靫彦、小林古径らと腕を競いあいながら大成した日本画家の前田青邨が亡くなりました。

今日10月26日は、軍事クーデターに成功し、韓国大統領を5期18年にわたって独裁政治を行った朴正煕(パク・チョンヒ/ぼく・せいき)が、1979年に亡くなった日です。

1917年、日韓併合後の慶尚北道(朝鮮半島東南部)の貧しい農家に生まれた朴正煕(日本名・高木正雄)は、1937年に大邱(たいきゅう)師範学校を卒業後、1940年まで小学校の教師を務めていましたが、軍人を志して満州国の士官学校へ入隊しました。成績優秀だったために日本帝国陸軍士官学校への留学生となり、第57期生として日本式の士官教育を受け、満州軍第8師団参謀(陸軍中尉)としてソ連軍との戦闘に加わりました。

終戦後は、新生した韓国軍に入り、陸軍の情報・作戦を担当、朝鮮戦争終結時には陸軍大佐にまで昇進しました。1959年には陸軍少将・第2軍副司令官の重職に就きましたが、当時の韓国は、議会の混乱によって一向に復興や工業化が進まず、また軍内の腐敗も深刻化していました。そこで朴は、1961年5月16日、軍の将官・将校・士官らの改革派を率いてクーデター(五・一六軍事クーデター)を決行し、軍事政権(国家再建最高会議)を成立させると、最高指導権を握りました。

1963年、民政にもどすための選挙では、自身の政党である民主共和党から立候補して第5代韓国大統領に就任しました。以後1979年、側近の金載圭情報長官によって暗殺されるまで、6代から9代までの韓国大統領を5期18年にわたって務め、権威主義体制による独裁政治を推進しました。

その間、1964年にアメリカ合衆国のジョンソン大統領の要請を受けてベトナム戦争に韓国軍を出兵、1975年6月、日本の佐藤栄作首相と「日韓基本条約」を締結して日韓両国の国交を正常化しました。また、日米両国の経済支援を得て、重化学工業の建設に力を注ぎ、「漢江の奇跡」と呼ばれる高度経済成長を達成、1970年頃まで経済的に劣位であった北朝鮮を経済的に追い越し、最貧国グループから脱することに成功しました。

いっぽう、民主化などの運動を徹底して弾圧し、人権上問題のある拷問や政治犯の投獄などを行ない、政権後半には単独での核武装などの自主国防路線や、日本に滞在していた民主化活動家の金大中を諜報機関(KCIA)により拉致(金大中事件)して国家主権を侵害するなど強硬な政策を進めました。

なお、第18代大韓民国大統領に就任した朴槿恵(パク・クネ)は、朴正煕の次女です。


「10月26日にあった主なできごと」

1909年 伊藤博文死去…尊王攘夷運動をへて維新後明治政府に入り、初代総理大臣として明治憲法の制定に努めた伊藤博文が、日韓併合の一歩をふみだすなか、朝鮮の独立をめざす安重根に暗殺されました。

1963年 日本初の原子力発電…茨城県東海村の日本原子力研究所が日本で初めて原子力発電を行ないました。これを記念して政府は、1964年から10月26日を「原子力の日」と制定しました。

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