児童英語・図書出版社 創業者のこだわりブログ

30歳で独立、31歳で出版社(いずみ書房)を創業。 取次店⇒書店という既成の流通に頼ることなく独自の販売手法を確立。 ユニークな編集ノウハウと教育理念を、そして今を綴る。

2015年09月

今日9月4日は、江戸時代後期に活躍した文人画家で、池大雅と並び南画を代表する浦上玉堂(うらかみ ぎょくどう)が、1820年に亡くなった日です。

1745年、岡山藩の支藩鴨方藩(今の岡山県浅口市にあった小藩)の藩邸に生まれた浦上玉堂(通称・兵右衛門)は、兄が早世し父が7歳のときに亡くなったため、幼くして家の跡目を継ぎました。10歳で藩校に入って熱心に学び、武士としての素養を積んで成人すると、16歳で1歳上の藩主政香の御側詰となりました。2人はまわりの人たちから水魚の交わりといわれるほどでしたが、1768年に政香が亡くなり、兵右衛門は政香のめざした政治の理想をついで、37歳のころに大目付の地位にのぼりました。

しかし、藩士浦上兵右衛門として真面目な勤めぶりの反面、生来からの芸術家気質が、年とともにふくれあがってきました。10代のときに、江戸で中国伝来の七弦琴を教わり、以来この楽器に愛着を持ち、35歳のとき、「玉堂清韻」の銘のある七弦琴を手に入れると、「玉堂琴士」と号しました。

やがて40歳を過ぎたころから、琴や詩文、書画に親しむ玉堂に対し、周囲から非難の声があがりだし、43歳のときに大目付を免ぜられて閑職に格下げされてしまいました。すると1793年には仕官を辞め、翌1794年、50歳にして武士を捨て、春琴と秋琴という2人の子を連れて脱藩しました。

以後は自由人として、九州から奥羽まで漂泊しながら、詩集『玉堂琴士集』を著したり、琴、絵、書から医術まで気ままな生活を送り、晩年は京都に住みついて、生涯を終えました。

特に高く評価されているのは個性的な南画で、独学によって身に着けたといわれ、脱藩前の絵は少ないことから、脱藩後の放浪生活の中から天性の素質が発揮されたようです。1811年ころから多く生み出され、国宝となっている「凍雲篩雪(とううんしせつ)図」は 川端康成の愛蔵品として知られるほか、70歳を過ぎてからの作といわれる「山紅於染(さんこうおせん)図」 など、現代に通じる詩的で音楽的感覚の絵画は、近年になって評価を高めています。


「9月4日にあった主なできごと」

1943年 猛獣薬殺慰霊祭…太平洋戦争中、上野動物園の猛獣が空襲で檻から逃げ出すのを防ぐため、27頭の猛獣すべてを薬殺する命令が下され、この日慰霊祭が行われました。

1965年 シュバイツァー死去…アフリカの赤道直下の国ガボンのランバレネにおいて、生涯を原住民への医療などに捧げたドイツの神学者・医師のシュバイツァーが亡くなりました。

1994年 関西国際空港開港…大阪・泉州沖の人工島に、関西国際空港が開港しました。世界初となる本格的な海上空港で、わが国初の24時間運用空港となりました。

今日9月3日は、フランスの自由主義的政治家・歴史家で、激動するフランスを生き抜きながら2度の首相と、第三共和政の初代大統領を務めたティエールが、1877年に亡くなった日です。

1797年、南フランスの港町マルセーユに、フランス革命によって滅びた貴族出身で公証人の子として生まれたアドルフ・ティエールは、地元の7年生中学を経て、エクス大学で法律を学び、1820年に弁護士になりました。まもなく、パリに出て自由主義に傾倒し、新聞記者として活動するうち、極右王党派と対立する政治家タレーランや銀行家ラフィットと親しくなりました。

1823~27年に『フランス革命史』(10巻)を著し、王政復古に反対する自由主義的立場に立つ文筆の才で名声を得ると、1830年1月に新聞「ナショナル」を創刊して政府を攻撃しました。7月にシャルル10世が勅令を発布すると、「ナショナル」に抗議文を起草し、七月革命の中心人物となりました。シャルル10世を追放(ブルボン朝の滅亡)した後、オルレアン家のルイ・フィリップを国王に擁立すると(七月王政)、自身は財務次官、内相、1836年と1840年には首相となって活躍しました。しかし、イギリスに対する強硬な外交方針がルイ・フィリップと合わず、首相をギゾーに代えられると、議会でギゾーを批判し続けながら、『フランス革命史』の続刊を、ナポレオン1世の時代(11~20巻)まで書き続けました。

1848年の二月革命でオルレアン朝が滅ぶと、フランスの秩序回復を目的としてルイ・ナポレオン(のちのナポレオン3世)をかつぎだし、ナポレオンのもとでも政治家として活躍します。しかし、ナポレオンが大統領、ついで皇帝になるとその専制に失望し、政界からの引退を表明し、史書の著作に専念するようになりました。

1869年から政界に復帰し、翌1870年2月の普仏戦争の最中に国民議会から行政長官に任じられました。普仏戦争でナポレオン3世がプロイセン王国に敗れて退位を余儀なくされた後、ティエールは新たに成立した国防政府の代表となります。プロイセンとの徹底抗戦を主張するかたわら、プロイセンの首相のビスマルクとの和平工作に尽力し、アルザス・ロレーヌ2州をドイツに割譲することで和睦を結びました。

その後、第三共和政期の初代大統領に選ばれますが、アルザスとロレーヌを割譲したことに怒ったパリ市民は、「パリ・コミューン」を創設し、ティエールは、一時的に政府をベルサイユに移してこれと戦い、2か月後に勝利しました。この戦いで、セーヌ川は赤く染まったといわれています。なお、パリ・コミューンは、後の社会主義、共産主義の運動に大きな影響を及ぼし、短期間のうちに実行に移された数々の社会民主主義政策は、今日の世界に大きな影響を与えています。

その後ティエールは、大統領として戦争で荒廃したフランスの復興をめざしましたが、政府内で王党派と急進的共和派の対立があり、満足な政治を行なえず、1873年の国民議会の議決により、大統領辞任を余儀なくされたのでした。


「9月3日にあった主なできごと」

1189年 奥州藤原氏滅亡…平泉(岩手県)を中心に藤原清衡・基衡・秀衡と3代、およそ100年も栄えた藤原氏でしたが、秀衡が源義経をかくまったことがきっかけとなって、4代目の泰衡が源頼朝軍に滅ぼされました。清衡の建造した中尊寺金色堂(国宝)には、藤原氏4代のミイラが残されています。

1658年 クロンウェル死去…イングランド共和国の初代護国卿(王権に匹敵する最高統治権を与えられた職名) となったクロンウェルが亡くなりました。

1841年 伊藤博文誕生…明治時代の政治家で、初代、第5代、第7代、第10代の内閣総理大臣になった伊藤博文が生まれました。

1969年 ホー・チ・ミン死去…ベトナムの革命家で、フランス植民地時代からベトナム戦争まで、ベトナム革命を指導したホー・チ・ミンが亡くなりました。

今日9月2日は、ドイツ強制収容所の体験記録『夜と霧』をはじめ、『死と愛─実存分析入門』などを著したオーストリアの精神科医・心理学者のフランクルが、1997年に亡くなった日です。

1905年、ユダヤ人家系の子としてウィーンに生まれたビクトール・フランクルは、ウィーン大学在学中に、精神分析学を創始したフロイトやその弟子のアドラーに、精神医学を学びました。卒業後は同大学医学部精神科教授となり、ウィーン市立病院神経科部長を兼任しました。フロイト、アドラーに続く「第三ウィーン学派」の一人として注目され、独自の「実存分析」を唱えた精神科医・脳外科医として国内では良く知られる存在でした。1933年から、ウィーンの精神病院で女性の自殺患者部門の責任者を務めていましたが、1938年ナチスによるドイツのオーストリア併合で、ユダヤ人がドイツ人を治療することを禁じられ、任を解かれてしまいました。

1941年のある朝、フランクルはナチス当局から、軍司令部に出頭するよう命じられました。ナチスの「ユダヤ人狩り」は、1939年の第二次大戦勃発に先立つ1933年頃からドイツ周辺でひそかに進行しており、宣戦布告時には、ドイツ国内に六つの強制収容所がありました。その後2年ほどの間に、ポーランド、オーストリアなどの占領国内に新たな収容所が次々と増設されていました。しかし、最初の出頭命令時に、思いがけない執行猶予がフランクルに与えられました。接見したゲシュタポ(ナチス・ドイツの秘密国家警察)に神経症や恐怖症についての説明をしているうちに興味を持たれ、数時間にわたって行われたそのカウンセリングが功を奏し、収容所への抑留は1年間延期されたのです。
 
フランクルはゲシュタポの管理下に置かれていたウィーンのユダヤ人病院の精神科に勤務することになり、時間の余裕を得たフランクルは、これまで自分が積み上げてきた事例をもとにした新たな理論をまとめたいと、執筆に取りかかりました。しかし、翌1942年9月頃、原稿が完成する前に、その日は来てしまいました。こうしてフランクルは、ポーランドのアウシュピッツなどの強制収容所へ家族とともに入れられ、両親、妻、2人の子どもはガス室などで死亡しました。フランクルはその間、速記記号で自らや周囲にいる囚人たちの精神状態を数十枚の紙に記録し、1945年4月、運よくアメリカ軍によって解放されたのでした。

1947年に出版された『夜と霧』のタイトルは、夜間などに霧のようにユダヤ人や政治犯を収容所に送りこむ姿を表したもので、フランクルのアウシュビィッツ到着から終戦による解放に至るまでの半年間の収容体験をつづったものです。日本での翻訳出版は1956年で、戦後復興期にあった日本人に大きな衝撃を与え、ベストセラーになりました。日本語を含め17カ国語に翻訳され、今も読みつがれています。発行部数は、20世紀内の英語版だけでも累計900万部以上といわれています。

フランクルは、収容所から解放された翌1946年、ウィーン市民大学で「なぜ私は生き抜いてこれたか」という3回にわたる連続講演を行いました。そこで、収容所の囚人は、生きる意味を失うと、どんな忠告や命令、懲罰にも反応しなくなって死んでいったこと、いっぽう愛する人が待っていたり、やりたい仕事が待っている人は、骨と皮になっても虐待されても生き延びようとしたこと。その体験から、人間が精神の崩壊から救われるのは、生きる意味や希望を見出す必要があると説き、あらためて「実存分析」を提唱しました。この内容は、『死と愛─実存分析入門』や『それでも私は人生にイエスという』に著し、戦争により、愛する人たちを失った多くの人々へ、感動をもって受け入れられました。

その後フランクルは、1955年にウィーン大学医学部神経科教授として1971年まで勤務し、オーストリア精神治療医学協会会長を務めました。極限的な体験を経て生き残った稀有の人ですが、ユーモアとウィットを愛する快活な人物で、学会出席などで、たびたび日本にも訪れていたそうです。


「9月2日にあった主なできごと」

BC31年 アクチュームの海戦…シーザーの暗殺後、ローマではオクタビアヌスとアントニウスと権力争いが始まっていました。この日アクチュームの海戦がおこり、両軍1000隻の軍船が槍、火矢、投石で交戦し、オクタビアヌスが勝利しました。アントニウスはクレオパトラと共にエジプトにもどりましたが、翌年アントニウスは剣で、クレオパトラは毒蛇に胸を咬ませて自殺しました。

1937年 クーベルタン死去…古代オリンピア遺跡の発掘に刺激されてオリンピックの復活を提唱、1896年ギリシャのアテネで近代オリンピックの開催を実現した「近代オリンピックの父」クーベルタン男爵が亡くなりました。

1945年 日本の降伏…東京湾上に浮かんだアメリカの軍艦ミズリー号の艦上で、連合国側に対する日本の降伏文書の調印式が行なわれました。日本全権団は重光葵外相他11名、連合国軍は9か国それぞれの代表とマッカーサー最高司令官が署名し、ここに満州事変から15年にわたる日本の戦争に終止符が打たれました。

今日9月1日は、アメリカの東洋史研究者・ハーバード大学教授で、駐日アメリカ大使を務めたライシャワーが、1990年に亡くなった日です。

1910年、キリスト教長老派教会の宣教師の次男として、今の東京港区白金台の明治学院内に生まれたエドウィン・ライシャワーは、日本の小学校やアメリカン・スクールに学び、1926年に米国に渡り、オパーリング大学を経てハーバード大学大学院で日本を含む東アジア研究に取り組みました。1935年に日本にもどると、東大と京大に留学し、この間にアジア研究家のアドリエンと結婚、1男2女をもうけました。1938年にハーバード大学へもどり、9世紀に日本の遣唐使の一員だった仏僧円仁の『入唐求法巡礼記』の翻訳と解明により博士号を授与されました。

太平洋戦争中は、陸軍少佐として日本軍の暗号解読にたずさわり、ワシントン郊外に軍要員のために日本語学校をつくり、その卒業生たちが戦後の日本研究の中心となっています。終戦後は占領政策で国務省極東小委員会委員として参画し、天皇制の存続にも一役買いました。

1950年にハーバード大学教授となって東アジアに関する講座を開講し、アメリカ政権のアジアに関する無知さから来る政策の誤りを本や雑誌、講演などで批判してきました。また、1960年には「損なわれた対話」と題した論文を発表、「アメリカをはじめとする西側諸国は、日本の政府や財界の指導者層ではない、野党や右翼、左翼活動家、知識人とも異端視することなく対話を重ね、日本の主流から外れた人々の実態や抱える不満を把握するべきである」と主張しました。

この論文がきっかけとなって、ケネディ政権はライシャワーを駐日アメリカ大使として任命し、「日本生まれのアメリカ大使」として日本人の妻 (アドリエン夫人と死別後、明治の元勲松方正義の孫娘ハルと再婚) とともに、人気を得ることになりました。そして、アメリカ国民に日本の良さを情熱的に紹介し、1960年安保闘争後の日本を、西欧諸国並みにアメリカの同盟国として定着させることに力をそそぎました。

そんなライシャワーに逆風が訪れたのは1963年11月のケネディ暗殺後にジョンソン政権に代わったころからからでした。ライシャワーとしてはベトナム戦争反対を主張したかったものの、ベトナム戦争政策を起因とする日本人の反米感情の高まりへの対処に苦慮し、翌1964年3月、大使館門前で暴漢にナイフで刺され重傷を負ってしまいました。退院後も駐日大使として活躍するものの、ベトナム戦争が本格化し日本人の対米感情の悪化に、本国の政策に違和感を感じて1966年に退任しました。

退任後は、ハーバード大学に復帰しますが、南ベトナムへの干渉・中国の承認・沖縄返還・対韓国政策の再考などに発言し、中曽根首相や韓国野党指導者の金大中に対してもさまざまな助言を行ったほか、ハーバード大学日本研究所所長、同大学東アジア研究評議会理事、OECD理事、アジア基金理事として、日本と東アジア諸国とアメリカの関係を取り持ってきました。

1990年、大使時代の刺殺事件の際の輸血による肝炎の悪化によって亡くなりましたが、みずから生命維持装置を外した尊厳死でした。


「9月1日にあった主なできごと」

1923年 関東大震災…午前11時58分、関東地方一帯に震度7.9(激震)という大地震・関東大震災がおこりました。東京では130余か所で火災がおきて半分以上を焼き尽くし、関東全域で死者10万人以上、災害にあった人は400万人にものぼりました。不安が高まる中に「朝鮮人が暴動をおこした」「井戸に毒を流した」などというデマが乱れとび、罪のない朝鮮人や中国人数千人が殺されました。

1939年 第二次世界大戦…ヒトラーの率いるドイツ軍は、突然隣国のポーランドに侵攻しました。この行動に対し、イギリスとフランスは、兵を引き上げるように要求しましたがヒトラーはこれを受け入れず、9月3日に英仏はドイツに宣戦布告、第二次世界大戦が勃発しました。戦争はヨーロッパ全体に広がり、やがて世界のほとんどを巻きこむ大戦争になっていきました。

1960年 防災の日…前年に襲来して、5000人を越える死者・行方不明者、39000人の負傷者という大災害をおこした伊勢湾台風と、関東大震災のおきた日にちなみ、防災意識を高めようと、政府はこの日を「防災の日」と定めました。

1983年 大韓航空機撃墜される…ニューヨーク発、バンクーバー経由ソウル行の大韓航空機が、誘導装置の設定ミスによるソ連領空侵犯のために、ソ連戦闘機に撃墜され、乗客乗員269人が死亡しました。

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