児童英語・図書出版社 創業者のこだわりブログ

30歳で独立、31歳で出版社(いずみ書房)を創業。 取次店⇒書店という既成の流通に頼ることなく独自の販売手法を確立。 ユニークな編集ノウハウと教育理念を、そして今を綴る。

2015年09月

今日9月11日は、江戸時代後期に、江戸湾各地での海苔(のり)養殖に成功した近江屋甚兵衛(おうみや じんべえ)が、1844年に亡くなった日です。

1766年、江戸四谷に生まれた甚兵衛は、海苔商人の店に奉公し、その経験を生かして海苔の仲買人となりました。当時、海苔の養殖所は江戸の大森近辺しかなく、そのため海苔の売買は大森付近の問屋が独占していました。

仲買商人「近江屋」を営むようになった甚兵衛は、海苔の養殖と製造法を研究し、河川の流入する遠浅の海に「ひび木」 (海苔をつけて育てる枝の多い木や竹)を立てこめば必ず成功するとの信念をもつと、50歳をすぎたころから、江戸川の浦安から、養老川、小櫃川などで、各地の村人に勧めましたが、どこにも聞き入れてもらえません。

やっと1822年、上総人見村(今の千葉県君津市)で、名主源左衛門と八郎右衛門、4人の村人の協力をえた甚兵衛は、小糸川河口にひび木を建て、海苔養殖の指導をしました。苦労を重ねながら、1年後の1823年に成功すると、しだいに沿岸諸村から江戸湾各地に広まり、「上総(かずさ)海苔」と呼ばれるようになりました。しかし、大森付近の海苔の生産者や海苔問屋たちの抵抗にあって、問屋を開くことができませんでした。

甚兵衛は、それ以後も「上総海苔」の発展に尽くして79歳で亡くなりましたが、やがて1940年には産額で東京府(今の東京都)を抜いて全国1位に達し、1965年代後半になって東京や神奈川、千葉北西部などの東京湾内で海苔養殖が消滅すると、東京湾産の海苔として「江戸前」の名を受け継ぎ、「江戸前海苔」とも呼ばれるようになりました。


「9月11日にあった主なできごと」

1900年 初の公衆電話設置…それまでは電話局にのみおかれた公衆電話が、この日東京の新橋駅と上野駅の通路に設置されました。当時は交換手を呼びだしてからお金を払って、相手を呼びだしてもらうしくみでした。

1947年 教科書の検定制度…1886年の「小学校法令」で国定教科書(政府が定めた教科書)が使用されてきましたが、この日教科書検定制度を発表、文部省が認めたものだけを教科書に採用することになりました。この検定制度は憲法違反に当たると、家永三郎は国を相手に裁判をおこしましたが、32年間にもわたる審議の結果、1997年に敗訴が確定しました。

1971年 フルシチョフ死去…スターリンの死後ソ連の最高指導者となり、スターリン批判によって、その独裁と恐怖政治を世界に暴露して世界に衝撃を与えたフルシチョフが亡くなりました。

2001年 同時多発テロ事件…アメリカでハイジャックされた旅客機3機が、ニューヨークの世界貿易センタービル(ツインビルに各1機)とワシントンの国防総省(ペンタゴン)に突入、数千人の死者を出す大惨事となりました。ブッシュアメリカ大統領は、この犯人をウサマ・ビンラディンを首謀者とするイスラムのテロ組織アルカイダと断定し、潜伏するアフガニスタン政府に引渡しを要求。しかし、彼らを保護するタリバン側が拒否したことから、アメリカはアフガニスタンを攻撃しました。

今日9月10日は、室町時代中期の武将で、6代将軍足利義教を暗殺した守護大名の赤松満祐(あかまつ みつすけ)が、1441年に亡くなった日です。

1381年、播磨・備前・美作の守護大名で、室町幕府の軍事指揮と京都市中の警察・徴税等を一色・京極・山名氏とともに交代で司る四職の一つだった赤松義則の子として生まれた赤松満祐は、早くから父に代わって政治の表舞台にありました。第4代将軍・足利義持の代になって、1411~13年に侍所頭人を務めました。

1427年に亡くなった父の跡目を継ぎましたが、同族の赤松持貞が将軍義持の寵愛を受け、義持は播磨を将軍の直轄領としてその代官職を持貞に預けようとしました。これに怒った満祐は、京都の自邸を焼き払って領国の播磨へ下り、一族を集めて合戦の準備を始めました。この行動に対し、義持は残る備前・美作両国も奪った上で赤松氏追討令を出しましたが、討伐を命じられた一色義貫らが出兵を拒むなど混乱が続きました。そんなとき、持貞と義持の側室との密通に関する告発があり、持貞は切腹に追いこまれ、満祐は諸大名の取りなしを受けて赦免されました。

1428年に義持が死去し、その弟の足利義教が第6代将軍となると、満祐は反乱を起こした北畠満雅討伐軍に加わり、満雅の子の教具と幕府を和睦させて北畠家との取次を務めました。さらに同年から1432年まで侍所頭人に再任され、翌年に播磨の国一揆が起こると播磨に下向して反乱を鎮圧しました。

このように義教と満祐は当初は良好な関係にあり、1438年には3度目の侍所頭人を任されるなど、幕府内の長老格として権勢を振るいました。やがて義教は、有力守護大名に厳しく対処するようになり、家督を取り上げたり、所領を削りとるなど勝手な振る舞いをするようになり、赤松氏に対しても1440年、満祐の弟義雅の所領を没収して、一族の貞村に分与するなど赤松氏の惣領家を冷遇しました。こんな情勢のなかで満祐は1441年6月24日、将軍義教を京都二条邸の猿楽の宴に招いて、宴中に殺害(嘉吉[かきつ]の乱)しました。

この事件は、足利政権の衰退を示すもので、しばらくは満祐を追討するものはありませんでした。やがて8月に入り、山名家の山名宗全を主力とする追討軍が行動を開始し、9月に入って播磨国の坂本城を、さらに越部庄の木山城を攻略し、満祐、義雅らは自害、伊勢国に逃れた満祐の嫡子教康も殺害され、赤松氏惣領家は没落したのでした。


「9月10日にあった主なできごと」

1561年 川中島の戦い…戦国時代の武将たちは、京都にせめのぼり、天下に号令することをめざして競いあっていました。甲斐(山梨)の武田信玄と、越後(新潟)の上杉謙信の両武将も、千曲川と犀川の合流地点にある川中島を中心に、いがみあっていました。川中島は穀倉地帯にあり、軍事的にも重要な地点だったため、1553年以来5度にわたって両軍の争奪戦の場となりました。4回目のこの日の戦いがもっとも激しいもので、信玄と謙信両雄の一騎打ちなど、さまざまなエピソードが残されています。結局双方とも、決定的な勝利をおさめることなく終わり、戦国時代は織田信長らの次の展開をむかえることになります。

1951年 「羅生門」グランプリ…黒沢明監督、三船敏郎・京マチ子主演による映画 「羅生門」 が、第12回ベネチア(ベニス)国際映画祭で、金獅子賞グランプリを受賞しました。

1960年 カラーテレビ本放送開始・・・NHK東京および大阪中央放送局、日本テレビ、東京放送、朝日放送、読売テレビが、この日、日本ではじめてカラーによる本放送(一部の番組のみ)を開始しましたが、当時のカラーテレビ受像機は全国でも1000台たらず、多くの人たちはデパートや駅前広場などで見る程度でした。

今日9月9日は、アメリカ人実業家で、世界一周鉄道を構想し、日本と満鉄の共同経営をめざすものの失敗したハリマンが、1909年に亡くなった日です。

1848年、聖公会牧師の子としてニューヨーク州ロングアイランドに生まれたエドワード・ハリマンは、中学を卒業後、14歳でニューヨークのウォール街で事務員として働き始め、22歳の時にニューヨーク証券取引所の会員となり、1872年に株式投機業ハリマン社を設立しました。1879年にニューヨークの銀行家アベレールの娘と結婚して財務的基盤を作ると、アべレールがシャンプレーン湖にある鉄道会社の社長も務めていた影響を受けて鉄道に関心を抱くようになり、1881年にハリマンは、オンタリオ湖近くにある破産した鉄道会社を買収し、会社を再建した後にペンシルバニア鉄道へ権利を売却して、莫大な利益を得ました。

1883年にイリノイ・セントラル鉄道の経営に参加、1897年には、経営不振に陥ったユニオン・パシフィック鉄道の執行委員長に就任、会社の再建に成功して会長となるなど、亡くなるまで会社に影響力を与え続けました。また、1901年にはサザン・パシフィック鉄道を買収し、同社の社長に就任します。

当時、アメリカ北西部を走る3つの鉄道は、モルガン系、ヒル系、そしてハリマン系に分かれ、どの系列にも入っていないシカゴ・バーリントン・クインシー鉄道の争奪戦を繰り広げました。ヒルと手を組んだモルガンがこの鉄道を買収すると、ハリマンは、モルガンのヨーロッパ旅行中に、モルガンのノーザン・パシフィック鉄道の株式買収を図ってウォール街を騒然とさせましたが、同鉄道の重役となることで終止符が打たれました。

1905年9月、世界一周鉄道を構想したハリマンは、日露戦争後のポーツマス条約締結後に訪日すると、1億円という破格の財政援助を持ちかけて、南満州鉄道(満鉄)の共同経営を申し込みました。日本側も乗り気で、10月12日に、奉天以南の東清鉄道の日米共同経営を規定した桂・ハリマン協定を結びました。しかし、小村寿太郎外相(講和条約交渉全権主席)が帰国すると情況は一変、小村は、「戦争の成果は、樺太の南半分を除けば、満鉄しかない。これを放棄すれば国民が許さない」と主張、桂太郎首相も覚書を破棄せざるえませんでした。

なお、この2ヵ月間の日本滞在中にハリマンは、柔術に関心を抱くようになり、柔道家の富田常次郎、前田光世や6つの柔術・力士団体と共に帰国し、コロンビア大学で公演を成功させました。


「9月9日にあった主なできごと」

686年 天武天皇死去…645年におこった大化改新の事業を完成させ、革新の気風あふれた白鳳文化を生んだ天武天皇が亡くなりました。

1828年 トルストイ誕生…『戦争と平和』『アンナ・カレーニナ』『復活』などの長編小説や、随想録『人生読本』で名高いロシアの作家トルストイが生まれました。

1948年 「朝鮮民主主義人民共和国」成立…同年8月に成立した「大韓民国」(韓国)に対抗して、「朝鮮民主主義人民共和国」(北朝鮮)が成立し、金日成を首相に選びました。

今日9月8日は、ベルリンオリンピックの記録映画『オリンピア』が絶賛されたものの「ナチスの協力者」として逮捕されるなど、生涯にわたり非難を浴びせられ続けたドイツの女流監督・写真家のリーフェンシュタールが、 2003年に亡くなった日です。

1902年、ベルリンの裕福な家庭に生まれたレニ・リーフェンシュタールは、1923年、表現ダンスのダンサーとしてデビューをはたすと、ドイツ舞踏界を代表するスターとして注目されました。ところが、ダンスのステージで膝を負傷して舞踏家の道を断念し映画界に転身すると、アルノルト・ファンク監督の山岳映画の主演女優として多くのファンを魅了しました。やがて演出にも才能を発揮するようになり、1932年に初の監督と主演をつとめた映画『青の光』が、ベネチア国際映画祭で銀賞を受賞、まだ女流監督の少なかった1930年代に、国際的な名声を確立しました。

ナチスが政権を獲得した1933年、リーフェンシュタールの才能を高く評価して庇護したヒトラーは、1934年に党大会の映画『信念の勝利』を手がけさせ、この映画は国外でも高い評価を受け、1937年のパリ国際博覧会で金メダルを獲得しました。さらに、国際オリンピック委員会のオットー・マイヤーから依頼を受けて撮影したベルリンオリンピック(1936年)の記録映画『オリンピア』(第1部「民族の祭典」、第2部「美の祭典」)は、ベネツィア映画祭最高賞を受賞しました。この作品の制作にあたってリーフェンシュタールは、170人ものスタッフを統率し、迫力ある場面を撮るためにフィールドにカメラ用の穴を掘ったり、選手たちに競技の模様を再現させるなど、スポーツ記録映画のテクニックを確立しました。

リーフェンシュタールは、素材が何であれ、映像の美を追求する姿勢を貫いていきましたが、ゲッペルス宣伝相の下で量産されていたナチス宣伝のための劇映画より、はるかに完成度の高い作品を作ってきたために、かえってドイツ民族の優秀性が評価される運命にあったのでしょう。そのため敗戦後は、ナチスの協力者として逮捕され、1948年まで拘束されました。さらに、著名人であったがために、生涯にわたって批判を浴び続けることになったのは不幸なことでした。

1962年、アフリカ・スーダンのヌバ族に出会い、10年間取材を続けて1973年に10か国で写真集『ヌバ』を出版、写真家としてセンセーショナルな再起を遂げました。また同年、71歳でスクーバダイビングのライセンスを取得し、水中写真に挑戦して2冊の写真集を発表しています。

晩年もアフリカを何度も訪問していましたが、2000年98歳で訪れた内戦中のスーダンで、搭乗していたヘリコプターが攻撃を受けて墜落、負傷したものの一命を取りとめました。2002年には『原色の海』で現役の映画監督として復帰し、これが生涯で最後の映画作品となりました。そして翌2003年、長いあいだ助手を務めてきたホルスト・ケトナーと結婚、最期は彼にみとられながら、安らかな死を迎えたと伝えられています。


「9月8日にあった主なできごと」

1841年 ドボルザーク誕生…『スラブ舞曲』や『新世界より』などの作曲で名高いチェコ・ボヘミヤ音楽の巨匠ドボルザークが生まれました。

1868年 元号「明治」…年号をこれまでの「慶応」(4年)から「明治」(元年)と改めました。同時に、今後は一天皇は一年号とする「一世一元の制」を定めました。

1951年 サンフランシスコ講和条約締結…第2次世界大戦で、無条件降伏をして連合国の占領下におかれていた日本国民は、1日も早い独立を願っていました。1950年に朝鮮戦争がはじまると、アメリカは日本を独立させて資本主義の仲間入りをさせようと、対日講和の早期実現を決意しました。そしてこの日、日本の全権大使吉田茂首相は、サンフランシスコで戦争に関連した48か国と講和条約に調印しました。同条約は1952年4月28日に発効し、日本は6年8か月にわたる占領を終えて、独立を回復しました。しかしこの時、アメリカとの間に「安全保障条約」を結んだことで、日本国内に700か所以上もの米軍基地がおかれるなど、本当の意味での独立国にはなりきれず、さまざまな波紋を残すことになりました。

1981年 湯川秀樹死去…「中間子」という電子のほぼ300倍もの質量をもつ素粒子のあることを、理論をもって証明したことで、1949年日本人で初めてノーベル賞(物理学賞)を受賞した湯川秀樹が亡くなりました。

今日9月7日は、戦前の中国・満州・日本において、中国人歌手・女優の李香蘭(り こうらん)として知られ、戦後は日本人として、歌手・女優・司会者・政治家で活躍した山口淑子(やまぐち よしこ)が、2014年に亡くなった日です。

1920年、今の中国東北部の奉天(今の瀋陽)に、満鉄(南満州鉄道)に勤務しながら中国語を教えていた佐賀県出身の父のもとで生まれた山口淑子は、生まれてまもなく父の友人瀋陽銀行総裁李際春と養子縁組を結び、1933年に李香蘭の名で「満州新歌曲」を歌いました。1934年に北京の女学校で学び、1937年に卒業するとその翌年にその美貌を買われて、満州映画協会(満映)に中国人女優李香蘭としてデビューをはたし、いくつかの作品に出演しました。

1939年、日満親善女優使節として来日、東宝や松竹の映画『支那の夜』『蘇州の夜』に主演、その主題歌をヒットさせました。また、1941年2月11日「紀元節」(今の建国記念日)には、日本劇場での「歌う李香蘭」に出演すると、大勢のファンが10万人も押し寄せ、日劇の周囲を七周り半もの観客が取り巻いたため、消防車が出動・散水し、群衆を移動させるほどの騒動だったと伝えられています。その後、慰問歌手として戦地をかけめぐり、1944年に満映を退社しました。

日本の敗戦後は、「漢奸」として祖国を裏切った容疑で中華民国の軍事裁判にかけられたものの、日本人であることが証明され、国外追放処分となって日本に引き揚げました。当時の本名山口淑子の名で芸能活動を再開すると、映画『わが生涯の輝ける日』や『暁の脱走』などに主演し、歌手としても「夜来香(イエライシャン)」を大ヒットさせたほか、アメリカのハリウッド映画『東は東』に出演したり、香港の映画・ショービジネス界でも活躍をしました。その間、1951年に彫刻家のイサム・ノグチと結婚して話題になるものの離婚、1958年に外交官の大鷹弘と再婚して1958年に芸能界を去りました。

1969年、フジテレビの「3時のあなた」の司会者として芸能界へカムバックを果たすと、番組ではベトナム戦争中の南ベトナムやカンボジア、中東などの海外取材を行うなど人気を呼びました。1974年には参議院全国区に出馬して当選すると3期18年を務め、その間環境政務次官を歴任、1992年に引退しました。

その後は、女性のためのアジア平和国民基金の呼びかけ人となって同基金の副理事長を務めたり、2006年には日本チャップリン協会の名誉顧問に就くなどの活動をしました。


「9月7日にあった主なできごと」

1533年 エリザベス一世誕生…1558年、25歳のときから45年間イギリスをおさめ、おとろえかけていたイギリスを、世界にほこる大帝国にたてなおしたエリザベス一世が生まれました。

1962年 吉川英治死去…『宮本武蔵』『新・平家物語』『新書太閤記』など人生を深く見つめる大衆文芸作品を数多く生み出して、国民的作家として高く評価された吉川英治が亡くなりました。

↑このページのトップヘ