児童英語・図書出版社 創業者のこだわりブログ

30歳で独立、31歳で出版社(いずみ書房)を創業。 取次店⇒書店という既成の流通に頼ることなく独自の販売手法を確立。 ユニークな編集ノウハウと教育理念を、そして今を綴る。

2015年09月

今日9月18日は、知的障害のある子どもたちの福祉と教育に生涯を捧げた糸賀一雄(いとが かずお)が、1968年に亡くなった日です。

1914年、鳥取市立川町に生まれた糸賀一雄は、母子家庭で育ち、旧松江高校時代にキリスト教に入信しました。その影響もあってか、京都大学に入学すると、宗教哲学を専攻し波多野精一に学びました。1938年に卒業後は小学校の代用教員になりましたが、やがて日本は太平洋戦争に突入し、一雄も召集を受けて戦地へ送られることになりました。たまたま病気にかかって入院したため出征が遅れ、はじめに出征した同僚は全員が帰らぬ人になってしまい、人生とは何かを深く考えるきっかけになりました。

除隊後の1940年、一雄は滋賀県庁に勤務し、社会教育の行政家として活躍しました。この間に『次郎物語』の作者下村湖人と親交を結び、下村の提唱する「煙仲間」運動に共鳴しましたが、このまま一生を終えることに疑問を感じ、1946年11月、代用教員時代の同僚だった池田太郎、田村一二とともに、大津市に戦災孤児・浮浪児と精神遅滞児の収容施設「近江学園」を創設し、園長になりました。

その後は、ユニークな心身障害児への養護、教育観を実現するために、池田・田村とともに3人が中心となって、全職員の「24時間勤務」「耐乏生活」「不断の研究」の3つを柱にした「発達保障」の理念に基づく障害者福祉・教育を提唱しました。その内容は、(1) 教育・保護・生産・医療・研究等の諸機能をもつ総合的施設づくりによる発達の総合的追究 (2) 園内教育の学校教育法による公教育としての位置づけ (3) 関連成人施設 (落穂寮・信楽寮・あざみ寮・日向弘済学園など) や重症心身障害児施設 (びわこ学園) の創出による社会福祉施設体系の開拓 (4) 地域の保健・医療機関と提携しての乳幼児健診活動の推進などで、その理念を、力の限りつくしました。

特筆されるのは、「この子らに世の光を」という従来の恩恵的発想を否定し、「この子らを世の光に」を強調したことでしょう。この言葉は、北欧諸国から始まった社会福祉をめぐる社会理念「ノーマライゼーション」(障害者と健常者とは、お互いが特別に区別されることなく、社会生活を共にするのが正常なこととする考え方) を先取りしたものでした。

一雄は、講演中に54歳で急逝しましたが、『福祉の思想』『この子らを世の光に』などの著作を残し、関係者や、障害者福祉・教育をめさせす若者たちへ、今も大きな影響を与え続けています。


「9月18日はこんな日」

1927年 徳冨蘆花死去…長編小説『不如帰(ほととぎす)』を著し、一躍ベストセラー作家となった明治・大正期の作家・随筆家の徳冨蘆花が亡くなりました。

1931年 満州事変勃発…満州の支配をねらう日本陸軍の関東軍は、中国の奉天郊外の「柳条湖」付近で、満州鉄道の爆発事故をおこしました。これを中国のしわざとして軍事攻撃を開始し、数日のうちに満州南部を占領。しかし、中国側から依頼を受けた「国際連盟」は、中国にリットン調査団を送って1932年3月に「満州国を認めない」決議をしたことに日本は反発、国際連盟を脱退しました。中国は同年5月に結ばれた協定により、「満州国」の植民地支配を認めました。

今日9月17日は、17世紀後半、王位を追われフランスへ亡命したイギリス国王のジェームズ2世が、1701年に亡くなった日です。

1633年、イギリス国王チャールズ1世とフランス王アンリ4世の娘マリアとの間に生まれたジェームズは、1640年にイングランド内戦「清教徒(ピューリタン)革命」が始まると、一家で王党派の拠点のあったオックスフォードに移り、1644年に「ヨーク公」となりました。内戦は国王側の敗北に終わり、オックスフォードも1646年に陥落。ジェームズは聖ジェームズ宮殿に監視つきで幽閉されると何度か脱出を試み、1648年に長老派のバンプフィールドの助力を得て、女装してオランダのハーグへ逃れ、その後アメリカにわたって亡命生活を送りました。

1649年、父チャールズ1世が「清教徒革命」によって処刑され、革命を指導していたクロムウェルは共和国をつくりましたが、厳格な清教徒主義の下で劇場や競馬場、酒場をつぶすなど、陽気なイギリス国民の反発を買いはじめました。1653年にクロムウェルは、国王の権力に匹敵する「護国卿」となりましたが成果はあがらず、1658年にクロムウェルが亡くなると、共和国は急速に衰えました。

1660年の王政復古によって兄のチャールズ2世が国王になると、ジェームズは帰国して海軍長官となりました。1664年には海軍大将としてアメリカに渡り、対オランダ戦争を指揮して、オランダ植民地ニューアムステルダムを占領、自らの名にちなんでニュー・ヨークとしました。ところが、そんな戦果をあげたにもかかわらず、カトリック教徒だったために、審査法(非国教徒は官公庁に勤めることができない) に触れて1673年に海軍長官を罷免されてしまいました。また、兄王に嫡子がなかったため、ジェームズが王位継承をすることになっていましたが、議会は3度にわたり、「王位継承排除法案」を提出しましたが成立しませんでした。

こうして1685年、兄が亡くなりイギリス国王となったジェームズ2世は、即位直後に前王の庶子モンマス公の反乱がおこるもののこれを鎮圧、その協力者には極刑を科しました。さらに、議会の反対を押し切って常備軍を設置したり、1687年には信仰寛容宣言を行ってカトリック勢力を復活させて官職に抜てきしたり、宗教裁判所の復活、大学への干渉など、専制的な政治を行いました。

これに反発した議会は1688年、議会内に生まれたばかりのホイッグ党とトーリー党が共同してジェームズ2世を廃位して、王の長女メアリー(のちのメアリー2世)と夫のオランダ総督ウィレム(のちのウィリアム3世)をイギリス王として迎えました。

国民の信頼を失い孤立したジェームズは、軍隊を率いて上陸したウィレムに対し戦いを挑む姿勢を見せず、フランスへ亡命しました。そのためイギリス国民は、この政権交代が流血のない革命だったことを誇りにし、「名誉革命」と名づけました。こうして王国は、ウィリアム3世とメアリー2世の共同統治となったのでした。

なお1689年12月、議会で国王の理解のもとに成文化したのが「権利の章典」です。法典は今なお、イギリス不文憲法の根本法のひとつになっています。


「9月17日にあった主なできごと」

1867年 正岡子規誕生…俳誌「ホトトギス」や歌誌「アララギ」を創刊し、写生の重要性を説いた俳人・歌人・随筆家の正岡子規が生まれました。

1894年 黄海の海戦…日清戦争で、日本連合艦隊と清国の北洋艦隊とが鴨緑江沖の黄海で激突、清国海軍は大損害を受けて制海権を失いました。日本海軍が初めて経験する近代的装甲艦を実戦に投入した本格的な海戦として知られ、日本の勝利を決定づけました。

今日9月16日は、婦人解放運動家・作家・無政府主義者の伊藤野枝(いとう のえ)が、1923年に、大杉栄とともに憲兵に虐殺された日です。

1895年、今の福岡市西区に生まれた伊藤野枝は、瓦職人の父が放蕩者でろくに仕事をしないため、母が塩田の日雇いや農家の手伝いなどをして暮しを立てていました。小学2年生のときには、口減らしのために一時叔母の家に預けられるほどでした。1909年高等小学校を卒業すると、家計を助けるため地元の郵便局に勤務しながら雑誌に詩や短歌を投稿しました。やがて東京への憧れがつのり、叔父の援助で上京すると、猛勉強のすえ上野高等女学校(今の上野学園)に4年編入試験に合格、在学中に英語教師の辻潤と知りあいました。

1912年に同校を主席で卒業して帰郷すると、親の決めた相手と婚約が決まっていて、しぶしぶ結婚をするものの、9日目に家出して再上京、恩師の辻潤と結婚生活をはじめました。こうした結婚問題を通じ、家庭制度の矛盾を痛感したことから、平塚らいてふを中心に女性の解放をめざす団体「青鞜社」に入社、編集にたずさわりながら、自伝的小説や評論を発表し、「新しい女」として注目されました。

1915年からは、平塚にかわって『青鞜』の編集責任者なると、エリート女性だけでなく一般女性にも誌面を解放し、『青鞜』を文芸雑誌から女性評論・女性論争誌に変えていきました。その間、アメリカの著名な無政府主義者のゴールドマン・エマに傾倒して『婦人解放の悲劇』を翻訳したり、足尾鉱毒事件に関心を深め、私生活では長男と次男を出産しています。

1916年になると4月に辻潤と離別し、『青鞜』を放棄するとともに、翌月から無政府主義運動の中心であった大杉栄と文通を開始、秋には同棲しました。大杉の妻、東京日日新聞記者で愛人の神近市子と四角関係を演じると、翌1917年に大杉は妻と離婚し、神近は大杉に重傷を負わせたことで殺人未遂罪で入獄します。「多角恋愛」で勝利した野枝は、9月に長女を出産、周囲からの「悪魔」呼ばわりを逆手に取って魔子と命名しました(のち眞子に改名)。貧しさに苦しみ、官憲に追われる生活ながら大杉との生活は充実し、1918年に『文明批評』、翌年に『労働運動』を二人で創刊。『クロポトキン研究』『貧乏の名誉』『二人の革命家』などの著書・共著も多く残し、その後も4人の子を出産しました。

1921年には、無政府主義の機関誌「赤瀾会」結成に参加するなどの活動を続けました。そして1923年の関東大震災後まもない16日のこの日、大杉栄、大杉の甥・橘宗一とともに憲兵の甘粕正彦に連れ去られ、その日のうちに憲兵隊構内で虐殺(甘粕事件)されました。わずか28歳の若さでした。

なお、オンライン図書館「青空文庫」では、伊藤野枝の『乞食の名誉』ほか評論・翻訳書など29編を読むことができます。


「9月16日にあった主なできごと」

1620年 メイフラワー号出帆…アメリカ建国のきっかけをつくった102人のピュリタン(清教徒)が、イギリスのプリマス港を出港しました。

1793年 渡辺崋山誕生…江戸時代後期の画家・洋学者で、著書『慎機論』の中で幕政を批判したとして「蛮社の獄」に倒れた渡辺崋山が生れました。

1865年 小村寿太郎誕生…日英同盟、日韓併合の立役者であり、日露戦争終結後のポーツマス講和会議の全権大使を務めた外交官小村寿太郎が生まれました。

1877年 大森貝塚発掘開始…アメリカの動物学者モースは、縄文時代の貝塚「大森貝塚」を発掘を開始しました。この発掘がきっかけとなって、日本に近代科学としての考古学がスタートしました。

今日9月15日は、シェーンベルクやベルクと並んで新ウィーン楽派の中核メンバーとして活躍し、『子どものための小品』など、戦後の前衛音楽勃興の中で再評価されたオーストリアの作曲家ウェーベルンが、1945年に亡くなった日です。

1883年、当時オーストリア・ハンガリー帝国の首都ウィーンにクロアチアなどに領地を所有する貴族の家庭に生まれたアントン・ウェーベルンは、鉱山技師の父親とともにオーストリア帝国各地を転々としますが、幼いころから母にピアノ指導を受け、少年時代はクラーゲンフルトのギムナジウムでピアノ・チェロ・音楽理論を学びました。1902~06年にはウィーン大学でアドラーらに音楽学を学び、イザークに関する論文で学位を得ました。

いっぽう1904~08年、シェーンベルクに個人的師事を受けて作曲修行を続け、1908年に『パッサカリア ニ短調』を評価されて独立を許されました。独立後は、イシュルやテプリツ、ダンツィヒ(今のグダニスク)、シュテッティーン、プラハなどで指揮者として活動し、第一次世界大戦後にウィーンへもどり、シェーンベルクを輔佐して私的演奏協会を設立しました。また、シェーンベルク門下のベルクとともに研さんしあって、無調音楽から「十二音技法」を確立し、1924年には、師の発案した12の音からなる音列(十二音技法)を用いた最初の作品『子どものための小品』を作曲しました。基本音列をさまざまな音の高さに分配して6回用いるだけの単純な構成で、何度くりかえしてもよいと指示されています。

1938年にナチス・ドイツによってオーストリアが吸収合併されると、ウェーベルンの音楽は「頽廃音楽」のらく印を押され、演奏活動で生計を立てることは困難になりました。終戦後に作曲活動を再開しようと、ザルツブルク近郊にあった娘の家に避難しますが、娘婿が元ナチの親衛隊で、当時は闇取引に関与していました。たまたま、喫煙のためにベランダに出てタバコに火をつけたところを、オーストリア占領軍の米兵により、闇取引の合図と誤解され、その場で射殺されてしまったのでした。

不慮の死をとげてからは、遺品の多くはモルデンハワーという研究者の手にわたり、31番までついていた作品番号以外に、習作となるオーケストラ作品、室内楽、歌曲があるのを見つけ、公表後に出版しました。『子どものための小品』もそのひとつです。ウェーベルンの作品はどれも短く、その全集はCD3枚に収められるほどですが、「十二音技法」も師のシェーンベルクよりもはるかに厳密で、緻密な独自の世界は「音の点描」とか「抽象的印象主義」とよばれ、戦後の前衛音楽家たちに多大な影響を与えることになりました。


「9月15日にあった主なできごと」

1140年 鳥羽僧正死去…平安時代後期の天台宗の高僧でありながら絵画にも精通して、「鳥獣戯画」の作者とされる鳥羽僧正が亡くなりました。

1600年 関ヶ原の合戦…天下分け目の戦いといわれる合戦が、岐阜県南西部の地「関ヶ原」でおこりました。徳川家康ひきいる東軍と、石田三成ひきいる西軍との戦いです。一進一退をくりかえしていたのが、西軍として参戦していた小早川軍が東軍に寝返ったことことで西軍は総崩れし、東軍の圧勝に終わりました。これにより、全国支配の実権は、家康がにぎることになりました。

1825年 岩倉具視誕生…公家出身で、幕末から明治前期に活躍した政治家の岩倉具視が生まれました。

1881年 魯迅誕生…20世紀初頭の旧中国のみにくさを鋭く批判した『狂人日記』『阿Q正伝』を著した魯迅が生まれました。

今日9月14日は、幕末の儒学者で、つねに尊王攘夷運動の中心にいた梅田雲浜(うめだ うんぴん)が、1859年に亡くなった日です。

1815年、若狭国(福井県)小浜藩士の次男として生まれた雲浜(本名・定明 通称・源次郎)は、8歳のときから藩校の順造館に入り、山崎闇斎派の義理と実践を重んじる朱子学の影響を受けて成長、1829年に京都へ出ると、同じ崎門学派の望楠軒(ぼうなんけん)に学びました。1830年には江戸の藩邸で、尊王の学風のある山口菅山に師事して学問を深め、1840年に帰藩すると、祖父の家系である梅田氏を継ぎ、大津に湖南塾を開きました。

1843年には、再び京都に出て望楠軒の学塾の講主となり、梁川星巌や頼三樹三郎ら志士と交際を深め、1852年小浜藩主・酒井忠義に藩政改革の建言したところ、怒りに触れて藩籍をはく奪されてしまいました。

1853年のペリー来航には、江戸で吉田松陰らと対策を論じ、外国人排斥による攘夷運動を訴えて尊皇攘夷を求める志士たちの先鋒となって、幕政を激しく批判しました。水戸へも出て遊説を試みたり、大和十津川の郷士を組織して大坂湾に現れたロシア軍艦排除の行動もしました。1856年には長州藩に遊説して、同藩と京都、奈良、十津川間の物産交易の仲介をしたり、1858年になると、京都の公卿たちに働きかけ、幕府が日米修好条約を結んだことを朝廷が却下するよう求めるなど、つねに尊王攘夷運動の中心にいました。

このため、幕府の大老井伊直弼による「安政の大獄」の発端となって捕らえられると、在京の志士たちは衝撃を受け、長州の吉田松陰は獄中から雲浜救出の計画を立てたほどでした。しかし、捕縛後は京都から江戸に送られ、取調べに拷問を受けても何一つ口を割らず、獄中でかかった脚気のために病死しました。拷問での傷の悪化による死因説もあります。
 

「9月14日にあった主なできごと」

1321年 ダンテ死去…イタリアの都市国家フィレンツェに生まれた詩人で、彼岸の国の旅を描いた叙事詩『神曲』や詩集『新生』などを著し、ルネサンスの先駆者といわれるダンテが亡くなりました。

1822年 ロゼッタストーン解読…1799年、ナポレオンがエジプト遠征の際に持ち帰ったロゼッタストーンを、フランスのシャンポリオンが解読に成功。古代エジプト文明の存在を解明するきっかけとなりました。

1849年 パブロフ誕生…消化腺と条件反射の研究で、ノーベル賞を受賞したロシアの科学者パブロフが生まれました。

1852年 ウェリントン死去…イギリスの軍人・政治家で、ナポレオンを2度にわたって討ち破ったウェリントンが亡くなりました。

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