児童英語・図書出版社 創業者のこだわりブログ

30歳で独立、31歳で出版社(いずみ書房)を創業。 取次店⇒書店という既成の流通に頼ることなく独自の販売手法を確立。 ユニークな編集ノウハウと教育理念を、そして今を綴る。

2015年09月

今日9月30日は、中国清朝の前身となる「後金」を創始し、清の初代皇帝とされるヌルハチ(太祖)が、1626年に亡くなった日です。

1559年、ヌルハチは今の中国東北部に住んでいたツングース系の種族「女真族」の一派である建州女直の一首長の子として生まれました。生まれたころの「女真族」は、建州女直、海西女直、野人女直の3つに分かれて、激しく主導権争いをしていました。

ヌルハチの幼少年期に関しては不明ですが、18歳の時に他家へ婿入りし、1583年25歳の時、祖父と父が民朝軍に殺されたのを期に独立すると、実家の再興をはかりました。ヌルハチはまず祖父と父を死に追いやった同族のニカンワイランを討つと、民に恭順の態度を示しながら、数年のうちに建州女真族をほぼ平定し、1587年に蘇子河畔に最初の居城としてフェアラ城を築きました。

1591年ころには、ヌルハチの支配権は撫順以東、鴨緑江南側にまで拡がり、ヌルハチの台頭を恐れた女真族のハダ、ホイファ、ウラをはじめ蒙古を含めた九諸国連合軍3万が1593年に来襲すると、ヌルハチは海西女直と協力してこの侵攻を撃退し、民から「龍虎将軍」を与えられました。いっぽうヌルハチは、独自の満州文字を考案し、軍隊組織で社会組織を兼ねた「八旗制度」を定めました。これは旗の色を黄・白・紅・藍の4色とし、それぞれの色にふちのない旗とある旗の8種類に分け、1旗の兵数を7500人としたものです。

1603年に居城をヘトハラ(興京老城)に移し、1613年までに撫順以西のハダ、ホイファ、ウラの女真族を平定すると、1616年に後金国を打ち立ててハン(汗)の位につきました。これに危機をおぼえた民朝は、ヌルハチ討伐を決意し、1618年七大恨を宣言すると、翌1619年に10万の大軍を出してヌルハチ征討に向かいましたが、明・清交替の関ヶ原といわれる「サルフの戦」に大敗を喫しました。

こうしてヌルハチは、1621年には遼東平野に進出して瀋陽、遼陽を落として遼河以東の地をかため、国都を遼陽、ついで瀋陽に移しました。いっぽう明側も、寧遠城防守によって勢力の回復を計ったため、ヌルハチもそれ以上は進めませんでした。1626年ヌルハチは、なんとか寧遠城を包囲したものの、明のポルトガル砲によって重傷を負い、まもなく病死しました。

なお、国号「後金」を「清」と改称したのは、1636年にヌルハチの子の第2代ホンタイジ(太宗)時代のことで、その後清は1912年まで、中国とモンゴルを支配した最後の統一王朝となりました。


「9月30日にあった主なできごと」

1472年 王陽明誕生…中国が明とよばれていたころ、儒教の流れをくむ「朱子学」に対し、日常生活の中での実践を通して人の生きるべき道をもとめる「陽明学」という学問の大きな流れを作った思想家の王陽明が生まれました。

1913年 ディーゼル死去…空気を強く圧縮すると高い温度になります。この原理を応用して、空気を圧縮した筒のなかに液体の燃料を噴射して自然発火させ、爆発力でピストンを動かすエンジンを発明したディーゼルが亡くなりました。

1999年 東海村で臨界事故…茨城県東海村の核燃料施設で臨界事故が発生、至近距離で中性子線を浴びた作業員3名のうち、2名が死亡、1名が重症となったほか、667名の被曝者を出しました。

今日9月29日は、平安時代前・中期に、平安時代ではもっとも長い34年間天皇親政を行った第60代天皇の醍醐天皇(だいごてんのう)が、930年に亡くなった日です。

885年、宇多天皇と、藤原高藤のむすめ胤子の子として生まれた第1皇子の敦仁(あつぎみ/あつひと)は、893年に立太子となり、897年13歳のとき、宇多天皇が上皇となり、位を譲られて醍醐天皇として即位しました。上皇の意向もあって摂政・関白をおかず、藤原時平を左大臣、のちに学問の神様といわれる学者の菅原道真を右大臣として天皇の政務を推進しました。

ところが、両大臣の間に反目が生じ、901年に道真は、時平のたくらみによって九州の大宰府に左遷されてしまいました。以後、時平は妹を天皇の皇后にするなど専権体制を確立し、「荘園整理令」「班田収授の法」を行うなど、律令政治の復古路線に基づく施策を積極的に打ち出しました。

909年に醍醐天皇は、時平没後にその弟忠平を太政官の首班(のちに右大臣)とし、現実主義的路線を採用し、律令支配原理とは異なる支配方式で臨みました。また、晩年の天皇は、大宰府へ流した道真の怨霊に悩まされ、930年清涼殿の落雷に衝撃を受け、8歳になったばかりの寛明親王(朱雀天皇)に譲位すると、数日後に亡くなってしまいました。

なお、醍醐天皇の時代は、のちに1代おいた村上天皇時代とともに「延喜・天暦の治」といわれ、理想の政治とあおがれましたが、いまでは成果はあまりなかったと評価されています。しかし、文化面では、天皇の命(勅命)による国史編さん事業として『日本三大実録』(50巻)、法令集『延喜格式』(律令を行うための必要な規則集「延喜格」12巻と「延喜式」50巻)、さらに勅撰和歌集『古今和歌集』の編さんなどは、高く評価されています。天皇は大変な勉強家で、多くの詩歌を残し、『醍醐天皇御記』という日記も知られています。


「9月29日にあった主なできごと」

1801年 本居宣長死去…35年かけて完成させた『古事記』注釈の集大成といわれる『古事記伝』(44巻)など、数多くの古代日本を探る研究書を著した江戸時代中期の国学者・本居宣長が亡くなりました。

1805年 ネルソン死去…トラファルガー沖海戦で、フランス・スペイン連合艦隊をうちくだいたイギリス海軍の提督ネルソンが戦死しました。

今日9月28日は、フィリピン共和国の大統領として、20年にわたる独裁政治行ったマルコスが、1989年に亡くなった日です。

1917年、アメリカ合衆国の植民地支配下にあったフィリピンのセブ島北イコロス州サラッドに、下院議員の長男として生まれたフェルディナンド・マルコスは、フィリピン大学法学部の学生だった1937年、父親と政治的に対立していた下院議員暗殺事件の容疑で起訴され、有罪判決を受けました。刑務所で裁判の準備と司法試験の勉強をして過ごし、翌年に最高裁判所判決で無罪を勝ち取り、1939年に同大学を卒業すると司法試験に主席で合格するほどの俊才でした。

太平洋戦争中は抗日ゲリラを指揮し、日本軍に敗れたバターン戦で捕虜になり「バターン死の行進」を体験しました(ただし、これは本人の言葉で真相は不明)。 戦後は、1949年にこれまでの最年少で北イコロス州の下院議員になると、以後は順調に政界を登りつめて、1959年に上院議員に転身、1961年からは上院議長を務めました。当時のフィリピンは、反米を掲げ社会改革をめざす共産党や、さまざまな社会運動がいっきに力をもたげはじめた時代でした。

1965年末の大統領選に、国内の地方開発と徴税機能の強化、在任中に強じんな経済を作り上げることを公約にして当選をはたすと、公約通り、失業率は1966年から1971年までに7.2%から5.2%に減少させたばかりか、国内産業の工業化と、アメリカや日本などの西側自由世界の貿易自由化を推進しました。歴代のアメリカ大統領、特にジョンソン、ニクソン、レーガンとは親密で、1966年10月にベトナム問題に関するSEATO首脳会議を主催し、アメリカに対する軍事的協力を目的に、南ベトナムにフィリピン軍を派兵しました。

1969年に再選をはたしたマルコスは、1970年1月から3月に学生運動に端を発した暴動の増加や、新人民軍の爆弾テロがおこると、共産主義者のしわざと断定し、1972年9月、フィリピン全土に戒厳令を布告し、みずから国軍最高司令官として立法・行政・司法権を掌握して独裁体制を築き上げました。

ところが1970年代に入ると経済が低迷しはじめ、累積債務の増大が顕著になったばかりか、マルコスとイメルダ夫人の血縁や取り巻きだけが官職を独占して経済的利益をあげる腐敗の構図に、国民の怒りがわきあがりました。そのためマルコスは、1981年に戒厳令を解除して形式的な選挙を実施し、1987年までの任期を得ました。しかし、1983年に政敵ベニグノ・アキノ暗殺事件で事態は一変、1986年に繰り上げ選挙が実施され、アキノ未亡人と大統領選挙を争うものの、「市民革命(エドゥサ革命)」がおこりました。マルコスは国外脱出を余儀なくされ、翌年、亡命先のハワイで失意のうちに病死したのでした。


「9月28日にあった主なできごと」

1895年 パスツール死去…狂犬病ワクチンを初めて人体に接種するなど、近代細菌学の開祖といわれるフランスの細菌学者・化学者パスツールが亡くなりました。

1970年 ナセル死去…スエズ運河の国有化、アスワン・ハイ・ダムの建設につとめ、第三世界(アジア、アフリカ、ラテンアメリカなどの発展途上国)の指導者として活躍したエジプトのナセルが亡くなりました。

今日 9月25日は、二つの世界大戦と全体主義に翻弄される民衆を一貫して描いたドイツ出身でアメリカに亡命した作家レマルクが、1970年に亡くなった日です。

1898年、ドイツ北西部のオスナブリュックに製本業を営む敬虔なカトリック信者の家に生まれたエーリッヒ・レマルクは、ギムナジウム(中高一貫校)で学んでいるときに第一次世界大戦が始まり、1916年に級友たちと共に志願兵として「西部戦線」(連合軍と対峙したドイツ西部のフランスとの国境の戦線)に配属されました。戦場に出て翌月には榴弾の破片を首や腕に受け、終戦までデュースブルクの軍病院で過ごしました。ドイツ敗戦後に復学し、卒業後は小学校教員、ゴム会社勤務を経て、ベルリンに出てスポーツ雑誌の記者となり、雑誌などに記事を寄せていました。

そして1929年、自らの体験をもとにした長編小説『西部戦線異状なし』を発表すると、いちやく世界的に有名になりました。この作品は、西部戦線に投入されたドイツ軍志願兵の主人公ポール・ボイメルが戦争の恐怖、苦悩、虚しさを味わう物語で、ポールと友人たちは、愛国精神を説く先生に半ばのせられ出征志願します。しかし、実際の戦場は、想像以上の悲劇に満ちていて、「西部戦線異状なし」と報告された休戦直前のある日の主人公の死をもって終ります。戦争の悲惨さを描いた反戦文学の傑作としてベストセラーとなり、25国語に翻訳され、内外で350万部という大ベストセラーとなり、翌1930年にはアメリカで映画化されてヒットしました。(その後も売れ続け、20世紀末には45か国語、800万部以上といわれています)

2作目の『還り行く道』も反戦的気分が書かれていたためナチスの迫害を受け、1932年にスイスへ亡命。ヒトラー政権が樹立した1933年、『西部戦線異常なし』は宣伝相ゲッベルスの指揮のもとでベルリンのオペラハウス前で焚書となり、1938年には、ドイツ政府はレマルクの国籍をはく奪しました。

1939年にレマルクはアメリカへ渡り、1947年にはアメリカ市民権を得ています。第2次大戦後の1946年、大戦前夜のパリを舞台にした『凱旋門』を発表、この本は200万部のベストセラーとなり、ふたたび世界的な名声を博しました。1954年に発表した『愛する時と死する時』など作品の多くは映画化されていますが、1958年の『愛する時と~』の映画化に際しては、ゲシュタポに追われる老教師ポールマンとして自ら出演しています。

なお、晩年はスイスのロカルノに住み、1967年にはドイツ連邦共和国功労勲章を受章しています。


「9月25日にあった主なできごと」

1829年 シーボルト国外追放…1年ほど前に、幕府禁制品とされていた日本地図などを国外に持ち出そうとしたこと(シーボルト事件)で、捕えられていたシーボルトが、国外追放・再渡航禁止処分となりました。

1936年 魯迅死去…20世紀初頭の旧中国のありかたやみにくさを鋭く批判した『狂人日記』『阿Q正伝』を著した魯迅が亡くなりました。

今日9月24日は、江戸時代中期に江戸っ子の絶大な人気を博し、現在にいたる市川団十郎(いちかわ だんじゅうろう)家の基礎を築いた歌舞伎役者の市川団十郎二代目が、1758年に亡くなった日です。

初代市川団十郎は、坂田金時や曽我五郎のような勇猛な人物を演ずる「荒事」を得意とする歌舞伎役者として人気を誇りましたが、1688年、その初代を父に、母(初代市川翠扇)との長男として生まれた二代目は、初代が成田山新勝寺(成田不動)に子宝の願をかけたところ見事に生れた子だったため、「不動の申し子」といわれました。

1697年、中村座の『兵根元曾我』で初舞台をふむと、1704年に初代が舞台上で俳優に殺されたため、二代目を襲名しました。まだ17歳で技芸修行の身だった二代目を支え鍛えあげたのは、名優と讃えられていた生島新五郎でした。生島が初代中村七三郎の芸を受け継ぐ和事師であったことから、父親譲りの荒事芸に和事味を加味した独自の芸風を育て、めきめき上達したことで、二代目団十郎は、ほどなく初代の再来といわれるようになりました。

しかし、当時の歌舞伎は、穢多(えた=非人とともに四民の外の最下層)頭・弾左衛門の支配下に置かれていました。1709年の山村座『傾城雲雀山』で、二代目団十郎が演ずる粂八郎役のもぐさ売りのセリフが大評判となり、世間に芸の実力を認めさせるきっかけになるとともに、江戸町奉行は歌舞伎と傀儡師(かいらいし=首からかけた箱の上で人形を舞わせる大道芸人)の支配権を弾左衛門からはく奪したことで、二代目は念願だった被差別民からの独立を果たしたのでした。

さらに1713年、山村座『花館愛護桜』で助六を初めてつとめ、『国姓爺合戦』の和藤内、曽我狂言の五郎など荒事系の演技に和事味の加わった演技は高く評価され、押しも押されぬ名優の評価を受け、江戸歌舞伎の第一人者へと成長していきました。1721年正月には、森田座『大鷹賑曽我』という狂言で五郎を勤めた演技は大評判となって、同年10月まで280日間大入りを続けました。この大成功によって以後2世の給金は年千両となり、毎年6月は夏休みがもらえるという特別待遇が与えられました。のちに「千両役者」と一般に使われるようになりますが、その始まりはこの二代目からでした。

1735年、門弟の市川升五郎に団十郎を譲り、自らは二代目市川海老蔵を襲名しました。1742年には大坂に上って『毛抜』を初演し、上方においても人気を博しましたが、この年に三代目が急死したため、1754年に改めて門弟の二代目松本幸四郎を養子として、団十郎を継がせました。

71歳で亡くなりますが、二代目は「役者の氏神」と讃えられ、代々の団十郎の中でも傑出した名優といわれています。


「9月24日にあった主なできごと」

1744年 石田梅岩死去…正直、倹約、堪忍という徳目をわかりやすく示し、町人の道を教える「心学」をはじめて説いた江戸時代中期の学者石田梅岩が亡くなりました。

1877年 西郷隆盛自刃…木戸孝允と大久保利通とともに倒幕・維新に尽力し「維新の三傑」の一人とうたわれた西郷隆盛は、士族(もと武士)たちの不満を解消させるために征韓論を主張しましたが、木戸、大久保らに反対されたため、明治政府の要職をすてて郷里鹿児島へ帰りました。私塾を開いているうち、やがて下級士族たちにかつがれて8か月にわたる「西南戦争」をおこしました。西郷軍は政府軍と奮闘しましたが、最新式武装をした政府軍の力に及ばす、最期をさとった西郷は、たてこもった城山で腹心に介錯を頼み自刃しました。

1965年 みどりの窓口開設…国鉄(いまのJR)は、コンピューターを使った指定券発売の窓口「みどりの窓口」を全国152の主要駅と日本交通公社の83営業所に設置しました。これにより、長い時間待たされたり、ダブルブッキングがほとんど解消されました。

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