児童英語・図書出版社 創業者のこだわりブログ

30歳で独立、31歳で出版社(いずみ書房)を創業。 取次店⇒書店という既成の流通に頼ることなく独自の販売手法を確立。 ユニークな編集ノウハウと教育理念を、そして今を綴る。

2015年08月

今日8月6日は、19世紀前半のイギリス統治下のアイルランド人政治家で、「カトリック教徒解放運動」の結果、政治的・社会的差別の大半を撤廃することに成功したオコンネルが、1775年に生まれた日です。

アイルランドの南西部ケリー州の小地主の息子として生まれダニエル・オコンネルは、富裕な叔父のもとで育ち、フランスのカトリック学校に留学した際、フランス革命を目の当たりに見て、政治的実現のために暴力を使うことに否定的になりました。帰国後ダブリンで弁護士業を営み、名声と冨を得ます。

当時のアイルランドは、イギリスの植民地となっていて、土地の大部分はイギリス人地主に所有され、ダブリンの総督によって治められていました。また、イギリスでは国教徒以外は公職につけない決まりがあるほか、政治的にも社会的な差別がありました。さらに1800年、「合同法」という法律によりアイルランドがイギリスに併合されても、差別は解消されないままでした。

オコンネルは、「合同法」に反対をとなえ、カトリック教徒に対する差別の撤廃を求める運動をはじめると、1823年に、月1ペニーという安い会費で参加できる「カトリック協会」を設立して、階層の違いをこえた幅広いアイルランド人の結集をはかり、大衆運動を展開しました。

いっぽうオコンネルは、イギリス下院議員のクレア県補欠選挙に立候補しました。カトリック信者は当選しても議員になれないことは判っていましたが、反カトリック派の候補者を落選させるためだけに立候補したのでした。こうして、対立候補の2倍以上の票を獲得して目的を達しました。とうぜん政府はオコンネルに議員の資格を与えません。

これがきっかけとなって、カトリック教徒が大半を占めるアイルランドに、政府を非難する声が全国的に盛り上がり、暴動の危険性も出てきました。この情況を察したウェリントン内閣は、1829年4月、「カトリック教徒解放法」を議会に提出し、可決成立させました。こうしてカトリック教徒にも議員、閣僚、裁判官、陸海軍の将官など公職につける道が開かれ、オコンネル自身も下院議員となりました。そして、イギリス議会で、政府のアイルランド政策を力強く演説する姿は「解放者(リベレイター)」として尊敬されました。

1843年にオコンネルは、「合同法」を解消し、アイルランド独自の議会を開設することをめざして大衆運動を展開しだすと、アイルランドの独立をめざす若い世代も「青年アイルランド党」を結成し、オコンネルとともに運動を進めていました。ところが、あくまで議会を通じおだやかに運動を進めようとするオコンネルの人気は急速に衰え、実力で独立を勝ち取ろうという青年アイルランド党の運動が主流となっていきました。気落ちしたオコンネルはアイルランドを去り、ローマへ向かう途中で亡くなりました。

なお、アイルランドは、1916年にダブリンに「アイルランド共和国」が生まれ、1921年に「アイルランド自由国」として独立しますが、北部アルスター地方の6州は「北アイルランド」としてイギリスに留まったことで、内戦になっています。


「8月6日にあった主なできごと」

1660年 ベラスケス死去…スペイン絵画の黄金時代を築いた17世紀を代表する巨匠ベラスケスが亡くなりました。

1881年 フレミング誕生…青かびからとりだした物質が大きな殺菌力をもつことを偶然に発見し、ペニシリンと命名して世界の医学者を驚かせたフレミングが生まれました。

1945年 広島に原爆投下…アメリカ空軍B29爆撃機が、人類史上はじめて原子爆弾を広島市に投下しました。爆心地から半径500m以内の人々はほとんどが即死、2km以内の建物は全壊、爆発とそののちの火災で、市内95000戸の9割が灰となりました。市民およそ31万人のうち、罹災者は17万人をこえ、死者および行方不明者92000人以上、重軽傷者123000人以上と、日本占領軍総司令部(GHQ)は翌年発表しましたが、じっさいの死者は1945末までに14万人をこえていたといわれます。

今日8月5日は、「俳句」を通して、人間の生活や心理や考えを積極的に表現しようした俳人で教育者の中村草田男(なかむら くさたお)が、1983年に亡くなった日です。

1901年、今の中国福建省アモイに、清国領事の長男として生まれた中村草田男(本名・清一郎)は、4歳のとき父の郷里の松山へ帰り、この地で育ちました。松山中学時代に伊丹万作らと回覧同人誌を制作しますが、病のため1年間休学後に松山高校に入学します。ニーチェやストリンドベリ、チェーホフの作品を読みふけるいっぽう、神経衰弱に悩み続けました。1925年、一家で東京へ移転し、東京帝国大独文科に入学しますが、1927年に神経衰弱におちいって再び休学します。このころ斎藤茂吉の歌集を読んで詩歌にめざめ、俳句雑誌「ホトトギス」を参考にしながら句作を始めました。

1929年、郷里の大先輩高浜虚子に会い、復学したのち東大俳句会に入会。国文科に転じて水原秋桜子の指導を受け、「ホトトギス」に4句が入選すると自信がめばえ、1933年に32歳で卒業すると、成蹊学園に教師として務めながら、「ホトトギス」同人となって活躍しました。いっぽう、学生俳句連盟機関誌「成層圏」を指導しました。1936年に第1句集『長子』を発表すると、「降る雪や 明治は遠くなりにけり」など、みずみずしい叙情あふれる作風が評判になりました。

草田男は、無季(季語のない俳句)、連作(同主題のもとにいくつかの俳句を並べる) など、「新興俳句」の流れには批判的で、伝統を重んじながら、新しい俳句をめざし、石田波郷、加藤楸邨らとともに「人間探求派」と呼ばれるようになりました。

敗戦後の1946年、俳句雑誌「万緑(ばんりょく)」を創刊し、写生を基本に季題を守りながら人間の感情の内面に達する方針を貫いて、亡くなるまで主宰し続けました。1949年成蹊大学教授に就任して国文学を担当し、1959年に朝日俳壇選者、1960年には現代俳句協会幹事長となるものの、協会内の意見対立のため協会を辞し、1961年に「俳人協会」を設立して初代会長に就任します。また、戦後におこったは「第二芸術論争」(俳句は「老人や病人の余技」と桑原武夫が挑発) をはじめ、さまざまな俳句論争でも主導的な役割をはたしました。

戦後の句集には、『火の鳥』『万緑』『美田』などがあり、「万緑の中や吾子の歯生え初むる」「勇気こそ地の塩なれや梅真白」「葡萄食ふ一語一語の如くにて」などが、よく知られています。


「8月5日にあった主なできごと」

1864年 下関戦争…イギリス・フランス・オランダ・アメリカ4か国の連合艦隊が、長州藩(山口県)に戦争をいどみました。3日間の戦いの末に連合艦隊が完勝しました。攘夷の無謀さをはっきりと知った長州は、イギリスに接近し、欧米から新知識や技術を積極的に導入して、軍備を近代化していきました。同時期に近代化路線に転換した薩摩藩とともに、倒幕への道を一気に進むことになりました。

1895年 エンゲルス死去…マルクスと協力し、科学的社会主義を創始したドイツのエンゲルスが亡くなりました。

今日8月4日は、石川島重工業・石川島播磨重工業社長、東芝の社長・会長を歴任し、経団連会長や臨調答申でも、らつ腕をふるった土光敏夫(どこう としお)が、1988年に亡くなった日です。

1896年、今の岡山市北区に肥料仲買商の子として生まれた土光敏夫は、旧関西中学を経て、1920年東京高等工業学校機械科を卒業後、東京石川島造船所(現・IHI)に入社し、1922年、タービン製造技術を学ぶためスイスへ留学しました。1936年、芝浦製作所と共同出資による石川島芝浦タービン(現・IHIシバウラ)が設立されると技術部長として出向し、1946年に社長に就任しました。当時の猛烈な働きぶりから「土光タービン」とあだ名されるほどでした。

1950年、石川島重工業の社長に就任して再建に取り組み、徹底した合理化で経営再建に成功すると、1960年には播磨造船所と合併した石川島播磨重工業(現IHI)社長になりました。1965年には、やはり経営難に陥っていた東京芝浦電気(東芝)の再建を依頼され、翌1966年に再建に成功しましたが、東芝の体質を変えるまでには至らず、1972年に会長に退きます。

1974年、日本経済団体連合会(経団連)第4代会長に就任すると、以後、2期6年にわたって財界総理としてオイルショック後の日本経済の安定化や企業の政治献金の改善などに尽力し、「行動する経団連」を実践しました。また、1981年には、鈴木善幸首相、中曽根康弘行政管理庁長官に請われ、第二次臨時行政調査(臨調)会長に就任すると、2年後の1983年には行財政改革答申をまとめ、「増税なき財政再建」「三公社(国鉄・専売公社・電電公社)民営化」などの路線を打ち出して、行政改革の先頭に立ちました。

謹厳実直な人柄と、追随を許さない抜群の行動力から、「ミスター合理化」「荒法師」「行革の鬼」などの異名をもらいながら、次々と困難な仕事を引き受けて実績を残すいっぽう、その質素な生活ぶりから「めざしの土光さん」といわれ、経済界ばかりか政界からも、戦後もっとも尊敬された人物のひとりでした。

なお、土光の母親は、女子教育の必要性を感じ、1941年にほとんど独力で横浜市鶴見区に「橘学苑」を開校した女傑で、土光は母の歿後、橘学苑の第4・7代目の校長を務めたことでも知られています。


「8月4日にあった主なできごと」

1830年 吉田松陰誕生…佐久間象山らに学び、1857年に私塾「松下村塾」を主宰し、1859年の「安政の大獄」で刑死した長州藩士の吉田松陰が生まれました。松陰は、幕末から明治にかけて活躍した高杉晋作、久坂玄瑞、伊藤博文らおよそ80人の門下生を育てました。

1875年 アンデルセン死去…『マッチうりの少女』『みにくいあひるの子』『人魚姫』など150編以上の童話を生み出し、「童話の王様」と讃えられるアンデルセンが亡くなりました。

1944年 アンネ一家逮捕される…『アンネの日記』を書いたドイツ系ユダヤ人アンネ・フランクの一家が、オランダ・アムステルダムの隠れ家に潜行生活中、ナチスの秘密警察ゲシュタボに逮捕されました。

1996年 渥美清死去…人情あふれる車寅次郎(フーテンの寅)を、27年間48作品にわたって演じた国民的スターの渥美清が亡くなりました。

今日8月3日は、ソ連時代の強制収容所を世界に知らせた『収容所群島』や『イワン・デニーソビチの一日』などを発表し、20世紀後半におけるロシア最大の作家とたたえられたソルジェニーツィンが、2008年に亡くなった日です。

1918年、カフカス地方キスロボーツクの農家に生まれたアレクサンドル・ソルジェニーツィンは、生前に父が事故で亡くなったため、母の手で育てられました。1936年にロストフ大学に入学し、数学を専攻する一方で、文学にも興味をもち、モスクワ大学の通信講座で哲学・文学・歴史を学びました。

1941年、第二次世界大戦の独ソ戦が勃発すると召集され、砲兵学校での訓練を経て、偵察砲兵中隊長となり前線で戦いました。ところが、友人との文通のなかでスターリン批判のことばを不用意にもらしたことが検閲によって摘発され、1945年に逮捕され、懲役8年の刑を受けました。1953年に刑期を終えると、南カザフスタンのコクテレク村に無期流刑となり、学校教師として働きました。1954年には、タシケントの病院で癌の手術を受けています。1957年に、公式に名誉回復すると、中部ロシアのリャザンに移って中学の数学教師の仕事を続けました。

作家デビューとなったのは、1962年に発表され、自らの収容所体験に基づいた『イワン・デニソビッチの一日』です。ソ連の収容所の実態を初めて克明に描いた作品は、多くの外国語に翻訳されて世界的な反響をよびました。その後、いくつかの短編を発表するものの、19世紀以来のトルストイやドストエフスキーのリアリズムの伝統を受け継いだ作風は、ソビエト共産党側からの批判が強まり、1960年代なかば以降、ソ連国内での作品発表は完全に閉ざされてしまいました。

そのため、タシケントの癌病棟を舞台にして人間の生と死を見つめた長編『ガン病棟』、モスクワ郊外の特殊収容所の生活を描いた『煉獄のなかで』は、ともに1968年に国外で出版されました。公然とソ連体制を批判しながら作家活動を続けるソルジェニツィンに対するソ連当局の弾圧は厳しさを増し、1969年にはソビエト作家同盟を除名されました。しかし、国際的名声は高まって、翌1970年にはノーベル文学賞を授与されますが、いったん国外に出ると帰国できなくなる恐れがあったため、授賞式には欠席しました。

1973年に長編『収容所群島』の第1巻をパリで出版すると、翌1974年2月に国家反逆罪として逮捕され、ソ連市民権を剥奪されて西ドイツに強制追放されました。この事件は世界を騒然とさせる国際的スキャンダルとなり、追放後はチューリヒに住んだあとアメリカに移住、バーモント州の田舎に家を構えて、執筆活動に没頭しました。こうして1975年に完結した『収容所群島』(全3巻)は、ソ連の収容所の歴史と実態を膨大な資料や証言に基づいて描き出したドキュメンタリー小説でした。

その後のソルジェニツィンは、1990年にソ連の市民権を回復し、ソ連崩壊後の1994年に20年ぶりにロシアへ帰国すると、2か月にわたり全ロシアを横断したのち、モスクワへ凱旋したのでした。


「8月3日にあった主なできごと」

1792年 アークライト死去…水力紡績機の発明など、イギリスにおこった産業革命の担い手となったアークライトが亡くなりました。

1862年 新渡戸稲造誕生…国際連盟事務局次長となって、日本の国際的な発展に寄与した教育者の新渡戸稲造が生まれました。

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