児童英語・図書出版社 創業者のこだわりブログ

30歳で独立、31歳で出版社(いずみ書房)を創業。 取次店⇒書店という既成の流通に頼ることなく独自の販売手法を確立。 ユニークな編集ノウハウと教育理念を、そして今を綴る。

2015年08月

今日8月17日は、激動する昭和を、時代の変動とともに生きた定評ある作家・詩人・評論家で、膨大な日記を遺した高見順(たかみ じゅん )が、1965年に亡くなった日です。

1907年、今の福井県坂井市に、福井県知事の私生児として生まれた高見順(本名・高間芳雄)は、生後まもなく祖母、母とともに上京。府立一中を経て、旧制一高時代はダダイズムに傾倒し、東京帝国大学英文科に進むとアナキズムや左翼思想にのめりこみ、在学中に壺井繁治らと左翼芸術同盟を結成するいっぽう、「左翼芸術」「大学左派」などのプロレタリア文学雑誌に小説、評論などを発表しました。

1930年に大学を卒業すると、研究社の英和辞典の編集にかかわり、コロムビアレコードに勤務している1933年、組合活動のために治安維持法で検挙され、転向を表明したことで半年後に釈放されました。まもなく、雑誌「日暦」を創刊し、結婚したばかりの妻が他の男性と失踪して離婚するなど、心の苦しさを吐き出すかのように、短編『感傷』を発表すると、いちやく文壇の注目を浴びました。さらに1935年には「饒舌体」とか「説明体」と呼ばれる独自の語り口で描いた長編『故旧忘れ得べき』は、第1回芥川賞候補作になって、作家としての地位を確立しました。1936年には、武田麟太郎の「人民文庫」にも参加して『故旧~』の続編を連載、10月に単行本として刊行してから文筆生活に入りました。

日中戦争が長期化する情勢のなか、思想犯保護観察法が施行され、擬似転向者として再調査されると、高見は逃れるようにアパートに部屋を借りて浅草生活に入り、『如何なる星の下に』を「文芸」に連載しました。この長編は三雲祥之助による挿絵とともに当時の浅草情緒をよく伝えた傑作として定評があります。

敗戦後は、私生児という自己の誕生の秘密に食いこんだ『わが胸の底のここには』にはじまり、『今ひとたびの』(1946年)、『胸より胸に』(1950~51)など、私小説風に傷つきやすい精神を掘り下げた作品を次々と発表しました。

その他、昭和という時代を描いた連作『激流』『いやな感じ』『大いなる手の影』、詩集に『樹木派』『死の淵より』、評論には文学的証言として貴重な『昭和文学盛衰史』、膨大な日記『高見順日記』(正続16巻)は、昭和史の語り部としての貴重な資料です。また、晩年は、日本ペンクラブや日本近代文学館創立に尽力したことでも知られています。


「8月17日にあった主なできごと」

1807年 蒸気船の試運転…アメリカの技術者で発明家のフルトンが、ハドソン川で蒸気船の試運転に成功しました。

1945年 インドネシア独立宣言…インドネシア独立運動の指導者スカルノは、オランダからの独立を宣言しました。オランダは独立を認めず、その後4年間の戦争に突入しました。

1949年 松川事件…東北本線の福島県松川市付近で、レールの釘がはずされていたため列車が転覆し、機関士ら3人が死亡する「松川事件」がおきました。この事件は、国鉄(JRの前身)の労働組合や共産党が仕組んだものとされ、労働組合員ら20人が逮捕されました。1963年に判決がおり、全員が無罪となりましたが、この事件をきっかけに政府の労働組合への取り締まりが強化され、日本の労働運動は急速に弱まっていきました。当時おきた下山事件、三鷹事件とともに「国鉄3大ミステリー」といわれています。

今日8月12日は、陸軍官僚として常に本流を歩み、「将来の陸軍大臣」といわれながら、陸軍内部の統制派と皇道派の抗争にからんで斬殺された永田鉄山(ながた てつざん)が、1935年に亡くなった日です。

1884年、今の長野県諏訪市に病院長の子として生まれた永田鉄山は、1898年に東京陸軍地方幼年学校に入校後、1904年陸軍士官学校、1910年に陸軍大学校をトップクラスの優秀な成績で卒業しました。

1913年、軍事研究のためドイツに留学後、1916~23年まで、デンマーク、スウェーデン、スイスに駐在しました。スイス駐在中の1921年には、ドイツ南部のバーデン・バーデンの温泉地で、小畑敏四郎、岡村寧次、東条英機らと会談し、陸軍の薩長閥除去などの陸軍刷新、総動員体制構築について盟約を結び、のちに省部中堅幕僚の横断的結合組織である「二葉会」や「一夕会」を結成しました。

こうして、第1次世界大戦前後のヨーロッパの軍事情勢を学び、国家総動員の必要性を認識して帰国した永田は、参謀本部に入ると、陸軍大学校教官、1926年整備局動員課長、1930年軍務局軍事課長、1932年参謀本部第二部長、歩兵第1旅団長と、エリートコースを経て、1934年軍務局長に就任しました。その間、国民・産業・財政などを一体化した総力戦体制構築の基礎をつくりあげ、軍事行政に辣腕をふるいました。

当時陸軍内部には、荒木貞夫、真崎甚三郎らの「皇道派」と、永田鉄山、東条英機らの「統制派」の対立があらわになっていました。天皇親政による軍事国家樹立をめざし国家改造をめざす「皇道派」が青年将校らに支持されたのに対し、政財界と結び、合法的に総力戦体制の構築をめざす「統制派」へは、エリート幕僚将校らに支持されていました。

やがて統制派内部に、青年将校らの目にあまる政治策動を封じるためには、少なくとも真崎甚三郎に教育総監は退いてもらおうという議論が、武藤章中佐や池田純久中佐らを中心に起こり、1935年7月15日の異動において真崎教育総監が更迭されました。この人事は、永田が首謀し、財閥・重臣との通謀者と目され、皇道派の青年将校相沢三郎中佐に、軍務局長室内において斬殺されたのでした。(相沢事件)

永田の暗殺によって統制派と皇道派の派閥抗争はいっそう激しさを増し、皇道派の青年将校たちは、翌1936年に「二・二六事件」を起こすに至り、その後の統制派は東条英機に継承され、太平洋戦争に至りました。「もし永田がいたなら太平洋戦争は起きなかった」ともいわれ、「永田の前に永田なく、永田の後に永田なし」といわれる英才でした。


「8月12日にあった主なできごと」

1643年 俵屋宗達死去…江戸時代の日本画最高傑作といわれる『風神雷神図』 などを描いた江戸時代初期の画家の俵屋宗達が亡くなりました。

1893年 「君が代」「日の丸」制定…「君が代」など8曲が小学校祝日唱歌に定められ、国民の祝典や学校の式では必ず歌われるようになりました。敗戦後は、天皇を賛美する歌として強制されなくなりましたが、1999年「国旗国歌法」で正式に「日の丸」が国旗、「君が代」が国歌と定められました。国民の誰もがよろこんでうたえる国歌がほしいという声も根強いものがあります。

1962年 太平洋単独横断…堀江謙一が小型ヨット(全長5.8m 幅2m)で兵庫県西宮をたった一人で出発し、93日後のこの日アメリカのサンフランシスコに到着。日本人初の単独太平洋横断に成功しました。

1985年 日航ジャンボ機墜落…日航機123便が、群馬県御巣鷹山の南にある高天原(たかまがはら)山に墜落。死者520人という日本国内で発生した航空機事故では最多、単独機の航空事故では世界最多という大惨事となりました。
 
 
* 「夏季休暇」のため、次回は17日となります。

今日8月11日は、鎌倉幕府の第4代征夷大将軍でありながら、執権の北条家に失脚させられた九条頼経(くじょう よりつね)が、1256年に亡くなった日です。

1218年、関白の九条道家と西園寺公経の娘倫子の3男として生まれた九条頼経(幼名・三寅[みとら])は、1219年に3代将軍源実朝が2代将軍頼家の子公暁に暗殺されて源氏の正統が絶えたため、頼朝の遠縁(祖母が頼朝の姪)だったために鎌倉に迎えられ、鎌倉へ下向から数年間は北条政子が尼将軍として三寅を後見して将軍の代行をしました。その後、承久の乱をはさんで6年後の1225年、政子が亡くなると3代執権北条泰時は、元服した三寅に頼経を名のらせ、翌年鎌倉幕府の第4代将軍に任じました。

1230年、頼家の娘で15歳上の竹御所と結婚しましたが、幕府の実権は北条義時・政子姉弟が築いた執権北条氏が握っており、1234年に竹御所が亡くなると、頼経は名目のみの将軍となっていきました。ところが、頼経が長期間在職するうち、御家人との間に親密な関係もできて、義時の次男朝時を筆頭に反執権政治勢力が頼経に接近するなど、幕府内での権力基盤を少しずつ強めていきました。これに危機感をおぼえた第4代執権の北条経時は、1244年に将軍職を頼経の子の頼嗣に譲らせ、第5代将軍としました。

頼経は、翌1245年出家して行賀を名乗りますが、その後も鎌倉にとどまって「大殿」とよばれて、隠然たる勢力を持ち続けました。そのためか、経時の急死で5代執権となった北条時頼を倒そうとする名越光時らの計画に、頼経が加わったという疑いがかけられ、1246年に時頼により京都に送還されてしまいました。

その後、当時の御家人の中で最大勢力となっていた頼経を推す三浦光村と、時頼を中心とする北条家との対立が決定的となり、1247年時頼は先制攻撃をかけて三浦一族を滅亡させ、同時に頼嗣も京都へ送還して、九条家との縁を絶ちました。

こうして、頼経以降の鎌倉幕府の将軍は、政治的な実権を握ることがありませんでしたが、幕府の御家人たちの主人はあくまで、頼朝とその妻政子直系の「鎌倉殿」で、執権の北条家がどんなに強力な権力を持っても、この流れは幕府の滅亡までつづき、しばしば権力闘争に影響を与えてきたのでした。


「8月11日にあった主なできごと」

1338年 室町幕府誕生…足利尊氏は、北朝の光明天皇から征夷大将軍に任命され、室町幕府を開きました。いっぽう、後醍醐天皇は吉野に逃れて南朝を建てて、その正当性を主張していました。そのため、政権としての室町幕府はなかなか安定せず、3代将軍足利義満の時代になって、ようやく機構的な体裁が整いました。

1892年 吉川英治誕生…『宮本武蔵』『新・平家物語』『新書太閤記』など人生を深く見つめる大衆文芸作品を数多く生み出して、国民的作家として高く評価されている吉川英治が生まれました。

1919年 カーネギー死去…「鋼鉄王」とよばれた大実業家であり、公共図書館や大学、カーネギーホールの建設など公益事業に力をそそいだ社会事業家カーネギーが亡くなりました。

今日8月10日は、江戸時代前期の浪人で、由井正雪らと江戸幕府の転覆を図った「慶安事件」をおこした丸橋忠弥(まるばし ちゅうや)が、1651年に磔(はりつけ)となった日です。

丸橋忠弥の出自については、土佐国(高知)に長宗我部盛親の側室の子として生まれたとする説、上州(群馬)出身とする説、出羽国出身とする説などがあります。下級武士として、いちじ加賀前田家の家臣だったようで、やがて江戸へ出てきました。

友人の紹介で、江戸の御茶ノ水に宝蔵院流槍術の道場を開いていたところ、1651年に軍学者由井正雪と出会って幕府を倒す陰謀に加わり、江戸城襲撃の首謀者となって準備を進めました。ところが、一味に加わっていた奥村八左衛門の密告により、7月23日幕府に計画が露見して捕縛され、8月のこの日、品川の「鈴ヶ森」で処刑されたのでした。

この事件は、幕府の転覆をねらう一連の計画 (丸橋忠弥が江戸城を焼討し、その混乱で江戸城から出て来た老中以下の幕閣や旗本を討ち取る。同時に京都で由比正雪が、大坂で金井半兵衛が決起する) のもとで未遂に終った「慶安事件」として知られ、実録本『油井根元記』や講談などで、早くから事件の内容が知られていました。しかし、事件の性質上、浄瑠璃や歌舞伎など劇化にあたっては、丸橋忠弥の名は「角屋秋夜」「丸谷弥忠太」などの名が使われています。

とくに有名になったのは、明治に入った1870年に初演された河竹黙阿弥の歌舞伎『樟紀(くすのき)流花見幕張』(慶安太平記)で、丸橋忠弥に関しては、江戸城攻撃に備え掘の深さを測量するため中間に変装するものの、来かかった老中松平伊豆守に見とがめられる(江戸城掘端の場)。もうひとつは、謀反を隠すため、わざと酒浸りの日々を送っていたときの話です。舅の弓師藤九郎は、借金の返済と妻お節との離縁を迫るため、困った忠弥は舅に真相を話し納得させようとするものの驚いた藤九郎に訴えられ、道場の外で「火事だ」と騒がれ、見に飛び出してきたところを大勢の捕り手に囲まれた忠弥は抵抗むなしく捕縛される(忠弥内捕物の場)として描かれ、本名が定着しました。


「8月10日にあった主なできごと」

1232年 御成敗(貞永)式目制定…鎌倉時代の執権北条泰時は、武士の権利、義務、罰則などを51か条に定めた日本で初めての武士の法律『御成敗式目』を制定しました。その後長い間、武家社会に関するとり決めの手本となりました。

1693年 井原西鶴死去…江戸時代に「浮世草子」とよばれる庶民のための小説を数多く著した井原西鶴が亡くなりました。

1830年 大久保利通誕生…明治維新をおしすすめた西郷隆盛、木戸孝允とともに「維新の三傑」とよばれ、明治新政府の土台をささえた指導者大久保利通が生まれました。

今日8月7日は、教皇グレゴリウス7世との叙任権闘争に敗れて破門されるものの、教皇を追放したドイツ王で神聖ローマ皇帝のハインリヒ4世が、1106年に亡くなった日です。

中世の西ヨーロッパは、広大な荘園を所有するローマ教皇と、神聖ローマを中心とする世俗権力が対立していました。1050年、ドイツ王で神聖ローマ皇帝ハインリヒ3世の長男として生まれたハインリヒは、父が急死したためにわずか6歳で即位し、母が摂政として政治を行ったことで、王の権力が弱まりつつありました。

16歳となって、自らの政治を開始したハインリヒ4世でしたが、東ドイツ南部のザクセン公の反乱をまねくなど、頭を悩ます問題が次々におこりました。王権の強化につとめようと、都市に自治権を与えることで市民の支持を得て、ドイツ諸侯の力をおさえることに成功したかにみえました。しかし、その当時の神聖ローマ皇帝の地位は、ドイツ諸侯と教皇の支持という、微妙なバランスの上に成り立つ不安定なものでした。

1075年に入るとハインリヒ4世は、教皇の意向を無視して叙任権を行使し、自らの意思に沿う司教を任命しはじめると、教皇グレゴリウス7世はこれに抗議しました。これが紛糾して「皇帝と教皇の争い」(叙任権闘争)がおこりましたが、ザクセン公らドイツ諸侯が反旗を掲げたことで、ハインリヒ4世の旗色が悪くなっていきました。

教皇によるハインリヒ4世への「破門」が実施されると、ハインリヒ4世は教皇と直談判しようと考えました。1077年、諸侯に招かれてアウクスブルクへ向かっていたグレゴリウス7世は、ハインリヒ4世の動きを知ると身の危険を感じて北イタリアのカノッサ城に避難したため、ハインリヒ4世は許しを乞うて破門の解除を願いました。これが「カノッサの屈辱」といわれる事件です。(雪が降る中3日間、カノッサ城門にて裸足のまま断食と祈りを続けたというエピソードは、後世の創作)

忠誠を誓ったハインリヒ4世に対し、グレゴリウス7世は破門を解きましたが、その後勢力を立て直したハインリヒ4世は、教皇に対する敵対行動を再開すると、1084年にローマを包囲し、グレゴリウス7世を追放したのでした。

しかし、ドイツ諸侯の反乱はなおも続き、グレゴリウス7世の後を継いだウィクトル3世、ウルバヌス2世もハインリヒ4世との対決姿勢を崩さず、長男のコンラートや次男のハインリヒ5世にもそむかれて、失意のうちに亡くなりました。


「8月7日にあった主なできごと」

1831年 十返舎一九死去…弥次郎兵衛と喜多八(やじさん・きたさん)の旅行記『東海道中膝栗毛』などで知られる江戸時代後期の戯作者・十返舎一九が亡くなりました。

1941年 タゴール死去…『ギーターンジャリ』の詩でアジア初のノーベル文学賞を受賞し、東洋最大の詩人と讃えられたタゴールが亡くなりました。

1942年 ガダルカナル島の戦い…アメリカ軍の海兵隊が西太平洋ソロモン諸島のガダルカナル島とツラギ島に上陸し、日本軍との戦いがはじまりました。激しい闘いのすえ日本軍は21日までにほぼ壊滅し、ミッドウェー海戦とともに、太平洋戦争における攻守の転換点となった戦闘といわれています。

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