児童英語・図書出版社 創業者のこだわりブログ

30歳で独立、31歳で出版社(いずみ書房)を創業。 取次店⇒書店という既成の流通に頼ることなく独自の販売手法を確立。 ユニークな編集ノウハウと教育理念を、そして今を綴る。

2015年08月

今日8月24日は、左翼的作家・評論家として投獄されながらも独自の文学姿勢を貫き、戦後は民主主義文学運動に力をつくした中野重治(なかの しげはる)が、1979年に亡くなった日です。

1902年、今の福井県坂井市の農家に生まれた中野重治は、金沢の旧制四高で窪川鶴次郎らと知り合い、短歌や詩、小説を発表するようになりました。室生犀星と知りあったのもこのころのことでした。1924年に東京帝国大学独文科に入学すると、同人誌「驢馬」を窪川や堀辰雄らと発刊して革命的な詩や評論を発表、芥川龍之介にその才能を高く評価されました。いっぽう、1926年にマルクス主義文芸研究会(マル芸)を結成するなど、しだいに左翼的傾向を深めながら本格的な文学活動に入ります。

1927年、東大を卒業後に日本無産者芸術連盟(ナップ)を結成すると、ナップ内に中野対蔵原惟人の芸術大衆化論争がおき、中野は『芸術に関する走り書的覚え書』を著して「大衆の求めているのは芸術の芸術、諸王の王なのだ」と主張し、蔵原の二元論と対立するなど、評論を中心に健筆をふるいました。

1931年、共産党に入党しますが、翌1932年に「日本プロレタリア文化連盟」大弾圧で検挙投獄され、1934年に党の活動をしないことを条件に執行猶予で出所しました。当時の作品『村の家』には、思想を曲げなくてはならなかったことへの複雑な思いがつづられるなど、敗戦までの中野の文学的闘いは、「転向」した自己を見すえながら、戦争に流されていく現実のなかで、人間精神はどうあるべきかを追究しました。ただし、権力への抵抗姿勢をくずさず、ある機関士の回想『汽車の罐焚(かまた)き』、自伝的小説『歌のわかれ』、評論『斎藤茂吉ノート』『「暗夜行路」雑談』などを著しました。

敗戦後まもなくの1945年11月、共産党に再入党すると、新日本文学会を結成して民主主義文学運動の中心的存在となり、1947~50年には参議院議員として活躍しました。共産党の「50年分裂」の時は「国際派」の側にあって政治主義に対する文学運動を守りぬきましたが、1964年、党運営の官僚化を批判して除名されています。戦後の代表作には『朝鮮の細菌戦について』などの評論、『五勺の酒』などの短編、大学時代の自伝的長編青春小説『むらぎも』、幼いころの思い出を綴った長編小説『梨の花』があります。

また、抒情詩にはじまり、革命運動のなかでの自己の変革を経て燃え上る憤りを鋭い感性で歌いあげた詩を集大成した『中野重治詩集』を残しています。


「8月24日にあった主なできごと」

79年 ポンペイ最後の日…イタリアのナポリ近郊にあった都市ポンペイが、ベスビオ火山の噴火による火山灰で地中に埋もれました。

1594年 石川五右衛門刑死…豊臣秀吉が愛用する「千鳥の香炉」を盗もうとして捕えられた盗賊の石川五右衛門とその親族は、京都の三条河原で、当時の極刑である[釜ゆでの刑]に処せられました。これ以降、釜型の風呂のことを「五右衛門風呂」と呼ぶようになりました。

1897年 陸奥宗光死去…イギリスとの治外法権を撤廃、日清戦争後の下関条約締結の全権大使をつとめるなど、近代日本の外交を支えた陸奥宗光が亡くなりました。

今日8月21日は、共産主義運動の国際的指導者として知られ、構造改革路線により西ヨーロッパ最大の共産党を作りあげたイタリア共産党のトリアッティが、1964年に亡くなった日です。

1893年、イタリア北西部のジェノバに下級官吏の子として生まれたバルミーロ・トリアッティは、給費生としてトリノ大学に進学し、在学中の1914年にイタリア社会党に入党しました。1917年のロシア革命や友人のグラムシの影響を受けて、積極的に社会主義運動を展開し、1921年には社会党左派の仲間とイタリア共産党を創立させ、グラシムとともにリーダーのひとりとして活動しました。

やがて共産党はムッソリーニによって非合法化され、1926年にグラムシが逮捕されると、トリアッティはフランスに亡命してパリに指導部を設置し、国外から闘争を展開しました。1935年にコミンテルン(共産主義政党の国際組織)の執行役員になると、スターリンの粛清の嵐の中でも巧みに生き残り、1936~39年にかけてのスペイン内戦では、人民戦線側にたって活躍しました。

第2次世界大戦中は、モスクワから「エルコレ」の名でラジオ放送を通じて抵抗を呼びかけ、連合国軍と反ファシズム勢力によってイタリア南部が解放された1944年春、19年ぶりに祖国へ帰国すると、対ドイツ解放闘争に総力を結集する党の新しい政策を打ち出してイタリアを解放させました。その後、共産党は政権に加わり、トリアッティは1946年まで副首相を務め、合法的大政党としての共産党の地位を確立しました。

しかし、冷戦が進行するなかでトリアッティは、右翼少年の襲撃により負傷しましたが、1948年夏「社会主義へのイタリアの道」(革命によるプロレタリアート独裁の道とは異なる、健全な進歩的民主主義を通じて社会主義に通じる道)という構造改革路線を提出し、国際的に注目を浴びました。これが「民主主義的社会主義の道」で、キリスト教民主党に続く第2党ながら、西欧で最大の共産党を作りあげることに成功しました。


「8月21日にあった主なできごと」

1862年 生麦事件…今の横浜市鶴見区生麦で、薩摩藩の島津久光一行の前を4人のイギリス人が乗馬のまま横切ったことで、一部の藩士が4人を殺傷、これが原因で、翌年8月に薩英戦争がおこりました。

1911年 「モナリザ」盗難…パリのルーブル美術館から、レオナルド・ダ・ビンチの代表作「モナリザ」が盗まれました。2年後、フィレンツェのホテルで無事発見されましたが、盗みだしたイタリア人のペンキ職人は「レオナルドの故国イタリアへ絵を返してもらっただけだ」と豪語したと伝えられています。

今日8月20日は、日本最大の涅槃図 『大涅槃図』など、室町時代前・中期に活躍した臨済宗の画僧明兆(みんちょう)が、1431年に亡くなった日です。

1352年、淡路島に生まれた明兆(本名・吉山)は、少年のころに近所にあった安国寺住職の大道一以の弟子となり、やがて大道に付きそって京都・東福寺(臨済宗東福寺派の大本山)に入り、禅僧になりました。

やがて大道が東福寺28世になると、民兆は殿司(でんす)という大道具・小道具などの飾りつけを担う役職についたため「兆殿司」と親しまれ、僧としては終生この仕事にたずさわりました。しかし、禅僧として高位の位を望まれたものの、画を好む明兆はこれを拒否して、初の寺院専属の画家となりました。

その画風は、細筆・太筆を駆使した勢いの激しいもので、色彩も濃いものが多く、強烈な印象を残すものでした。この手法は中国の北宋や元の時代に水墨画と結びついて盛んになり、禅宗の宗旨説明のために、大画面で強烈に訴える表現にふさわしく、「道釈画」と呼ばて、日本絵画史に特筆されています。

京都駅近くにあって紅葉の名所として名高い東福寺には、民兆のたくさんの代表作(ほとんどが重要文化財)が残り、たて15m・よこ8mという日本最大の涅槃(ねはん)図 『大涅槃図』をはじめ、『聖一国師像』『四十八祖像』『寒山拾得図』『達磨・蝦蟇(がま)・鉄拐(てっかい)図』などがあります。『五百羅漢図』も見もので、50幅のうち45幅は東福寺、2幅は東京・根津美術館が所蔵しています。

後年の明兆は、仏画以外に純粋な水墨画にも筆を染め、『白衣観音図』(熱海・MOA美術館蔵)や『渓陰小築図』(京都・南禅寺蔵 国宝)などの作品があります。

東福寺の仏画工房は以前から影響力を持っていましたが、明兆以後は東福寺系以外の寺院からも注文が来るようになり、禅宗系仏画の中心的存在となっていきました。工房は明兆没後も一之(いっし)や赤脚子、霊彩らに受け継がれ、如拙、周文の系統を引く相国寺派に対し、東福寺派とよばれています。


「8月20日にあった主なできごと」

1241年 藤原定家死去…「小倉百人一首」の編さんや、万葉集、古今集と並び日本の3大和歌集の一つ「新古今和歌集」を編さんした鎌倉時代の歌人の藤原定家が亡くなりました。

1839年 高杉晋作誕生…吉田松陰の松下村塾に学び、農民や町民を集めて奇兵隊を組織し倒幕に力をそそいだものの、明治維新を前に若くして病死した長州藩士の高杉晋作が生まれました。

1988年 イラ・イラ戦争停戦…1980年ペルシャ湾岸地域を優位に支配しようとするイラクのフセイン大統領が、革命後の不安定なイランへ攻撃を開始して、イラン・イラク戦争(イラ・イラ戦争)が始まりました。一進一退のくりかえしだったため、国連の即時停戦の要請を受けて、停戦が実現しました。双方の犠牲者は100万人を超えたといわれています。

今日8月19日は、江戸幕府が朝廷の動きを統制する「禁中並公家諸法度」などに反発し、上皇となって51年間も院政を敷いた後水尾天皇(ごみずのおてんのう)が、1680年に亡くなった日です。

江戸時代のはじまる少し前の1596年、後水尾天皇は、後陽成天皇の第3皇子政仁(ことひと)親王として生まれました。後陽成天皇はかねてから第2皇子を立てることを望んでいましたが、関ヶ原の戦いによって新たに権力の座を手に入れた徳川家康は、政仁親王の擁立を求め、最終的に後陽成天皇はこれを受け入れたものの、あまり面白くありません。1611年4月、政仁親王は後水尾天皇として即位しますが、父・後陽成上皇との不仲は、天海や板倉勝重の仲裁にも関わらず、1617年上皇の死まで続きました。

1615年に江戸幕府は、朝廷の行動の統制を目的に「禁中並公家諸法度」を公布したり、近畿以西ににらみをきかせる京都所司代を設置して朝廷の行動を幕府の管理下に置くなど、幕府の方針に忠実な朝廷の運営をめざしました。さらに1620年、2代将軍徳川秀忠の5女和子(3代将軍家光の3歳下の妹)を女御として天皇にめとらせ、1624年には中宮に定めました。武家出身の中宮は、平清盛の娘徳子(建礼門院)以来の異例のことでした。

1627年には、紫衣事件(天皇が沢庵らに紫の衣を用いることを許可したのを、幕府に取り消される事件)や、1629年には位もない家光の乳母福(春日局)が天皇に直接会うという前例のないことがおこると、天皇をないがしろにする幕府に反発、1629年幕府へ通告しないまま、わずか7歳の皇女(明正天皇)に位を譲って、自ら上皇となって院政を敷き、以後4代51年に及びました。

後水尾天皇(上皇)は、気性の強い性格でしたが、学問・芸術に関心が深く、詩歌や連歌を千数百も詠み、歌集『鴎巣集』(後水尾院御集)を残しています。また、1650年に上皇が造営した洛北の修学院離宮にある庭園は、わが国指折りの名園として知られています。(ただし、見学には宮内庁の許可が必要)


「8月19日にあった主なできごと」

1662年 パスカル死去…液体の圧力に関する「パスカルの法則」や、随想録『パンセ』の著書で有名な物理学者・哲学者のパスカルが亡くなりました。

1937年 北一輝死刑…陸軍青年将校たちのおこした「2.26事件」の理論的指導者(皇道派)として、反対派(統制派)陸軍中枢部から軍法会議にかけられた国家主義者の北一輝が、死刑になりました。皮肉なことに以後の日本は皇道派が握ることになり、軍部の力で国を動かし、中国を侵略し太平洋戦争へとまっしぐらに進んでいきました。

今日8月18日は、朴正熙大統領と対立し、1973年に東京で拉致された「金大中事件」などの弾圧にもめげず、第15代韓国大統領となった金大中(きん だいちゅう/キム・デジュン)が 2009年に亡くなった日です。

1925年、朝鮮半島南西端の全羅道新安に生まれた金大中は、木浦(もくほ)商業学校を経て、建国大学を卒業後の1946年、建国準備委員会の地方青年活動家となり、1950年木浦日報社長となりました。1954年の総選挙で国会議員に初挑戦するも落選、民主党のスポークスマンを務め、当時の李承晩大統領の政策に反対する活動しながら1959年、1960年の選挙に落選し、1961年の補欠選挙で国会議員に初当選しました。しかし、朴正煕による軍事クーデターにより無効となりました。1963年の総選挙で当選すると、1971年第7代大統領選挙に野党新民党から出馬し、民主共和党朴正煕と争い、わずかの差で敗れました。

金大中の名が世界的に知られるようになったのは、1973年8月、東京のホテルから真昼間に拉致された後、ソウルで発見された「金大中事件」からです。これは、金が大統領選敗北後、野党の指導権争いでも敗れ、海外での活動基盤を作ろうと模索している最中、その拡がりに危機感をいだいた朴正煕政権のしわざでした。金は、韓国に連行された後も、数多くの弾圧と妨害を受けながらも、内外の反朴運動のシンボルとなりました。

しかし1977年、「大統領緊急措置違反」として告発され、翌年最高裁で禁固5年資格停止5年の刑が確定して自宅軟禁状態がつづき、1980年5月には政府転覆を図ったとして逮捕され、軍法会議にかけられ死刑判決を受けました。ところが、救援の国際世論の高まりのなかで、1981年1月死刑確定直後に無期懲役に減刑され、のちに懲役20年に減刑され、1982年12月に釈放されて渡米しました。

以後、全斗煥政権や日本政府批判の言論を活発に展開、1985年2月に帰国するとまもなく政治活動を解禁され、1987年に公民権を回復しました。1992年民主党候補として大統領選挙に出馬したものの、金泳三に敗れ、政界引退を声明してイギリスに遊学し、アジア太平洋平和財団を結成します。

1995年、ふたたび政界に復帰して新政治国民会議を結成すると、1997年に4度目の大統領選挙に出馬して勝利を収め、1998年第15代大統領に就任しました。30数年続いた、全羅道を差別しつづけた慶尚道出身者を敗った信念の勝利でした。

金は、1998年10月、拉致事件以後初めて訪日して小渕首相と会談し、共同宣言「21世紀に向けた新たな日韓パートナーシップ」に署名、韓国でそれまで禁止されていた日本文化開放を推し進めました。また、自ら大韓民国中央情報部(KCIA)に拉致され、命をねらわれた経験のある金は、1999年に国家安全企画部を廃止し、権限や機能を大幅に縮小した国家情報院を大統領直属機関として新設しました。

北朝鮮に対しては、南北経済共同体の構想や、政府レベルでの対北経済支援を盛り込んだベルリン宣言を発表するなど、対北朝鮮包容政策(太陽政策)をとりました。そして、2000年6月に北朝鮮の平壌を訪れ、朝鮮労働党総書記金正日と朝鮮半島分断後初の南北首脳会談を行い、南北統一への取り組みに合意、共同宣言に署名しました。一連の行動によりノーベル平和賞を受賞し、2003年2月大統領を任期満了で退任しました。


「8月18日にあった主なできごと」

1598年 豊臣秀吉死去…織田信長の後をついで天下統一を果たし、絢爛豪華な安土桃山時代を築いた武将豊臣秀吉が亡くなりました。

1850年 バルザック死去…『谷間の百合』や『ゴリオ爺さん』など、「人間喜劇」と名づけた作品群を残したフランスの作家バルザックが亡くなりました。

1930年 細君譲渡騒動…作家の谷崎潤一郎と、その妻千代子が離婚し、谷崎の友人の作家佐藤春夫が千代子と再婚するという細君譲渡騒動がおきました。このことを書いた挨拶状が関係者に送られたため、一大センセーションがまきおこりました。

1949年 フジヤマの飛び魚…ロサンゼルスで開かれた全米水上選手権大会に出場した古橋広之進は、1500mと400m自由形他で世界新記録を連発。アメリカの新聞は「フジヤマの飛び魚」とたたえ、敗戦でうち沈んでいた日本人を勇気づけました。

1966年 中国文化大革命…中国の首都北京で、中学生や大学生を中心とする紅衛兵100万人が文化大革命の勝利を祝う大集会を開きました。この文化大革命運動は、共産党内の反毛沢東分子や親ソ連派を「資本主義の復活をはかる実務派」として打倒、翌年4月の九全大会で、毛沢東、林彪路線を確定することになりました。

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