児童英語・図書出版社 創業者のこだわりブログ

30歳で独立、31歳で出版社(いずみ書房)を創業。 取次店⇒書店という既成の流通に頼ることなく独自の販売手法を確立。 ユニークな編集ノウハウと教育理念を、そして今を綴る。

2015年07月

今日7月9日は、官治主義、資本主義、都会主義を批判し、農村を基盤とした「原始自治」を唱えた思想家・制度学者の権藤成卿(ごんどう せいきょう)が、1937年に亡くなった日です。

1868年、元久留米藩医・国学者の長男として、今の福岡県久留米市に生まれた権藤成卿(本名・善太郎)は、1874年大阪にある商店の丁稚となって商売を学んで家にもどると、実家にあった漢籍のほとんどを読破したのち上京、二松学舎で漢学を学んで中退後の1886年、中国へ旅行しました。

この旅行をきっかけに、数回にわたって朝鮮や満州(中国東北部)を転々としながら、独学で独自の学識を蓄積しました。1902年に上京して内田良平らの黒竜会に参加して、対露開戦、日韓合邦を主張し、李容九、黄興、孫文らとアジア革命のために交遊しながら、日満蒙を結ぶ「東亜連邦」を構想し、1908年には「東亜月報」を刊行しました。

翌1909年、主著となる『皇民自治本義』を著し、「社稷(しゃしょく)国家」(農村自治を根本とした国家)を説き、官治主義、資本主義、都会主義を排撃し、アジア固有の「原始自治」への回帰を訴えました。さらにその思想をもとに1920年に自治学会を設立すると、人民の自然的自治のうえに政治が施行される農本自治主義を掲げて、昭和期の「農本主義思想家」として大きな影響力を持ちました。

その後権藤は、1931年に橘孝三郎らとともに日本村治派同盟を結成して活躍するいっぽう、2冊の著書 (『自治民範』(1927年)・『農村自救論』(1932年)) が、「血盟団事件」や「五・一五事件」のファッシズム思想背景という嫌疑により逮捕されました。しかし、権藤の真意は軍国主義を嫌うもので、1937年の「盧溝橋事件(日華事変)」のぼっ発を病床で耳にしたとき、「武弁、ついに国をあやまるか」と絶句したといわれています。


「7月9日にあった主なできごと」

1854年 日章旗を船印に決定…徳川幕府は、「日の丸」を日本船の印と決定しました。やがてこれが慣習化されるようになり、正式に国旗となったのは1999年「国旗国歌法」の公布以降です。

1922年 森鴎外死去…『舞姫』『山椒太夫』『高瀬舟』など明治・大正期に活躍した文学者で「文豪」といわれる森鴎外が亡くなりました。

今日7月8日は、『残照』『道』『黄山暁雲』『白馬の森』などを描いた昭和を代表する日本画家で最高峰の一人といわれる東山魁夷(ひがしやま かいい)が、1908年に生まれた日です。

船具商を営む家の次男として横浜市に生まれた東山魁夷(本名・新吉)は、父の仕事の関係で3歳の時に神戸に転居。旧第二神戸中学の頃から画家を志し、1926年に東京美術学校(今の東京芸大)日本画科へ進学しました。特待生となり、在学中の1929年第10回帝展に『山国の秋』を初出品して入選を果たしました。卒業後は同校の研究所で、結城素明に師事しました。

1933年に私費でヨーロッパに遊学し、翌年に日独交換留学制度でベルリン大学に留学し、美学と美術史を学び、ドイツロマン派のフリードリヒやレンゲの感性に共感をもちます。また、休暇にイタリアやフランスの美術の古典群を見学して衝撃を受けるいっぽう、ファン・エイク、デューラー、クラーナハら北方ルネサンスの作品に刺激されました。

1945年に応召して熊本で終戦を迎えると、千葉県市川市に移り、1999年に亡くなるまで50年以上にわたってこの地で創作活動を続けました。1947年の第3回日展で『残照』が特選となり政府買い上げとなったことがきっかけになって、以降は、風景を題材に独自の表現を追求していきました。1950年に日展で発表した、前方へとまっすぐに伸びる道だけを描いた『道』、1955年の日展作品で日本芸術院賞を受けた『光昏(こうこん)』など、単純化を極めた画面構成に新機軸を示しました。北欧、ドイツ、オーストリア、中国にも取材し、次々と精力的に発表された作品は、平明ながら深い精神性をそなえ、幅広い支持を集め、1969年には文化勲章を受章。1973年からは、唐招提寺御影(みえい)堂障壁画の制作に携わり、1981年に完成させた『黄山暁雲』は、魁夷「畢生の大作」といわれています。

私にとっては、長野県善光寺に隣接する信濃美術館の「東山魁夷館」が1990年に開館したこと、特に『白馬の森』が評判となっていることを知り、1995年ころに訪問して大きな感銘を受けたことを思い出します。蒼くふるえるように動く森の奥に、幻想的に佇む白い馬。まさに、作者の心象風景なのでしょうが、この絵の前からしばらく動けないほどでした。そして、魁夷と親交のあった谷口吉生設計という木々と水に囲まれ、作者の何百という作品を際立たせるために創られたという個人美術館。こんな素晴しい美術館を生前に持てるとは、魁夷という人は何と幸せな人だろうかというのが、率直な感想でした。魁夷は、文章にも優れ、『わが遍歴の山河』『風景との対話』など多数の著書も遺しています。

なお、『残照』『道』など日展への出品作など65点は東京国立近代美術館が所蔵し、復員後から亡くなるまで暮らしていた千葉県市川市には、自宅に隣接した「東山魁夷記念館」が開館しています。その他、兵庫県立美術館が235点、香川県坂出市にある「東山魁夷せとうち美術館」が281点所蔵しているほか、魁夷の作品は、全国50か所以上の美術館で見ることができます。


「7月8日にあった主なできごと」

1621年 ラ・フォンテーヌ誕生…人間を動物におきかえた教訓話(寓話)で名高いフランスの文学者・詩人のラ・フォンテーヌが生まれました。

1979年 朝永振一郎死去…量子力学の研究の中から「超多時間理論」をまとめ、それを発展させた「くりこみ理論」を発明した功績によって、ノーベル物理学賞を受賞した朝永振一郎が亡くなりました。

1994年 金日成死去…朝鮮半島の抗日運動家・革命家として活動、1948年9月にソ連の支援をえて「朝鮮民主主義人民共和国」(北朝鮮)を建国、同国を朝鮮労働党独裁によって支配し続けた金日成が亡くなりました。

今日7月7日は、「阪妻」の呼び名で親しまれ、チャンバラ時代劇の第一人者となり、晩年には『無法松の一生』『破れ太鼓』など現代劇の佳作を演じた俳優の阪東妻三郎(ばんどう つまさぶろう)が、1953年に亡くなった日です。

1901年、今の東京神田にあった木綿問屋の次男に生まれた阪東妻三郎(本名・田村伝吉)は、小学校を卒業するころから家業が傾きだし、兄、姉、母を相次いで亡くした上、父親が事業に失敗して破産してしまいました。1916年に十一代目片岡仁左衛門の内弟子となり、歌舞伎役者になりましたがうまくいきません。そんななか、「活動写真」(サイレント映画)の人気が高まり、エキストラに出演したりすることもありました。

1923年、牧野省三が京都にマキノ映画製作所を結成すると映画俳優に転向、1924年の正月映画『火の車お萬』で環歌子との共演が当たり役となり、つづく『怪傑鷹』の悪役が受けて出世の糸口となりました。

やがて、ニヒリズムと乱闘を魅力とした寿々喜多(すずきた)呂九平脚本、阪東妻三郎主演による一連の時代劇『鮮血の手型』『恐怖の夜叉』『討たるる者』は、ダイナミックな剣げきとリアルな演出で、映画界に革命的な衝撃を与えました。従来の「目玉の松ちゃん」こと尾上松之助に代表される、一人斬るごとに見得をきる歌舞伎的「旧劇」を脱した「新時代劇」を創りあげ、続く『江戸怪賊伝・影法師』『墓石が鼾(いびき)する頃』『雄呂血』もヒットさせ、特にインテリや学生の間に大きな反響を呼び起こし、時代劇俳優の第一人者としての地位を決定的なものにしました。

1926年には、スター・プロの走りとなった阪東妻三郎プロダクション(阪妻プロ)を設立し、時代劇の一時代を築くものの低迷、ふたたび阪妻の風格と貫禄をみせるのは、晩年になってからでした。1936年に阪妻プロを解散し、1942年に大映に入社した翌年、稲垣浩監督・伊丹万作脚本・阪東妻三郎主演の『無法松の一生』は喧嘩っ早い人力車夫・松五郎の生涯を描き、日本映画界屈指の名作の一つに数えられています。また、敗戦後の1948年の伊藤大輔監督による『王将』は、これも無学文盲で将棋一途の坂田三吉の生きざまを演じ、さらに翌年木下惠介監督による『破れ太鼓』では、うわべはいばり散らしても根は無邪気なお人よしの雷親父を見事に演じきりました。この3作品は、一貫した人間像を描いた現代劇の佳作でした。

なお、阪妻の長男田村高広(2006年死去)、3男田村正和、4男田村亮は、「田村3兄弟」として俳優として活躍したことはよく知られています。


「7月7日の行事」

今日7月7日は、「七夕」です。こんなロマンチックな中国の伝説が、もとになっています。

天の神様の娘の織女星(こと座のベガ)は、美しい織物を織る名手でした。とても仕事熱心なため、年頃になってもボーイフレンド一人作りません。かわいそうになった神様は、天の川のむこうに住む働き者の牽牛星(わし座のアルタイル)という若者と結婚させました。ところが、結婚すると二人は、あんまり毎日が楽しくて織女星は織物を織らなくなり、牽牛星も牛を追わなくなったのです。怒った神様は、天の川のこちらの岸に織女星を連れもどし、1年に一度の「七夕の夜」だけ向こう岸に行ってよいことにしました。7月7日の晩、空が晴れると、白鳥たちが天の川にたくさん舞い降りて、翼で橋を架けてくれます。織り姫はその白鳥たちの橋を渡って牽牛に会いに行くのです。

いっぽう日本には、「棚機つ女(たなばたつめ)」という民間信仰がありました。少女はこの日に、身を清めて衣を織り、機織り機の棚の上に置いて、神様をお迎えし、穢れを取り去ってもらうというもので、この伝統と中国の伝説がいっしょになって、7世紀の頃から宮中の行事になり、江戸時代の末期になって、一般の人たちもこの行事をはじめるようになったといわれています。


「7月7日にあった主なできごと」

1615年 武家諸法度発布…5月に大坂夏の陣で、豊臣氏を滅ぼした徳川幕府は、2代将軍の徳川秀忠の名で全国諸大名に「武家諸法度」13か条を発布しました。自分の領地と江戸とを1年ごとに毎年4月に参勤することを指示した参勤交代制、築城の厳禁、幕府による大名やその側近の結婚許可制などの統制令でした。

1622年 支倉常長死去…江戸時代初期の仙台藩主伊達政宗の家臣で、慶長遣欧使節団を率いてヨーロッパへ渡航した支倉常長が亡くなりました。

1937年 盧溝橋事件…北京に近い盧溝橋で、中国・国民党政府軍と日本軍との間に発砲事件がおこりました。日中戦争(支那事変、日華事変)の発端となったこの事件をきっかけに、日本軍と中国は戦争状態に突入し、戦線を拡大していきました。

今日7月6日は、民(中国)の本草(ほんぞう)学書の欠点を補い、日本独自の『庶物類纂』を著した本草学者の稲生若水(いのう じゃくすい)が、1715年に亡くなった日です。

1655年、京都の南にあった淀藩領主永井家の医師の子として江戸屋敷に生まれた稲生若水(本名・宣義 若水=号)は、医学を父から学び、11歳のとき大坂の本草学者福山徳潤に学び、京都の儒学者伊藤仁斎から古義学派の儒学を学びました。ところが、不幸にも主家の永井家がお家断絶になってしまったため、26歳で浪人の身となり、若水を名乗って京都で塾を開きました。

そのころ読んた日本のことを論じた民の書に、「日本は何物にも不自由しないが、薬物を産しない。そのため民国から輸入している」とありました。調べてみると、中国から多くの薬物が長崎に持ちこまれているのを知った若水は、[日本に薬物がないはずはない。詳しく調査すれば輸入せずに、国産で間に合わせられる] と確信しました。

しかし、浪人の身でそれを成し遂げることはむずかしいことでした。やがて元禄のころになると、その学識は広く知られるところとなり、学問、教育に熱心な加賀金沢藩主前田綱紀の耳にも伝わり、1693年に儒医(儒学者の医師)として若水を召しかかえました。その翌年に若水は、金沢近郊の草木類を調べ上げ、『金沢草木録』を献上しました。

みずから『草木鳥獣図考』を著している綱紀は、当時の本草学のバイブルといわれた『本草綱目』(明朝の李時珍によって書かれた薬種1892種を図版入りで紹介した書)が、完璧な書でないことを知っており、この努力家若水の、日本にある固有の薬物研究の申し出を採用し、1697年、日本独自の博物書『庶物類纂』の編さんを命じたのでした。

こうして若水は、一年おきに金沢へ出仕する特別待遇を与えられると、山野へでかけて調査をしたり、中国の典籍174種に記載されている動植物関係の記述を収集したりしながら、『本草綱目』などにある動植物のうち、1200種類は日本で産出されることを明らかにしました。

しかし、統合や整理、分類を施すなど、懸命な努力を重ねましたが、18年後のこの日、全2000巻の計画のうち、362巻を残したまま病死してしまいました。その後、8代将軍徳川吉宗が事業を引き継ぎ、若水の門人の丹羽正伯、内山覚仲、若水の3男新助が中心になって進められ、1738年に残された分を完成させました。


「7月6日にあった主なできごと」

1783年 浅間山の大噴火…長野と群馬の県境にある浅間山がこの日に煙を吐き出し、2日後に大爆発をおこし、火砕流が村々を襲って2万人の命を奪いました。火山灰が広い地域をおおったため作物が出来ず、天明の飢饉の要因となりました。

1885年 狂犬病ワクチン…フランスの細菌学者・化学者のパスツールが、1885年に狂犬病ワクチンを初めて人体に接種しました。

1893年 モーパッサン死去…『脂肪の塊』『首飾り』などの短編をおよそ260編も著したフランスの作家モーパッサンが亡くなりました。

1912年 初のオリンピック参加…ストックホルムで開催された第5回オリンピックに、日本選手2名が出場しました。

今日7月3日は、YKKを創業し、ファスナーで世界シェア45%を誇り、アルミサッシ分野にも進出する大企業に築き上げた吉田忠雄(よしだ ただお)が、1993年に亡くなった日です。

1908年、今の富山県魚津市に小鳥の飼育や販売をする家に生まれた吉田忠雄は、地元の高等小学校を卒業後の1928年に上京、中国陶器などを輸入販売する古谷商店に就職しました。辛い肉体労働に励むものの店が閉店したことで1934年、扱い品目の一つだったファスナーで商売をしようと、東京日本橋にサンエス商会を設立しました。10代の店員2人を雇い、たった3人の船出でした。

吉田のファスナー製造は、部品ごとに仕入れ、それを組み立てる方法だったため、そこに一つでも粗悪な部品が混じると、商品そのものが不良品になります。不良品のため返品の山ができたことで、吉田は、部品の材料までも自分でこしらえようと工夫を重ね、なんとか軌道に乗りかけました。ところが太平洋戦争がはじまり、工員たちは兵隊にとられ、東京大空襲で工場を失いました。

しかたなく魚津に戻った忠雄は、魚津鉄工所を買収して「吉田工業株式会社(YKK)」とし、、一人でファスナーの生産を再開して売り歩きました。やがて戦争が終わり、復員してきた工員たちとともに、工場は活気をとりもどしました。ところが、アメリカ製のファスナーが安価で、品質が格段に優れているのに衝撃を受け、これをしのぐものができなければ日本のファスナー事業に明日はないという危機感を抱くと、苦労の末に、1台3~4万ドルという驚異的な価格のチェーンマシーン(自動植付機)をアメリカから購入、たちまち日本一の生産を誇るまでになりました。

1954年には、黒部工場を建設して目標だった一貫体制を築き上げると、1958年には日本で初めてアルミ合金の大量生産に成功し、アルミサッシ分野にも進出しました。また、樹脂ファスナーなど製造技術の改良や開発に挑み、やがて積極的な海外進出により、世界シェア45%を誇るまでの大企業につくりあげました。

吉田の行動を支えていたのは、「善の循環」という考え方でした。これは、小学生の時読んだ、アメリカの鉄鋼王カーネギー伝にある言葉、「他人の利益を図らなくては、自ら栄えることはできない」が根底にあり、自らの儲けより人を喜ばせることに重点を置きました。そして、消費者、地元、関連企業、従業員、すべてに利益が還元されるという理念を貫いたのでした。


「7月3日にあった主なできごと」

607年 遣隋使…聖徳太子は、小野妹子に国書を持たせ、隋(中国)に派遣させました。

1549年 キリスト教伝来…スペインの宣教師ザビエルは、弟子のヤジロウを案内役として、日本にキリスト教を伝えるため、鹿児島に上陸しました。

1863年 ゲティスパークの戦い…アメリカ南北戦争の最大の決戦「ゲティスパークの戦い」が決着し、北軍が勝利する転換点になりました。

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