児童英語・図書出版社 創業者のこだわりブログ

30歳で独立、31歳で出版社(いずみ書房)を創業。 取次店⇒書店という既成の流通に頼ることなく独自の販売手法を確立。 ユニークな編集ノウハウと教育理念を、そして今を綴る。

2015年07月

今日7月31日は、明治時代中期に小説『こわれ指輪』『移民学園』などを著した女流作家で、随筆家・編集者としても活躍した清水紫琴(しみず しきん)が、1933年に亡くなった日です。

1868年、今の岡山県備前市に漢学者で官吏だった清水貞幹の子として生まれた清水紫琴(本名・豊子)は、3歳のとき父の仕事にともない京都に移住し、1881年京都府立第一高等女学校を卒業しました。1885年に父のすすめに逆らえず、民権家の代言人(弁護士)と結婚するものの、夫に隠し妻がいたことがわかるなど3年で破局しました。この結婚の失敗が、人間の自由や女性の権利について深く考える契機となり、景山英子と親しく交わりながら、女権の地位向上のために協力しあいました。

1890年、自立のために上京、巌本善治主宰の「女学雑誌」の記者となり、翌1891年に、結婚における契約を焦点化した処女小説『こわれ指輪』を同誌に発表して森鴎外らに絶賛されました。やがて同誌編集責任者となって、清水豊子、生野ふみ子などのペンネームを使用して、探訪記などを執筆するいっぽう、女子が政治問題などの演説を聞くことを法律で禁止されていた問題を「何故に女子は政談集会に参聴することを許されざるか」という論文にまとめて発表するなど、女権拡張運動に奔走します。

そのころ大井憲太郎と恋愛し、ひそかに男児をもうけるものの表ざたにするわけにいかず、子どもを兄の養子にしてもらうなど、自ら犯した罪の意識にしばしば体調をくずしたりしました。そんな紫琴を精神的に支えたのが、のちに東大総長となる化学者の古在由直でした。

1892年に、紫琴は古在と再婚し、女性作家として活躍しながら4男1女をもうけ、1899年に発表した『移民学園』は、未開放部落問題を扱った意欲作として注目されましたが、1901年『夏子の物思ひ』を最後に筆を絶ちました。

なお、オンライン図書館「青空文庫」では、清水紫琴の代表作『こわれ指輪』『移民学園』など、13編を読むことができます。


「7月31日にあった主なできごと」

1875年 柳田国男誕生…『遠野物語』を著すなど日本民俗学の開拓者といわれる柳田国男が生まれました。

1905年 日露戦争終結…5月末に「日本海海戦」に勝利し、ロシアに講和を受け入れるようアメリカに仲裁を申し入れていた日本に、この日樺太占領に成功したことでロシア軍が降伏、「日露戦争」が終結しました。

1944年 サン・テグジュペリ死去…『星の王子さま』をはじめ、『夜間飛行』『人間の土地』などを著した作家で飛行家のサン・テグジュペリが亡くなりました。

今日7月30日は、陸軍軍人として日中戦争を推進し、陸軍大臣をへて1941年に第40代内閣総理大臣として対英米戦争を開戦させ、敗戦後にA級戦争犯罪人として処刑された東条英機(とうじょう ひでき)が、1884年に生まれた日です。

「日清戦争」当時の大本営参謀で、陸軍の戦略家として知られた東条英教の子として、今の東京千代田区に生まれた東条英機は、陸軍士官学校を経て、陸軍大学校を卒業しました。

スイス・ドイツの駐在武官、連隊長、旅団長など陸軍の要職を経て、1929年永田鉄山らと「一夕会」を結成して陸軍内の2代派閥のひとつ「統制派」のリーダーとなり、永山が陸軍のもうひとつの派閥「皇道派」の青年将校に暗殺されると革新派の中堅将校として頭角を現し、満蒙支配を主張、「満州国」創設後の1935年には関東憲兵司令官となり、1937年に関東軍参謀長となりました。盧溝橋事件が起こると国民政府との妥協に反対し、中央の統制派と結んで日中戦争の推進者になっていきました。

1938年に板垣征四郎陸相のもとで陸軍次官となり、「カミソリ東条」といわれる事務能力を発揮しました。1940年7月、第二次近衛文麿内閣の陸相として入閣すると、松岡洋右外相と組んで「日独伊三国同盟の締結」に努め、日本軍の仏印進駐を容認、対英米戦争の準備を進めました。

第三次近衛内閣にも陸相として留任した東条は、1941年10月に米政府が中国、仏印の日本軍を全面撤退させるよう要求すると、日米交渉の妥結を希望する近衛首相に対し強硬派の陸軍をバックに対立、対英米開戦を主張して内閣を総辞職に追い込みました。そして1941年10月18日、木戸幸一内大臣らの推挙で第40代内閣総理大臣に就任して内閣を組織し、現役軍人のまま首相、内相、陸相を兼任、陸軍大将となって12月8日、ハワイのアメリカ艦隊奇襲攻撃により、太平洋戦争を開始しました。

初期の戦果に国民がわきたつなか、軍部独裁体制の強化をはかり、1942年4月に「翼賛選挙」を行って、挙国一致的政治結社として「翼賛政治会」を結成し、事実上一国一党制の「戦時独裁体制」を築きあげ、国内の統制を極端に強めました。

ところが、アメリカの対日反攻作戦が本格化し、1942年6月の「ミッドウェー海戦」の敗北、1943年2月はじめの「ガダルカナル島撤退」など次第に戦局が不利になると、支配層の中にも東条批判が高まり、1944年7月に絶対国防圏の一角である「サイパン島陥落」によって日本の敗北は決定的となり、その責任を負うように東条内閣は総辞職したのでした。

敗戦後の1945年9月11日、A級戦犯容疑者として逮捕のため、アメリカ軍憲兵が東条の自宅へおもむくと、東条は拳銃自殺を図るものの失敗、連合国軍による治療により一命を取り留めました。全治ののち、連合国によって行われた東京裁判で起訴されました。「生きて虜囚の辱めを受くる勿れ」とは、東条の名で全陸軍に布告された「戦陣訓」の一節でしたが、自ら生死の決を誤ったのでした。1948年11月12日に絞首刑の判決がいい渡され、1948年12月23日、巣鴨拘置所で死刑執行されました。


「7月30日にあった主なできごと」

1502年 宗祇死去…室町時代の連歌師で、和歌の西行、俳句の松尾芭蕉とともに漂泊の人といわれる宗祇が亡くなりました。

1863年 フォード誕生…流れ作業による自動車の大量生産に成功し「世界の自動車王」といわれる実業家フォードが生まれました。

1898年 ビスマルク死去…プロイセン王の右腕として鉄血政策を推進し、1871年ドイツ統一の立役者となったビスマルクが亡くなりました。

1911年 明治天皇死去…王政復古をなしとげ、近代国家の形を整えた明治天皇が亡くなり、大正天皇が即位しました。

1947年 幸田露伴死去…『五重塔』などを著し、尾崎紅葉とともに「紅露時代」と呼ばれる時代を築いた作家幸田露伴が亡くなりました。

1965年 谷崎潤一郎死去……『細雪』『春琴抄』『痴人の愛』などの小説や『源氏物語』現代語訳を著した作家の谷崎潤一郎が亡くなりました。

今日7月29日は、クレルモン教会会議での演説により、第1回十字軍を派遣させたローマ教皇ウルバヌス2世が、1099年に亡くなった日です。

1042年、北フランスの地方貴族の家に生まれラゲリウスのオド(のちのウルバヌス2世)は、聖職者になるための教育を受けました。今のブルゴーニュ地方にあったクリュニー修道院に入り、院長を務めたあと、教皇グレゴリウス7世の招きでローマに赴き、枢機卿(教皇に次ぐ僧職)となりました。

グレゴリウス7世のもとで推進された教会の自己改革(グレゴリウス大改革)では、教皇の右腕として活躍し、聖職者の任免権を持つ神聖ローマ皇帝ハインリヒ4世を破門するなど着実に改革を進めました。志なかばで亡くなったグレゴリウス7世の遺志をついで、1088年ウルバヌス2世として教皇に選出されたオドは、教会改革の路線を忠実に踏襲し、教皇権の強化に努めました。

当時の西欧社会は、農業生産力の向上により人口が増加し、商業が発達したことでさかんに聖地エルサレムへの巡礼が行われました。ところが、エルサレムはイスラームの聖地でもあり、セルジューク・トルコが支配していたため、ビザンツ皇帝(東ローマ皇帝)は、ウルバヌス2世に救援を求めました。これを受けて1095年11月、クレルモン教会会議の最終日に呼びかけた、教皇の「第1回十字軍の派遣を訴える演説」はよく知られています。

『……あなた方が奮起すべき緊急な任務が生じた。すなわち、あなた方は東方に住む同胞に大至急援軍を送らなければならない。……その理由は、トルコ人が彼らを攻撃し、またローマ領の奥深く、「聖グレゴリウスの腕」とよばれている地中海沿岸部まで進出したからだ。キリスト教国をつぎつぎに占領した彼らは、すでに多くの戦闘で七たびもキリスト教徒を破り、多くの住民を殺しあるいは捕らえ、教会堂を破壊しつつ神の国を荒しまわっている。これ以上かれらの行為を続けさせるなら、かれらはもっと大々的に神の忠実な民を征服するであろう。されば、……神はキリストの旗手たるあなた方に、騎士と歩卒をえらばず貧富を問わず、あらゆる階層の男たちを立ち上がらせるよう、そしてわたしたちの土地からあのいまわしい民族を根だやしにするよう……くりかえし勧告しておられるのである……』

この呼びかけに応えた諸侯や騎士たちからなる第1次十字軍は、1096年に出発し、1099年7月にセルジューク・トルコからエルサレムを奪回し、エルサレム王国を建設しました。しかし、ウルバヌス2世は、十字軍によるエルサレム占領の14日後にこの世を去り、この知らせを聞くことはありませんでした。

なお「十字軍」は、その後1270年までの間に約7回の遠征が行われましたが、結局聖地の回復は失敗に終わりました。しかし、東西文化の接触による交通や商業の発達、西欧社会の変革を促すきっかけとなりました。


「7月29日にあった主なできごと」

1856年 シューマン死去…『謝肉祭』『子どもの情景』 などを作曲し、ドイツ・ロマン派のリーダーといわれるシューマンが亡くなりました。なお、有名な「トロイメライ」は、全13曲からなる『子どもの情景』の7曲目に登場する曲です。

1890年 ゴッホ死去…明るく力強い『ひまわり』など、わずか10年の間に850点以上の油絵の佳作を描いた後期印象派の代表的画家ゴッホが亡くなりました。

今日7月28日は、フランスの王政を廃して共和制を打ち立てたものの、「恐怖政治」を行って処刑されたロベスピエールが、1794年に亡くなった日です。

1758年、北フランスのアラスに弁護士の子として生まれたマクシミリアン・ロベスピエールは、幼くして母を亡くし、父も家出して行方不明になったため、わずか6歳で弟とともに母方の祖父に引き取られて育ちました。アラスの神学校に入ると秀才のほまれ高く、奨学生となって1769年にバリのルイ大王学院に入学、古典や法律を学んだほか啓蒙思想にふれ、とくに晩年のルソーに会って深い影響を受けました。

1781年、法学士の資格をとり故郷にもどると、弁護士となって貧者や弱い立場の弁護をするうち、旧体制の矛盾を痛感するようになりました。1789年5月、ルイ16世が宮廷の浪費や対外戦争で悪化した財政を特権階級への課税で乗り越えようとしたことに貴族が反発、この事態を打開しようと175年ぶりに三部会を開催することになりました。この三部会の第三身分(平民)代表として議員となったロベスピエールは、ベルサイユに移りました。ところが、議決方法をめぐって紛糾し、第三身分が独自に国民議会を結成すると、国王は軍隊の力で国民議会に圧力をかけました。

怒ったパリ市民は、同年7月14日バスティーユ監獄を襲撃したのをきっかけに、全国で農民が蜂起し、革命がおこります。国民議会は封建的な特権の廃止を宣言し、自由と平等、国民の主権などを謳う人権宣言を採択しました。1791年には有産市民に選挙権があたえられる立憲君主政の憲法を制定し、国民議会に代わって立法議会が発足すると、立憲共和制をめざすジロンド党が優勢となり、1792年には革命へ干渉するオーストリアに宣戦布告しました。いっぽう議員を辞職してジャコバン党のリーダーとなったロベスピエールは、革命を遂行するには貧しい民衆や農民と同盟しなくてはならないと考えるようになります。

1792年9月、全国から結集した義勇軍と民衆が王宮を襲撃して、王権の停止と男子普通選挙による共和制の国民公会が発足すると、ロベスピエールは再び議員に選ばれ、ブルジョワジーだけの利権を守ろうとするジロンド党に対抗し、民衆や農民とも協同して内外の敵から防衛するというジャコバン党の新しい路線を打ち出しました。そして、1793年6月、民衆の蜂起の力を借りてジロンド党を追放して権力を握ると、反革命派やジロンド派などを即決の裁判で断頭台に送る「恐怖政治」を始めるとともに、革命政府の方針に従わない民衆運動にも弾圧を加えなくてはならなくなりました。

こうして、ジャコバン党内でも支持基盤が狭くなり、1794年7月27日、穏健共和派によるクーデター「テルミドールの反動」がおこり、翌日、22人の同志とともに処刑され、37年の短い生涯を閉じました。その死後も長期間にわたり、「恐怖政治の元凶」として非難され続けてきましたが、今日では、デモクラシーの先駆者として再評価されています。


「7月28日にあった主なできごと」

1750年 バッハ死去…宗教的なお祈りや日ごろのなぐさめ程度だった音楽を、人の心を豊かに表現する芸術として高めたバッハが亡くなりました。

1866年 ポター誕生…世界で一番有名なうさぎ「ピーターラビット」シリーズ23点の作者ビアトリクス・ポターが生まれました。

1914年 第1次世界大戦勃発…オーストリアがセルビアに宣戦布告したことから、第1次世界大戦がはじまりました。三国同盟を結んだドイツ、オーストリア、イタリアと、イギリス、フランス、ロシアなどの連合国が対立して、戦争はヨーロッパじゅうに広がりました。イギリスと同盟を結んでいた日本や、アメリカも連合国側に加わり、30か国以上が参戦して、4年以上にわたる戦いをつづけ、連合国側の勝利に終わりました。

今日7月27日は、世論調査に用いられる抽出調査の統計学的技法によって成功したアメリカのギャラップが、1984年に亡くなった日です。

1901年、アイオワ州ジェファーソンに生まれたジョージ・ギャラップは、アイオワ州立大学で心理学を学び、そのかたわら日刊の大学新聞編集長として活躍しました。1923年に卒業後は、アイオワ大学、ドレーク大学、コロンビア大学などで新聞学や広告学、心理学関係科目の教鞭をとりました。

いっぽう、1932年にニューヨークの広告会社に参加し、印刷媒体やラジオの受容についての調査に関わるなど実務の経験を積むと、1935年、後のギャラップ社の前身となる 「アメリカ世論研究所」 を設立し、1936年の大統領選挙においてフランクリン・ルーズベルトが勝利することを、わずか5千人の調査数で正確に予想して、いちやく有名になりました。

これで自信をえたギャラップは、大学の教職を離れ、1939年には「視聴者調査研究所」を発足させてラジオや映画の視聴率を調査するなどさまざまな調査に専念しましたが、1948年の大統領選挙では最も重大な失敗をしてしまいました。トルーマンの勝利に対し敗北と予想したギャラップは、これを契機にランダム・サンプリング(無作為抽出)という手法を開発し、世界各地の調査を行なう国際組織を立ち上げました。

そして1958年、ギャラップは傘下にあった広告調査会社ギャラップ・ロビンソンなどすべてをグループ化した「ギャラップ社」を結成。少しずつ世界じゅうに網を拡げ、1995年には日本オフィスを開設するなど、現在に至っています。


「7月27日にあった主なできごと」

1719年 田沼意次誕生…江戸時代の中期、足軽の子に生まれながら、幕府の側用人から老中までのぼりつめ、1767年から1786年まで 「田沼時代」 とよばれるほど権勢をふるった田沼意次が生まれました。

1872年 アムンゼン誕生…人類史上初めて南極点への到達に成功したのち、飛行船で北極点へ到達、初の両極点へ到達したノルウェーの探検家アムンゼンが生れました。

1887年 山本有三誕生…小説『路傍の石』『真実一路』や戯曲『米百俵』など、生命の尊厳や人間の生き方についてやさしい文体で書かれた作品を多く残した山本有三が生まれました。

1953年 朝鮮戦争休戦…板門店で、国連軍代表と北朝鮮代表が、休戦協定に調印して3年にわたる朝鮮戦争が終わりました。しかし、講和条約は結ばれず、いまだに休戦状態のままです。

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