児童英語・図書出版社 創業者のこだわりブログ

30歳で独立、31歳で出版社(いずみ書房)を創業。 取次店⇒書店という既成の流通に頼ることなく独自の販売手法を確立。 ユニークな編集ノウハウと教育理念を、そして今を綴る。

2015年06月

今日6月2日は、芸術性の高い陶器から、庶民に親しまれた暖かみのある絵付け食器まで、幅広い作品で知られる江戸時代中期の陶工・絵師の尾形乾山が、1743年に亡くなった日です。

1663年、京都の富裕な呉服商・雁金屋の三男として生まれた尾形乾山(本名・権平)は、6歳年上の兄に光琳がいて、尾形家が本阿弥家と縁戚にあったため、幼少のころから兄弟で蒔絵の模作を試みていたといわれています。

1687年25歳のとき父が亡くなり、3つの大きな屋敷などの財産を光琳と折半で譲り受けると、遊び人で派手好きの光琳が放蕩に費やしたのに対し、乾山は古今にわたる和漢の書を愛し、内省的な隠とん生活を好んだことは、後年の芸術の骨子となったといわれています。1689年に、仁和寺の南に習静堂を構え、参禅や学問に励み、近所に野々村仁清が住んでいたことがきっかけになって、仁清から本格的に陶芸を学びました。

やがて1699年、京の北西にある鳴滝に山荘を構え、窯を開きました。その地が都の乾(いぬい=北西)にあたるたることから「乾山」と号し、作品に記しました。この鳴滝窯時代は、兄の光琳も協力して、当初の絵付けは光琳が行い、乾山が得意の詩賛や歌賛と乾山銘をほどこす作品の多くは、特に評価の高いものです。

1712年、今の京都市二条通寺町に移り、多くの作品を手がけました。1716年に光琳の死去という打撃を受けて芸術的な作品は少なくなるものの、自由で暖かみのある絵付けや洗練された中に素朴な味わいのある食器は、「乾山焼」とか「二条乾山」として、京都庶民に愛されました。

晩年はめぐまれず、1731年69歳の時に江戸に下りましたが、輪王寺宮公寛法親王の知遇を受け、寛永寺領の入谷に住みました。また1737年9月から初冬にかけて下野国佐野で陶芸の指導を行ったことが知られています。その後江戸に戻り、81歳で亡くなりました。

絵の代表作としては、『八つ橋画賛』『十二月花鳥歌絵色紙』などがあり、和歌にもすぐれ、辞世作は「うきことも うれしき折も 過ぎぬれば ただあけくれの 夢ばかりなる」でした。


「6月2日にあった主なできごと」

1582年 本能寺の変…天下統一を目前にした織田信長が、家臣明智光秀の謀反により自刃した事件「本能寺の変」がおきました。

1716年 尾形光琳死去…江戸時代の中期、町人文化が栄えた元禄期を代表する画家で『紅白梅図屏風』『燕子花図屏風』などを描いた尾形光琳が亡くなりました。

1882年 ガリバルディ死去…フランスやオーストリアなどに支配され、たくさんの国に分れていたイタリアを、イタリア王国として統一させたガリバルディが亡くなりました。

1953年 エリザベス2世戴冠…1952年にイギリス国王に即位したエリザベス2世女王の戴冠式が、ロンドンのウェストミンスター寺院で行なわれました。女王パレードには、100万人以上の人が歓迎したと伝えられています。元首の地位は名義的なものであっても、イギリス連邦の団結や各国との親善の役割には大きなものがあります。

今日6月1日は、「大塩平八郎の乱」に刺激されて代官所の不正に抗議して蜂起した、江戸時代後期の国学者生田万(いくた よろず)が、1837年に亡くなった日です。

1801年、上野国(群馬県)館林藩士の家に生まれた生田万(本名・国秀 万=号)は、藩校で儒学を学び、平田篤胤の著書を読んで国学を志し、1824年に江戸に出て篤胤の門人となりました。篤胤に評価されて塾頭になり、いちじは師の代講をするほどでした。やがて郷里にもどって私塾を開くいっぽう、当時25万両という借金をかかえていた藩へ、「岩に結ぶ苔」という藩政改革論を提出しました。ところが、藩の怒りにふれて退けられたばかりか、藩を追放されてしまいました。

浪人生活ののち、1831年には許されて太田に私塾を開き、1836年には篤胤の門人の招きで越後国柏崎へ移ると「桜園塾」を開いて国学を教えました。この年と翌年の越後は天災がつづき、農民たちは飢饉に苦しんでいました。ところが、桑名藩の柏崎代官所は救済策を施さないため、万は再三にわたり代官所へ嘆願をします。ところが、受け入れるどころかこれを無視し、米の騰貴を図りました。

飢饉は「天保の大飢饉」といわれる全国的なもので、1837年2月に大坂で大塩平八郎が救民を掲げて「大塩平八郎の乱」をおこすと、各地で呼応する一揆や武装蜂起がおこりました。これに影響を受けた生田も、6人の同志を集めて「天命を奉じて国賊を誅す」「忠臣を集め暴墟を征す」の2旗を掲げて、桑名藩の柏崎代官所に乱入するものの、負傷して自刃しました(生田万の乱)。万の妻も翌2日、2児を絞殺して自害したと伝えられています。また、「生田万の乱」は、「大塩平八郎の乱」とともに、幕府が「天保の改革」を進める契機となった事件でもありました。

著書には『大学階梯外篇』『良薬苦口』『古学二千文』などがあり、生田万の学問や行動は、本居宣長、平田篤胤の学風を一歩進め、「江戸末期の社会的不正に対し行動をもって抗議する」幕末の討幕運動の先駆けとみることができます。


「6月1日にあった主なできごと」

BC195年 劉邦死去…秦(中国)を滅ぼし、項羽をやぶって前漢王朝の初代皇帝となった劉邦が亡くなりました。前漢王朝は、長安を都に200年も栄えました。

1864年 洪秀全死去…アヘン戦争でイギリスに敗北して威信を失った清(中国)南部に、平等な世界を理想とする「太平天国」の建設をめざし、14年間にわたり革命運動をおこした洪秀全が亡くなりました。

1968年 ヘレンケラー死去…生後19か月で目・耳・口の機能を失いながらも、著述家、社会福祉事業家として活躍したヘレンケラーが亡くなりました。

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