児童英語・図書出版社 創業者のこだわりブログ

30歳で独立、31歳で出版社(いずみ書房)を創業。 取次店⇒書店という既成の流通に頼ることなく独自の販売手法を確立。 ユニークな編集ノウハウと教育理念を、そして今を綴る。

2015年06月

今日6月9日は、ローマに大火を放ち、キリスト教を迫害した暴君として知られる古代ローマ帝国第5代皇帝ネロが、68年に亡くなった日です。

37年、第4代ローマ皇帝クラウディウスと、2度目の妃アグリッピナの子として生まれたネロは、54年に母が夫を殺害したことで、ネロは16歳で第5代皇帝に即位しました。ネロの治世がはじまった5年間は、家庭教師でもあった哲学者セネカや近衛長官のブルスの補佐を受け、名君の誉れ高いものでした。

ところがネロは数年もすると、皇帝の母というより共同統治者のような振る舞いをするアグリッピナをうとましく感じるようになりました。さらに政治だけでなく交友関係にまで介入するようになると、59年にネロは、アグリッピナの暗殺を決意し、あらかじめ細工をしていた船を沈没させ、殺害したといわれています(毒殺説もあり)。

62年にブルスが亡くなりセネカも引退すると、相談相手を失ったネロは、ギリシア文化を愛し、芸術と詩の吟唱を楽しみ、闘争を嫌った自制心とモラルに欠けはじめました。ティゲリヌスらにそそのかされて有力者を処刑して財産を没収するなど、政治はしだいに破綻しだし、財政は乱れ、通貨の悪鋳によって物価が高騰します。市民の眼をそらすため、肉体の美しさを重んじるギリシアにならって体育祭を開き、元老院議員たちを選手として参加させたり、自らも戦車競争や詩の発表会に参加したりと、若い皇帝はしだいに奔放な生活を送るようになりました。

61年、有名なローマの大火が起きますが、市民の間でネロが人気回復のために放火したといううわさが広がり、適当な犯人を見つける必要に迫られたネロは、犯人としてキリスト教徒の摘発を行いました。当時のキリスト教は、イエスの死から30年ほどを経たカルト的な地下組織であり、ローマ市民にすればうす気味の悪い集団でしかありませんでした。キリスト教徒のモラルが賞讃されるようになるのは後の五賢帝時代を過ぎてからであり、当時の大勢にネロが乗り、公開処刑して迫害を加えたことは、ネロの大きな失策となりました。

ネロの政治に対する不満は引きつづき、68年にガルバ総督による反乱が勃発すると、各地で同調者が現れ、ネロがローマを出たすきをねらって元老院は皇帝を「国家の敵」として追放を宣告、ネロはローマ郊外にのがれて自刃したのでした。


「6月9日にあった主なできごと」

1671年 ピョートル大帝誕生…ロシアをヨーロッパ列強の一員とし、バルト海交易ルートを確保したピョートル大帝が生まれました。

1781年 スチーブンソン誕生…蒸気機関車の実用化に成功したイギリスの技術者スチーブンソンが生まれました。

1870年 ディッケンズ死去…『オリバー・ツイスト』『クリスマスキャロル』『二都物語』 など弱者の視点で社会諷刺した作品群を著しイギリスの国民作家といわれるディケンズが亡くなりました。

1886年 山田耕筰誕生…『からたちの花』『赤とんぼ』『この道』などの作曲をはじめ、世界的に著名な交響楽団を指揮するなど、国際的にも活躍した音楽家山田耕筰が生まれました。

1923年 有島武郎死去… 志賀直哉・武者小路実篤らとともに同人「白樺」に参加し、『一房の葡萄』『カインの末裔』『或る女』などの小説、評論『惜みなく愛は奪ふ』を著した有島武郎は、この日軽井沢の別荘で雑誌編集者と心中、センセーションをまきおこしました。

今日6月8日は、これまでの貴族的だったホワイトハウスの政治を、庶民的なものに変えた第7代アメリカ合衆国大統領ジャクソンが、1845年に亡くなった日です。

1767年、当時イギリスの植民地だったサウス・カロライナとノース・カロライナ境界のワックスホーに、農民の子として生まれたアンドリュー・ジャクソンは、生まれる前に父を失い、13歳で母を亡くして孤児となりました。そのため正式な学校教育を受けず、独立戦争に身を投じた後、苦労を重ねながら法律を学んで、20歳で弁護士資格をとりました。

1788年今のテネシー州ナッシュビルに移って開業すると、法律論より腕力のほうが勝る弁護士といわれ、生涯のうちに数回も決闘して一人を殺しているほどですが、決断力と実行力に富む人物でした。やがてこの地で頭角をあらわすと、土地の有力投機業者の娘と結婚してその財力をバックに、1796年からテネシーの州昇格にともなって州選出初の連邦下院議員、さらに上院議員に選出され、1806年には州最高裁判事になりました。

1812年、第2次英米戦争が勃発すると、野性的な性格の持ち主のジャクソンは闘うことを決意、民兵軍司令官となってイギリス軍に加勢するクリーク族を打ち破り、「ニュー・オーリンズの戦い」(1815年)でイギリスに大勝して、いちやく国民的英雄となりました。1824年には、有力な大統領候補として浮上すると、一般投票で第6代大統領となるアダムズを上回ったものの、過半数を獲得できず惜敗しました。

1828年の大統領選挙では、西部や南部の農民、北東部の労働者の圧倒的な支持をえて、西部出身初の大統領になりました。ジャクソンは、金権勢力が力を伸ばすのを抑制する「党人任用制」(選挙に勝った政党が政府の官職を独占する官職交代制)を導入して幅広い階層に政治参加の道を開き、政務の助言者をおき、民衆の真の声を政治に反映させるなど、その政治は「ジャクソニア・デモクラシー」(ジャクソン民主主義)と呼ばれて人気となり、1832年にも再選されました。しかしその一方で、ネイティブ・アメリカン(アメリカ先住民=インディアン)をミシシッピ以西に強制移住させたり、黒人奴隷制を推進するものでもありました。

その後のジャクソンは、1837年に引退すると、テネシーの大農園主になって、悠々自適の生涯を終えています。


「6月8日にあった主なできごと」

632年 ムハンマド死去…キリスト教、仏教とともに世界3大宗教のひとつとされるイスラームの預言者ムハンマドが亡くなりました。

1810年 シューマン誕生…「謝肉祭」 「子どもの情景」 などを作曲し、ドイツ・ロマン派のリーダーといわれるシューマンが生まれました。

1947年 日教組結成…奈良県橿原市で日本教職員組合(日教組)の結成大会が開かれました。戦後教育の民主化、教育活動の自由、教育者の社会的・経済的・政治的地位の向上をめざすとし、教師は、これまでの「聖職者」から「教育労働者」へと大きく転換するキッカケとなりました。

今日6月5日は、スポーツアナ、映画俳優、俳優組合委員長、カリフォルニア州知事をへて、最年長としてアメリカ第40代大統領となり、「強いアメリカ」を印象づけ、冷戦を平和的に終結させることに貢献したレーガンが、2004年に亡くなった日です。

1911年、イリノイ州タンピコに生まれたロナルド・レーガンは、幼少の頃から教会によく通い、やがて信徒の前で説教をするようになったことで、演説力をつちかいました。地元の高校を経て、1928年イリノイ州のユーリカ大学で経済学と社会学を専攻、1932年に卒業後は、大リーグチーム「シカゴ・カブス」のラジオアナウンサーになりました。

その後ハリウッドに向かい、映画俳優として1939年末までに19本の映画に出演。第二次世界大戦中は、アメリカ陸軍の映画部隊に配属され、訓練用・教育用の映画やプロパガンダ映画の制作・ナレーションに携わりました。その後、俳優のかたわら映画俳優組合の委員長となり、1950年代の終わり頃からは、映画スターとしての知名度と巧みな話術を生かし、テレビショーの司会やテレビCMへの出演など活動の場をテレビに移し、その人気を背景に、政治の世界へ代えていきました。

1967年1月、第33代カリフォルニア州知事に就任し、自由主義的政治を行うと、1968年に大統領選に初出馬したものの、ニクソン元副大統領に予備選の段階で敗退。1976年の大統領選に再出馬し、現職のフォード大統領に肉薄するものの惜敗。1980年の大統領選では、共和党大統領候補指名を受け、現職の民主党大統領カーターを破って当選を果たしました。

こうして、大統領に最年長(69歳349日)で就任すると、イランのアメリカ大使館人質事件を解決し、大統領暗殺事件も未遂で乗り越えました。内政面ではアメリカ経済の回復を政策目標に掲げ、大幅減税と積極的財政政策を実施し、貿易赤字と財政赤字の増大という「双子の赤字」を抱えることなってしまいました。いっぽう外交面では、前大統領時代にイラン革命やニカラグアで親米独裁政権が失われていたのに対し、この失地を挽回するために強硬策を貫き、ベトナム戦争以来の本格的な外国への武力侵攻をグレナダに対して行うなど、「強いアメリカ」を印象づけました。

2期目は数々のスキャンダルに見舞われたことで、各方面から厳しい批判が目立ったものの、デタント(米ソ対話)を否定し、「力による平和」戦略によってソ連及び共産主義陣営に対抗する一方、「レーガン・ドクトリン」をスローガンに、イギリスのサッチャー首相、日本の中曽根首相、西ドイツのコール首相らと密接な関係を結び、世界じゅうの反共主義運動を支援しました。

やがてソ連の解体、ベルリンの壁崩壊に代表される東側諸国の民主化につながったことで、冷戦の平和的な終結に大きく貢献し、2期目の大統領に就任した時点で75歳に迫る高齢だったものの、2期8年の任期を満了しました。


「6月5日にあった主なできごと」

1215年 栄西死去…鎌倉時代の初期、禅宗の日本臨済宗をひらいた僧・栄西が亡くなりました。栄西は、茶の習慣を日本に伝え、茶の湯のもとをきずいたことでも知られています。

1864年 池田屋騒動…京都三条木屋町の旅館・池田屋に、京都の治安組織で近藤勇の率いる新選組が、公武合体派の守護職松平容保(会津藩主)らの暗殺を計画していた尊皇攘夷派の志士を襲撃、およそ2時間にわたり斬り合い、志士数名を殺害しました。

1882年 柔道道場…嘉納治五郎は、東京下谷の永昌寺に柔道の道場(のちの講道館)を開きました。

今日6月4日は、徳川御三卿田安家の初代当主となり、荷田在満や賀茂真淵に師事し、やがて共に研鑚しあった国学者の田安宗武(たやす むねたけ)が、1771年に亡くなった日です。

1715年、第8代将軍徳川吉宗の紀州藩主時代に次男として生まれた田安宗武は、幼少の頃から聡明な子として知られ、9代将軍となった兄の家重より、宗武を推す声があがるほどでした。しかし、第3代将軍家光以来の長幼の序が重視されて家重が後継者となり、1729年、宗武は御三卿田安家の初代当主となりました。

宗武は、国学者として知られていた荷田在満(かだのあずままろ)を召し抱えて学び、やがて在満の推せんにより賀茂真淵を家臣にして古典研究を深め、3人はお互いに研鑚しあうほどになります。歌学では、在満が新古今調の歌風を重んじて『国家八論』を著すと、宗武はこれに反論して真淵とともに万葉主義を強調するといったように、3人の議論をまとめた『歌体約言』を著すなど、のちの国学者たちに大きな影響を与えました。

没後にまとめられた歌集に『天降言(あもりごと)』があり、宗武の青年期から晩年までの短歌307首をおさめたもので、次のような万葉調による自在な歌境を拓いたとして高く評価されています。

洲崎べに 漕ぎ出いでゝ見れば 安房の山の 雲居なしつゝ はるけく見ゆも

春雨は 音靜けしも 妹が家に い行きかたらひ この日暮らさむ

眞帆ひきて よせ来る船に 月照れり 楽しくぞあらむ その船びとは

また、古典の注解や評論を加えた『伊勢物語註』『古事記詳説』『小倉百書童蒙訓』などを著し、服飾、音楽、植物などの研究も行いました。

こうして、国学、和歌、有職故実研究などで知られた宗武は、15人の子女に恵まれましたが、長男から4男までの男子はすべて若いうちに亡くなったため、5男の治察(はるさと)が嫡子となりました。また、「寛政の改革」で知られる松平定信は、宗武の7男です。

なお、石川啄木とともに生活派歌人といわれ、国語学者としても活躍した土岐善麿は宗武の研究者として知られ、1947年に著書『田安宗武』(全4巻)で、学士院賞を受賞しています。


「6月4日にあった主なできごと」

822年 最澄死去…平安時代の初期に、天台宗をひらいた僧の最澄が亡くなりました。

1928年 張作霖死去…軍閥政治家で、中国東北部奉天派の首領だった張作霖が、日本の関東軍によって爆殺されました。

1989年 六四天安門事件…言論の自由化を推進し「開明的指導者」として国民の支持を集めた胡耀邦の死がきっかけとなって、中国・北京市にある天安門広場に民主化を求めて集結していた学生を中心とした一般市民のデモ隊に対して、「中国人民解放軍」は戦車、装甲車を出動させ無差別発砲を行なって武力弾圧。中国共産党の発表は、死者は319人としていますが、数百人から数万人の多数におよんだといわれます。

今日6月3日は、イスラム共和制政体を成立させたイラン革命の指導者で、「イラン・イスラム共和国」の元首として最高指導者となり、イラン・イラク戦争をリードしたホメイニーが、1989年に亡くなった日です。日本では「ホメイニ師」と報道されていました。

1902年、イラン中部のホメインに法学者の子として生まれたアヤトッラー・ホメイニー(本名・ルーホッラー・ムーサービー)は、のちに「ホメイン出身者」を意味するホメイニーを名乗りました。生後5か月の時に父が殺害され、母とおばによって教育を受け16歳の時に2人が亡くなると、兄から教育を受けました。やがて、ゴムでイスラム法学を修め、シーア派の上級法学者「大アヤトッラー」の称号を得ました。

第二次世界大戦中の1941年ころから、パフラビ皇帝の独裁的な西欧化政策に対する不満を表明するようになり、1963年に、皇帝が宣言した近代化政策「白色革命」の裏にひそむ独裁的な性格を非難し、抵抗運動を呼びかけて逮捕されました。この時は釈放されるものの政府批判をとり続けたことで、翌1964年、皇帝から国外追放を受けました。

トルコに一時滞在後、イラクにあるシーア派の聖地ナジャフに移ったホメイニーは、国外からイラン国民に改革の呼びかけを行ういっぽう、シーア派のイスラム法学者が信徒の統治を行わなければならないとする「法学者の統治論」を唱えました。1978年にイラクを離れてフランスに亡命してからも、一貫してイラン国民へ皇帝への抵抗を呼びかけ続けます。

1979年1月、ホメイニーの呼びかけ続ける反体制運動の激しい高まりに、パフラビ皇帝とその家族はエジプトへ亡命しました。15年ぶりの帰国を果たしたホメイニーは、ただちにイスラム革命評議会を組織すると、「イスラム共和国」への移行の是非を問う国民投票を行い、98%の賛意を得たことで、4月1日、「イラン・イスラム共和国」の樹立を宣言しました。そして、「法学者の統治論」に基づき、終身任期の最高指導者になりました。この一連の動きは「イラン革命」と呼ばれています。

新政権は、その発足直後からイランのアメリカ大使館人質事件、イラン・イラク戦争(1980~88年)などの外交危機や戦争、バニーサドル大統領と議会多数党のイスラム共和党の対立など、さまざまな危機的状況にもまれましたが、ホメイニーは、諸政策に強い影響力をもち、事実上の宗教独裁体制を敷き続けました。

なお、シーア派は、イランを中心にイラク、シリア、イエメン、インドの一部に住んでいるムスリム(信徒)の1割程度の少数派です。9割の多数を占めるのがスンニ派で、神の前ではすべての人が平等とする立場なのに対し、シーア派は預言者ムハンマドの血統を重視し、ムハンマドのいとこのアリーの子孫をイマーム(宗教指導者)として戴く派です。


「6月3日にあった主なできごと」

1853年 黒船来航…アメリカ海軍に所属する東インド艦隊司令長官ペリーは、日本に開国をせまる大統領の親書をたずさえて、この日4隻の黒船で江戸湾浦賀(横須賀市浦賀)に来航。「黒船あらわる」というニュースに、幕府や江戸の町は大騒ぎとなりました。翌年、ペリーは7隻の艦隊を率いて再来航、幕府はペリーの威圧に日米和親条約を締結して、200年余り続いた鎖国が終わりをつげることになりました。

1875年 ビゼー死去…歌劇『カルメン』『アルルの女』『真珠採り』などを作曲したフランスの作曲家ビゼーが亡くなりました。

1899年 ヨハンシュトラウス(2世)死去…ウインナーワルツの代表曲として有名な『美しき青きドナウ』『ウィーンの森の物語』『春の声』など168曲のワルツを作曲したオーストリアの作曲家ヨハンシュトラウス(2世)が亡くなりました。

1961年 ウィーン会談…アメリカ大統領ケネディとソ連最高指導者フルシチョフは、オーストリアのウィーンで、東西ドイツに分裂・対立するドイツ問題についての会談を行ないました。

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