児童英語・図書出版社 創業者のこだわりブログ

30歳で独立、31歳で出版社(いずみ書房)を創業。 取次店⇒書店という既成の流通に頼ることなく独自の販売手法を確立。 ユニークな編集ノウハウと教育理念を、そして今を綴る。

2015年06月

今日6月16日は、世界初の弾道ミサイル「V2号」や、人工衛星「エクスプローラ1号」、アポロ計画用サターンV型ロケットを開発したブラウンが、1977年に亡くなった日です。

1912年、ドイツ東部ポーゼン近郊のビルジッツ(現ポーランド)にある貴族の家に生まれたウェルナー・ブラウンは、幼いころから天文や宇宙への関心が強く、ベルヌやウェルズのSF宇宙小説を愛読する少年でした。特に1923年、オーベルトが著した『惑星空間へのロケット』に刺激されて宇宙ロケット研究を志し、1930年ベルリン工科大学に入学すると、ドイツ宇宙旅行協会に入会してオーベルトの助手として液体燃料ロケットエンジンの実験にたずさわりました。

1934年ベルリン大学で「液体ロケットに関する研究」で博士号を取得すると、ドイツ陸軍に採用され、ロケット「V2号」開発チームのリーダーとなりました。「V2号」は、もともと宇宙旅行用に構想されたものでしたが、ヒトラーの命令で兵器として使用され、第二次世界大戦中にロンドン空爆に使用された弾道ミサイルは、1942年に完成した「V2号」でした。これを知ったブラウンは、「ロケットは完璧に動作したが、間違った惑星に着地した」と同僚に伝えたといわれています。

兵器よりも宇宙ロケット開発を願っていたブラウンは、大戦後まもなく主要な開発メンバーらと共にアメリカに渡ると、米軍のロケット開発に関わり、1950年からは米陸軍ミサイル開発部隊を指導するようになりました。1955年にアメリカの市民権を得て帰化しましたが、アメリカは、あまりブラウンを重用しませんでした。ところが、ソ連の人工衛星「スプートニク」に先を越されたことから、ブラウンと開発チームがかりだされ、1958年にアメリカ初の人工衛星「エクスプローラ1号」の打ち上げに成功、翌1959年には「初の有人飛行」も成功させました。

ブラウンは、NASA(アメリカ航空宇宙局)の発足とともに、1960年から1970年まで、ロケット開発の中心「マーシャル宇宙飛行センター」の初代所長を務めました。その間、アポロ計画用サターンV型ロケット開発を指導、1969年初めて人類を月に送りこんだアポロ11号の成功に貢献するなど、米ソ宇宙開発競争において、米側の中心的役割を果たしました。さらにブラウンは、有人火星飛行を計画しましたが、アメリカの宇宙開発予算の削減に伴い計画は受け入れられず、失意のうちに1972年、NASAを去ったのでした。


「6月16日にあった主なできごと」

756年 楊貴妃死去…中国・唐の時代、玄宗皇帝の妃となりましたが、安禄山の反乱(安史の乱)を引き起こし「傾国の美女」と呼ばれた楊貴妃が亡くなりました。

1699年 河村瑞賢死去…江戸の大火事の際、木曾の木材を買い占めて巨富を得、事業家として成功した河村瑞賢が亡くなりました。

1924年 三民主義…現代中国の生みの親ともいわれる孫文は、民族・民権・民生主義を総合する「三民主義」の革命理論の講演をし、孫文指導下の国民運動は最高潮に盛り上がりました。

1963年 女性初の宇宙旅行…ソ連(ロシア)の宇宙飛行士テレシコワは、ボストーク6号で地球を48周、70時間以上の宇宙飛行に成功しました。

今日6月15日は、わが国の霊長類研究の創始者で、「すみわけ理論」を提唱し、独自の進化論を主張した生態学者・文化人類学者・登山家の今西錦司(いまにし きんじ)が、1992年に亡くなった日です。

1902年、京都・西陣の大きな網元の長男に生まれた今西錦司は、子どものころからリーダーシップのある少年に育ち、旧第三高校をへて、1928年に京都帝国大学農学部を卒業後に同大学の人文科学研究所員となり、1959年に同研究所教授になりました。1965年に京都大学退官後は岡山大学教授、岐阜大学学長を務めました。

今西の生涯にわたる未知なものへの探究は、登山家・探検家としてのものと、生態学者としてのものがあり、両者は切り離すことができないほど密接に結びついていました。 登山家・探検家としては京都大白頭山遠征隊の隊長をつとめるなど、多くの初登頂を含む1552もの山に登りました。海外にも未踏峰を求めて、カラコルムK2、マナスル、中国大興安嶺などにも調査隊隊長として挑戦しています。

生態学者としては、日本アルプスにおける森林帯の垂直分布、渓流の水生昆虫の生態の研究が知られているほか、特筆されるのは、「すみ分け理論」を提唱したことでしょう。これは鴨川に住む4種類のカゲロウが、流れの速さによって住む場所が違うことをヒントに、数多くの生き物が自然の中で「すみ分け」ていると考えたことから出発しました。この研究は生涯にわたって続き、ダーウィンの自然や生物同志が競争することによって進化してきたとする進化論に対し、進化は生活しやすいように生物自らが変化し、種全体がいっしょに変化するというもので、自然のありのままの受容と認知の重要性を「自然学」として主張しました。この考え方は、 近年になって注目されはじめています。

また今西は、京都大理学部と人文科学研究所に日本の霊長類研究所の創設に力をつくし、幸島や高崎山で野生ニホンザル群の餌付けに成功させたり、野生ニホンザルやチンパンジーの研究を進めるなど、さまざまな学術調査を行いながら、川喜多二郎、梅棹忠夫、中尾佐助ら日本を代表する生態学者を育てました。

主著に、『生物の世界』『私の進化論』『主体性の進化論』などがあり、1979年には文化勲章を受賞しています。


「6月15日にあった主なできごと」

774年 空海誕生…平安時代に中国から真言密教をもたらして真言宗を開き、高野山に金剛峰寺を建てた空海が生まれました。空海は弘法大師の名で親しまれています。

1215年 マグナカルタ成立…イギリス憲法の聖書ともいわれる「マグナカルタ」(大憲章)に、横暴だったジョン王が署名し、王も法に従うという原則が定められ、イギリス立憲政治の出発点となりました。

1242年 北条泰時死去…鎌倉時代の3代目の執権となり、、武士の初めての法律『御成敗式目』(貞永式目)をこしらえ、16代続いた執権政治の基礎をきずいた北条泰時が亡くなりました。

1769年 佐藤信淵誕生…明治維新の100年近く前に生まれながら、国学、儒学、蘭学、動・植物、天文、地理、測量など広い学問に通じ、明治以降の日本のすがたを明確に予想した学者佐藤信淵が生まれました。

今日6月12日は、兄の吉川元春とともに毛利家の発展に尽くし、秀吉の五大老の一人に任じられた小早川隆景(こばやかわ たかかげ)が、1597年に亡くなった日です。

1533年、毛利元就の三男として生まれた隆景(幼名・徳寿丸)は、1544年に竹原小早川家を継いで当主となると、1550年には沼田小早川家を継いで、二家に分かれていた小早川家を統一しました。次兄の吉川元春とともに、毛利両川といわれ、毛利宗家(父元就・長兄隆元・甥輝元)を、中国地方の大半と北九州の一部を領する大大名に発展させました。

隆景は広島の三原地方に本拠をおき、瀬戸内海に強力な水軍を編成するなど、主として山陽地域の統治を担当しました。1582年、毛利氏が秀吉軍に備中(岡山西部)高松城を攻められたとき、毛利外交の責任者として講和に活躍します。秀吉の信頼をえると、1585年に伊予国(愛媛)を与えられ、1587年には筑前・筑後と肥前の一部(福岡・佐賀)に移封されました。

その後、秀吉に五大老の一人として重用されると、1591年には秀吉の養子である羽柴秀俊を養子に迎えて小早川秀秋とし、秀吉との関係をより密接なものにしました。翌年の文禄の役では朝鮮に出陣し、主戦といわれる「碧蹄館の戦い」で明軍の大将を撃退して講和につなげるなど、めざましい活躍をしました。1595年には、秀吉の大老に就任しましたが、まもなく家督を養子秀秋に譲って、三原に隠遁しました。

学を好み禅を修める優れた洞察力ある人物で、毛利家の将来に心をくだきながら2年後に亡くなりました。


「6月12日にあった主なできごと」

1827年 シュピリ誕生…『アルプスの少女ハイジ』を著したスイスの女流児童文学者シュピリが生まれました。

1942年 アンネの日記…ナチスのユダヤ人迫害により、ドイツのフランクフルトからのがれ、オランダのアムステルダムの隠れ家で暮していたアンネ・フランクは、両親からこの日の誕生日に日記帳をプレゼントされました。密告されて一家は捕えられ、アンネは1945年15歳でユダヤ人収容所で病死しますが、1944年8月までのおよそ2年間綴られた日記は、戦争の恐ろしさと、つらい生活の中でもけなげに成長してゆく内容に、今も世界じゅうの人たちを感動させています。

今日6月11日は、石田梅岩の創始した「石門心学」(心学)を、全国的に広めた中沢道二(なかざわ どうに)が、1803年に亡くなった日です。

1725年、京都西陣の織屋に生まれた中沢道二は、亀屋久兵衛と称して家業を継いだのち、40歳ごろから手島堵庵に師事して「心学」を学びました。心学は、江戸時代中期の思想家石田梅岩(1685~1744年)を開祖とする、実践的な教えに特色のある倫理学の一派で、京都の町民を中心に普及していました。弟子の手島堵庵に引き継がれると、文字に親しまない女性や子どものための教本を作るなど老若男女にも広まりましたが、地域的な拡がりは、大坂、大和、丹波あたりまででした。

堵庵の命を受け、関東に下り精力的に教化活動を繰り広げた道二は、1779年に日本橋に学舎「参前舎」を創設し、ここを拠点に広範囲にわたる布教活動に専心しました。五畿七道27か国を遊説、弟子たちとともに心学の普及に努めるうち、一般民衆への道話の講釈と心学者たちの修業の場である「心学道場」(心学講舎)は21舎となりました。

やがて、江戸幕府の老中松平定信をはじめ、大名から武士階級にも大きな広がりをみせはじめ、幕末の最盛期には、全国に180か所以上もの心学講舎があったといわれるほど、全国に普及していきました。

こんなエピソードが残されています。

道二がある名家へ講説に出かけた時、そこの主人は心を尽くして歓待し、 十代半ばの上品な娘に茶を点てさせたり琴を弾かせたりして接待しました。道二がその教養をほめると、主人は得意になって 「書画も学ばせています」と話すと、道二は 「あんま術も学ばせているか」とたずねると、主人は 「なぜそんな技術を身につける必要がありましょう」 といいます。道二は 「その考えは誤っている。女は嫁いだら舅や姑に仕えなくてはならない。 だからあんまの技も、茶花琴にも劣らず大切。 いたずらに高尚な芸術を誇って、孝養の道を欠くようなことがあってはならない」 と語ると、主人はこの言葉を聞いて大いに恥じたということです。

主著は『道二翁道話』で、6編15巻あり、初編は1795年、続編は没後まで続き、1824年に完結しました。御用学問と非難されるいっぽう、明治以後もしばしば刊行されたのは、それだけ支持する人々が多かったためでしょう。なお、「石門心学」は、陽明学にも「心学」という用語を使っていることから、それとの混同を避けるために「石門心学」が使われていましたが、いつしか「心学」が一般的呼称になっています。


「6月11日にあった主なできごと」

1873年 わが国初の銀行…「第一国立銀行」が日本橋兜町に創立し、初代頭取に渋沢栄一が就任、立派な西洋建築は、東京の名所となりました。その後国立銀行は、1879年までに全国各府県に153行が設立されていきました。

1899年 川端康成誕生…『伊豆の踊り子』『雪国』 など、「生」の悲しさや日本の美しさを香り高い文章で書きつづった功績により、日本人初のノーベル文学賞を贈られた作家・川端康成が生まれました。

1916年 ジーン・ウェブスター死去…手紙形式で書かれた名作『あしながおじさん』などを著した、アメリカの女流作家ジーン・ウェブスターが亡くなりました。

今日6月10日は、『上を向いて歩こう』『こんにちは赤ちゃん』『遠くへ行きたい』など、1950年代末から1960年代にヒット曲を量産した作曲家の中村八大(なかむら はちだい)が、1992年に亡くなった日です。

1931年、今の中国の青島(チンタオ)に生まれた中村八大は、小学3年のときからドイツ人の音楽家からピアノを学び、1945年に福岡県久留米市へ引き揚げ、旧明善中学を卒業後に上京、早稲田大学高等学院を経て、早稲田大学芸術学科を卒業しました。学生時代からジャズピアニストとして活躍し、大学在学中はジョージ川口、松本英彦、小野満とジャズバンド「ビッグ・フォー」を結成して注目を浴びました。卒業後の1953年からは、ジョージ川口率いるカルテット「ビッグ4」のメンバーとなり、当時の大衆的ジャズブームの中で大変な人気を博しました。

1958年に作詞家の永六輔と知り合うと、作曲家としての活動に転じ、2人の「六・八コンビ」による都会的で情感あふれ、覚えやすいユニークな歌曲は、次々とヒットを飛ばします。『黒い花びら』(1958年・歌水原弘)、『こんにちは赤ちゃん』(1963年・歌梓みちよ)は、日本レコード大賞を受賞したほか、『遠くへ行きたい』(1962年・歌ジェリー藤尾)、『帰ろかな』(1965年・歌北島三郎)も話題となりました。

最大のヒット曲は、1961年の『上を向いて歩こう』(歌坂本九)でしょう。国内で大ヒットしたばかりか、アメリカでは『スキヤキ・ソング』という曲名で、全米週間第1位を記録したほか、海外60か国でヒットさせ、この作品は、特に「六・八・九」コンビといわれました。

さらに八大は、日本万国博のテ―マソング『世界の国からこんにちは』を作曲し、1967年から三波春夫、坂本九、吉永小百合らが競作で歌ったことで、総売上げ枚数は300万枚を超えたといわれています。また、1966年リオデジャネイロで行われた「第1回国際音楽祭」では、最優秀オーケストラ編曲賞を受賞しています。


「6月10日にあった主なできごと」

1017年 源信死去…平安時代中ごろの天台宗の僧で、『往生要集』を著して浄土教を広め「恵心僧都(えしんそうず)」と讃えられた源信が亡くなりました。

1628年 徳川光圀誕生…水戸黄門の名でしたしまれ、徳川家康の孫にあたる第2代水戸藩主の徳川光圀が生まれました。

1863年 緒方洪庵死去…大坂に適々斎塾(適塾)を開き、福沢諭吉や大村益次郎らを育てた教育者として、また蘭医として種痘を広め天然痘の予防に尽力した緒方洪庵が亡くなりました。

1920年 時の記念日…「日本書紀」によると 天智天皇(中大兄皇子) が「漏刻」という水時計を作り鐘を打った日と記されています。東京天文台と生活改善同盟会はこれを記念して「時間を大切にすることを、改めて考え直そう」と呼びかけ、この日を「時の記念日」に制定しました。

↑このページのトップヘ